2007年8月4日土曜日

070804 0301の追記の部分

ジュセリーノの予言の嘘 6 ネットで予言の流布をする人たち(2)
http://blog.livedoor.jp/akgoodco1224/archives/919739.html


世の中にはわけのわからない人間というのはなんぼでもおるわなぁ、というようなことをつくづく感じさせられたこととなった。

ジュセリーノの予言というものを肯定的に捉えてそれを世の中に広めることに一生懸命な人たちが確実に存在するのだということを教えられたからである。

別にこのような滅亡の予言というものはジュセリーノの予言だけではない。昔からいっぱいあったし今でもいくつもある。「アセンション」であるとか「波動」もそうなのであろう。「このままでは人類は滅亡するのは必至だから今からそれに備えて自分自身の変革をしなければならないと訴える「波動」もまたやはり滅亡の予言のひとつと捉えるべきなのである。(基礎部分がキリスト教からの借用であるから当然といえば当然である)

そしてこれからも同じような滅亡の予言を口にするものは後を絶たないことであろう。その形がかわるだけで本質は変わらない。そういうことなのであると思っている。

また、実際に「滅亡の予言とは心の癒しである」というようなことをメールなどで書いてくる人たちもあとを絶たないようであるがこれだって実はものすごく迷惑な話なのである。

さて、その中でひとつだけメールを紹介する。以前(このブログがジュセリーノの予言というものに特化するよりもずっと前のことだ)何度かメールを寄越した人である。

彼自身はジュセリーノに対してはものすごく醒めた目でみている。ある意味滅亡の予言のプロ(笑)であるからそういうものを見る目は厳しいということであろう。はっきりとあれはニセモノだと言い切っている。そんなもの(一見しただけで嘘が見破られるような浅はかな予言)では役に立たないということらしい。

(前略)社会不適合の烙印を押された人間または勝手に自分で自分にそのような決め付けをとったものにとってノストラダムスのような滅亡の予言は快いものだしそういう未来を夢想することで自分の心の均衡と平成を保つことができるというのは自分の中では紛れもない事実なので誰もそれを奪う自由はないということです。わたしはそのような予言にもって毎日をやっと生き長らえているといってもいい。(中略)でもそんな自分にはジュセリーノ予言はなんの癒しにもならないしそれは彼の的中した予言がその鮮やかさがうそ臭くみえてしまうというところにある。(中略)嘘はいけないのです。嘘予言は!嘘の予言は癒しにはならない。喉につかえるトゲのようなものだ。自分がかまたさんにこのようなお手紙をするというのも面妖なことだが(中略)私はこの件に関しては貴殿のブログ活動を支持しています。(後略)



滅亡の予言というものが人に生きてゆく希望を与えるというのはおかしなはなしである。なにかが大きなところで間違っているとしかいいようがない。そう思う。

まあ大前提がそうだとしてもだ、たとえばそれ(滅亡の予言が希望になるということ)が本当だとしても、その予言が嘘で塗り固められていたりしてはいけないだろうし、そういうものを塗布して誤魔化して嘘の部分をないことにして世間に広めるというのはもっともっと人の心を救わないような、犯罪的な行為なのである。

それに、もし救いを求めるというのであればそれはなにも「ジュセリーノの予言」でなくてもよいということになる。「他の滅亡の予言」でも構わないはずだ。というよりもはっきり言えばそのメールを寄越した彼みたいに、嘘に気がついた時点でジュセリーノ予言というものを(自分の心の均衡維持のために)消し去りたいと願うという心の動きのほうがそれでも理にはかなっているということはいえるのかもしれない。なんとなくだが、そう思っちゃったのだ。シンパシーというよりも論理的というか流れ的にだが。

しかし、こうまで(予言としては出来が悪い※)ジュセリーノの予言にすがる人が多いということは、やはり「予言の素人」ばかりが増えてきたということなのであろうか。

これもまた自分が嘆いたりすることではないのであるが。

※「ジュセリーノの外れた過去の予言というものは、はっきりいってただのゴミのようなものだ」という上記の人物の発言があった。これを聞いて、そこにいるジュセリーノの予言というものを信じているという人、あるいは「たま出版」の人たちはその彼にどう反論をするのであろう。聞いてみたいものである。立場は違うが。