2007年8月31日金曜日

070831 目次 07年08月

0831 目次 07年08月




07年07月ヘ

0802 末松ブログ その2
0803 0427の追記の部分
0804 0301の追記の部分
0807 2006年放送の番組より
肯定派の人との遭遇 その3
0817 メールアドレスの変更のお知らせ
0822 なんとなく似ているふたりの超能力者
0823 「予言」をテレビでやるということ
0824 末松ブログ3(改稿済)
0825 予言者の看板
0826 このブログのタイトルについて
0828 0809の追記の部分 
0829 FAQ '07 夏
0830 我々が森林保護のために出来ること
0831 目次 8月 (このページです)

07年09月へ




ライブドアブログ

7月ヘ

0802 末松ブログ その2
0803 0427の追記の部分
0804 0301の追記の部分
0807 2006年放送の番組より
肯定派の人との遭遇 その3
0817 メールアドレスの変更のお知らせ
0822 なんとなく似ているふたりの超能力者
0823 「予言」をテレビでやるということ
0824 末松ブログ3(改稿済)
0825 予言者の看板
0826 このブログのタイトルについて
0828 0809の追記の部分 
0829 FAQ '07 夏
0830 我々が森林保護のために出来ること
0831 目次 8月 (このページです)

9月へ

2007年8月30日木曜日

070830 我々が森林保護のために出来ること

 

それでは、「彼が予言したことは当るのか」という質問であるが、それに対する答えは以下のようなものなる。
<blockquote>当りません。何故なら、それは「ジュセリーノが本物の予言者ではない」からです。
ものによっては見方によっては「当った」と見えてしまうような事件や事故のようなものはあるかもしれません。しかしそれはあくまで<FONT color="#ff0000">「当ったかのように見えてしまう」</FONT>というだけの話です。
それ以上にジュセリーノがしている予言のほとんどは外れるでしょう。これからもずっと。そしてそのことが、とりもなおさずジュセリーノが贋物の予言者であるというもっとも大きな証拠となります。何故ならばジュセリーノは自分で自分のことを「的中率は90%である」といって注目をあつめた予言者です。しかし現実にはその彼の予言の的中率は90%にはるか及ばないという事実があります。
ということは、ジュセリーノの言うことには耳を傾けなくてもかまわないということになります。あるいは、いないほうが望ましい、口をつぐんでいたほうが世間のためというレベルの「予言者のふりをしただけの人間」だということが言えてしまうのではないかと思うからです。
</blockquote>
            <b>番 外 編</b>
「ジュセリーノが訴えている地球環境の変化であるとか温暖化に対する意識の変革といったものは大切なことなのではないでしょうか?」という質問のメールもたまに来ている。
それに対する自分の返答という見解
<blockquote>確かに、ジュセリーノはそういうことも発言している「予言者」です。しかしそれを訴えているのはなにもジュセリーノただひとりというわけではありません。これがものすごく重要なことかと思います。この世の中には、ジュセリーノなどはるか及ばない、非常に正確な観測と分析の結果から地球環境の激変の危機というものを訴えてきた人たちはたくさんいたのです。むしろ目をむけて耳を傾けるべきはこのような科学者達の言葉なのではないでしょうか。そういった提言に対して素直に耳を傾けるという姿勢がもしすでにあったのならば、このような偽予言者の言葉など、逆にバカバカしく感じられていたかもしれません。
<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E7%92%B0%E5%A2%83%E5%95%8F%E9%A1%8C">古くから文明の栄えた地域は何故砂漠化したのか?</a>
特にこのことについてはものすごく真剣に考えていただきたいのですが、たとえそれが「地球温暖化防止」であるとか「CO2排出の減少」につながらないとしても、「資源の節約」であるとかは、自分はものすごく大切なことだと思っています。
その中でも重要なひとつが「(広義の意味での)森林資源の保護」になるのだと思います。
その森林保護のための重要な手立てとして、我々が出来ることとしては「紙の使用量を極力減らすように努力する」ということが挙げられると思います。
無駄な紙の使用は抑える、ということです。
その方法のひとつとして自分が提唱して実践していることそれは
<b><FONT color="#ff0000">嘘や偽りを書き並べて人々に不必要な不安恐怖を与えるだけの低俗なオカルト本は買わない、作らせない。</FONT></b>
ということです。
さらにブログを書くときなど<b>どうしても必要なときは極力新刊本は買わずに古本屋を探す(笑)</b>
ということでもあるわけです。
これが私が現実に今実践している「森林保護ための具体的な小さな行動」になります。</blockquote>
以上。

2007年8月29日水曜日

070829 FAQ 2007 夏

 
夏休み期間中だったからなのか、ここ最近は半年ぐらい前にこのブログを特化させたときのような感じのメールが集中して届いていた。
その内容は「ジュセリーノはやはり贋物の予言者なのか」「ジュセリーノの予言は本当に当らないのか」といった質問に集約されるであろう。
それに対して自分はいつもと同じように同じような返事のメールを送りつづけている。
あいもかわらずだが、自分は「ジュセリーノは贋物の予言者なのか」という質問に対しては「ニセモノの予言者と言い切って間違いがない」と答えている。
そのことをめんどくさいであるとか嘆いてはいない。
おかげで新しいFAQというものを練り上げることが出来た。
喜ぶべきことであろう。
これも質問のメールを送って来ていただいた皆さんのおかげである。
                 <b>F A Q</b>
<blockquote><FONT color="#ff0000"><b>ジュセリーノが贋物の予言者であるというその理由1</b></FONT>
ジュセリーノがかつて自分が予言をして当てたと主張しているその発言や持ち出してきた手紙などの証拠類にはいくつものおかしなところがある。
例としては(もっともわかりやすいものとして)
1 アイルトン・セナの暗殺(暗殺の事実はまったくない)
2 チェルノブイリの原発事故(当時存在していない<FONT color="#ff0000">ウクライナ大統領</FONT>に手紙を送ったと言っている)
それ以外にも、彼が出した手紙や公証所に届けたという書類、あるいは受け取ったという手紙には偽造の疑いが払拭できないものばかりである。
1 マイアミヘラルド国際版編集部から受け取ったという手紙(署名のフォント-字体-だけが明らかに別物だったり、レターヘッドが別の会社のものだったりする→切り貼りして偽造した可能性が極めて高い)
2 2001年10月にジュセリーノがイギリスのマスコミに送ったと主張している、2005年7月に起きたロンドン同時テロの予言の手紙に書かれているその内容は実際の事件のあらましとは大いに異なっている。(さらに、彼はその手紙の中でテロに使われた爆弾の成分について詳細に述べているのだが、実はそれは警察が事件当初に「使われた可能性が高い」と発表しただけのものだった。ところがジュセリーノは「使われた」と断定的に述べてしまい逆に疑惑を生んでいるのである)
以上のことから考えられるのは、ジュセリーノは当時まったくそのような予言の手紙を送ったという確かな証拠はまだなにひとつ存在してはいないというのが事実である。
ただ、あとからそのような証拠を偽造したという疑いはものすごく濃厚である。
</blockquote> <blockquote><FONT color="#ff0000"><b>ジュセリーノが贋物の予言者であるというその理由2</b></FONT>
2005年、アメリカ政府を訴えるという裁判でジュセリーノがブラジル国内で一躍有名になってからであるが、その後に彼が発表した06年と07年の予言がまったく当たっていないという厳然とした事実。
その予言の中には日本の地震に関する予言もある。
<FONT color="#660000">06年5月「日本で地震。パニックと恐怖を引き起こす。
06年8月「日本で地震。人々は大きなパニック。日本は大きな危機をむかえる。」</FONT>
もちろんこのふたつの予言は外れている。
それ以外の外れた予言として
<FONT color="#660000">メキシコ湾で発生したハリケーンがアメリカ合衆国に到達するであろう。(7月)
そして、ヨーロッパで高温、(山)火事と嵐を引き起こす。(10月)
三個のハリケーンが(同時)発生。カリブ海、メキシコ、アメリカを襲う。そして、多大な被害。(11月)</FONT>
など、どう考えても無理だろう(当らないだろう)というものが結構ある。彼がこのような予言を発表してしまったのには、それには理由がいくつか考えられる。中でもっとも可能性が高いのは、ひとつは彼が北半球と南半球の季節の反転というものをついうっかり忘れてヨーロッパなどの北半球では冬の時期だというのに「記録的な暑さ」であるとかの予言を12月(南半球では夏である)の予言に入れてしまうようなうっかりミス(彼は人間違えをして、すでに死んだ有名人の健康に関する予言もしてもいる)と、もうひとつは近年に起きた大事件を参考にして「予言」をするものだから、同じような事件は必ずまた起きるという確信(その考えかた自体は間違ってはいないとは思うのだが)からなのか、ほとんどギャンブルに等しいようなことをつい書いてしまうようなのである。</blockquote> <blockquote>
<FONT color="#ff0000"><b>ジュセリーノが贋物の予言者であるというその理由3</b></FONT>
たとえば、2007年の1月にインドシナ領海で起きた航空機事故がそのもっとも象徴的なものなのだが、何か大きな事件が起きるとジュセリーノは「この事件を自分は予言していた」と言い出す。しかし、その肝心肝要の彼の「予言」には明らかに事実とは異なる記述ばかりが目立つのである。
それも何故か新聞やテレビでの速報や第一報にありがちな誤報とまったく同じ「予言」を発表してしまうのである。
彼が何故このような「誤報」を予言してしまうのかということについて深く考えてみるといくつもの疑惑が連鎖的に浮上してくる。
ジュセリーノは「夢の中で予知をする。夢の中の自分はその事件の現場にいる。そしてどこか上のほうから助言者の声が聞こえてくる」といっている予言者である。
この航空機事故のケースでいうのであれば、航空機が本当に墜落した場所は洋上である。にも関わらずジュセリーノは<FONT color="#ff0000">「航空機は山中に墜落して生存者がいる可能性がある」</FONT>という(マスコミの誤報どおりの)予言を発表してしまったのである。
つまり、その「夢の中のジュセリーノ」は<FONT color="#ff0000">事故の現場にはいなかった</FONT>ということになる。そしてこれがものすごく大切なことなのだが、これでは<FONT color="#ff0000">ジュセリーノ自身が自分の予言のシステムについて語った発言がまったくの虚構</FONT>であることを暴露してしまったのも同じことなのである。
以上のことから言える事。それは<FONT color="#ff0000">ジュセリーノが語っていた自分の予知の能力に関する発言はすべて虚言</FONT>だった可能性がものすごく大きくなったということになる。</blockquote>
以上の三点からいえること。
それは<b>ジュセリーノは贋物の予言者である可能性が極めて高い</b>ということになる。
(続く)

2007年8月28日火曜日

070828 0809の追記の部分

 
 
"http://blog.livedoor.jp/akgoodco1224/archives/1007289.html"肯定派の人との遭遇 その3</a>
http://blog.livedoor.jp/akgoodco1224/archives/1007289.html

タイトルで失敗した。うしろに「その3」とつけたために
<blockquote>その1とその2はいつ書いたのですか?</blockquote>
<blockquote>1と2が見当たりません</blockquote>
といったメールが結構来ている。
申し訳なかった。
1と2があってのそういう意味で「その3」なのではなく「第三種」という意味で「その3」とつけたのである。
もうおわかりだろう。「第三種接近遭遇」のパロディの意味でつけたタイトルだったのだこれは。
ストレートに「第三種肯定派との接近遭遇」というタイトルにしたかったのだが、それだとその会いに来た人のことをエイリアン扱いにしているという自分の不真面目な心性がまるわかりになるのでそれを避ける目的で婉曲にしてこのようなタイトルに直したのだ。
しかし大失敗であったが。
ただひたすらこのことに関しては「申し訳ない」と謝るしかない。
で、これから書くことはちと言い訳がましくなる。
まず、今まで自分はこのような肯定派の人たちとはもう何人も会っている。それこそ偶然みたいなものだが。そういう意味ではおそらくはこの記事に番号をふるとしたらだが、もし会った人の数で表わすとなるとおそらくは「その7」か「その8」くらいにはなるはずなのだ。
今までそのことに触れなかったのは相手の立場を考えてのことであった。相手の許可なくそのような会ったときのことを書くことはマナー違反だと考えてあえて記事にしなかった。
中にはあとからメールなどで「実はあの時は言わなかったが…」などとそれでも(彼/彼女)がジュセリーノの予言を肯定する理由などを幾つも書いて寄越した人もいたのだが、あえて言わせていただくが、それではダメなんである。絶対に。
だからそういう人たちがあとから書いて寄越したことに関しては一切無視させていただくしかなく、つまりはその実際に会った時のやりとりといったもの全てにも触れ難いということになってしまうのが残念なところでもあった。
今でも「お会いしましょう。ジュセリーノの予言が正しいか正しくないかについて徹底的に議論しましょう」みたいなメールを寄越す人もたまにいるけれども、これは予め言っておくことなのだけれども、ディベートというものは、一回こっきりで全てカタをつけてなんぼのものである。「答えられない」とか言い出すようではその時点で「負け」である。
あと、団交というか複数人数で来るというのも反則。
それと「会いに来い」みたいなものには一切応じられない。
そんなもの言わずもがなの常識だとばかり思っていたのだけれども、最近はこういう最低限のマナーというものさえ身についていない人が多いような気がする。
これもネットとかゲームの影響なのか。まるでこの世の中心が自分だというようなバーチャルなリアリティの世界から出られなくなっているという人間の数がやたら多くなっているというような気がするのだが。違うか。
もっとキツいことを言わせて頂く。
こと「ジュセリーノの予言」というものについてあれこれするという一点においてだが、あくまでこの一点についてのみについて言うのだが、その中心により近いところにいるのは、無記名で掲示板などに書き込んでいるような人ではなく、少なくとも記名で単独で自己責任で記事を書きつづけているこの自分(=かまた)のほうである。
だからそういうこと(自分と同じようなこと)をやっている人でなければ「会いに来い」というのは絶対に口から出てくるはずのない言葉のはずなのだ。
それが現実の世界のしきたりというかヒエラルヒーなのである。
いくらブログや掲示板などでジュセリーノにしても他の予言についてもだが、その信憑性について肯定的に語ってみても、無記名であるかぎりは現実のこの世界ではなんの意味も持たない。
もし仮に実名でそういうことをやっているという人がいて、その人が「会いにこい」と言うのであれば、それが無茶苦茶遠いところでなければだが自分は会いに行って議論するというのは吝かではないし、たとえそういうお互いに離れた場所だったとしても会う場所を「東京」にしてもいいというのであれば、お互い時間とかの都合をつけて会うという方法も有りなのではないかと思っている。というかそのくらいの「譲歩」ぐらいなら許容範囲であるということだ。
繰り返ししつこいくらいにこのことについては念を押しておくのだが、自分は(ジュセリーノ予言の)否定派の代表者という立場の人間ではない。
もしこの自分に会いにくる目的というものが、この自分のことを「代表者」と認識していたり、このブログを止めさせたりあるいは「肯定派に転向させる(笑)」というものなのだとしたら、その目的ははじめから大外れである。無駄なだけだ。
だったらメールのやりとりだけでことは済む。ネットの世界はどんな人間に対しても優しいというか寛容である。
たとえそれが無記名のものだとしてもその「発言」は内容によって判断されるし、どのすべてとも平等に扱われなければならない。
だから自分はこれまでも数多くの反対論者(つまりはジュセリーノ予言肯定派)に対してもメールを送りつづけている。

ていうかこの女性からはまだ返事が来ない。(08.28現在)
こうなると性質の悪い言論封殺に近い。
もしあと3日(9月1日まで)経ってもなんの連絡もないようであれば、もう申し訳ないが勝手にこのときの議論の内容についてもっと具体的に詳しく書くことにする。
それが最初の(会う前の)時点での条件だからだ。

2007年8月26日日曜日

070826 このブログのタイトルについて  

 
地味にひっそりと行なったので気がついていないという人の方が大多数のようであるが、7月のアタマにこのブログのタイトルをマイナーチェンジしている。
それまでは「ジュセリーノの予言の真実」だったものを「ジュセリーノ予言の真実」にして「の」の字をいっこ減らした。
そうなった経緯についてはまだ詳しくは書けないのであるが、まあ大きなトラブルがあって、その改善策の一環としてタイトルのマイナーチェンジも行なったということだ。
なんでもタイトルに「の」の字を沢山入れると大ヒットするというジンクスがあるらしく「の」をいっこ減らしていいものかどうかについては相当悩んだが(ジブリか)。
というか自分がこのブログをジュセリーノ予言に特化させようと思ったときにタイトルをどうするかいろいろと考えて最初に考えついたのは「ジュセリーノの予言の嘘」というようなものであった。
ときどきこのタイトルについていろいろと書いて来てくださる方がいる。
<blockquote>「真実」と入っているのにちっとも真実じゃない!</blockquote>とかも含めて。
中に<blockquote>やはりジェームス・ランディの代表的著作『ユリ・ゲラーの真実』に影響されたのですか?</blockquote>みたいなものもあった。
言われてそのことに逆に気がついたくらいであった。
手品師として有名なジェームス・ランディが、超能力者としてこの世に登場した<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%A9%E3%83%BC">ユリ・ゲラー</a>のトリックについて暴いた本のタイトルが『ユリ・ゲラーの真実 THE TRUTH ABOUT URI GELLER』であった。
<P align="center">
<a href="http://livedoor.blogimg.jp/akgoodco1224/imgs/4/a/4aa6b0ed.jpeg" target="_blank"><img src="http://livedoor.blogimg.jp/akgoodco1224/imgs/4/a/4aa6b0ed-s.jpeg" width="160" height="160" border="0" alt="4aa6b0ed.jpeg" hspace="5" class="pict" align="center" /></a>
(その本の表紙がこれ)</P>
果して自分がこのブログのタイトルを決めるときにこのことが頭にあったかどうかは定かではないが、たぶん偶然だろう。あったとしても無意識の奥の奥あたりにあった程度、だったはずだ。
自分がこのタイトルにした一番の大きな理由は3月にこのジュセリーノについていろいろと書いていたときに一番反応がよかったのがこの「ジュセリーノの予言の真実」と題した記事だったからである。
できるのであれば、いまでも自分はタイトルを最初のころの「ジュセリーノの予言の真実」に戻したいと思っている。
それは確かに語呂は悪いかもしれないが「ジュセリーノの予言」と「ジュセリーノ予言」では若干意味するもの、定義したときの領域がずれているからだ。
自分が否定しているものは「ジュセリーノ予言」でもいいのだが、こうまでしつこいくらいにこのブログで書きつづけているのは、「ジュセリーノの予言」についてだからである。
まあだからこれからも「ジュセリーノ予言」については否定するだけだが、「ジュセリーノの予言」についてはいろいろと書きつづけるよということなのであるが。

2007年8月25日土曜日

070825 予言者の看板

 
おかげさまで自分がこうしてこのブログでやっていることに対して多くの方からご理解いただけているという実感というものを得られるようになった。

やっと最近になって自分にもそれが納得ができるくらいのところまで来たという気がしている。

最初の頃は酷い物だったが。あからさまに「お前も所詮金が目的なんだろう」とか「ジュセリーノを利用して有名になりたいのだろう」などと書いて寄越す人があとを絶たなかった。最近は随分と減ってきたが。

このブログでジュセリーノをネタにしてもちっとも金にはならないし、それどころかむしろ赤をこいているくらいだというのに。

それに「ジュセリーノを利用して有名になる」なんてそれこそ予言なんかをまともに信じているような人間が抱きそうな幻想だね。

金もうけのためにならもっとほかにでもいくらでも方法はあるし、有名になるためだったら他の別の(たとえば江原批判とか細木批判とかの)方法をとったほうがもっとてっとり早いはずだ。誰が知名度の低いブラジルの予言者なんかを利用するかね。

こんなことを書いてくるような人には残酷な現実だが、この日本においてはジュセリーノなんてマクモニーグルとかジョン・タイターに較べれば比較にならないほど知られていない。

そんなこと普通の本屋とかコンビニにいけばすぐにわかることだ。ツタヤレベルのちょっとした本屋にならばマクモニーグルやジョン・タイターの本は置いているけれど、ジュセリーノの本を置いている書店は極めて少ない。マクモニーグルの本が全国でのベストセラーランキングの上位に顔を出したという話はたまに聞くが、ジュセリーノの本が全国でのベストセラーになったなんていう事実は聞いたこともない。ジョン・タイターの本なんてコンビニで売ってるんですぞ。(そのことには別の意味で自分もぶっとんだけれども)
これが現実というものなのである。これがジュセリーノの現実世界でのわが国日本での正当な評価というものなのである。

批判の対象としてブログに何かしら書いてより多くのレスポンスが欲しければ、もしそれが目的ならばだがジュセリーノなんて無名の予言者なんて相手にしないのが商売人としての才覚というものになるであろう。

だから、自分が「ジュセリーノ予言の嘘」についてこうまでしつこく批判を書きつづけているのは決して金のためでも有名欲なんてもののためでもない、というのは言うまでもないことだ。

それ(ジュセリーノの予言)が「この世にあってはいけない、不必要な恐怖を与えるもの」「嘘やデタラメで塗り固めた予言もどき」だからである。
そんなものは無いほうがいい。そんな嘘予言を撒き散らす輩(やから)がいたら、そんなもの真に受けてはいけないし、むしろ嘲笑の対象にするべきなのである。そのための理論武装である。

そのために一番良いのは「ジュセリーノについて誰かかが本当のことをネットで調べようとしたときに一番信頼のできる情報を目につきやすい場所において置く」ということだ。誰もそれをやらないというのであれば自分がやろう。そう思ったのでそうしたのである。
そういう意味で自分のやってきたことはほぼ成功してきているといってもいい。
それでも「廃壕」の中で今尚自分らの敗北を認めたがらないという馬鹿どもはいることはいるのである。彼らは「10月に阪神地区で大地震」が来ることを待ち望んでいたりする。それが過ぎて何も起こらなかったときのために「あれは阪神タイガースに関する予言」だったのだという言い訳を準備しながら(笑)。

しょうもない連中だとは思うのだけれども、これもまた現実というものなのだろう。
それにもし、ジュセリーノが本物の予言者だとして、もしジュセリーノが予言したことがもし本当に彼の言うとおりに成就していたのならば、いまこのような状態にはなってはいないはずだ。

日本でも連日連夜マスコミでジュセリーノについてその情報を流しまくるだろう。それこそ風評被害もへったくれもないはずだ。「ジュセリーノの予言は嘘」などと書きつづけている自分の方が嘲笑の対象となっているはずだ。

そうなってないのは何故なのか。ジュセリーノの2006年の予言について彼ら口をつぐんでしまうのは何故なのか。

そのことはもっと真剣に考えて、そしてそれから「ジュセリーノの予言」であるとか「予言者ジュセリーノ」などということについて書くなりなんなりしたほうがいいのではないか。

でなければ最初から「予言者」としての看板をとっぱらって宗教的な存在としてのみジュセリーノについて書くなりしたほうが読むほうは納得してくれるはずなのだが。
あえて挑発的にこんなことも書いてみたが。

2007年8月24日金曜日

070824 末松ブログ3(改稿済)

 
【ジュセリーノ予言の真実 0824】 末松ブログ3(改稿済)
でその末松議員のブログであるが今さっきいただいたメールで知って確認したことなのだがリニュアルをかけて過去の記事をすべてまっさらにしてしまったようだ。そうなってしまった経緯とかにもまったく触れていない。
<FONT color="white">ハゲ 禿げ はげ</FONT>
いい度胸をしている。もしかしてこれで「一件落着」に出来るとでも思っているのだろうか?
今までは「まぁ民主党の議員のやることだからしかたがないかな」ぐらいにしか思っていなかったが、こうなるとやはりある種の義憤みたいなものは沸いてくるのである。
だから「なにをする」というのでもないが、この議員がかつてブログでたま出版から出ているジュセリーノなどという(偽の)予言者の本を読んで真に受けて「7月13日に地震があるかもしれないので注意して下さい」などと書いていたという事実だけは絶対に忘れないようにしておきたいものである。
そしてもしこの議員の身の上に何かがあったときにはこのことも併せて思い出してあげようと思う。<FONT color="white">カツラ 鬘 ツーペ</FONT>
これは「小平リサ」さんという方からのメールで知ったことなのだが、この末松議員のブログ、記事の分類が「政治」と「その他」の二種類しかなく、しかもこの人使い方がわからないからなのかそのうちの「その他」でのみ記事投稿をつづけていたとのことだ。
つまりこの末松という人、政治についてはひとこともこのブログでは語ってはいなかったらしい(笑)
ああなるほどそれが民主クオリティというやつですか。そうですか。いろいろと勉強させていただいた。
そういうものでもいいらしいのである民主党という政党は。
この人が「環境大臣」になるような暗黒の未来というものだけはやってこないことをただ祈るのみである。

※都合により記事の内容を変更いたしました。(2007.08.28)
<a href="http://blog.livedoor.com/common_theme-110438.html">反カルト・非オカルト - livedoor Blog 共通テーマ</a></blockquote>

2007年8月23日木曜日

070823 「予言」をテレビでやるということ

 
【ジュセリーノ予言の真実 0823】 「予言」をテレビでやるということ
まあこれについてはいろいろと思う部分はあるのだが、純粋な意味での個人的な意見というよりも今の自分の「立場」というものがそう言わせるのだと思っていただきたい。

自分は(個人的には)オカルトをテレビでやることについては別にかまわないことだと思っている。
たとえそれがその実在の可能性について肯定的なスタンスで番組が作られていてもだ。

ただし、「嘘」は良くない。嘘であるのならばそのことは番組の中あるいは終わりにちゃんと明らかにするべきであろう。それが(バラエティ番組の)最低限のマナーというものだと思うのである。

で、話は変わる。あるテレビ関係者からのチクりのメールがあった。
前にも少し触れたが、やはり日本テレビで9月に放送予定の特番からはジュセリーノによる「未来の災害の予言」のコーナーはスッパリとなくなるそうである。
というかテレビ局はそういう判断をしたということだ。

どういう形になるのかはわからないものの、ひょっとしたら「ジュセリーノ」そのものも扱わない可能性も出て来たということだ。それについてはまだはっきりとしていないようだ。おそらく8月中にはその方向性は決まるとは思うのだが。

まあしかたがないのではないか。もしテレビ局がこの時期ジュセリーノの災害の予言なんてものを堂々とオンエアしたりしたら非難を浴びることはまちがいはないことだからだ。
ところが当の当事者であるニラサワ氏はこのことがよくわかっていないようなのだ。もし本当にそうだとすれば皮肉なものだ、というか滑稽な話でもある。

なんと、ニラサワ氏は「テレビで予言を扱うのは難しいかもしれない」と言っているらしいのだ。
違うだろう(笑)。

普通に、テレビ局がジュセリーノの「予言」について扱わないのはそれが「予言」だからではない。

ジュセリーノの予言の嘘というものがブラジルでもこの日本でも知れ渡ってしまったからに過ぎない。当ったかに見えるものだけをチョイスするのが難しいというそれだけのことだ。

今更、「億」という大金をつぎ込んで作る番組に、誰が好き好んでそんなものをねじ込みますか。ボランティアじゃないんだからさ。

民主党の衆院議員のブログがいわゆる「炎上」してしまい、当の議員も引っ込みがつかなくなってブログが放置状態のままである。

何がよくないかといえば、ジュセリーノが紛い物の予言者であることが問題なのである。
そんなことを見抜けない馬鹿者が国会議員をやっているということが問題視されているのである。

それと同じことが、もしテレビでこのジュセリーノによる災害の予言なんてものを扱ったときには起きてしまうことは間違いのないことだろう。
だから扱わないのだ。

それがそのニラサワ氏にはわかっていない。
というか「わかっていない」という振りをしているだけなのかもしれないが。「いちかわ・ひろし」氏の推測に則って言うのであればだが。

※ どうやら過去的中した事件に関する予言でジュセリーノの予言コーナーを構成するらしい。どういうものになるのか皆目見当がつかないが(笑)

【追記】
9月25日のその番組を見た後の感想である。
「酷い内容だったな」に尽きると思う。信じられないようなお手軽な嘘というか虚構てんこ盛り沢山という感じで開いた口が塞がらないとはこのことか。
うっすらとは危惧していたことだが、この番組は日本テレビの番組ではあるが、製作はテレビ朝日の年末のたけしの番組同様に「オフィス・トゥー・ワン」

この番組もまた完全にこの「オフィス・トゥー・ワン」による完全パッケージ番組であったのだ。

それが故に、ということなのだが、至る所まるでボロだらけといってもいいような内容だったということでもあった。

昔、誰かが言っていた例えなのだが「まるで良く焼けたサンマのように簡単にバラして身を削いで骨だけにできる」ような馬鹿番組というものにこの21世紀にお目にかかれるとはついぞ思ってもいなかった。

こんな番組を作ってオンエアできるというということは、ひっくり返して言えばそれだけ今地上波のコンテンツが貧弱化しているということなのだろう。

本当の意味で、有能な番組制作能力のある人間ならテレビの世界、今更このような民放のバラエティ番組の制作の世界にしがみついている理由などないわけだしな、と淋しくもあった
が。
平均視聴率で10%を越えて喜んでいる連中というのも脳天気なものだ。自分等にはもう未来などないと宣告されたも同然だというのに。

2007年8月22日水曜日

070822 なんとなく似ているふたりの超能力者

 
【ジュセリーノ予言の真実 0822】 なんとなく似ているふたりの超能力者  
このあいだ自分に面会を求めてきた人からは、あれからメールも来ないし、コメントも残されていない。メールに関してはハンディが出来たので送られてこなくともしかたがないのだが、コメントぐらいは残してもらいたいものだと切望している。なんにしても「~っぱなし」はよくないだろう。いくらなんでも。
とここで不満をぶつけておく。
さて、でここで改めて言っておきたいのは意識のズレというものについてだ。ものすごく重要なことだ。
その自分に会いに来た人もそうだし、メールで反論を書いてくる人、掲示板でいろいろと書いている人にもベーシックな部分で通じていることなのであるが、自分は「ジュセリーノ予言を否定する人間の代表」ではない。
そこいらでズレというものを感じることが非常に多くなっている。
ただひとつはっきりといえること、それはこの広い日本でたったひとりブログで(他の方法でもいいのだが)ジュセリーノの予言の嘘というものについて記名で書いている人間というだけに過ぎない。
ほかにそういう人間がいないというだけなのである。そのことを忘れられては困る。自分は別に「否定派の代表」だとかそういう立場を標榜しているのではない。まあメールをしてくるなり掲示板でとんなことを書こうがかまわないがそのことだけは忘れてもらっては困る。
でないと、それこそ「ジュセリーノ=韮沢潤一郎VSかまたあきよし」みたいな無茶苦茶な構図を頭で勝手に思い浮べて、そういう枠組みでもの書いたり挙句の果てには直接面会を求めてくるひともチラホラと出て来ているのでそのことだけは言っておくが。
自分以外にも(一般的な意味合いで)予言というものについて否定的な意見というものを表明しているという人はいっぱいいる。たぶんブログやネットでそういうことをしているという人もけっこうな数いるのではないかと思う。
しかし、自分がこのブログでやっているのは、そういう一般的な意味での予言の否定というのではない。
もちろん相容れないというのではない。スタンスそのものが別だということだ。
中には、その一般的な意味合いで予言というものを肯定的にとらえて「だからジュセリーノの予言もまた正しい(可能性は大きい)」みたいな論陣を張ってくるようなひともいるが、そんな論理は(ここでは)通用しない。
ジュセリーノの言っていること、やっていることはその「一般的な意味での予言」というものから大きく逸脱しているからである。
ひとことでいえば「予言のふりをした紛い物」でしかないからだ。
0804で取り上げた「滅亡の予言は自分にとっては生きてゆく希望である」と言い切ったその彼からは、さらに「ジュセリーノの外れた過去の予言ははっきりいってただのゴミのようなものだ」「たま出版から出たその本からはゴミの腐ったような臭いが漂ってくる。誰も気がつかないだけだ」「その腐った予言に頼るような生き方をしている人間の精神は腐敗菌に蝕まれているのだ」というような過激な発言が届いている。(彼はこの自分を励ますためにこのようなメールを送ってきてくれているのである。ヘンな話だけれどもね)
まあ、彼のいいたいことはわからなくもない。ジュセリーノには期日を切ったり特定したために「外れてしまった」予言の残骸があまりにも多く存在するということだ。
その残骸をほったらかしにしていると、そこから「腐敗」はどんどん進行してゆくぞということだ(と思う)。
たとえば(これも繰り返し書いていることだが)ジュセリーノには2006年の予言というものがある。
その多くが外れており、ブラジルではジュセリーノが嘲笑の対象になってしまった原因となった「外れ予言のゴミの山」である。
ところが日本にいるジュセリーノ予言肯定派の人たちの多くはこの2006年の予言というものについては「なかったこと」にしている。
触れたがらないのである。
そんな態度でいいはずがない。もし、ジュセリーノの予言についての信憑性について語るのであれば絶対に抜かしてはいけないであろう。
自分はこのような「外れ予言のゴミの山」こそがジュセリーノ予言の本質だと思っている。
ジュセリーノはその後も大事件が起きるたびに「その事件を予め予言していた」というようなニセの証拠を出しつづけている。そして多くのブラジル国民をあきれさせたり困らせているのである。
確かに、その外れた2006年の予言というものがアタマにあったならばジュセリーノのその行動は滑稽に映るであろう。
それこそ「本物の超能力者」としてテレビに登場しながらも今では単なる「芸人」としてお笑いを振りまいているエスパー伊東こと伊東万寿夫(敬称略)と一脈も二脈も通じていると思うのだが。
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2007年8月17日金曜日

070817 メールアドレスの変更のお知らせ

 
【ジュセリーノ予言の真実 0817】 メールアドレスの変更のお知らせ
結果的に一週間以上も(新記事の)更新をしないままにしてしまった。先週の金曜日(10日)から旅行などがあったり所用が立てこんだりして自宅を空けている日が多かったからなのだけれども。
一応記事は準備投稿していたのだけれどもやはり案の定更新されていなかった。友人に聞いてはいたが。
で、昨日戻ってきて久しぶりにこちらのメール受信をしてみてメールの数がものすごく少ないことに気がついた。
最初に浮かんだのは、もう「ジュセリーノ予言」の嘘であるとか欺瞞であるとかが世間に広まり、自分のこのブログに対する需要が減ったのではないかということだった。
というか自分はそれを常々望んでいるものだからこんなときにはふとそう思ってしまったのかもしれない。淡い期待をしていたのだ。
違っていた。ライブドアのメールの設定が大きく変更してしまっていたのだ。
なんでもGmailというのに移行する端境期にあるのでいちいちマニュアルで手続きをしないと受信が出来ないようになっていたのだ。13日からだという。
「なんだかメンドクセーなぁ、おい…」とか文句のひとつも口をついて出てきそうなものだが、考えてみればタダで使わせてもらっている身分である。文句を言うのが筋違いというものだろう。
まあそれでも「メールしたのに帰ってくる、届かない」と思っている人は多かったのではないだろうか。
申し訳ない。
で今朝からそのメールの設定などについていろいろと考えて、そのGmailとやらのほうに移る決意をした。
で新しいメールアドレスであるが
<u>akgoodco1224@livedoor.com</u>になる。(註)
しかしここでひとつ大きな問題というか障壁が出て来た。この新しいGmailにすると原則、携帯からメールが送れなくなるのだ。
たびだびここでも書いていることだが、このブログ携帯の読者がものすごく多い。したがって携帯のメールで送ってくるという人がものすごく多いのだ。そういう人たちは今までのように気軽にメールを送れなくなるということになる。
対応策をいろいろと考えたのだがやはり当分のあいだはコメント欄を代用してもらうような形になる。
いずれ携帯専用のメアドは別途用意するのでしばらくの間はそれでご容赦願いたい。
タイトルの一部に「メール」と入れてメール欄にメアドをいれていただければ「メール」として扱わせていただく。
そうでなくても今までと同じネームをご使用いただければ返事は必ず致しますのでよろしくお願いいたします。
かわりといってはなんだが今まで全面的にカットしていたYahooドメインを全面解禁にした。というかそのカットするという作業の必要もなさそうなのである。
いやすごいのよ、このGmail。そういうところは。最初からそういう迷惑メールをカットしてくれるし、誰かが迷惑メールであると認識してそれをサーバーに報告するとその後は全ての迷惑メールを最初から振り分けてくれるという機能がついているのだ。
でよく読んでみて知ったのだけれどもこの「Gmail」のGってGoogleのGだったりするのだ。流石Googleだ。改めて感心させられた。
Yahoo!の一般ユーザーにとっても恩恵を与るような機能だからである(笑)。
<blockquote>caution
I had just changed the mail receiving system.
New system could not receive the mails from all mobiles.
and all PR mails too, what called Spams.</blockquote>

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※ 2008年3月から再び新しいメールアドレスに変更させていただいた。

2007年8月9日木曜日

070809 肯定派の人との遭遇 その3

 
これがはじめてというのではないのだが、「ジュセリーノの予言を信じている」という、いわゆる肯定派の人とじかに会った。

というか向こうが会いに来たのだ、わざわざ関西から。

まあだから今回のは「遭遇」とは呼べないかもしれない。

「よくこの自分の連絡先とかを探し出したものだ」とは感心はした。しかしどう考えてもマナー違反である。こういうことをされてうれしいはずはない。

そのことは表明はしておく。もちろん会いに来たその人にもそうはっきりと言ったけれども。

「会いたくない」というか「会う必要はない」とかつっぱねることも出来るのだが、やはりわざわざ新幹線乗り継いで仙台までやってきたというので無碍にするのもどうかと思い、会うことにした。条件付きだが。

それで雨の仙台市内中心部にある某所で計3時間ばかし議論みたいなことをした。

会ってピンと来たのは、「以前からコメント欄にいろいろと書き込んでいる人だな。」ということだった。

あまりこういうことはここでは書くべきではないのだが、ディベートとしては完全に自分の圧勝であった。

あくまでもディベートとしては、ということであるが。

でも、おそらくそれでも彼女はこれからもジュセリーノの予言というものを信じ続けるのであろう。それはもう自分にはとめられない。

なぜかというとそれは「信仰の問題」になるからである。そこから先は自分は立ち入ることはできない領域なのであろう。

まあどうせジュセリーノよりも本物っぽいものがそこに出てきたらそっちに乗り換えるのだろうけれどさ。(当人にも言ったことだ)

ただ、彼女が持ち出してきた「賭け」には最初自分は乗ることにしたが結局、彼女はその「賭け」を引っ込めてしまったのである。まあその時点で彼女は「負け」を認めたも同然なのだが彼女はそれを認めようとはしなかった。

残念であるが。

単純な「賭け」である。期日と場所のはっきりした「ジュセリーノの予言」が当るか当らないか、それだけである。

たとえば、「2008年9月13日に中国でM9.1の地震が起きて三十メートルの津波が起きて百万人以上の犠牲者が出る」というジュセリーノの予言があるがこれが現実になれば彼女の勝ち、外れれば自分の勝ちというようなものなのだが。

いやもっと単純なものでもいいのだ。「2008年7月13日に日本(のどこか)で震度5以上の大地震がある」という予言があるのであればそれでもいい。

当ればそのジュセリーノ予言肯定派の人の勝ちだし、外れればこの自分のような否定論者の勝ち、そういう単純な賭けである。

もちろんこれはたんなる一種のゲームとして行なうのであって、それが当ったからジュセリーノの予言が本物だとか肯定派が正しいであるとか、逆に予言が外れたからといって自分のような否定派の言っていることが正しいとかジュセリーノがニセモノの予言者である、というようなところに全てが帰結するような大命題に直接結びつくようなものではないのだが。

言ってみれば一種の「ご対面記念企画」みたいなものだ。

結局彼女が降りてしまったが。

「予言で賭けってよく考えると不謹慎ですし」とか。

まあそれはこっちが言うセリフなのだけど。

彼女は「それでは自分(のような予言派)が無茶苦茶不利じゃないですか」とも言ったのだけれども、逆に「何故そのことに今まで気がつかないのだろう」と自分は言いたくなったのである。

そもそも「予言をする」というのはそれだけリスキーで、外れればその責任も重いのだということを自覚してほしいだけなのだが。

特に期日を指定したような「予言」というものがどれだけばかばかしいものなのかということには。

彼女は「あなたには何か信じている大切なものはないのですか?」みたいなことを聞いてきた。

簡単に答えられるような質問ではない。

かなり慎重に言葉を選んで自分はそれには「結局『自分』でしょう。自分が、自分の目で確かめたもの、自分が体験したこと」というようなことを言った。

がしかし、彼女にはそれがはぐらかされたかと感じたのか不満なようであった。

自分としては彼女のその質問に直対応して、真剣に真面目に答えたつもりであったのだが。

それよりも不満なのは、その彼女自身が、自分の出したいくつかの質問には「答える必要はない」というようなことを言って突っぱねたことだ。

しかしそれは「会いに来た人間」の口にする言葉ではあるまいて。

答えられないような質問を人にぶつけるのであればその逆の立場に立ったときにはその質問に対しては答えるのが最低限の義務というものであろう。軽い怒りのような感情が芽生えた。正直に言えば今でもその彼女のことは許してはいない、そのことに関しては。

二十数年前にもあったいやな記憶と体験と少しだけオーバーラップしてしまった。

まあそれでも最後には友好的にはお別れはしたが。

でその自分が出した「会って話をする条件」とは、もちろんこうして記事にするということである。

ほかにも書きたいことはあるのだが許可待ちである。



追記

タイトルで失敗した。うしろに「その3」とつけたために

その1とその2はいつ書いたのですか?

1と2が見当たりません

といったメールが結構来ている。

【追記2】
申し訳なかった。
1と2があってのそういう意味で「その3」なのではなく「第三種」という意味で「その3」とつけたのである。

もうおわかりだろう。「第三種接近遭遇」のパロディの意味でつけたタイトルだったのだこれは。

ストレートに「第三種肯定派との接近遭遇」というタイトルにしたかったのだが、それだとその会いに来た人のことをエイリアン扱いにしているという自分の不真面目な心性がまるわかりになるのでそれを避ける目的で婉曲にしてこのようなタイトルに直したのだ。

しかし大失敗であったが。

ただひたすらこのことに関しては「申し訳ない」と謝るしかない。

で、これから書くのは言い訳になる。

まず、今まで自分はこのような肯定派の人たちとはもう何人も会っている。そういう意味ではおそらくはこの記事に番号をふるとしたらだが、もし会った人の数で表わすとなるとおそらくは「その7」か「その8」くらいにはなるはずなのだ。

今までそのことに触れなかったのは相手の立場を考えてのことであった。相手の許可なくそのような会ったときのことを書くことはマナー違反だと考えてあえて記事にしなかっただけである。

中にはあとからメールなどで「実はあの時は言わなかったが…」などとそれでも(彼/彼女)がジュセリーノの予言を肯定する理由などを幾つも書いて寄越した人もいるのだが、あえて言わせていただくが、それではダメなんである。絶対に。

だからそういう人たちがあとから書いて寄越したことに関しては一切無視させていただくしかなく、つまりはその実際に会った時のやりとりといったもの全てにも触れ難いということになってしまうのがつらいところでもあった。

だから今でも「お会いしましょう。ジュセリーノの予言が正しいか正しくないかについて徹底的に議論しましょう」みたいなメールを寄越す人もたまにいるけれども、これは予め言っておくことなのだけれども、ディペートというものは一回こっきりで全てカタをつけてなんぼのものである。「答えられない」とか言うようではその時点で「負け」である。

あと、団交というか複数人数で来るというのも反則。

それと「会いに来い」みたいなものには一切応じられない。

そんなもの言わずもがなの常識だとばかり思っていたのだけれども、最近はこういう最低限のマナーというものさえ身についていない人が多いような気がする。

これもネットとかゲームの影響なのか。バーチャルなリアリティの世界から出られなくなっているという人間の数が多くなっているからだというような気がするのだが。違うか。

こと「ジュセリーノの予言」というものについてあれこれするという一点においてだが、あくまでこの一点についてのみ言うのだが、その中心により近いところにいるのは、無記名で掲示板などに書き込んでいるような人ではなく、少なくとも記名で単独で自己責任で記事を書きつづけているこの自分のほうである。

だからそういうこと(自分と同じようなこと)をやっている人でなければ「会いに来い」というのは絶対に口から出てくるはずのない言葉のはずなのだ。

それが現実の世界のしきたりというかヒエラルヒーなのである。

いくらブログや掲示板などでジュセリーノにしても他の予言についてもだが、その信憑性について肯定的に語ってみても、無記名であるかぎりは現実のこの世界ではなんの意味も持たない。

もし仮に実名でそういうことをやっているという人がいて、その人が「会いにこい」と言うのであれば、それが無茶苦茶遠いところでなければだが自分は会いに行って議論するというのは吝かではないし、たとえそういうお互いに離れた場所だったとしても会う場所を「東京」にしてもいいというのであれば、お互い時間とかの都合をつけて会うという方法も有りなのではないかと思っている。というかそのくらいの「譲歩」ぐらいなら許容範囲であるということだ。

繰り返ししつこいくらいにこのことについては念を押しておくのだが、自分は(ジュセリーノ予言の)否定派の代表者という立場の人間ではない。

もしこの自分に会いにくる目的というものが、この自分のことを「代表者」と認識していたり、このブログを止めさせたりあるいは「肯定派に転向させる(笑)」というのが目的なのだとしたらその目的ははじめから大外れである。無駄なだけだ。

だったらメールのやりとりだけでことは済む。

ネットの世界はどんな人間に対しても優しいというか寛容だからだ。

たとえ無記名のものだとしてもその「発言」は内容によって判断されるし、どのすべてとも平等に扱われなければならない。

だから自分はこれまでも数多くの反対論者(つまりはジュセリーノ予言肯定派)に対してもメールを送りつづけているのである。

ていうかこの女性からはまだ返事が来ない。(08.25現在)

こうなると性質の悪い言論封殺に近いな。

もしあと七日経ってもなんの連絡もないようであれば、もう申し訳ないが勝手にこのときの議論の内容についてもっと具体的に詳しく書くことにする。

それが最初の(会う前の)時点での条件だからだ。

2007年8月7日火曜日

070807 2006年放送の番組より

くどいようだが、これが昨年末に放送になった「ビートたけしの超常現象(秘)スペシャル2006」という番組で、ジュセリーノの予言のパートでオンエアされたV(ビデオ)の中の2コマである。

ジュセリーノはインタビューの中で自分が阪神淡路大震災を夢で予知して、それを「日本の政府関係者」に対して警告の手紙として送った、と語っている。

追補のような形で「…91年から94年までの間に4回日本政府関係者に対して…」と語っている。

原著では、(出した年は不明だが)、この部分についてはっきりと「皇室、そして日本政府と日本大使館」となっているし、ブラジルの新聞でのインタビューでもジュセリーノははっきりとそう答えている。(註1)

たま出版の本(103ページ)では「1979年に皇室(昭和天皇)に航空便で送った」と記されている。

その手紙の内容だが
前書きの後のメッセージで、まず「私はあなたが一九八九年に病が悪化し、そしておそらく死亡されるのを見ます」とある。この予知どおり、昭和天皇は一九八九年一月七日に崩御されている。
となっているのである。(同書第三版103ページ)

こうして記事にするためにとはいえ読んでいるだけでやりようのない怒りがこみあげてくるような無神経な記述である。

つづいて
二番目のメッセージとして「私の古い夢で、一九九五年に日本の神戸で大きな地震が起き、五千人以上の人が亡くなるのを見ています」と記されている。つまり一九七九年以前にこの地震の予知を受けていたようだ。(同第三版同ページ)

(VANさんからの情報)

これを見比べると、テレビで流されたインタビューと「たまの本」の記載、どちらか一方あるいは両方とも若干「事実」とは異なるということにもなる。

しかし問題なのはそういうことではない。それが、つまり手紙を送ったという相手が日本国の天皇だからといってこんなことを言うのでもないのだが、つくづくジュセリーノという人間には通常の人間としてのモラルであるとか常識がない人間であるということにあきれてしまう。これでは性質の悪い不幸の手紙を送ったことを自慢している子供とやっていることは同じである。

もちろんこんなことが事実である可能性はゼロに近いが、単なる彼のつくり話だとしてもやっていることは非常識なのである。それだけではとどまらない。これを非常識で不謹慎だと思わない人間も非常識と断罪されてもしかたがないのではないか。

というか「たま出版」の人間もこんなことをしているジュセリーノという人物に対してなんの一片の疑念も抱かなかったというのであろうか。

たとえばこれが普通の意味でごく一般的な出版社で行なう編集という作業というものを思い浮かべた場合には、まずこの部分の事実関係を徹底的に洗い出して、事実関係というもの、つまりまずは1979年(以降)にジュセリーノが出したという手紙は本当に現存したのであるかとかを追求するはずだ。

そしてそれが出されたのが1979年のことなのか1991年なのかということも明らかにする必要があるだろう。

そしてそれは(日本に住んでいる)日本人であるのならばさほど難しいことではないはずなのだが。(もし本当にその手順がわからないというのならば聞きに来ればいい。教えてあげよう。)

で、もしそれが確認できなければ、このようなものは結局は「紛い物」であるし、自分の責任においてそのような本は出版はしてはならないはずなのだが。

それがないのならば単なるホラ話である。しかもこのようなホラ話ででさえ傷つく人間は多数いるのである。どれだけの数の人が12年経った今でもPTSDで苦しんでいると思っているのだ。

テレビ朝日というテレビ局はそんなところにまでズケズケと踏み込むような無神経なVづくりをしているのである。あるいはそのテレビ朝日は、そういう無神経で嘘90%の可能性の高い記述で占められている「たま出版」という出版社が出した本の宣伝を行なっているのである。

齢六十過ぎの人物に向けてこんなことを諭すというのも気が引けるのだが。

嘘で人を苦しめたり不安にするようなことは許されてはいけないのである。絶対に。
前にも一度書いたことだが、これではまるで言葉によるテロになってしまうからだ。



註1 「エマ」さんという方からの情報による

2007年8月4日土曜日

070804 0301の追記の部分

ジュセリーノの予言の嘘 6 ネットで予言の流布をする人たち(2)
http://blog.livedoor.jp/akgoodco1224/archives/919739.html


世の中にはわけのわからない人間というのはなんぼでもおるわなぁ、というようなことをつくづく感じさせられたこととなった。

ジュセリーノの予言というものを肯定的に捉えてそれを世の中に広めることに一生懸命な人たちが確実に存在するのだということを教えられたからである。

別にこのような滅亡の予言というものはジュセリーノの予言だけではない。昔からいっぱいあったし今でもいくつもある。「アセンション」であるとか「波動」もそうなのであろう。「このままでは人類は滅亡するのは必至だから今からそれに備えて自分自身の変革をしなければならないと訴える「波動」もまたやはり滅亡の予言のひとつと捉えるべきなのである。(基礎部分がキリスト教からの借用であるから当然といえば当然である)

そしてこれからも同じような滅亡の予言を口にするものは後を絶たないことであろう。その形がかわるだけで本質は変わらない。そういうことなのであると思っている。

また、実際に「滅亡の予言とは心の癒しである」というようなことをメールなどで書いてくる人たちもあとを絶たないようであるがこれだって実はものすごく迷惑な話なのである。

さて、その中でひとつだけメールを紹介する。以前(このブログがジュセリーノの予言というものに特化するよりもずっと前のことだ)何度かメールを寄越した人である。

彼自身はジュセリーノに対してはものすごく醒めた目でみている。ある意味滅亡の予言のプロ(笑)であるからそういうものを見る目は厳しいということであろう。はっきりとあれはニセモノだと言い切っている。そんなもの(一見しただけで嘘が見破られるような浅はかな予言)では役に立たないということらしい。

(前略)社会不適合の烙印を押された人間または勝手に自分で自分にそのような決め付けをとったものにとってノストラダムスのような滅亡の予言は快いものだしそういう未来を夢想することで自分の心の均衡と平成を保つことができるというのは自分の中では紛れもない事実なので誰もそれを奪う自由はないということです。わたしはそのような予言にもって毎日をやっと生き長らえているといってもいい。(中略)でもそんな自分にはジュセリーノ予言はなんの癒しにもならないしそれは彼の的中した予言がその鮮やかさがうそ臭くみえてしまうというところにある。(中略)嘘はいけないのです。嘘予言は!嘘の予言は癒しにはならない。喉につかえるトゲのようなものだ。自分がかまたさんにこのようなお手紙をするというのも面妖なことだが(中略)私はこの件に関しては貴殿のブログ活動を支持しています。(後略)



滅亡の予言というものが人に生きてゆく希望を与えるというのはおかしなはなしである。なにかが大きなところで間違っているとしかいいようがない。そう思う。

まあ大前提がそうだとしてもだ、たとえばそれ(滅亡の予言が希望になるということ)が本当だとしても、その予言が嘘で塗り固められていたりしてはいけないだろうし、そういうものを塗布して誤魔化して嘘の部分をないことにして世間に広めるというのはもっともっと人の心を救わないような、犯罪的な行為なのである。

それに、もし救いを求めるというのであればそれはなにも「ジュセリーノの予言」でなくてもよいということになる。「他の滅亡の予言」でも構わないはずだ。というよりもはっきり言えばそのメールを寄越した彼みたいに、嘘に気がついた時点でジュセリーノ予言というものを(自分の心の均衡維持のために)消し去りたいと願うという心の動きのほうがそれでも理にはかなっているということはいえるのかもしれない。なんとなくだが、そう思っちゃったのだ。シンパシーというよりも論理的というか流れ的にだが。

しかし、こうまで(予言としては出来が悪い※)ジュセリーノの予言にすがる人が多いということは、やはり「予言の素人」ばかりが増えてきたということなのであろうか。

これもまた自分が嘆いたりすることではないのであるが。

※「ジュセリーノの外れた過去の予言というものは、はっきりいってただのゴミのようなものだ」という上記の人物の発言があった。これを聞いて、そこにいるジュセリーノの予言というものを信じているという人、あるいは「たま出版」の人たちはその彼にどう反論をするのであろう。聞いてみたいものである。立場は違うが。

2007年8月3日金曜日

070803 0427の追記部分

このブログ、結構追記とか修正が多い。
このブログをよく読んでいる人でもそのことを知らずにいるという人も多いのだろう。

「たまたま以前の記事を見てみたら文章の量が三倍以上になっていたのでちょっとビックリしました。しかもそれがものすごくとてもためになるようなことだったので損をしたような気になってます。もしこのような追記があった場合には最新の記事でもリンクするとかして告知してください。(「げんまい」さんよりのメール)


今まではちょっとした大きなトラブルに見舞われたり、時間に追われるようにして記事にしてきたのでそういうサービスまでは手が回らず後回しにしてきたが、反応のよかった「追記」については新たにこれから抜き出して独立した記事にすることにした。

ジュセリーノ予言の真実 0427 その2 津波(津浪)に関すること

http://blog.livedoor.jp/akgoodco1224/archives/954187.html

※追記
「津波」と「津浪」がごちゃごちゃしていてこんがらがるので統一すれば?というメールとかが結構あった。自分としては使い分けているつもりであったがこの記事ではその正しい使い分けが出来ていなかった。多分ものすごく怒っていたからだと思う。すいませんでした。訂正しておきます。

誰に対して怒っていたかといえば、もちろんこういう嘘の予言を撒き散らしている連中にだ。

もちろん、正しくは「津波」なのであるが、「30メートル級の津波」などと書いているのでそれは「津波」じゃなくて「津浪」だろうというつっこみということでここでは「津浪」を連呼していた。

「津波」とはなにか? 予言として「津波」という言葉を使っている人にはこの質問に対して正しく答えられる人はあまり、いや殆どいないだろう。だから平気な顔して「30メートルの津波」などと書けるのであろう。そういう人には「30メートル級の津波」などという言葉(たとえ戯言の予言もどきだとしても)は使ってはほしくないものだ。

あなたがたが言いたいのは、それは「津波」ではなくて「津浪」だろ?ということだ。

「津波」とは何か? 一言で言えば地震や(海底)火山の噴火など地殻の変動(断層活動など)で生じた(噴出した)エネルギーが空気中に(音や爆風となって)開放されずに、海水であるとか河水に伝わったもの、あるいは伝わる現象のことである(稀に隕石の衝突によって生じる津波もあることはあるのだがここは除外して考えるとする)。

仮にそのエネルギーが開放される方向が塞がっていなければだが、そのエネルギーは合力となって波紋状に周囲に広がってゆく。仮に真横から見ればそれは半球状に広がってゆく(あくまでもモデル的なケースの場合だが)のである。

したがって(という言い方もおかしいのだが)仮にそのエネルギーによって海面が30メートル持ち上がったとしても、それがそのまま30メートルの高さを保ったまま広がってゆくということではない。位置エネルギーが運動エネルギーに変わるということは高低差が小さくなるということだからだ。

だから「30メートルの津波」という言い方はおかしいのである。どこで30メートルになるかが問題だからだ。もし岸壁などで波頭が地上(海抜)より30メートルも上になるという意味ならばそれは「津波」ではなくて「30メートルの津浪」でしょ?ということを言いたいのである。

だからそういう「30メートルのつなみが~」とか書いていたり言っていたりする人がいたら鼻でせせら笑うのが正しい態度なのである。

問題はどの場所でどのくらいの波となって海岸や河岸、湖岸に届き、どのくらい潮(水)位が上がるかのほうである。

それに、何度も繰り返すようだが、たとえ30メートルでなくても、その10分の1の3メートルの波が押し寄せてきても津波が津波である以上それは恐るべき力を持っている。ただの「波」ではないからだ。

通常、海岸・湖岸などに寄せて引いてを繰り返している「波」とは性質も持っているエネルギーもケタ外れに違うのが津波というものだからだ。

そういう現実というものを観る目を持たずして「30メートルのつなみ」などと言っている連中など、はっきり言うが私に言わせばただの「嘘つき」の亜種である。

「科学バカ」には罪はないが、「科学知識のないただの馬鹿」が科学を語るというのは時として有罪に等しい。自分が「ニラサワ的な発言」に対して単に笑ってやりすごしたりできないというのはこういう部分にある。「そんなホラ話で人をギョッとさせたり、不安にさせたりする」というのは決して許されないことだからだ。

そういえば昔ニラサワ氏がテレビで「精神的なエネルギーというか念を送ることで雲(積乱雲というような限定ではなく雲全般)の形を自由自在に変えることが出来る(人がいる)」と口にして、スタジオにいた学者達が大爆笑になったことがあった。

きっとニラサワ氏は何故学者全員が大爆笑になったか今でもわからないのであろう(最近も同じようなことを言っているからだ)。
カワイソウな人ではある。

答え:雲にはもともと大きさとか形というものがない。大気中の水蒸気の集まりの濃い部分が光を屈折させてそこにそういう形のものがあるかのように見えているだけの現象だからである。「雲の形がかわる」ということはその水蒸気が、そこに流れている風であるとか上からの太陽の光、あるいは地表などで発生した熱などの影響を受けているということであるから、自由自在に操って形を変えることが出来るということはありえないのだ。雲が雲としてそういう形に見えるということは太陽の光というものが大きく作用している。でなければ月の出ていない闇夜になると「その雲を透して星の光が見えることもある」ということが説明できなくなるではないか。昼間見える雲というものは様様な要素によってそこにあるように見えているに過ぎないのである。雲の「大きさ」は、つまるところは周囲との対比でもってなんとなく「ある」といってもいいくらいのものでしかない。通常我々が「雲の形」と言っているものは、ただ単にこちら側(下から見上げたときの)現象でしかないのだ。

無茶な例えかもしれないが地上の人間の目にすることができる「雲の形」というものは「テレビに写った画像と同じようなもの」なのである。「現象」であるという意味でだ。

だから「テレビの画像に念を送ってその形を変えることができる」と主張している人がいたらどう思うかということを考えてみればいいのである。馬鹿でしょう、それは。

それと同じ事なのだ。「念力で雲の形を変えることができる」と主張するということは。要するに「そう見えてしまう」というのは、パフォーマーと見る人間による「共同幻想」という作業でしかないのである。

しかも、その雲の形を自由に変えることの出来る人というのは、ふりそそぐ太陽の光さえも自由に操れると言っているのも同じことにもなるのである。そんな奴はいないだろ、いくらなんでも。

ニラサワ氏が嘲笑の対象となってしまうのは、こういうどちらかというとただの「お話」として楽しめばいいような事に「精神的なエネルギー」であるとか「検知器で計測された事実である」とか余計なものをくっつけて持ち出して来て、自分の話に「(他の人とは違うのだという)箔」をつけようとしてしまうからだだろう。

いや、素人相手にこのような与太話を披露するのはまだかまわないとしても(それだって許されることじゃないぞ)、いくらなんでも本物の物理学者や気象学の研究者に向かって「いつもと同じ感じ」でそのようなホラ話を語ってしまうから、その無謀さと無防備さが笑われてしまうのである。

あるいは「物理学の常識を覆すような事実が次々と出て来ている」とやたら挑戦的なことを口走るので「攻撃(口撃)の対象にされる」のであり、結果自分が恥をかくような目に遭うのであるが。

まあそれが自分の意志であるのならばそれでもいいとしてだ。問題は「オカルティズム」というものをただ単に自分の商売道具としか考えておらずに、自分の出版社から出た本を売るためだけにこういう浅はかなことを喋りまくるとどうなるか。

「仲間」というか「同士」からも疎まれて孤立するだけなのである。かつては「恋人同士」とも揶揄されていたコンノケンイチ氏がニラサワ氏としだいに距離を置くようになったのは何故なのか。

誰だって自分とは関係のない舌禍とは関わりたくはないであろう。そういうものだ。

結果自分の首を締めるようなことをしているのである、この人は。そのことにこの人はまだ気がついていない。いやもう今さら気づいても遅いのかもしれないが。

2007年8月2日木曜日

070802 末松ブログ その2

今メールの数でみた場合、一番反響が大きいのは末松義規衆院議員のブログの件だと思われる。コメントも実数ははっきりとは掴んではいないが多分そうだと思う。

皆怒っている、でなければ馬鹿にしている。そのどっちかだ。

まだ当の末松議員はブログでは沈黙を守ったままである。

それが怒りを倍増させているのは間違いのないことだろう。

中には「なんとかして下さい」みたいなメールが来ているのだが。

普通逆だろう(笑)なんかあったときには国会議員に対して「なんとかしてください」と陳情するのが普通であって、一般のブロガーである自分に向かって「なんとかして下さい」と言われてもなぁ。

だからこうしてここでそのことについて取り上げて書くしか方法はないんだが。

でなければ、やはりここは別の党の衆院議員にクチって動いてもらうとかか。

となるとやはり自民党の議員か。逆にこの時期はそういうことはやりたがらないかもしれないが。

もしそういうことをやってくれそうな自民党の議員というとやはりあの人しか思い浮かばない。永田議員の偽メールの時も真っ先にその信憑性に疑いがあることをテレビで吠えまくっていたあの方である。

そう平沢勝栄衆院議員である。

自分はやりたくないけれども、もしこの末松議員のブログの件で怒っているという人がいたらのなら、この自分にメールで文句を垂れるよりも平沢勝栄議員にメールするとか直接陳情するとかしたほうがずっとずっと効果的だと思うのだが。

自分はそれよりも末松議員に対してはジュセリーノが出したと言っているその日本政府への警告の手紙というものについて徹底的に国会の場で追求してもらいたいと思っている人間なのであるが。

そっちの方がいろんな意味で面白いし。不謹慎だけれども。

もし彼(末松義規)が本当にあの本というものを読んで、そして書いてあることが事実であると確信していればであるが。

そうでなければ一刻もはやいうちに「お騒がせしまして申し訳ありませんでした」と素直に頭を下げて謝ることだと思う。

こう見えても自分はまだ彼の書いたことに関してはそんなにも怒ってはいない。

「迷惑を蒙っている」ということは確かにいえるのだけれども、だからといって自分のことを被害者だとかちっとも思ってもいない。

これが堪えられなければ自分がブログを止めればいいだけの話である。しかし自分はそんなことでこのブログを止めたり辞めたりするつもりはまったくない。

こういうようなこともあるであろうとは覚悟の上ではじめたことだし。

しかし現役の国会議員が書いたことで自分の身の上にこのようなことが起きるとはちっとも予想していなかった。それだけである。

自分は、ネットの世界では例え国会議員であろうが王侯貴族であろうとも立場は対等なのだと思っている。それがブログというものであろう。

こういう馬鹿なことをしでかすのは別に議員だから許されるとか逆に許されないとかそういうことも思ってもいない。ただその影響力の差、違いというものは正直まざまざと感じてはいるが。

で、これは返す刀で言っておくけれども、その末松議員のブログのコメント欄に「死ね」とか意味のない罵詈雑言を書き込む人間に対しても自分は困ったもんだという気持ちをもっている。

もちろん自分もそういうことをされている「被害者の立場の人間」だからである。

ジュセリーノの予言というものに対して真っ向「ニセモノである」と断言したりしてもそういう矢面に立たされているという部分はあるのである。

でも自分は沈黙はしない。書きつづけるだけである。そこは彼とは違うと誇れるところなのであるが。

U2か。ボノ・ヴォックスか。(笑)