2007年8月28日火曜日

070828 0809の追記の部分

 
 
"http://blog.livedoor.jp/akgoodco1224/archives/1007289.html"肯定派の人との遭遇 その3</a>
http://blog.livedoor.jp/akgoodco1224/archives/1007289.html

タイトルで失敗した。うしろに「その3」とつけたために
<blockquote>その1とその2はいつ書いたのですか?</blockquote>
<blockquote>1と2が見当たりません</blockquote>
といったメールが結構来ている。
申し訳なかった。
1と2があってのそういう意味で「その3」なのではなく「第三種」という意味で「その3」とつけたのである。
もうおわかりだろう。「第三種接近遭遇」のパロディの意味でつけたタイトルだったのだこれは。
ストレートに「第三種肯定派との接近遭遇」というタイトルにしたかったのだが、それだとその会いに来た人のことをエイリアン扱いにしているという自分の不真面目な心性がまるわかりになるのでそれを避ける目的で婉曲にしてこのようなタイトルに直したのだ。
しかし大失敗であったが。
ただひたすらこのことに関しては「申し訳ない」と謝るしかない。
で、これから書くことはちと言い訳がましくなる。
まず、今まで自分はこのような肯定派の人たちとはもう何人も会っている。それこそ偶然みたいなものだが。そういう意味ではおそらくはこの記事に番号をふるとしたらだが、もし会った人の数で表わすとなるとおそらくは「その7」か「その8」くらいにはなるはずなのだ。
今までそのことに触れなかったのは相手の立場を考えてのことであった。相手の許可なくそのような会ったときのことを書くことはマナー違反だと考えてあえて記事にしなかった。
中にはあとからメールなどで「実はあの時は言わなかったが…」などとそれでも(彼/彼女)がジュセリーノの予言を肯定する理由などを幾つも書いて寄越した人もいたのだが、あえて言わせていただくが、それではダメなんである。絶対に。
だからそういう人たちがあとから書いて寄越したことに関しては一切無視させていただくしかなく、つまりはその実際に会った時のやりとりといったもの全てにも触れ難いということになってしまうのが残念なところでもあった。
今でも「お会いしましょう。ジュセリーノの予言が正しいか正しくないかについて徹底的に議論しましょう」みたいなメールを寄越す人もたまにいるけれども、これは予め言っておくことなのだけれども、ディベートというものは、一回こっきりで全てカタをつけてなんぼのものである。「答えられない」とか言い出すようではその時点で「負け」である。
あと、団交というか複数人数で来るというのも反則。
それと「会いに来い」みたいなものには一切応じられない。
そんなもの言わずもがなの常識だとばかり思っていたのだけれども、最近はこういう最低限のマナーというものさえ身についていない人が多いような気がする。
これもネットとかゲームの影響なのか。まるでこの世の中心が自分だというようなバーチャルなリアリティの世界から出られなくなっているという人間の数がやたら多くなっているというような気がするのだが。違うか。
もっとキツいことを言わせて頂く。
こと「ジュセリーノの予言」というものについてあれこれするという一点においてだが、あくまでこの一点についてのみについて言うのだが、その中心により近いところにいるのは、無記名で掲示板などに書き込んでいるような人ではなく、少なくとも記名で単独で自己責任で記事を書きつづけているこの自分(=かまた)のほうである。
だからそういうこと(自分と同じようなこと)をやっている人でなければ「会いに来い」というのは絶対に口から出てくるはずのない言葉のはずなのだ。
それが現実の世界のしきたりというかヒエラルヒーなのである。
いくらブログや掲示板などでジュセリーノにしても他の予言についてもだが、その信憑性について肯定的に語ってみても、無記名であるかぎりは現実のこの世界ではなんの意味も持たない。
もし仮に実名でそういうことをやっているという人がいて、その人が「会いにこい」と言うのであれば、それが無茶苦茶遠いところでなければだが自分は会いに行って議論するというのは吝かではないし、たとえそういうお互いに離れた場所だったとしても会う場所を「東京」にしてもいいというのであれば、お互い時間とかの都合をつけて会うという方法も有りなのではないかと思っている。というかそのくらいの「譲歩」ぐらいなら許容範囲であるということだ。
繰り返ししつこいくらいにこのことについては念を押しておくのだが、自分は(ジュセリーノ予言の)否定派の代表者という立場の人間ではない。
もしこの自分に会いにくる目的というものが、この自分のことを「代表者」と認識していたり、このブログを止めさせたりあるいは「肯定派に転向させる(笑)」というものなのだとしたら、その目的ははじめから大外れである。無駄なだけだ。
だったらメールのやりとりだけでことは済む。ネットの世界はどんな人間に対しても優しいというか寛容である。
たとえそれが無記名のものだとしてもその「発言」は内容によって判断されるし、どのすべてとも平等に扱われなければならない。
だから自分はこれまでも数多くの反対論者(つまりはジュセリーノ予言肯定派)に対してもメールを送りつづけている。

ていうかこの女性からはまだ返事が来ない。(08.28現在)
こうなると性質の悪い言論封殺に近い。
もしあと3日(9月1日まで)経ってもなんの連絡もないようであれば、もう申し訳ないが勝手にこのときの議論の内容についてもっと具体的に詳しく書くことにする。
それが最初の(会う前の)時点での条件だからだ。