2010年3月31日水曜日

100331 コメントその他 (10年03月度)

(2010.03.12の個所は移動しました → 100315



☆☆☆☆☆

2010年になってからということだが、このブログに貼り付けられるads広告にジュセり-ノの予言というNiftyポータルコンテンツの貼り付け広告が現れることが多くなった(ようである)。

いくつものご指摘を頂戴している。もちろん、自分はこの事態を看過も容認もしていないし、そのための手だけは打ってきたつもりでいる。

というかさ、普通は、広告を出すほうも、あるいはadsもgoogleも、このブログにジュセリーノのコンテンツの広告を出したって意味がないどころか、逆効果になることぐらいはわかりそうなものだけどなぁ(笑)。そこまで手間は掛けてられないということなんだろうが。

誰があのコンテンツのプロデュースをしているのか、または何を目的としてあのようなウェブデザインになっているのか自分も掴みきれていない。

しかし、誰がジュセリーノに対して恋愛であるとか個人的な事象の占いを依頼したいと思うんだろうか。これも自分にはまったく読めないしわからない。

あのなぁ、そもそもジュセリーノっていうブラジル人は「予知夢で事件の現場にいる」と言っている自称予言者である。

そんな人間に、個人の-たとえば結婚であるとか恋愛を相談して、まともなアドバイスであるとか指針といったものを期待するほうがおかしいだろう。

それとも、ジュセリーノに自分に関する予知夢を見てほしいと期待する人がいると読んでいるのだろうか。

そのことを考えると、なんかおかしくておかしくて笑いがこみ上げてとまらなくなるのだ。

こういうことも言えるからだ。もし、ジュセリーノの見たといっている予知夢が本物だとすると、依頼者のすぐそばには時間と場所を越えて現れたジュセリーノの視線というものが注がれているということになるのである。しかも、真昼間だけ、あるいは公共の場所だけ、とかだったらいいけれど、ジュセリーノのその視線というものは、未来の(依頼者である)あなたの自宅にも、ひょっとすると就寝中の寝室にももしかすると入浴中にも、またもしかするとトイレの中にいる未来のあなたに対して注がれるかもしれないということになる。

もちろんそんなわけがあるはずもないのだが、少なくとも、予知夢を見るといっている予言者に対して個人的な相談事を依頼する人というのは予知夢占者に対してそれを期待するということになるのだということぐらいはわかっていたほうがいいだろう。

まあここまでは冗談みたいなもの。

さて、自分が本気で考え直してほしいと強く願っているのは、いままでここでも二度ほど書いてきたことだけれども、ジュセリーノのことを本物の予知能力者であるとして、そのジュセリーノを応援していると表明してきた職業占い師の皆さんに対してである。

ジュセリーノの絡んでいるその占いのページを見て、そしてそれでもジュセリーノを支持するのかどうかについては、よーくと考え直してほしいのものだ。

ジュセリーノのやっていることはあなたたちの生業(なりわい)である占業というものに対する侮蔑行為になるからだ。

そして、あなたがジュセリーノに対する支持を表明するということは、それは、あなたの顧客の皆に対する最大の裏切り行為でもあるのだ。

ある意味、これがラストチャンスともいえる。これを逃して、それでもジュセリーノへの支持を止めないという占い師がいたら、それはこの世に存在し活動するすべての同業者と袂を分かつことでもある。その覚悟はしたほうがいいのではないだろうか。

大きなお世話だろうが。

2010.03.14

☆☆☆☆☆



今までいろいろなブログの相互リンクサイトから勧誘があったり御推薦を受けたりしていたのだが、こちらとしてはあまり積極的にお受けすることはなかった。

そうなったのにはいろいろな理由がある。ひとつは広告枠を強制されたりするものは断らないわけにはいかないわけだし、そもそも、自分はこのようなシステムを利用して自分のブログの訪問者数を上げたり認知度を上げても、長い目で見た場合自分のこのブログのためにはならないし、積極的な意味はないと思っている人間である。

どうもそこのところが根本的に誤解されているようだ。

今回、BUZZというところから御推薦を受けてその相互リンクを利用させていただくことにしたのには自分の中で起きたちょっとした心境の変化というものも作用しているのかもしれない。「心境の変化」っていってしまうと大げさになるが、要するに目的とするもの、自分が相対峙しているものが変わったということに遅まきながら気がついたということでもある。

まあ悪いほうには転がらないとは思うのだが。どうだろう。御感想の方をよろしく。

2010.03.15

☆☆☆☆☆



【100315】の記事の追記部分を再録


3月14日(日)の午後に放送された「たかじんのそこまで言って委員会」(よみうりテレビ製作)という番組で、この「チャレンジ25」という政府キャンペーンの危うさというものが取り上げられたそうである。生憎自分は見てはいないのだが。[註1]

以前、テレ朝の「朝まで生テレビ」でやっていたのとほぼ同様の構図で「CO2削減推進派」と懐疑派による議論が交わされていたというのだが、番組に出演した推進派というのがたったひとりだったそうである。

その懐疑派の主頭は例によって「環境問題は何故ウソがまかりとおるのか」などでおなじみの武田邦彦。[註2]

誤解されて困っていることでもあるのだが、自分はこの武田邦彦という人の主張には非常に懐疑的でありそして否定的である。ここで自分が武田邦彦と同じことを書いているものだから「武田邦彦の本から引用をしている」あるいは「武田邦彦の同調者」と思っている人もいるようだがそうではない。単に引用元が同じというだけのことだ。



武田邦彦という人の主張の困ったところは、たとえば「ペットボトルの分別回収は無意味だ」とか言ってしまうことだろう。何度かここで書いているが、自分は「ペットボトルの分別回収」には意味はあるし、まだまだ改善の余地がいくらでもあると感じている立場である。自分がペットボトルの回収に意味があると思うのは、もしペットボトルを不燃物・石油製品と同じ枠で回収しはじめると、今度は都市衛生の面でいろいろと問題が浮上してくるのが目に見えているからだ。要するに、地球環境とかそういう大仰な視点ではなくて、もっと身近な問題としてペットボトルの分別回収は是と思っているということ。どうもこの武田という人の主張には、そういった都市生活者としての実感が抜け落ちていて、首をひねるような無茶苦茶なものばかりなのが困るところである。まあそういう意味では大槻義彦教授と同じ「学者バカ」の匂いが漂う。

しかし、もっとしょーもないのは推進派として番組に登場した明日香壽川(あすか・じゅせん)という学者で、この人はその朝生の地球温暖化の回に出演したときもアタマを抱えたくなるような無茶苦茶なことばかりいっていたのだが、今回の出演時にも司会の辛坊治郎に「地球温暖化の証拠はなんなんだ?」と訊かれて「あなたは(地球の温暖化を)実感していませんか?」と聞き返していたのだそうだ。

アホかコイツ。「地球の温暖化を実感できる」ってどんな立場の人間なんだ。神か。北極のシロクマ君か。南極のペンギンさんか。

常に地球上のあちこちと移動してきて地域地域の温暖化を実感したという人間相手にでなければこんな質問は無意味だしミスリードでもある。そんなことに気がつかないとしたら相当のオオバカヤロウである。

自分は5年前まで東京にいて、そして仙台に移住した人間[註3]だが、とてもではないが「地球の温暖化」なんて体感は出来ないし、実感も持っていない。体感して実感があるのは「都市熱(シティーヒート)」である。都市熱の実感と地球の温暖化はまったく別の問題である。絶対に一緒くたにしてはいけないことなのだ。

こういう「まやかし」を平気でやるようなヤツだから「胡散臭い」と言われるんだろうし、心ある推進派からも嫌われるんだろうがねぇ。まあこういううさんくさい人間がもっと前面に出てきてくれたほうが「懐疑派」としてはありがたいことなのかもしれないけどね。
(2010.03.15)


[註1] この番組、仙台(宮城地区)では普通に大阪と同じ放送スケジュールで見られる。東京にいた時もなんやかんやで録画したものを何度かは見ていた。あまり面白い番組とは思わないが、まあそれでもゲストの人選によってはだが、「見る価値有り」というのも何本かはあったと記憶している。

[註2] そののち頂いたメールによるとだが、懐疑派としてゲスト的に出演したのも武田邦彦ひとりだけだったようだ。そういう意味では、まあフェアな論戦ではあったようである。ただし、レギュラーパネラーの勝谷誠彦(かつや・まさひこ)が武田邦彦型の懐疑派の主張に乗っかって明日香壽川に対して論戦を挑んだのだとか。まあこれも番組の演出のうちだろうから、こういう個所に文句をいってもしかたがないのだろうが、もし、真面目に論議をするのであれば、こういう乱暴な区分けというか、番組製作サイドが視聴者にわかりやすいようにと議論を「二律対称構造」に仕立てて論戦をさせるのは、まあはっきりいって無意味に等しいことだ。なぜならば、(自分もそうなのだが)二酸化炭素の排出量を減らすことには基本賛成の立場をとるが、だからといって鳩山(民主)のように性急で穴だらけの(しかも国民に対してはオカルトで追い立てるような手法を使っての)施策には断固反対する立場の人間もいるからだ。いくら時間を掛けたとしてもまともな実のある結論は出ないだろうし、下手をすると視聴者に対して「事実ではないこと」を伝えてしまうという危険もあるのだ。(この手のテレビ番組を見るたびに)自分も危惧しているところである。ジュセリーノという自称予言者についてもまるっきりそうだった。彼が「地球環境のために」という「美々辞麗々句」を持ち出してきて、それにコロリと騙された日本人が多いというのがそれを物語っている。それとまったく同じことなのだ。自分は、ジュセリーノに騙されるなというのと同じように、鳩山には騙されるなと言っている。あ、言っちゃった(笑)

[註3]

正確には「自分も」というべきなんだろうな。でないと自分が何をこの明日香壽川に文句垂れているのかがわかりにくいだろう。

☆☆☆☆☆



☆☆☆☆☆



ジュセリーノがブラジルの公式HPでこのブログに対して非難というものを表明しているということはちょっと前にも触れた。

このことに関していくつもメールやらコメントを頂いている。[註]

中には「大丈夫でしょうか?」というようなご心配[註2]もあるが、大体はこのブログの活動を評価するといったものだ。ありがたいことである。

ただし、そんな中にもジュセリーノ騒動をすでに過去のものとして捉えているものがあったのはとても残念である。

改めて強調するが、この醜悪な「インチキ予言者騒動」は決して終わったのではなくて、いまなお深く進行中なのである。

わかりやすく言えば、ジュセリーノのビジネスを日本でアシストしている組織というものは存在しているわけだし、「ジュセリーノの予言占い」という有料のネットコンテンツもあったりするのだ。これが現実である。

ジュセリーノ騒動というもの、決して過去のものではないのだ。以前のようにテレビ・マスコミなどで取り上げられることがなくなったとか新刊本が出なくなったというだけのことで。

さて、自分のところにはマスコミなどのジュセリーノ(元)関係者を名乗る人間からも何通かメールなどが来ているのだが、そういう人間からのメールの中に「ジュセリーノ騒動」を過去のものとした論調のものがあると自分は無性に腹が立ってくる。

マスコミ関係者がジュセリーノを過去のものにしたがるのは、それは単にもう自分たちマスコミはジュセリーノで金儲けはできなくなったと判断しただけのことだろう。そしてその責任逃れをやっているだけのことだ。

もしこのようなことを実際に自分の目の前で言われたら、もしかすると自分は「オマエらいい加減にしろよ」と怒鳴りつけるかもしれない。「誰がこんな騒動を引き起こしたのだ? オマエらだろうが」と詰め寄るかもしれない。

ジュセリーノ騒動は決して過去のものではない。今でもこの日本には「ジュセリーノの予言」をメシの種にしている人間はいるのだ。しかも卑怯な手段を用いて。この現実から目をそむけてはいけない。

2010.03.18


[註]3月18日現在、メール30通前後、コメントが20件ほど。

☆☆☆☆☆



首相である鳩山由紀夫に対する批判が次から次に舞い込んできています。

このブログは別に鳩山首相や民主党を批判することを目的としているのではないのでここでそのひとつひとつに触れることも取り上るつもりもない。

たとえば、生前贈与記載漏れと巨額脱税事件であるとか、あるいは いわゆる「故人献金」問題のことで、鳩山由紀夫を糾弾しようとか思ってはいない。そっちのほうはその道の専門家の皆様にお任せしたい。

ただしこれは言っておこうか。鳩山由紀夫という人が日本国首相という立場で、国連という晴れの場で「CO2削減25%」というスローガンをぶち上げたその姿というものが、民主党が野党だったころに、政治秘書が政治資金法違反で検挙された自民党の代議士に向かって議員辞職を迫り、その中で「もし自分の秘書が逮捕されたら自分だったら即座に辞職する」と啖呵を切ってみせたときの姿とどうしてもだぶって見えるのである。

故人献金疑惑にしてもそうだったし、多額の脱税が発覚したときの弁明もそうだし、小沢民主党幹事長の当時の秘書が逮捕されたときの苦し紛れの弁明・言い訳も皆そうなのだが、この人が野党民主党時代にぶち上げた威勢のいい発言というもの、そのどれもこれもが首相就任した現状では有権者の期待を裏切っている。

それが内閣支持率の急降下という数字となって現れているのだろう。

この「25%削減(支持率じゃなくてCO2のほうだが)宣言」もまた同じような運命を辿ることになるのではないか。そんな気がしてならないのだ。

2010.03.18

【100315】の記事の追記の追記の個所


この「CO2削減目標25%」について、自分が前々からまやかしがあるのではないかと思っていたところがあった。それがはっきりとした。やはり、鳩山(民主)の掲げた削減25%というのは、CO2排出権取引を行使しての達成目標なんだそうだ。これじゃ地球環境の為にもなんにもなってないじゃないか。ただの政治取引と同じだ。それにこれでは、いざとなったら途上国から排出権を金を出して買ってそれで「達成しました」と嘯(うそぶ)くことだってできることになる。ひどいまやかしである。しかも、その資金は果たしてどこから出てくるものなのかを考えてみよ。もちろん我々の国家予算、つまり税金からなのだ。

それにこれではこの「チャレンジ25」は、はじめから形を変えたODA(海外援助)ということになってしまう。

自分はこんなものを日本の対外政策のひとつとして認めることは絶対に出来ないね。あなたは認められますか?


こんなジョークがある。笑えないジョークだが。


(首相記者会見にて)

記者「10年後にCO2の25%削減という目標は少し厳しすぎないでしょうか?各産業界からも反論が噴出しています…」

鳩山「確かに困難な目標かもしれません。しかし決して不可能な数字ではないと私は確信しております」

記者「その確信の根拠というものをお聞かせください」

鳩山「わたしは10年どころか、わずか半年で30%も削減させた実績があります」

記者「内閣支持率かよ」




【100319】 事実というものの重みについての追記個所


「アマゾンの書評が消えてますよ」というご連絡を頂いた。実際に見てみると消えていた。自分はこの「真生」を名乗る本人が自主的に削除したのかと思っていたのだが、そうではなかった。

「Joe」さんという方からメールを頂いた。どうやら、「Joe」さんがアマゾンに削除を要請して、それがかなったということらしい。頂いたメールのその個所を公開する。(了承済)

(前略)今回は直接メールで、「真正という人のレビューは、本の内容とまったく異なるもので、特定の人物の名誉を著しく毀損しています。実際の本は該当人物のブログの内容をまとめたものではなく、出版社が書いたものです。 削除すべきだと思います」と書いたところ、下記のような返事が来まして、削除されたようです。

(以下、アマゾンからの返答コピー)


Amazon.co.jpにご連絡いただき、ありがとうございます。
Amazon.co.jpではレビューガイドラインに沿って、カスタマーレビューをチェックし、ガイドラインから外れていると判断したレビューは非掲載にいたしております。
ご指摘のとおり、このレビューは、当サイトのレビューガイドライン「作品の内容と全く無関係なコメント」に抵触するとみなされたため、非掲載とさせていただきました。
とこういう経緯があったとのこと。

いろいろとご意見はあるとは思うが、こういったご助力に対しては感謝あるのみである。自分としては言論を封殺しようとかそういうつもりはまったくなくて、削除があるとしたら本人による自主削除というものをと期待していたのだが。それがこの真生という人に伝わらなかったことは残念である。

これは以前にも書いたことだが、最近ではこのようなアマゾンの書評というものも半ば2ちゃんねるのような無責任な書込みが目立つ。しかし、たとえばアマゾンの場合でも「取得したID」というものがあるわけで、今後この「真生」という人は、自分のこのIDでは使えなくなるだろうし、もっと悲惨なのは、自分の書いたことが第三者には信じてもらえなくなったり、まともにとりあってもらえなくなる可能性だって出てくるだろう。

そしてそれはジュセリーノ本人や「ジュセリーノは本物の予言者」だとかブログや掲示板で書き込んでいた人たちにもいえることなのだ。

自分で自分の首を絞めているのである。もしそのことに本当に気がついていないのだとしたらそれこそが悲劇であり、そして第三者的な視点からすると滑稽な喜劇なのだが。
2010.03.20





☆☆☆☆☆

100315の記事で取り上げた「チャレンジ25」のテレビCMのことだが、その後まったくオンエアされなくなったという。

それがはじめから予定されていた期間が過ぎたためなのか、それとも何かほかに理由があるからなのかは自分にはわからない。

総務省の内情に詳しいという人のコメント・メールで「総務省の職員(つまり官僚ということになるが)はこのCO2の25%削減案というものには非常に冷ややかで、大多数の人間はむしろ乗り気ではないのです」という内部告発のようなものも来ている。

最近になって、そのひとりから再び)「環境省の事務方からも民主党の政治主導によって出された25%削減案については、本質的な点について(つまり実現の可能性について)強い反撥があったと聞きます…」というようなコメントを頂戴した。

また「鳩山首相が国連でのスピーチした内容を知って愕然とした環境省官僚が公然と環境省正副大臣(民主党など与党の政治家)に対して鳩山首相批判を口にした」であるとかの噂話は何本かのルートからも伝え聞いている。

それが決して上のキャンペーンCMのこととストレートに結びつくものではないが、なんにしても、環境省、そして総務省(テレビ局などマスコミの管轄省庁)共に、この民主(というか鳩山首相)のCO2の25%削減案に対して諸手を挙げて賛成しているというのではないということ、また、一枚岩どころか民主党との関係がかなり危うい状態にあるのだけは確かなようだな。

こんなことで果たして本当に我々日本人の将来は良くなるのだろうか…と非常に暗い気分になる。

2010.03.27

☆☆☆☆☆



たま出版の掲示板で韮澤潤一郎(敬称略)がUFOであるとかについてどんなアホなことを書き込んでいたとしても、それはいってしまえばお笑いの範疇であるからここで取り上げて槍玉に上げるようなことでもないと思っている。

が、事実から大いに背いたことを書いているとなるとはなしは別である。

「蜜柑夢」さん、「テキーラサンライズ」さんその他の方々から情報提供があった。たま出版の掲示板にこのような書き込みがあるという。


温暖化と寒冷化と地軸の揺らぎ

投稿者:ニラサワ

気候変動の複雑な状況について、最近の研究結果が発表されています。やはり二十世紀の二酸化炭素の排出が寒冷化を上回っていたようです。さらに地軸の揺らぎの問題もあるようで、予知の警告とどのように関係してくるのでしょうか。
http://www.nati...pand

2010/03/27(Sat) 15:33 [14384]


アホか(笑)これこそがIPCCの責任者が「データ捏造を捏造しました」と告白した、いわゆるアイスホッケー理論をグラフ化したものなのだが。しかも引用されているナショナルグラフィックの記事の日付をみるとちゃんと2009年の9月になっている。

いったいなんのつもりでこんなことを言い出したのだろうか、このニラサワという人。

しかもねぇ、このグラフよく見てほしいのだが、横軸は年刻みで2000年での気温変化(過去はあくまでも推定である)で、縦軸はプラスマイナス一度づつの二度の範囲を大きく拡大している。

090903-arctic-warming-ice-age_big



http://www.nationalgeographic.co.jp/news/bigphotos/images/090903-arctic-warming-ice-age_big.jpg

ご存知の方も多いだろう。たとえ地球規模だとしても、(太陽の表面の活動などの影響で)平均気温の変化というものは(2000年のあいだに)年に二度違うことなんてざらにあるわけだし、この図だけで地球温暖化を知れというのがそもそもおかしなことなのだ。

このグラフはそういった「恣意的にゆがめられたもの」なのだ。

しかも、既報のとおりで、このグラフ、さらに過去50年の気温の低下をかなり低く底上げ(底下げ?)して作成されたものなのだ。


さて、それよりも自分が気になるのはこのヒト(韮澤潤一郎)の文章の乱れのほうかもしれない。

気候変動の複雑な状況について、最近の研究結果が発表されています。やはり二十世紀の二酸化炭素の排出が寒冷化を上回っていたようです。さらに地軸の揺らぎの問題もあるようで、予知の警告とどのように関係してくるのでしょうか…

これでは何を言っているのかさっぱりわからない。

自分ぐらいになると

やはり二十世紀の二酸化炭素の排出(でもたらされた温暖化というもの)が寒冷化を上回っていたようです。

さらに地軸の揺らぎ(が地球の気温変動に影響するなど)の問題もあるようで、

というように、脳内校正を施してからこのヒトの文章を読めるようになってしまったが。(笑)

いや、これは笑い事で済むはなしではない。

「未来から警告」「続・未来からの警告」という二冊の本に満載されている日本語的には無茶苦茶な「ニラサワ語」で書かれた監修者註を読みすぎた - ある種の後遺症みたいなものだからだ。

つかさ、ニラサワさんも校正者というか通訳ぐらいつけなさいな。もし本当に自分の言いたいことを多くのヒトに伝えたいというのであれば。

2010.03.28

☆☆☆☆☆












※ この個所は新記事として独立させました。こんなの不本意なのだが。

【100413】民主党は靖国参拝をしない党ではない

これはだいぶ以前に少しだけ書いたことだが、誤解を招いているところもあるようなので丁寧な説明をしておこうかと思う。かつて「陰謀論は嫌いだ」と書いたことの補足説明だ。

実は自分は「陰謀論」そのものはさほど嫌ってはいない。

自分が嫌っているのは、このような「陰謀論」を展開する「陰謀論者」の中でも、あまたこの世に存在するいくつもの「陰謀論」のひとつひとつを精査せずに、なんでもかんでも信憑性があるがのごとく書いたり言っている人たちだ。

というか(ここから先が重要)自分はそういう人たちのことを、(『TT』さんの言葉を借りればだが)幼児脳と馬鹿にしているし、そして少しだけ憐れんでいたりする。

このブログにもかつて「くるみ」を名乗る「911」を巡る陰謀論の信者が無謀な論戦を挑んできたことがあった。

自分が彼女に言いたいことは今でもかわらない。情報を鵜呑みにするな。少しは自分のアタマで考えろ、ということだ。

もし、彼女に少しでも物事を考えるチカラというものがあるのならば、自分の前に並べられたこれらの「仮説」の中には並存できないものがいくつもあることぐらいは気づくはずなのだ。

それが出来ないでなんでもかんでも「なんとなく信憑性のありそうなものすべて」を鵜呑みにしているから(他の陰謀論者同様に)自分の言が論理的破綻していることにも気づかないでいる。自分のような人間にそれを指摘されるとまともに答えられないで狼狽して別のはなしにもっていこうとする(逃げようとする)のだろう。

これでは幼児脳と言われても、憐れみの視線で見つめられてもしかたがないだろう、そういうことだ。


こういうこともあった。ジュセリーノ騒動以前の出来事である。

自分がまだ東京にいたころなのだが、とある非公式な席で911にまつわる陰謀論で座が盛り上がったことがあった。自分は口を挟まずにただ彼らの話に耳を傾けていたのだが、誰だったかに意見を求められたので、つい(話の内容に辟易していたからでもある)「どの論に対しても(彼らのいうところの)決定的証拠というものはないから、それだけでアメリカであるとかユダヤ組織による自作自演説は成り立たない」というようなことを口にしてその座の盛り上がりを一瞬にして白けさせてしまったのだ。(笑)

するとだね、911陰謀論を肯定的に熱く語っていたその中のひとりが近所にある大型書店まですっとんでいってコンノケンイチだったかの「911の謎」みたいな新刊書を買ってきて[註]「じゃあ、それをここで説明してくださいよ」とその本を突きつけてきたのだ。(笑)

だから自分はその本を使って、陰謀論と呼ばれているような、つまり一緒くたにされているひとつひとつの論であるとか、あるいは「決定的な証拠と呼ばれているもの」の弱点(つまり自作自演説の証拠にはならないということ)を説明したのだけれども。

自分がやってみせたこのようなことは実はそんなには難しいことではない。

なぜなら、陰謀論と呼ばれているものの論理的矛盾を突くのには一種のノウハウ(方法論)というものがあるからだ。

というか、この世に流れている「陰謀論」自体が、実はここ数十年まったく進化していないせいでもある。

つまり「陰謀論」そのものが進化(変化)していないので、「陰謀論の論破」もまた昔々の方法論だけで充分事足りてしまうということなのだ。

以上、自分が嫌うのは、得意げにこのような陰謀論を語る人間のほうであって、陰謀論そのものはそんなには嫌ってはいないということを説明した。

このような陰謀論というものは、結局のところ、それこそ「UFO目撃談」同様、いつまでたっても「情報以前の情報」あるいは「情報未満の情報」から変化しないということをおかしいと感じなければ。(※情報量、つまり数ばかりが増えてゆき、肝心の情報の質はいつまでたっても変化しないということ)

特にこの日本では、このようにして「陰謀論」あれもこれも肯定的に語る「陰謀論者」こそが、これら(アメリカあたりから流されてくる)情報の正しい処理方法であるとか、取り扱いに関する知識と理解が欠けているような気がする今日この頃である。

本屋で誰でも買えるような「陰謀論」の本をいくら大量に買い込んで読み込んだとしても、それではただの知識オタクにはなれるかもしれないが、知識に振り回されるだけだ。そのことには気がついて欲しいと願う。

(つづく)

2010.03.31


[註]徳間書店から出た「世界はここまで騙された」という本のようだ。

☆☆☆☆☆



映画「2012」のDVDが発売された。

かつての同業者から「DVDが何枚も余ってます。なんなら(もちろんタダでということ)送りましょうか?」というメールが来た。

ご好意はありがたかったが、この「2012」という映画は観てしまった。酷い映画だった。二度とみたくない。それだけだ。

まあ映画は映画(つまりフィクション)であって、内容にリアリティがないだとか文句をつけてもしかたない。

その切り口で、マヤによる人類滅亡予言をここで批判をしてもしかたがないだろう。

前にも書いたとおりで、そもそも「マヤ民族による人類滅亡の予言」がただのフィクションに過ぎない。近年になってから、マヤの予言というものを拡大解釈してマヤ民族には「人類滅亡の予言」があるとかのでっちあげをしている人間がいるだけのことだ。


自分がこの映画を「酷い映画」と切り捨てるように評するのは、単純に映画として出来がよくないという意味だ。

特にこの「2012」という映画、いろいろな意味で「後味の悪さ」ばかりが残る映画なのだ。

たとえば、ジョン・キューザック演じる主人公一家が入り口の閉じた「箱舟」に無理矢理乗り込もうとしたため、その結果何十人、いやもしかすると何百人もの箱舟の搭乗者(及び動物たち)が犠牲者になっているわけで、こういう展開をする映画は、たとえ娯楽映画だとしても、いや娯楽映画だからなおのこと観ていい気分はしない。

このような「主人公を生き延びさせるために用意されたとしかいいようのない無謀な展開」の映画を観るたびに「昔見た大作映画にもなんかこんな無茶苦茶な展開なのがあったよなぁ…」とは思っていた。タイトルこそ思い浮かばなかったのだが。

それが、最近ある人から言われて「パールハーバー」にもあてはまるし、あの「タイタニック」にも通じるところがあることに気がついた。

ああいった映画が好きな人ならば、もしかすると、この「2012」を観ても不満は感じないだろうし、主役の(自分たちが生き延びるために他の犠牲者が何人でもかまわないというような)行動原理に疑問を感ぜずに共感を覚えることもできるのかもしれない。

自分はダメだね。こういう映画は。

映画終わり、水面から顔を出した主人公に向かって「オマエが死ねばよかったのに」と本気で思ったと何かに書いていた人がいたが、自分はまあ、少しだけ同意である。

2010.03.30

【91017】「2012」という映画について

※ 実際に見てダメだと思った映画について「ダメ映画である」とあえてわざわざと書くのは自分の本意とするところではない。あれからもこの映画について意見を寄せてくる方が絶えないし、自分の意見を求められるのでそれに応える意味で書いてみた。

2010年3月28日日曜日

100328 無茶苦茶なたとえ話を耳にした

まあ、環境であるとか地球温暖化について語ると、たとえそれが善意からくるものでであっても、よくと考えると無茶苦茶なたとえ話に置き換える人が出てくる。

たとえば、この二酸化炭素というものをゴミに置き換えて、そして地球というものをひとつのマンションにたとえて、このようなたとえばなしというかおとぎばなしにして語っている人がいる。

最近、マンションから出るゴミの量が増えすぎて共益費だけではまかなえなくなってきたので、マンションの住民が一致協力してゴミの量を減らそうと努力する、つまりそれが地球温暖化に対する私たちの取り組みと同じなのです。

これってなんかおかしいでしょう。

もしおかしいと感じないとしたらその人のほうがおかしい。



もちろんこんな方法では決して本質な解決(ゴミの量を減らす)には結びつかないからだ。

もし、マンション全体から出るゴミの量が急激に増えたのが事実だとすれば、そこにはちゃんとした理由があるはずで、それを究明しないことには、どれだけマンションの住民が一致団結したとしても「適切な解決」にはならない。

たとえば、入居世帯数が増えたからだとか、どこかの部屋から出るゴミの量が一挙に増えたからとか、なにか決定的な原因があるはずなのだ。それに対処しないで何が問題解決になるのであろうか。

というか、環境の問題、特に二酸化酸素排出に関して我々に課せられているのは、このようなたとえばなしで置き換えられる「不公平な解決方法」なのではないか。

たとえば(たとえばなしにたとえばなしで返すのも大人げないのだが)こういうことだ。

マンションから出るゴミの量が増えたその理由についてよく調べてみたら、最近越してきた住人の部屋から膨大な量のゴミが出されているのがわかった。これでは不公平なことになるから、これからは出したゴミの量にふさわしい料金を別枠で徴収することにした。

このたとえばなしなら「そりゃそうだ」と納得する人も多いのでは。

勘違いしないでほしい。自分はこれを環境問題であるとか地球温暖化に対する解決策にそのまま当てはめていいとかそういうことを言っているのではない。

要するに、「環境問題であるとか地球温暖化について語るときは下手なたとえばなしに持ち込んで丸め込むような卑怯な手段をとるな」ということを言いたいのだ、自分は。

誰に対してということではない。すべての人にだ。

2010年3月19日金曜日

100319 事実というものの重みについて

それがたとえブログの書き込みであっても名誉毀損は成立するという最高裁判所の判決が出た[註]ことで、この自分も意見というか感想を求められる。(そういうメールが来ているという意味)

意見とか感想とか訊かれてもねぇ。一般的なことしか言えないし書けないのだが。

なにしろこのケース(裁判)と自分のこのブログには、これといった共通点はないからだ。だからあくまでも「一般的なこと」しか書けないし言えない。

自分は、問題となるブログのことはよくは知らないのだが、知者の方が言っているところでは、やはり何が事実なのか、何が事実ではないのかという大切なことを読者に明快に提示できていたのかという点においては落ち度はあったようである。それがこの最高裁の判決に結びついた可能性高いということだろう。

たとえば、自分はこのブログでも「全国BSC」という組織と「真光元(まこも)」という宗教団体の結びつきというものを書いているブログのことをご紹介した。

この真光元というところ、施設内で重度の糖尿病患者を放置して死に至らしめたという犯罪(過失致死)を実際に犯している。

これは決して事故なのではない。その被害者の少女は治療目的のためにその施設に移管されて必要不可欠なインスリン注射もせずに放置されたから死んだのだ。

それを指して、そういう常識はずれのことをするから人はこの宗教団体のことをカルトと言う。自分もそれに従いこの宗教団体をカルトであると言ったし書いた。

たとえば、だからもし上記の事件(裁判)に無理矢理あてはめた場合ということだが、もし、自分が「全国BSC」のことをカルトである、と言ってしまった場合にはその事実証拠の提示が求められるだろうし、それが出来なければ、もしかすると相手(BSCが訴えた場合には)「名誉毀損」というものが成立してしまう可能性はあるのだろう。

しかし、自分がここで書いているのは「真光元」という宗教団体と、全国BSCの深い結びつきというものを端的に示した文書でありHPである。つまり自分がここで書いているのは「事実」なのである。自分の意見であるとか主張ですらない。

自分は「事実」は事実しか書かないし、推測でしかない場合はちゃんとそのように「推測であるが~」をつけるなどして、読者に対してははっきりとわかるように分けて書いている。

まあ、上の裁判のケースはあくまでも非常に特殊なケースであって、この判例というものが今後すべての同様の裁判に当てはまるとは思えないが、むしろ自分としてはこの判例は大歓迎である。

なんでかというと、自分はブログや掲示板などで、事実でないことばかりを書かれて「名誉毀損」という実害を蒙っている被害者でもあるからだ。

実際、アマゾンのレビューのページでも事実無根のことを書いているアホウがいたりするのだから始末が悪い。

こういった「いい加減なことを書く連中」が少しでも減ってくれるのであればそれは自分にとってはありがたいことでもある。

最後に勝つのは愛かもしれないが、事実もなのだ。



[註]朝日comの記事「ネット上の中傷書き込みで名誉棄損罪確定 最高裁初判断
http://www.asahi.com/digital/internet/TKY201003160454.html
2010年3月16日

参照 
紀藤正樹弁護士のブログより
不当な最高裁判決に驚き!と困惑!! 

真光元(しんこうげん)と薬事法
真光元(しんこうげん)の裏面

追記

「アマゾンの書評が消えてますよ」というご連絡を頂いた。見てみると本当に消えていた。自分はこの「真生」を名乗る本人が自主的に削除したのかと思っていたのだが、そうではなかったようだ。「Joe」さんという方からメールが来て知ったのだが、このJOEさんという方がアマゾンに削除を要請してそれがかなったということらしい。頂いたメールのその個所を添付する。

(前略)今回は直接メールで、「真正という人のレビューは、本の内容とまったく異なるもので、特定の人物の名誉を著しく毀損しています。実際の本は該当人物のブログの内容をまとめたものではなく、出版社が書いたものです。 削除すべきだと思います」と書いたところ、下記のような返事が来まして、削除されたようです。

(以下、アマゾンからの返答コピー)


Amazon.co.jpにご連絡いただき、ありがとうございます。
Amazon.co.jpではレビューガイドラインに沿って、カスタマーレビューをチェックし、ガイドラインから外れていると判断したレビューは非掲載にいたしております。
ご指摘のとおり、このレビューは、当サイトのレビューガイドライン「作品の内容と全く無関係なコメント」に抵触するとみなされたため、非掲載とさせていただきました。

とこういう経緯があったとのこと。

いろいろとご意見はあるとは思うが、こういったご助力に対しては感謝あるのみである。自分としては言論を封殺しようとかそういうつもりはまったくなくて、削除があるとしたら本人による自主削除というものをと期待していたのだが。それがこの真生という人に伝わらなかったことは残念である。

これは以前にも書いたことだが、最近ではこのようなアマゾンのレビュー(書評)もまるで2ちゃんねるのような無責任な書込みが目立つようになった。しかし、たとえばアマゾンの場合でも「取得したID」というものがあるわけで、今後この「真生」という人は、自分のこのIDでは使えなくなるだろうし、もっと悲惨なのは、自分の書いたことが第三者には信じてもらえなくなったり、まともにとりあってもらえなくなる可能性だって出てくるだろう。

そしてそれはジュセリーノ本人や「ジュセリーノは本物の予言者」だとかブログや掲示板で書き込んでいた人たちにもいえることなのだ。

自分で自分の首を絞めているのである。もしそのことに本当に気がついていないのだとしたらそれこそが悲劇であり、そして第三者的な視点からすると滑稽な喜劇なのだが。
2010.03.20

2010年3月15日月曜日

100315 「チャレンジ25」のテレビCMについて思うこと

1

自分があまりテレビを見ない人間だからなのだが、皆がまるで口を揃えるようにして「チャレンジ25」というCO2削減を訴えるキャンペーンCMの気持ち悪さについて語っていても、いまひとつピンとこないところがあったし、話の輪の中に入れずにいた。(だからここでも取り上げなかった)

「しろくま」さんという方から、その問題のテレビCMの動画(今ではyouTUBEなどでも見ることが出来る[注1])を携帯動画として送ってもらって、それを実際に(携帯で)見た率直な感想は

「あっ、こりゃ完全にオカルトだわ…」といったものだった。



届けられたCMは2パターンあった。[註2]共通しているのは、崩れる氷山、まばらになった海氷の上を渡ろうとしているシロクマ、多発する山火事、そして砂漠化する大地といった映像であり、それに被さるテロップ(字幕)とナレーション、といったところ。

そして締めとして、地球温暖化防止のためにCO2(二酸化炭素)削減目標(2020年までに25%)に向かってチャレンジしましょうと訴えかけて終わる。

このテレビCMが孕んでいる問題点とそれへの批判については後回しにする。いっしょくたにすると誤解する人がまたぞろ増えそうな気がするからだ。


実際に自分が最初にこれを見て「このCM、失敗だなぁ」と思ったのは、その内容であるとかメッセージがどうとか言う前に「人選ミス」のことだった。

ふたつあるうちのひとつは、加山雄三がナレーションと出演をしているもので、まあこれについては、(少なくとも15秒間のテレビCFとしてみた場合にということだが)「気味が悪い」というようなものでもなかった。


だが、もうひとつの方だが、加山雄三ではなくて、陰気くさい男の声のナレーションで、この声の主が皆が言っている鳩山由紀夫(首相)の声だとはすぐに結びつかなかった。(携帯端末だからか)

しかし、皆が「なんかキモチ悪い」といっているのは、きっとこれのことなのだろうと納得はいった。

実際、鳩山由紀夫の陰気臭くてモゴモゴともぐったような声に乗って、山火事や乾燥した大地というような映像を見せられたらたとえ短いCMだとはいえ気分はよくないし、ついうっかりすると、何かオカルト映画とか、下手をするとカルト団体の宣伝に見えなくもない。

もちろん、自分だって、鳩山由紀夫の陰気なしゃべり方や頼りなげな地声というものを責めてもしかたがないのはよーくわかっているつもりなのだが。[注1]

でも、だったら何故鳩山由紀夫はこのようなCMに「声だけの出演」みたいな中途半端な登場をしてしまったのだろうか。

日本の首相が日本の国民に向かってCO2削減を訴えるというのならば、堂々と顔出ししたパターンにすればいいだろうに。(そうすれば自分もまた面と向かって批判も出来ただろう)

こんな「ナレーションだけ差し替えてみました」みたいなやりかたは、どこか姑息さというものを感じさせるだけだ。

2010.03.12

[注1] 政府広報のHPからも見ることが出来るようである。でもリンクはしない。だってキモチ悪いんだもん。

[注2] 実際に存在するのはやはりこの2パターンだけであった。

[注3] 本来ならば、責められるべき立場にあるのはナレーターの鳩山(首相)ではなくて、このテレビCMをプロデュースしたり演出したりする、いわゆる「作る立場」の人たちということになるだろう。要するに、レコーディグのときにキチンと鳩山由紀夫に対して「もっとハキハキと」とか「力強い口調で」とダメだししなければならなかったはずなのだ。それが彼らの仕事というものだ。

☆☆☆☆☆


もちろん、テレビCMの不出来を論うことだけが目的でこんなことを書いているのではない。

これはここで何度も書いてきていることだが、そもそも、この「地球温暖化防止のためにCO2の排出を削減しましょう」というスローガンは論理的ではない。[註1]

ましてや、一国の首相が音頭を取って「25%の削減を目標に頑張りましょう」というのは輪をかけて無茶苦茶なことなのだ。

それを指して自分は「オカルトだ」といっている。そのことだけは言っておく必要はあるだろう。そう感じている。

さて、ここにきて、鳩山首相が掲げた10年で25%の削減という目標に対していろいろなところから疑問や懐疑的な意見が続出している。(まああたりまえのことなんだけどね)

地球温暖化の防止が目標ならば、人類が排出する二酸化炭素は少なければ少ないほどよいわけだが、果たして、この(10年後に)25%削減という数字はその目的達成のための有効な値になっているのだろうか?

ここいらあたりに大いなる欺瞞というものを感じるのだ。普通に考えればだよ、本来の分母(大気中に存在する二酸化炭素量)の総量がその何十倍何百倍ひょっとすると何万倍かもしれないというのに、日本だけが(10年後を目標にして1990年当時の)1/4を減らしたところであんまり意味はないだろう。[註2]

ところが、わが国の首相はどうやら25%を減らすことが本当に地球環境のためになると信じ込んでいる「オカルトの徒」らしいのである。困ったハナシだが。

自分が思うのは、この「25%削減」という目標値を掲げるということに意味があるとすれば、それはあくまでも日本という国の(国際的)立場にとってということだろう。

言葉を変えて言えば、25%削減っていうのは、単に「政治的」なことでしかないと思うのだ。

もし、はじめから「25%削減って言っておくと我々日本人は得をしますよ」というのだったら、自分も、まあそのハナシには乗らないわけでもないし、ここでオカルトだと批判するようなものでもないと思っている。

そうでなくて、「いや、(25%削減は)あくまでも地球環境のためにであって、政治利用ではない」みたいなことを言い出す人があまりにも多いからハナシはこんがらがる。責任者は誰なんだ、みたいなはなしになるのだ。

2010.03.13

[註1]まず、「二酸化炭素が増えたこと、つまり人類が人類であるがゆえに排出した二酸化炭素の増加こそが地球温暖化の最大(あるいは)唯一の原因なのだろうか?」という命題がある。それに対する答えはすでに出ているといっていいだろう。答えはノーだ。まったく違う。二酸化炭素だけが地球温暖化の犯人ではないのだ。それどころか「二酸化炭素の増加はむしろ温暖化の結果であって原因ではない」と主張している科学者グループもいるのだ。そういう人たちが温暖化の原因として挙げているのは「太陽活動」であり、地球の地殻活動である。火山の噴火などで空中に排出されたメタンガスなどの(二酸化炭素よりも)重い(=つまり熱を蓄えやすく、そして比較的拡散しやすい)元素である。まあ、確かにこっちの説の方が実は理にはかなっているわけだが。それに、この「二酸化炭素原因説」の最大の提唱者であるはずのIPCCの主導的な立場にある人間がデータの捏造の事実というものをあっさりと認めてしまったということもある。それはこのブログでも何度か触れたことなのでここでは詳細は省くが。

(誤解を招かないように付け加えておくが、何も自分は二酸化炭素の増加と地球温暖化はまったく関係ないと言い張っているのではない)


[註2]実際、地球物理学に詳しそうな知り合いにたずねてみたのだが、彼は含み笑いを浮かべるだけでまともにこたえてはくれなかった。まあ、まともに考えて答えのでる領域のものではないことなんだということだけは自分も理解したが。彼が言下に匂わせたところをうまくまとめるのは難しい。要するに(変動幅の大きな)不確実な要素に正確な値(25%)を関連付けて出てくる答えは時にイエスにもなるしまた別のときはノーにもなる。それだけの大きな振幅というものがあるということなのだろう。



☆☆☆☆☆



自分があのCMはオカルトである、と言い切る理由は以上である。

ありもしないことをさもあるかのように仕立て上げるという行為は詐欺でもあるわけだし、その行為に金銭的なものがたとえ絡まなくとも決して許されるようなことではない。もし騙している当人に詐欺という意識がまったくないのならば、それは「オカルトでしょ」ということになってしまう。


実際に自分の周囲の人たちが口にしていたことを拾い上げると、一番多かったのは「二酸化炭素を25%減らさないと本当に山火事が続出したり水不足が深刻になるのか?」という非常にシンプルな疑問であり、そして不安だった。

うーん、まあ確かにあんなCMを見てしまうと、それがあのCMの訴求点であるように見えてしまうというのもうなずけることなのだ。そしてそれがあの「チャレンジ25」のキャンペーンCMの致命的な欠陥なのだ。[註1]

もちろん自分は「そんなことはない」とはっきりと言い切ることが出来る。[註2]

世界各地で見られる旱魃(かんばつ)であるとか、あるいは山火事のような自然災害と温暖化の関係についてはなんともいえない。しかし、少なくとも、二酸化炭素の増加がこの地球温暖化のすべての原因でないことぐらいはよく考えれば誰でもがわかることなのだ。

ところが困ったもので、この世にはそういう初歩的なことは見て見ぬ振りをして、インチキとしかいいようのない情報を織り交ぜて、まるで「二酸化炭素がこのまま増え続けると未来は大変なことになるぞ」というようなタチの悪い脅しを仕掛けてくる連中がいたりするのだ。

そして、この「チャレンジ25」というキャンペーンもまたその中のひとつとしてカウントしてもいいものだろう。

「風吹けば桶屋が儲かる」ということわざ(故事成句)がある。簡単に言えば、世の中は巡り巡って意外な結果を及ぼす…という(まるでバタフライ・エフェクトそのものだが)意味合いで使われるが、ほかにも「当てにならないものを期待するたとえ」であるとか「一見、論理的に思えるが、大所から見た場合無茶な因果関係になっている様」という場合に使われたりすることもある。

その伝で言えば、この「二酸化炭素が増えれば…」に続く部分はどう繋がってゆき、そして最終的には誰が儲かるようなシステムになっているのか。それについては我々はよくと見張っておいたおいたほうがいいだろう。

なんにしても、二酸化炭素を減らすこと自体は決して悪ではない。

しかし、二酸化炭素を減らさないと山火事が増えて、大地が乾燥して大変なことになるぞ、とテレビCMという媒体を使って明言した日本国の首相はこの鳩山由紀夫がはじめてであるし、自分が先進国の首長の発言をすべてチェックしたというわけではないが、二酸化炭素を25%削減すれば温暖化に効果があるとまで言い切った一国の首長はいまのところこの鳩山由紀夫ただひとりのようである。

そのことだけは我々日本人はよーくと記憶に留めておくべきだろう。


[註1]地球環境の為に、ではなくて我々日本人の為に世界の先進国に先駆けCO2排出量の削減目標25%を実現させましょう、というキャンペーンCMにすればいいだけのことだ。実際にそういうことなんだから。

[註2]二酸化炭素排出量をいくら削減しても高温化は止まらない可能性だってあるし、あるいは、仮に排出量が増えたとしても地球全体が定常的に寒冷化に向かう可能性だってあるということ。

2010.03.13
☆☆☆☆☆


※ あまりにも反響が大きいので、この部分を別の記事として独立させた。メールに対するお返事やコメントの掲載はしばらくお待ちください。

追記

3月14日(日)の午後に放送された「たかじんのそこまで言って委員会」(よみうりテレビ製作)という番組で、この「チャレンジ25」という政府キャンペーンの危うさというものが取り上げられたそうである。生憎自分は見てはいないのだが。[註1]

以前、テレ朝の「朝まで生テレビ」でやっていたのとほぼ同様の構図で「CO2削減推進派」と懐疑派による議論が交わされていたというのだが、番組に出演した推進派というのがたったひとりだったそうである。

その懐疑派の主頭は例によって「環境問題は何故ウソがまかりとおるのか」などでおなじみの武田邦彦。[註2]

誤解されて困っていることでもあるのだが、自分はこの武田邦彦という人の主張には非常に懐疑的でありそして否定的である。ここで自分が武田邦彦と同じことを書いているものだから「武田邦彦の本から引用をしている」あるいは「武田邦彦の同調者」と思っている人もいるようだがそうではない。単に引用元が同じというだけのことだ。

武田邦彦という人の主張の困ったところは、たとえば「ペットボトルの分別回収は無意味だ」とか言ってしまうことだろう。何度かここで書いているが、自分は「ペットボトルの分別回収」には意味はあるし、まだまだ改善の余地がいくらでもあると感じている立場である。自分がペットボトルの回収に意味があると思うのは、もしペットボトルを不燃物・石油製品と同じ枠で回収しはじめると、今度は都市衛生の面でいろいろと問題が浮上してくるのが目に見えているからだ。要するに、地球環境とかそういう大仰な視点ではなくて、もっと身近な問題としてペットボトルの分別回収は是と思っているということ。どうもこの武田という人の主張には、そういった都市生活者としての実感が抜け落ちていて、首をひねるような無茶苦茶なものばかりなのが困るところである。まあそういう意味では大槻義彦教授と同じ「学者バカ」の匂いが漂う。

しかし、もっとしょーもないのは推進派として番組に登場した明日香壽川(あすか・じゅせん)という学者で、この人はその朝生の地球温暖化の回に出演したときもアタマを抱えたくなるような無茶苦茶なことばかりいっていたのだが、今回の出演時にも司会の辛坊治郎に「地球温暖化の証拠はなんなんだ?」と訊かれて「あなたは(地球の温暖化を)実感していませんか?」と聞き返していたのだそうだ。

アホかコイツ。「地球の温暖化を実感できる」ってどんな立場の人間なんだ。神か。北極のシロクマ君か。南極のペンギンさんか。

常に地球上のあちこちと移動してきて地域地域の温暖化を実感したという人間相手にでなければこんな質問は無意味だしミスリードでもある。そんなことに気がつかないとしたら相当のオオバカヤロウである。

自分は5年前まで東京にいて、そして仙台に移住した人間[註3]だが、とてもではないが「地球の温暖化」なんて体感は出来ないし、実感も持っていない。体感して実感があるのは「都市熱(シティーヒート)」である。都市熱の実感と地球の温暖化はまったく別の問題である。絶対に一緒くたにしてはいけないことなのだ。

こういう「まやかし」を平気でやるようなヤツだから「胡散臭い」と言われるんだろうし、心ある推進派からも嫌われるんだろうがねぇ。まあこういううさんくさい人間がもっと前面に出てきてくれたほうが「懐疑派」としてはありがたいことなのかもしれないけどね。
(2010.03.15)


[註1] この番組、仙台(宮城地区)では普通に大阪と同じ放送スケジュールで見られる。東京にいた時もなんやかんやで録画したものを何度かは見ていた。あまり面白い番組とは思わないが、まあそれでもゲストの人選によってはだが、「見る価値有り」というのも何本かはあったと記憶している。

[註2] そののち頂いたメールによるとだが、懐疑派としてゲスト的に出演したのも武田邦彦ひとりだけだったようだ。そういう意味では、まあフェアな論戦ではあったようである。ただし、レギュラーパネラーの勝谷誠彦(かつや・まさひこ)が武田邦彦型の懐疑派の主張に乗っかって明日香壽川に対して論戦を挑んだのだとか。まあこれも番組の演出のうちだろうから、こういう個所に文句をいってもしかたがないのだろうが、もし、真面目に論議をするのであれば、こういう乱暴な区分けというか、番組製作サイドが視聴者にわかりやすいようにと議論を「二律対称構造」に仕立てて論戦をさせるのは、まあはっきりいって無意味に等しいことだ。なぜならば、(自分もそうなのだが)二酸化炭素の排出量を減らすことには基本賛成の立場をとるが、だからといって鳩山(民主)のように性急で穴だらけの(しかも国民に対してはオカルトで追い立てるような手法を使っての)施策には断固反対する立場の人間もいるからだ。いくら時間を掛けたとしてもまともな実のある結論は出ないだろうし、下手をすると視聴者に対して「事実ではないこと」を伝えてしまうという危険もあるのだ。(この手のテレビ番組を見るたびに)自分も危惧しているところである。ジュセリーノという自称予言者についてもまるっきりそうだった。ジュセリーノは「地球環境のために」という美辞麗句を持ち出してきて、それにコロリと騙された日本人が多いというのがそれを物語っている。それとまったく同じことなのだ。自分は、ジュセリーノに騙されるなというのと同じように、鳩山には騙されるなと言っている。あ、言っちゃった(笑)

[註3]正確には「自分も(この明日香壽川同様に)東京(首都圏)から近年仙台に移住した人間だが…」というべきなんだろうな。でないと、自分がこの明日香壽川に何を文句垂れているのかがわかりにくいかもしれない。要するに、自分は「仙台に在住している人間がどうすれば地球温暖化を実感できるんだ、無茶を言うなー」と明日香に文句を言っている。

☆☆☆☆☆

追記の追記

自分がひどいまやかしだなと思ったところがもうひとつはっきりとした。なんと、鳩山(民主)の掲げた削減25%というのは、CO2排出権取引を行使しての達成目標なんだそうだ。[註]これじゃ地球環境の為にもなんにもなってないじゃないか。ただの政治取引と同じだ。それにこれでは、いざとなったら途上国から排出権を金を出して買ってそれで「達成しました」と嘯(うそぶ)くことだってできることになる。ひどいまやかしである。しかも、その資金は果たしてどこから出てくるものなのかを考えてみよ。もちろん我々の国家予算、つまり税金からなのだ。

それにこれではこの「チャレンジ25」は、はじめから形を変えたODA(海外援助)ということになってしまう。

自分はこんなものを日本の対外政策のひとつとして認めることは絶対に出来ないね。あなたは認められますか?


[註] こんなジョークがある。笑えないジョークだが。



(首相記者会見にて)

記者「10年後にCO2の25%削減という目標は少し厳しすぎないでしょうか?各産業界からも反論が噴出しています…」

鳩山「確かに困難な目標かもしれません。しかし決して不可能な数字ではないと私は確信しております」

記者「その確信の根拠というものをお聞かせください」

鳩山「わたしは10年どころか、わずか半年で30%も削減させた実績があります」

記者「内閣支持率かよ」

2010年3月9日火曜日

100309 トルコでの地震について その他

あれからも、何通もメールを頂いています。
メアドさえ書いてあれば、返事の必要なものには返事を差し上げています。

ただし、ここで取り上げるかどうかはまた別の問題になりますので、そこのところはよろしく。

さて、チリに続いて、今度はトルコで大きな地震があって、死傷者がかなり出ているようだ。

お問い合わせが多かったのは、やはり「ジュセリーノが公表した最新のものにそれに該当するものはあるのか?」というような質問。

それに対するお答えですが、該当するようなものはありませんでした。まあ、毎度のことだけどね。

こういう質問、なにか大きな事件や天災、事故があるたびに寄せられるのだけれども、(念の為にと改めて表明しておくのだが)たとえそれらしい合致点というものが見出せたとしても、それはもうこの「ジュセリーノ騒動」の本質とはまったく関係のないことでしかないのだ。それだけは言っておこうか。

ジュセリーノというブラジル人は何のためにこんな無益な行為(あたらないことが趨勢明らかになった年間予言の公表)を毎年々々繰り返しているのだろうか。

どうにもそのあたりのシステムというか大きな理由はよくはわからないのだけれども、いいですか、このつまらない行事、過去4年間も続いていることなのである。

毎年のように世界のどこかで(甚大な被害をもたらす)大きな地震がおきているわけだし、ジュセリーノのように年間五十以上百近くの地震の予言を公表していれば、そのうちのひとつやふたつは、なんとなくそれらしい合致点のあるものくらいは必ず出てくる。それが確率というものだろう。

2010.03.08




さて、今年になって、ハイチ、チリ、そしてトルコと、大きな地震の被害報道が続いてるからだが、「今年は大地震の当たり年ではないか」みたいなことを言ったり(ブログなどで)書いたりしている人がいる。

あるいは、「地球、人類の滅亡のシグナルである」とか「カタストロフィ(終末的大災害)の前触れではないか」といい気になってほざいているバカが本当にいるから困ったもんだと思う。

そういった無責任な書込みを見て不安になったという人も結構いるとみえて、そのことを訴える内容のメールとかコメントがきたりするわけです。


どこから「今年は地震のあたり年」みたいな無理矢理な結論を引っ張りだしてくるのかはよくわからないのだけれども、少なくとも、今年の二月までの大型地震の発生数をみる限りでは、特に地震発生が多いというのでは決してない。

そもそも(大きな)地震というものは、前述のとおりで、地球規模で見た場合には、毎日のようにどこかでおきている。

それが人の住んでいるところであっても、そうでなくてもだ。

もっとわかりやすく言えば、この地球、ほとんどが海に覆われているわけだし、地震のほとんどつまり7割は「海底地震」になるわけだし、陸地だって、人が住んでいる場所、人口の密集している地域のほうが圧倒的に少ないのだ。

この(ハイチ、チリの)地震の特異点とは、要するに、人のたくさん住んでいる地域(の近く)で起きた地震だった、ということなのだ。

地震というものは、そこに人が住んでいるとか住んでいないとかの違いで起きたり起きなかったりするものではない。

人の沢山住んでいる場所、地域で大きな地震が起きて、そして(二次的なものを含めて)被害が甚大なものになったとすれば、それは「地学」「地層学」とはまた別の「社会科学」の領域の問題なんです。

つまり、各々の国情の違いであるとか、防災の認識の問題だということです。

いや、だからこそ、自分もチリの地震の場合、起きた地震の規模もそうだけど、報道を見るたびに、遅々として進まない復旧作業や、多発している略奪行為であるとか、あるいは悪化する衛生事情に対して「大変なことだな・・・」と大震災に対する認識というものを新たにするのだけれど。

特に、自分が注意を払って見ているのは、現地での「デマ」の発生とか、デマが広がったとかだろう。例の津波に関する誤った報道が引起してしまったパニック騒動もそのひとつだった。

自分はどうしても、一昨年9月に愛知を中心とする東海地方で起きてしまったジュセリーノの予言が原因となって広まったパニックと重ねて見てしまうのだ。

あのときのパニックというものを未然に防ぐ有効な手段というものがあったとすれば、それは何だったのだろうか。それについては自分は今でも考えることがある。

出る結論はいつも同じである。

要するに、面白半分でマトモな取材もしないで、ジュセリーノのことを「的中率90%の予言者」とか持ち上げたり、番組にしたり記事にしたマスコミがちゃんと自己責任でもって「ジュセリーノの予言は作られたものでインチキです」とはっきり言えばよかったのだという結論になるのだ。

でさて、そのマスコミの連中は、そののちジュセリーノについて、その真贋についてマトモに言及したことはあったのだろうか。まったくないよな。聞いたことがない。

それについては、どのテレビ局も出版社もだんまりを決め込んだままというなんかキモチ悪い状況が続いているのが現状である。情けないハナシだが。

そのマスコミ、(ジュセリーノ同様に)どこもかもが自分らの生命線、財産であるはずの信頼性というものを失ってきていることにまったく気がついていないようなのだが。

自分は、こういうのは「自殺行為」というんだと思うのだが、どうなんでしょうね。顧客である視聴者読者離れを引き起して、自分のクビを絞めているのもそうだし、多くのマスコミ媒体が経営危機に面しているのに対して、なんの同情論も沸き起こってこないというのもその何よりの証左だと思うのだ。

極端なことを言うのであれば、虚報を垂れ流しにしたままでも平気なツラをしているマスコミならば、ごめんなさいの一言も言えないのであれば、むしろこの世から消え去ってくれたほうがどれだけ世の中(あるいは日本)のためになるんだろう。

そして、多くの(テレビにソッポを向き始めた)視聴者の心の奥にあるものとはそれなんじゃないだろうかね、そんな気がしてならないのだ。

2010.03.09