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2010年8月23日月曜日
2010年7月30日金曜日
100730 ジュセリーノ、最後のあがき、かな? その2
それよりも疑問なのは「何故この時期に?」の方だろう。
これはもう4年も前、つまりこの日本で世にもヘンテコリンな「ジュセリーノブーム」の起きた2007年より前にブラジルで話題になったことだ。
確かにこれはジュセリーノにとって致命的な告発の第一弾であった。これが出てからブラジルでのジュセリーノの評価は著しく下がったのだから。
しかし、何故この時期にすでに沈静してしまったようなはるか昔に起きた自分のスキャンダルをジュセリーノは持ち出さなければならないのだろうか。そっちのほうが大きな疑問なのではないだろうか。
この謎をとくヒントはあった。
というか言われて自分も気がついたことなのだが、ジュセリーノがこのような形でHP上で自分に掛けられた疑惑の弁明というか反論をした直後には、必ずといっていいくらいにジュセリーノ自身にとって不利な出来事があったり、あるいは裁判が起こされたり判決が出るのである。
「VAN」さんという方が「これもそれなのではないだろうか」というようなことを書いてきている。
要するに、ジュセリーノはこれから世に出るだろう自分にとって不利なニュースに備えて先手を打って、このような反論というか弁明を掲載しているのではないのかということなのだが。
ではそのジュセリーノにとって不利なニュースとはなんなのか。それは自分もあらかた想像はつく。なにしろブラジルよりもこの日本で、もっと言えばこの自分にも関わってくる出来事だからだ。(つづく)
これはもう4年も前、つまりこの日本で世にもヘンテコリンな「ジュセリーノブーム」の起きた2007年より前にブラジルで話題になったことだ。
確かにこれはジュセリーノにとって致命的な告発の第一弾であった。これが出てからブラジルでのジュセリーノの評価は著しく下がったのだから。
しかし、何故この時期にすでに沈静してしまったようなはるか昔に起きた自分のスキャンダルをジュセリーノは持ち出さなければならないのだろうか。そっちのほうが大きな疑問なのではないだろうか。
この謎をとくヒントはあった。
というか言われて自分も気がついたことなのだが、ジュセリーノがこのような形でHP上で自分に掛けられた疑惑の弁明というか反論をした直後には、必ずといっていいくらいにジュセリーノ自身にとって不利な出来事があったり、あるいは裁判が起こされたり判決が出るのである。
「VAN」さんという方が「これもそれなのではないだろうか」というようなことを書いてきている。
要するに、ジュセリーノはこれから世に出るだろう自分にとって不利なニュースに備えて先手を打って、このような反論というか弁明を掲載しているのではないのかということなのだが。
ではそのジュセリーノにとって不利なニュースとはなんなのか。それは自分もあらかた想像はつく。なにしろブラジルよりもこの日本で、もっと言えばこの自分にも関わってくる出来事だからだ。(つづく)
2010年7月25日日曜日
100725 ジュセリーノ、最後のあがき、かな?
ジュセリーノがHPで掲示してある画像と書いていることについてのお問い合わせが多数来ている。[註]
http://www.jucelinodaluz.com.br/IMG/aviso8.jpg
自分もこのジュセリーノの表明の意味はアバウトにしかわからないが、どうやら、例の「公証所届け済み登録文書にあとから付けたしをした疑惑についての言い訳というか反論を掲載しているようだ。
手書きの個所だけならば意味はわかった。
Mentira tem perna carta!!!
Se ver alguem mostrando isso denuncie a policia
Foi alterado do selo verdadeiro
画像の下の個所に捏造がある。
本物のシールが偽造されているのが認められれば
刑事告訴の対象となる。
むしろわからないのは、誰が誰に対して言っているのかのほうだろう。
どうやら、ジュセリーノはこのカード(もともと自分のHPに掲載していた画像である)自分を貶めるためら手が加えられて捏造されていると言っているのだ。
笑ってはいけない。
自分もこの画像の存在を最初に教えられたときには、あまりの抜作っぷりに逆にドン引きした記憶がある。
自分が教えられたのは、ジュセリーノの公証書届けの文章にあとから手を加えて(的中した予言文書だとして)いることを告発したブログの存在だった。
そのブログの画像を再びここに掲載しよう。[註2]
さて、皆さんにはこのことについてもう一度深く考えて頂きたいと思う。
何故ジュセリーノがこんなことをする必要があるのか。
結論から言えば、これはジュセリーノ自身が自らの書類の偽造(あとからの付けたし)を認めたことにほかならないことに直結するのだ。
もしジュセリーノが自らの疑惑を払拭したいのであれば、元々HPに公表した文書そのものを再び掲載すればいいだけだろう。
それが出来ないのは何故なのか。
単純なはなしで、そんなものははじめから存在しないからだろう。
「捏造してある」とジュセリーノが言っているこの画像こそがジュセリーノがHPで最初に掲載したものとまったく同じものなのだ。
それ以外の理由は考えられないだろう。
(つづく)
[註1]メールで15通程度、コメントでもほぼ同数(10.07.25午前1時現在)
[註2]今ではもう存在していないブログのようで(ジュセリーノの弁護士が削除させたといわれていた)今このブログ記事はいくら探してもでてこない。
ジュセリーノのHPに載っている画像も、ほぼオリジナルと見られるものをブラジル在住の日系人の方からのメールに添付(URLの所在)するようなカタチで送っていただいた。
ちょっと今探してみたのだが見当たらないので古い記事を検索している最中である。
http://www.jucelinodaluz.com.br/IMG/aviso8.jpg
自分もこのジュセリーノの表明の意味はアバウトにしかわからないが、どうやら、例の「公証所届け済み登録文書にあとから付けたしをした疑惑についての言い訳というか反論を掲載しているようだ。
手書きの個所だけならば意味はわかった。
Mentira tem perna carta!!!
Se ver alguem mostrando isso denuncie a policia
Foi alterado do selo verdadeiro
画像の下の個所に捏造がある。
本物のシールが偽造されているのが認められれば
刑事告訴の対象となる。
むしろわからないのは、誰が誰に対して言っているのかのほうだろう。
どうやら、ジュセリーノはこのカード(もともと自分のHPに掲載していた画像である)自分を貶めるためら手が加えられて捏造されていると言っているのだ。
笑ってはいけない。
自分もこの画像の存在を最初に教えられたときには、あまりの抜作っぷりに逆にドン引きした記憶がある。
自分が教えられたのは、ジュセリーノの公証書届けの文章にあとから手を加えて(的中した予言文書だとして)いることを告発したブログの存在だった。
そのブログの画像を再びここに掲載しよう。[註2]
さて、皆さんにはこのことについてもう一度深く考えて頂きたいと思う。
何故ジュセリーノがこんなことをする必要があるのか。
結論から言えば、これはジュセリーノ自身が自らの書類の偽造(あとからの付けたし)を認めたことにほかならないことに直結するのだ。
もしジュセリーノが自らの疑惑を払拭したいのであれば、元々HPに公表した文書そのものを再び掲載すればいいだけだろう。
それが出来ないのは何故なのか。
単純なはなしで、そんなものははじめから存在しないからだろう。
「捏造してある」とジュセリーノが言っているこの画像こそがジュセリーノがHPで最初に掲載したものとまったく同じものなのだ。
それ以外の理由は考えられないだろう。
(つづく)
[註1]メールで15通程度、コメントでもほぼ同数(10.07.25午前1時現在)
[註2]今ではもう存在していないブログのようで(ジュセリーノの弁護士が削除させたといわれていた)今このブログ記事はいくら探してもでてこない。
ジュセリーノのHPに載っている画像も、ほぼオリジナルと見られるものをブラジル在住の日系人の方からのメールに添付(URLの所在)するようなカタチで送っていただいた。
ちょっと今探してみたのだが見当たらないので古い記事を検索している最中である。
2010年7月10日土曜日
100710 ジュセリーノ予言とワールドカップ(お笑い)3 タコ
これに関するコメントも非常に多い。そういう意味で取り上げておく。
スペイン初優勝、ドイツは3位=W杯サッカー「予言タコ」が予想
http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_spo&k=20100710025308a
まあ「当てた」とか「外した」とかの狭い観点からすればこのW杯の試合結果を当てたタコのほうがジュセリーノよりも数段上ということになる。
逆の言い方をすれば、ジュセリーノはタコ以下(の予知能力)となる。あくまでも結果からするとだが。
2ちゃんねるであるとか、各種電子掲示板には、このように「タコ以下のジュセリーノ」というタイトルで立てられたトピックであるとかスレッドがあふれかえっているようだ。
しかし、自分などはそういうネット上の喧騒とか揶揄は認めるものの、その中に入って一緒にジュセリーノを笑いものにしたいとは思わない。
なんでかといえば、それはここで書いているとおりで、ジュセリーノ予言がお笑いなのは結果が当たらないからではなくて、書類を偽造するなどして本物にみせかけてはいるが、ジュセリーノが出してくるその書類には「インチキ」の証拠があふれかえっているからだ。そっちのほうが数段「お笑い」でしょう。
まあ一方に「タコ」という人間でないものを置いて、その比較で「タコ以下のジュセリーノ」と揶揄したほうが絵面文字面的に数段インパクトがあるのはわかるけどね。
それとは別に「あのタコ占いにトリックはないのか?」とか「編集されているような感じが否めない」といった意見も自分のところには来ている。
もちろんその可能性は完全に否定はできないだろう。エサの入ったハコ(国旗が描かれている)の位置の関係でコントロールは可能かもしれない。
それと自分がふと思ったこととは、「みんなタコ類の学習能力をなめてはいないか」という疑念である。
驚かれる方もいるかもしれないが、タコの目、視覚の能力については非常に優れていていることは知られている。カタチの認識もだが、研究の結果で色の識別もしているということもわかってきている。
もしかするとだが、このタコのパウロ君が何のために水族館で飼われているのかについて考えると、この「いつもドイツ国旗の貼ってあるほうのハコを選ぶ」という行動もそれなりの学習の結果だとすれば、全然オカルトでもないし、さほどおかしなことには見えないんだが。
つまらないことを書いてしまったけれど。
スペイン初優勝、ドイツは3位=W杯サッカー「予言タコ」が予想
http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_spo&k=20100710025308a
まあ「当てた」とか「外した」とかの狭い観点からすればこのW杯の試合結果を当てたタコのほうがジュセリーノよりも数段上ということになる。
逆の言い方をすれば、ジュセリーノはタコ以下(の予知能力)となる。あくまでも結果からするとだが。
2ちゃんねるであるとか、各種電子掲示板には、このように「タコ以下のジュセリーノ」というタイトルで立てられたトピックであるとかスレッドがあふれかえっているようだ。
しかし、自分などはそういうネット上の喧騒とか揶揄は認めるものの、その中に入って一緒にジュセリーノを笑いものにしたいとは思わない。
なんでかといえば、それはここで書いているとおりで、ジュセリーノ予言がお笑いなのは結果が当たらないからではなくて、書類を偽造するなどして本物にみせかけてはいるが、ジュセリーノが出してくるその書類には「インチキ」の証拠があふれかえっているからだ。そっちのほうが数段「お笑い」でしょう。
まあ一方に「タコ」という人間でないものを置いて、その比較で「タコ以下のジュセリーノ」と揶揄したほうが絵面文字面的に数段インパクトがあるのはわかるけどね。
それとは別に「あのタコ占いにトリックはないのか?」とか「編集されているような感じが否めない」といった意見も自分のところには来ている。
もちろんその可能性は完全に否定はできないだろう。エサの入ったハコ(国旗が描かれている)の位置の関係でコントロールは可能かもしれない。
それと自分がふと思ったこととは、「みんなタコ類の学習能力をなめてはいないか」という疑念である。
驚かれる方もいるかもしれないが、タコの目、視覚の能力については非常に優れていていることは知られている。カタチの認識もだが、研究の結果で色の識別もしているということもわかってきている。
もしかするとだが、このタコのパウロ君が何のために水族館で飼われているのかについて考えると、この「いつもドイツ国旗の貼ってあるほうのハコを選ぶ」という行動もそれなりの学習の結果だとすれば、全然オカルトでもないし、さほどおかしなことには見えないんだが。
つまらないことを書いてしまったけれど。
2010年7月8日木曜日
100708 ジュセリーノ予言とワールドカップ(お笑い)2
ワールドカップ関係のコメントが多数来ている。
つづきとして書き足そうとも思ったが、読みにくくなるだけなので新たに「2」にしてみることにした。
さて、本題。
ドイツが負けた。これでジュセリーノのワールドカップ関係の予言、完全に全滅である。もうどんな言い訳も通用はしないだろう。
まあこんなことはどうでもいい。もし、仮にドイツが優勝して「ジュセリーノの予言は当たった」とか言いだすことが、実は恐ろしく間抜けだということにまだ気づかない人がこの日本にいることは問題だとは思うんだが。
いうまでもない。たま出版のニラサワという人のことであり、彼の周辺にいるお間抜けオカルトさんたちのことだ。[註]
で、彼らの御本尊であるジュセリーノは自分の(ワールドカップ)予言をどのように受け止めているのかというと HPを見るとこのようなことをやっている。
なんと予言として名前を挙げていた4カ国のうち、4強に残ったドイツ以外のフランスイタリア ブラジルの名前を黒く潰しているのである。
しかも、いいわけがましく「1970年の手紙には続きがあって、そこでは可能性のある結果のひとつとして ドイツ ウルグアイ オランダ スペイン の名前を書いていたんだよ」みたいなことを言っているのだ。
完全な後だしである。
いったいなにをしたいんだジュセリーノは(笑)
[註]蜜柑夢さんからの情報。たま出版の掲示板より
返信者:玄
ニラサワさま
ジュセリーノがドイツの優勝を予言している箇所が本に見つからないのですが、お手数ですが、何ページの載っているか教えて頂けませんでしょうか?
2010/07/07(Wed) 09:53 [14629]
返信者:ニラサワ
これは「続・未来からの警告」304ページにある2010年ワールドカップ最終順位のところです。ブラジルの監督が条件になっていて、それが違ったので、二位のドイツではないかということでした。しかしスペインが勝ち進みましたから、予知通りにならないようです。
2010/07/08(Thu) 10:51 [14638]
まあこの「玄」という人はおそらくはある種の確信犯でもってこのような質問を立てているのだろうと見ている、自分は。
それに対するニラサワの返信を見て、自分は複雑な心境になったね。だってここで自分が推測したことがそのまま書かれているんだもの。
さて、ニラサワは『続・未来からの警告』にはジュセリーノが「ドイツ優勝とは書いていない」ことは認めているのだろうか。これを見るとそうは読めない。
そしてそれでもニラサワは「ドイツ優勝というのは自分の推測でしかない」ということは認めたくないようだ。
こういうのを、世間ではボケとか老醜を晒すというのだが。
では、ニラサワ(と彼の周辺にいる人たち)の陥っている思考停止について簡単に説明しよう。
トーナメントとは何かということだ。トーナメントで勝ちあがり同士が一位を競う場合、たとえば「ブラジルの優勝がない」ということがそのまま「二位のドイツが繰り上がり優勝する」ということにはならない。ドイツ以外のどこにでもブラジル敗退を受けての繰り上がりの優勝の可能性はある。そのことが抜け落ちているのだ。
もし、ニラサワ理論がありうるとすれば、それは両者(ドイツとブラジル)が決勝で直接対決した場合のみとなる。
わかりますよね。
ブラジルの立場からするとわかりやすいか。
たとえば、ブラジルが優勝できない(しかし四強には残る)そしてドイツがかわりに優勝ということは、四強にブラジルが残って尚且つ一位がドイツになるのは決勝で両者が顔を合わせた場合のみである。
準決勝でブラジルがほかの国(たとえばイングランドとかフランス)に負けた場合は(予言では)本来二位になるはずのドイツが優勝、にはならないのだ。
だからブラジルが4強にも残れなかった時点で「二位のドイツが繰り上がり優勝」というニラサワの論理は破綻しているということになる。ではニラサワが「(ブラジルが優勝できないからそのかわりに)ドイツ優勝」と書いたのはいつか。ブラジルがオランダに敗退した2日以降のことだから、これはこれでさらに「おかしなことを言い出した」ということにもなる。
まあせめて「ブラジルのかわりに(ブラジルを破った)オランダが優勝」ぐらいにしておけば第二の論理の破綻くらいは免れただろうが。
しかしそれではジュセリーノの予言とはまったく関係がないということでもあるしな。
ちょっと長くなったがそういうことです。
つづきとして書き足そうとも思ったが、読みにくくなるだけなので新たに「2」にしてみることにした。
さて、本題。
ドイツが負けた。これでジュセリーノのワールドカップ関係の予言、完全に全滅である。もうどんな言い訳も通用はしないだろう。
まあこんなことはどうでもいい。もし、仮にドイツが優勝して「ジュセリーノの予言は当たった」とか言いだすことが、実は恐ろしく間抜けだということにまだ気づかない人がこの日本にいることは問題だとは思うんだが。
いうまでもない。たま出版のニラサワという人のことであり、彼の周辺にいるお間抜けオカルトさんたちのことだ。[註]
で、彼らの御本尊であるジュセリーノは自分の(ワールドカップ)予言をどのように受け止めているのかというと HPを見るとこのようなことをやっている。
なんと予言として名前を挙げていた4カ国のうち、4強に残ったドイツ以外のフランスイタリア ブラジルの名前を黒く潰しているのである。
しかも、いいわけがましく「1970年の手紙には続きがあって、そこでは可能性のある結果のひとつとして ドイツ ウルグアイ オランダ スペイン の名前を書いていたんだよ」みたいなことを言っているのだ。
完全な後だしである。
いったいなにをしたいんだジュセリーノは(笑)
[註]蜜柑夢さんからの情報。たま出版の掲示板より
返信者:玄
ニラサワさま
ジュセリーノがドイツの優勝を予言している箇所が本に見つからないのですが、お手数ですが、何ページの載っているか教えて頂けませんでしょうか?
2010/07/07(Wed) 09:53 [14629]
返信者:ニラサワ
これは「続・未来からの警告」304ページにある2010年ワールドカップ最終順位のところです。ブラジルの監督が条件になっていて、それが違ったので、二位のドイツではないかということでした。しかしスペインが勝ち進みましたから、予知通りにならないようです。
2010/07/08(Thu) 10:51 [14638]
まあこの「玄」という人はおそらくはある種の確信犯でもってこのような質問を立てているのだろうと見ている、自分は。
それに対するニラサワの返信を見て、自分は複雑な心境になったね。だってここで自分が推測したことがそのまま書かれているんだもの。
さて、ニラサワは『続・未来からの警告』にはジュセリーノが「ドイツ優勝とは書いていない」ことは認めているのだろうか。これを見るとそうは読めない。
そしてそれでもニラサワは「ドイツ優勝というのは自分の推測でしかない」ということは認めたくないようだ。
こういうのを、世間ではボケとか老醜を晒すというのだが。
では、ニラサワ(と彼の周辺にいる人たち)の陥っている思考停止について簡単に説明しよう。
トーナメントとは何かということだ。トーナメントで勝ちあがり同士が一位を競う場合、たとえば「ブラジルの優勝がない」ということがそのまま「二位のドイツが繰り上がり優勝する」ということにはならない。ドイツ以外のどこにでもブラジル敗退を受けての繰り上がりの優勝の可能性はある。そのことが抜け落ちているのだ。
もし、ニラサワ理論がありうるとすれば、それは両者(ドイツとブラジル)が決勝で直接対決した場合のみとなる。
わかりますよね。
ブラジルの立場からするとわかりやすいか。
たとえば、ブラジルが優勝できない(しかし四強には残る)そしてドイツがかわりに優勝ということは、四強にブラジルが残って尚且つ一位がドイツになるのは決勝で両者が顔を合わせた場合のみである。
準決勝でブラジルがほかの国(たとえばイングランドとかフランス)に負けた場合は(予言では)本来二位になるはずのドイツが優勝、にはならないのだ。
だからブラジルが4強にも残れなかった時点で「二位のドイツが繰り上がり優勝」というニラサワの論理は破綻しているということになる。ではニラサワが「(ブラジルが優勝できないからそのかわりに)ドイツ優勝」と書いたのはいつか。ブラジルがオランダに敗退した2日以降のことだから、これはこれでさらに「おかしなことを言い出した」ということにもなる。
まあせめて「ブラジルのかわりに(ブラジルを破った)オランダが優勝」ぐらいにしておけば第二の論理の破綻くらいは免れただろうが。
しかしそれではジュセリーノの予言とはまったく関係がないということでもあるしな。
ちょっと長くなったがそういうことです。
2010年6月27日日曜日
100627 ジュセリーノ予言とワールドカップ(お笑い)
ワールドカップ関連のメール・コメントがいくつか届いている。
ジュセリーノは現在行われている南アフリカ大会の結果を予知夢で得たものだとして
1位ブラジル2位ドイツ3位フランス4位イングランドと公表していた。
それがいつのまにか自身のHPで 1 GERMANY, 2 FRANCE , 3 ITALY; 4 BRAZIL に変更している。
どちらにしてもハズレであることに違いはないのだが。
まあそれはどうでもいい。
自分が笑ったのは、掲載されていた画像(手紙)のほうであった。
1970年、ジュセリーノがFIFAに送ったといっている手紙の画像である。[註1]
1974年大会からの上位国の名前がズラズラと書き並べてある。
何度も名前の出てくる「Allemagne」とはフランス語でドイツのこと。(ポルトガル語では『Alemanha』になる)
しかし、ワールドカップの歴史的にはこれは大間違いである。何故かというと1990年のイタリア大会まで、エントリーしていたのは東西ドイツの二ヶ国があったからだ。
もし、本当に1970年にジュセリーノ少年が予知夢でワールドカップの結果を予知夢で得たというのならば、絶対にここは「Allemagne de l'Ouest」(西ドイツ)であるとか「Allemagne de l'Est」(東ドイツ)のように書いていないのはおかしなことだ。
ほかにも1998年大会の三位には1970年当時まだユーゴから分離独立していないクロアチア(CROATIA)の名前があったりと、それだけで世界歴史の間違い探しクイズの様相を呈している。
これだけ挙げればもうはっきりとするだろう。
つまり、これもまた(やっぱり!)ジュセリーノが後から捏造したものだという何よりの証拠となってしまうのだ。
それにしても、ジュセリーノにはこういう単純なミスというか大ボケばかりかますよねぇ。
なにもそんなに笑わせてくれなくてもいいのにさ。
2010.06.26
[註1]HPに出してある手紙画像は計4枚(後日2枚追加して6枚になった)。これはその二枚目である。(フランス語で書かれた1970年FIFA宛のものと、1999年にドイツサッカー協会に対して送ったといっているものが2枚である)。
フランス語のほうだが、多少なりともフランス語の読める人間が見たら思わず噴き出したくなるような稚拙な間違いが非常に多い。まあジュセリーノはこれを「10歳の時に書いたもの」としているので、もし完璧なフランス語で書かれていたなら逆に引いてしまうか。でも10歳児のふりをして偽造の手紙を書いているジュセリーノの姿を想像してしまうと自分はもうダメだね。笑うしかないでしょう。
新たに追加されたドイツサッカー協会(DEUTSCHE FUSSBALL BUND)宛の二枚の手紙も一見してヘンだ。何人かの人からも指摘が来ている。
http://www.jucelinodaluz.com.br/IMG/federacao_alema.jpg
http://www.jucelinodaluz.com.br/IMG/federacao_alema2.jpg
「(前略)1970年の手紙よりも紙が(経年変化で)古びているではないか。誰が見てもおかしいとすぐわかるはず(後略)」(「TOTO」さん)
なるほど、確かに。
Till 1990, There were Two German countries. Both of west and east.
They says that 10years-old boy Jucelino sent the letter to FIFA at 1970.
But this letter looks like a recentlies, written by whom knows Two German countries will unite after years.
WHY? (what a kind of laughing it is!)
And CROATIA was independent of the United nations of Yugoslavia at 1990.
HaHaHa
【追記】
カラドさんという方、その他のかたから「(たま出版の)ニラサワ氏は掲示板でジュセリーノの予想はドイツ優勝だと発言しています。しかし、同氏がソースとしている未来からの警告IIを見ると2010年南ア大会の優勝国としてジュセリーノがあげたのはドイツではなくてブラジルになっています」というメールが届いている。
こういうはなしを耳にすると「相変わらず困ったじいさんやのう」という感じ。
ちなみにその掲示板におけるニラサワ(敬称略)の書込みだが
投稿者:ニラサワ
日本チームの今野選手がデンマーク戦当日に、遠藤選手が得点をあげる夢を見たといいます。その日、予知の通りフリーキックを得た遠藤選手は見事ゴールを決めました。
さて今日の対戦はどうなるのでしょう。
「続、未来からの警告」にある今年のWカップ勝者は、ドイツということになるようです。
一方、参議院選挙の行方について予想してほしいと週刊誌の取材を受けました。
日本がWカップの決勝トーナメントに残ると、浮動票が減るので、民主党が不利になると言っておきました。SPAにコメントが出ると思います。
それにしても15年前の政界再編時に弊社で出版した「ユートピア経済学」や「友愛主義宣言」の中に、「第三の道」など、総理のキーワードが既に書かれていることにいまさらながら驚きます。
2010/06/29(Tue) 11:27 [14591]
となっている。
このニラサワという人の困ったところは(いっぱいあるけれどね)なんといっても平気で嘘をつくこととまともな仕事をしないことだと思う。この掲示板の書込みにはそのふたつの悪いところがそのまま出ている。
『続・未来からの警告』という本のP304を見ると、ジュセリーノによる2010年サッカーWC南ア大会の予知というものが掲載されている。
ジュセリーノの警告の手紙というのは、ブラジルのサッカー協会に対してのもので、要するに、フェリペ監督(2002大会ブラジル優勝のときの監督)を復帰させないとドイツ大会(2006)も南ア大会も優勝できないぞと警告している体裁をとっている。
つまり、この本で紹介されているジュセリーノの2010年の予想とは、フィリペ監督復帰の場合の順位の予想だということになる。
それが「ブラジル優勝 二位ドイツ 三位フランス 四位イングランド」ということになる。
それ以外にジュセリーノがサッカーワールドカップの予知(ただの予想だが)について書かれている個所はない。
この本のどこを探ししても「今年のWカップ勝者は、ドイツということになるようです」と書かれたところはないのだ。
もしかして、ニラサワ(敬称略)は「ブラジルの監督はフィリペでないのでドイツが繰り上がり優勝」みたいな勝手な論理のすり替えをおこなったのかもしれないが。
しかし、仮にもニラサワという人は「続・未来からの警告」という本の監修者である。その監修者が自分が手がけた本の内容もよく省みずにこのような嘘を平気で吐くことに対しては批判されて指弾されるのもしかるべきことだと私は思う。
だから自分はここでニラサワという人に対して「もういい加減ジュセリーノについて発言するのはやめろ」と何度となく言っているのだが。(つづく)
2010.06.29
2
それと同じくらいに皆が疑問を呈しているのは
日本がWカップの決勝トーナメントに残ると、浮動票が減るので、民主党が不利になると言っておきました。の個所だった。
確かに一見すると実に不思議な論理である。「どういうことなのか説明してください」みたいなことを書いてきた人も何人かいるのだが、そんなのこの自分にわかるはずがない。それこそ「本人に訊けよ」としか言いようがない。
もっとも推測ならばいくらでも可能である。ある人は「風が吹けばオケ屋が儲かるみたいなものでおそらく何か論理の踊り場をツーステップくらい省略している」と書いてきている。そんな感じもしなくもない。
しかし、自分はこれはニラサワ(敬称略)のなにかの聞き違えというか勘違いがもとになっているような気がしてならない。
たとえば、投票日当日、雨が降るなど天気が悪くなったり、あるいはほかに投票行動の妨げになるような大きなイベントがあったりすると投票率が下がり、確固たる組織票を有している政党が有利になり、浮動票頼みの大政党が不利になるというようなことは言われる。また、参院選の投票日は実はワールドカップの決勝のある日でもある。実際に、もし日本がワールドカップで決勝に勝ち進むと参院選の投票率に大きく影響するだろうというような、杞憂というべきか恐るべき楽観論というべきなのかはよくわからないが、そのようなことを言っていたテレビ番組はあったようなのである。
もしかして、ニラサワはこれを聞き違いしたのではないだろうか。決勝と決勝トーナメントを聞き違えるとか。
まあ民主党が浮動票に支えられている政党なのかということについては単純にはいえないとは思うが。
まあでもここでこんなことをいくら書いてみても何の意味も持たないのは承知のうえである。とにかく、ニラサワという人の発言についていくら深く考えてもそれはムダなことだからだ。この人のこういう発言は単純に笑いものにするのがもっとも正しい対処法だろう。質問をうけた以上はいくばくかの義務もあるだろうということで自分は書いてみたのだけれども。
2010.06.30
3
案の定というのかなんというのか…
「ジュセリーノの予言は成就寸前。世界はそれを目撃するでしょう」とか「あなたもいい加減この事実を認めてジュセリーノさんに謝罪すべき」といったコメントが舞いこんできている状態である。
それと呼応しているかのようにして「2ちゃんねる」でジュセリーノ擁護派、信者としかいいようのない書込みがつづいているという。
ため息が出てくるわ。
この世には本当にアタマの悪い人間(日本人ってことだが)がいっぱいいるもんだなぁと。
そもそもジュセリーノの先行して公表された予言というものは非常に数が多い。
その中のほんのちょびっとだけがたまに当たったように見えてしまうだけで、外れたもののほうが、そうね大体だがその100倍くらいはある。
実はジュセリーノによるサッカーワールドカップの予言というものもブラジルで公表されたものだけでも5つぐらいのバージョンが確認されている。
2006年大会に関する予言にしても、最初にジュセリーノは「ブラジルである」としていたのを二転三転したあとで「イタリア」にして、それのことを「当たった」と言っているだけだった。
そのあとになってからジュセリーノがこのいくつかのあるワールドカップ予言の、ブラジルが優勝するかしないかの点で異なる二種類の予言を結びつけるために言い出したのが「監督がフェリペならば」の条件つきの予言だった。まあそういうことにしてしまったのである。
ジュセリーノがHPで公表しているFIFA宛の手紙というのも、よく見れば今までジュセリーノが思いつくままに公表していたワールドカップ関連の予言と見比べると矛盾だらけである。(最大のポカは西ドイツとすべきところをドイツにしたところだが)
おそらくは、これらの中のどれかでも当たればジュセリーノは自分の予言を当たったと言い出すつもりのようだ。というか、日本まだ根強くいるジュセリーノ信者たちはそのつもりなんだろうが。
だからここで念押ししておくが、ジュセリーノが「優勝はドイツ」としたのはHP上に公表した新しいものである。一昨々年(2007)テレビで言っていたブラジル優勝、一昨年(2008)に出た『続・未来からの警告』にあるものとはまったく別のものだということだ。これらをごちゃごちゃにして「ジュセリーノの予言は当たった」と騒ぐことぐらいニラサワチックで愚かなことはないのだ。
2010.07.01
ジュセリーノは現在行われている南アフリカ大会の結果を予知夢で得たものだとして
1位ブラジル2位ドイツ3位フランス4位イングランドと公表していた。
それがいつのまにか自身のHPで 1 GERMANY, 2 FRANCE , 3 ITALY; 4 BRAZIL に変更している。
どちらにしてもハズレであることに違いはないのだが。
まあそれはどうでもいい。
自分が笑ったのは、掲載されていた画像(手紙)のほうであった。
1970年、ジュセリーノがFIFAに送ったといっている手紙の画像である。[註1]
1974年大会からの上位国の名前がズラズラと書き並べてある。
何度も名前の出てくる「Allemagne」とはフランス語でドイツのこと。(ポルトガル語では『Alemanha』になる)
しかし、ワールドカップの歴史的にはこれは大間違いである。何故かというと1990年のイタリア大会まで、エントリーしていたのは東西ドイツの二ヶ国があったからだ。
もし、本当に1970年にジュセリーノ少年が予知夢でワールドカップの結果を予知夢で得たというのならば、絶対にここは「Allemagne de l'Ouest」(西ドイツ)であるとか「Allemagne de l'Est」(東ドイツ)のように書いていないのはおかしなことだ。
ほかにも1998年大会の三位には1970年当時まだユーゴから分離独立していないクロアチア(CROATIA)の名前があったりと、それだけで世界歴史の間違い探しクイズの様相を呈している。
これだけ挙げればもうはっきりとするだろう。
つまり、これもまた(やっぱり!)ジュセリーノが後から捏造したものだという何よりの証拠となってしまうのだ。
それにしても、ジュセリーノにはこういう単純なミスというか大ボケばかりかますよねぇ。
なにもそんなに笑わせてくれなくてもいいのにさ。
2010.06.26
[註1]HPに出してある手紙画像は計4枚(後日2枚追加して6枚になった)。これはその二枚目である。(フランス語で書かれた1970年FIFA宛のものと、1999年にドイツサッカー協会に対して送ったといっているものが2枚である)。
フランス語のほうだが、多少なりともフランス語の読める人間が見たら思わず噴き出したくなるような稚拙な間違いが非常に多い。まあジュセリーノはこれを「10歳の時に書いたもの」としているので、もし完璧なフランス語で書かれていたなら逆に引いてしまうか。でも10歳児のふりをして偽造の手紙を書いているジュセリーノの姿を想像してしまうと自分はもうダメだね。笑うしかないでしょう。
新たに追加されたドイツサッカー協会(DEUTSCHE FUSSBALL BUND)宛の二枚の手紙も一見してヘンだ。何人かの人からも指摘が来ている。
http://www.jucelinodaluz.com.br/IMG/federacao_alema.jpg
http://www.jucelinodaluz.com.br/IMG/federacao_alema2.jpg
「(前略)1970年の手紙よりも紙が(経年変化で)古びているではないか。誰が見てもおかしいとすぐわかるはず(後略)」(「TOTO」さん)
なるほど、確かに。
Till 1990, There were Two German countries. Both of west and east.
They says that 10years-old boy Jucelino sent the letter to FIFA at 1970.
But this letter looks like a recentlies, written by whom knows Two German countries will unite after years.
WHY? (what a kind of laughing it is!)
And CROATIA was independent of the United nations of Yugoslavia at 1990.
HaHaHa
【追記】
カラドさんという方、その他のかたから「(たま出版の)ニラサワ氏は掲示板でジュセリーノの予想はドイツ優勝だと発言しています。しかし、同氏がソースとしている未来からの警告IIを見ると2010年南ア大会の優勝国としてジュセリーノがあげたのはドイツではなくてブラジルになっています」というメールが届いている。
こういうはなしを耳にすると「相変わらず困ったじいさんやのう」という感じ。
ちなみにその掲示板におけるニラサワ(敬称略)の書込みだが
投稿者:ニラサワ
日本チームの今野選手がデンマーク戦当日に、遠藤選手が得点をあげる夢を見たといいます。その日、予知の通りフリーキックを得た遠藤選手は見事ゴールを決めました。
さて今日の対戦はどうなるのでしょう。
「続、未来からの警告」にある今年のWカップ勝者は、ドイツということになるようです。
一方、参議院選挙の行方について予想してほしいと週刊誌の取材を受けました。
日本がWカップの決勝トーナメントに残ると、浮動票が減るので、民主党が不利になると言っておきました。SPAにコメントが出ると思います。
それにしても15年前の政界再編時に弊社で出版した「ユートピア経済学」や「友愛主義宣言」の中に、「第三の道」など、総理のキーワードが既に書かれていることにいまさらながら驚きます。
2010/06/29(Tue) 11:27 [14591]
となっている。
このニラサワという人の困ったところは(いっぱいあるけれどね)なんといっても平気で嘘をつくこととまともな仕事をしないことだと思う。この掲示板の書込みにはそのふたつの悪いところがそのまま出ている。
『続・未来からの警告』という本のP304を見ると、ジュセリーノによる2010年サッカーWC南ア大会の予知というものが掲載されている。
ジュセリーノの警告の手紙というのは、ブラジルのサッカー協会に対してのもので、要するに、フェリペ監督(2002大会ブラジル優勝のときの監督)を復帰させないとドイツ大会(2006)も南ア大会も優勝できないぞと警告している体裁をとっている。
つまり、この本で紹介されているジュセリーノの2010年の予想とは、フィリペ監督復帰の場合の順位の予想だということになる。
それが「ブラジル優勝 二位ドイツ 三位フランス 四位イングランド」ということになる。
それ以外にジュセリーノがサッカーワールドカップの予知(ただの予想だが)について書かれている個所はない。
この本のどこを探ししても「今年のWカップ勝者は、ドイツということになるようです」と書かれたところはないのだ。
もしかして、ニラサワ(敬称略)は「ブラジルの監督はフィリペでないのでドイツが繰り上がり優勝」みたいな勝手な論理のすり替えをおこなったのかもしれないが。
しかし、仮にもニラサワという人は「続・未来からの警告」という本の監修者である。その監修者が自分が手がけた本の内容もよく省みずにこのような嘘を平気で吐くことに対しては批判されて指弾されるのもしかるべきことだと私は思う。
だから自分はここでニラサワという人に対して「もういい加減ジュセリーノについて発言するのはやめろ」と何度となく言っているのだが。(つづく)
2010.06.29
2
それと同じくらいに皆が疑問を呈しているのは
日本がWカップの決勝トーナメントに残ると、浮動票が減るので、民主党が不利になると言っておきました。の個所だった。
確かに一見すると実に不思議な論理である。「どういうことなのか説明してください」みたいなことを書いてきた人も何人かいるのだが、そんなのこの自分にわかるはずがない。それこそ「本人に訊けよ」としか言いようがない。
もっとも推測ならばいくらでも可能である。ある人は「風が吹けばオケ屋が儲かるみたいなものでおそらく何か論理の踊り場をツーステップくらい省略している」と書いてきている。そんな感じもしなくもない。
しかし、自分はこれはニラサワ(敬称略)のなにかの聞き違えというか勘違いがもとになっているような気がしてならない。
たとえば、投票日当日、雨が降るなど天気が悪くなったり、あるいはほかに投票行動の妨げになるような大きなイベントがあったりすると投票率が下がり、確固たる組織票を有している政党が有利になり、浮動票頼みの大政党が不利になるというようなことは言われる。また、参院選の投票日は実はワールドカップの決勝のある日でもある。実際に、もし日本がワールドカップで決勝に勝ち進むと参院選の投票率に大きく影響するだろうというような、杞憂というべきか恐るべき楽観論というべきなのかはよくわからないが、そのようなことを言っていたテレビ番組はあったようなのである。
もしかして、ニラサワはこれを聞き違いしたのではないだろうか。決勝と決勝トーナメントを聞き違えるとか。
まあ民主党が浮動票に支えられている政党なのかということについては単純にはいえないとは思うが。
まあでもここでこんなことをいくら書いてみても何の意味も持たないのは承知のうえである。とにかく、ニラサワという人の発言についていくら深く考えてもそれはムダなことだからだ。この人のこういう発言は単純に笑いものにするのがもっとも正しい対処法だろう。質問をうけた以上はいくばくかの義務もあるだろうということで自分は書いてみたのだけれども。
2010.06.30
3
案の定というのかなんというのか…
「ジュセリーノの予言は成就寸前。世界はそれを目撃するでしょう」とか「あなたもいい加減この事実を認めてジュセリーノさんに謝罪すべき」といったコメントが舞いこんできている状態である。
それと呼応しているかのようにして「2ちゃんねる」でジュセリーノ擁護派、信者としかいいようのない書込みがつづいているという。
ため息が出てくるわ。
この世には本当にアタマの悪い人間(日本人ってことだが)がいっぱいいるもんだなぁと。
そもそもジュセリーノの先行して公表された予言というものは非常に数が多い。
その中のほんのちょびっとだけがたまに当たったように見えてしまうだけで、外れたもののほうが、そうね大体だがその100倍くらいはある。
実はジュセリーノによるサッカーワールドカップの予言というものもブラジルで公表されたものだけでも5つぐらいのバージョンが確認されている。
2006年大会に関する予言にしても、最初にジュセリーノは「ブラジルである」としていたのを二転三転したあとで「イタリア」にして、それのことを「当たった」と言っているだけだった。
そのあとになってからジュセリーノがこのいくつかのあるワールドカップ予言の、ブラジルが優勝するかしないかの点で異なる二種類の予言を結びつけるために言い出したのが「監督がフェリペならば」の条件つきの予言だった。まあそういうことにしてしまったのである。
ジュセリーノがHPで公表しているFIFA宛の手紙というのも、よく見れば今までジュセリーノが思いつくままに公表していたワールドカップ関連の予言と見比べると矛盾だらけである。(最大のポカは西ドイツとすべきところをドイツにしたところだが)
おそらくは、これらの中のどれかでも当たればジュセリーノは自分の予言を当たったと言い出すつもりのようだ。というか、日本まだ根強くいるジュセリーノ信者たちはそのつもりなんだろうが。
だからここで念押ししておくが、ジュセリーノが「優勝はドイツ」としたのはHP上に公表した新しいものである。一昨々年(2007)テレビで言っていたブラジル優勝、一昨年(2008)に出た『続・未来からの警告』にあるものとはまったく別のものだということだ。これらをごちゃごちゃにして「ジュセリーノの予言は当たった」と騒ぐことぐらいニラサワチックで愚かなことはないのだ。
2010.07.01
2010年6月24日木曜日
100624 そもそも始まりは2003年にあった (重複)
勘違いしている人もいるようだが、ジュセリーノが周囲の人間からも「予言者」と認知されたのは2003年以降のことである。[註1]
それ以前ジュセリーノには予言者としての活動履歴はまったくない。
従って、2001年9月11日に起きた同時多発テロの警告の手紙(もちろん日付を偽造したものである)を実際に目にした人はいてもそれは皆事件の起きたあとでということになる。
同様、「的中した」と言っているジュセリーノによる警告の手紙というものは全て2003年以降にしか公表されていないし、2005年にジュセリーノがブラジル中の注目を浴びてから公表した事前公表の予言は見事なくらいの外れっぷりを見せている。
それにしても今尚下のような地震の予言に対して「不安を覚えた」という人が一向に減らないというのにはアタマを悩めている。
最近もまた地元の人から「近々ここらへんで大きな地震が来るとか言われているけどあれはなんなんだろう?」とか「13日にあった地震のあとになんかそういう予言をしたガイジンがいるのを聞いたが、それがアレ(ジュセリーノ)のことなのか?」みたいなことを言われたりしている。
ときどきだが、なんとも答えようのない質問も来る。
そんなのはこの自分に質問をするよりも、ブログなんかで今でもジュセリーノのことをまるで実績のある予言者であるかのように喧伝している(つまり嘘を書いているということだ)その人にぶつけたほうがよっぽど早いだろう。
というか言われて自分もそういうジュセリーノの予言について「当たるかも」みたいな無責任なことを書いているブログなんかを目にすると「しょうもない人間ばっかなんだなぁ」とこっちが暗い気分になる。
改めて言うが、ジュセリーノ・ノーブレガ・ダ・ルースの予言とはひとことでいえば「フィクション」であり嘘でしかない。彼に予言者としての実績はまったくない。
そんなことはジュセリーノの予言が日本に紹介される前からブラジルでとっくに明らかになっていたことだった。
問題なのは、にもかかわらず、この日本にそんなインチキ予言者を商売にしようと目論んだオカルト出版社であるとかテレビマスコミが存在したことのほうなのだ。
こういった連中にこそ鉄槌でも食らわせないと、ほっといたままにするとこれからも(ありもしない)地震予言におびえる被害者の人たちは減ることはなくても増えるだけなのかもしれない。
そんなことは絶対にさせませんけどね。
とりあえずこれからはそういうマスコミに乗っかっている問題のあるHPやらブログをひとつひとつここで検証し批判をしていこうかぐらいの気持ちではおります。
それが自分のところにくる被害者の方々の要望にそったものであるのならば、ということですが。まあ最後のゴミ掃除みたいな感じになるのだろうけれど。
2010.06.22
[註1]2001年とするものもあるが、自著の中でジュセリーノは2001年頃は長期海外旅行中としているので、そうするとその事実と符合しなくなるという矛盾が生じる。なのでその場合でも、最低でも2002年以降とするのが正しい。(『未来からの警告』P249)
【追記】
何故ジュセリーノの活動開始時期を「2003年から」と言い切れるのか? その根拠は?というような問い合わせが相次いでいる。
直接的な証拠は当時ブラジルのサンパウロに住んでいたという女性からのメールということになる。自分はこの情報をかなり早い時期に受け取っている(このブログをジュセリーノ予言検証に特化した07年の2月のころだ)
0218 (その2) セナの死について考える (2007年02月)
情報を送ってきたのはふたりいて、ひとりの方がジュセリーノという予言者の登場時期を「2003年ころ」としていて、もうひとりの方は「2005年か2006年」としていた。
このズレは決して単なる誤差ではなかった。のちのちたとえば『予言者ジュセリーノの疑惑』という本の中でも述べられていたとおりで、ジュセリーノがサンパウロ郊外に住んでいる心霊師たちと交流しはじめた時期とも一致しているし、TAM航空の墜落を警告していたと名乗り出てそれがサンパウロのローカルテレビで取り上げられたのが2003年のころだった。そして例のブラジルの連邦司法の判決(つまり差し戻し)が出て、それが「裁判所もジュセリーノの予知能力を認めた」とブラジルのマスコミを通じて騒ぎ出したのが2005年ということになる。つまりブラジル国内でもジュセリーノという自称予言者の知名度にも大きな時差があったということなのだ。
もうひとつ、それよりも重要なことは、この「事実」というものを裏付ける傍証というか検証作業も通過しているということだろう。
そののちいろいろとブラジルで見ることのできる記事や画像というものを片っ端から目を通したのだが、ジュセリーノが他者に送ったといっている警告の手紙やら公証届けのある片割れというもの、どのすべてもが何故か「2003年以降の初公開」になっていることだ。
なんでこんな不自然な事実というものを当時誰も気がつかなかったのだろうか?
不思議でしょ。こんな簡単なトリックに誰も気がつかなかったとすれれば、日本にいる出版社・テレビ・スポーツ新聞は全てバカ者揃いということになってしまう。
そこに気がつけば、この日本でこのような不易で不毛な『ジュセリーノ騒動』というものは起こらなかっただろう。たま出版の本もソフトバンクの本も出なかっただろうし、日本テレビのふたつの番組もなかっただろう。ジュセリーノの来日と講演も、そしてテレ東の番組も存在しなかったはずである。
しかしそんなわけはないよな。彼らははじめから(ジュセリーノがインチキをする自称予言者であることを)知っていて、そしてこの自称予言者を商売のネタにしようと目論み、チラチラ見え隠れするこういう不都合な事実は伝えないという手段をとったのだろう。
自分が腹を立てているのはこういうマスコミの連中、あるいはジュセリーノに群がった連中が、自分は騙されたであるとかの「被害者面」を通していることだ。
そういうやつらには「そうじゃねぇだろう。オマエは被害者じゃなくて視聴者を騙した加害者サイドの人間なんだよ」といってやりたいのだ。今でも。
自分はかつてオカルトを飯の種にしている連中のことを「さもしい連中」と卑下したことがあった。
オカルト、あるいはオカルティズムというものは確かに研究の対象というものにはなるだろう。それはわかる。しかし、それは決してテレビを頂点とするようなマスコミの商業ベースの上に乗っけてはいけないものなのだ。
その線引きというものは確実に存在する。それはたとえば「(テレビ番組に迎合するための)嘘をついてはいけない」ということもある。
例を挙げる。もし、テレビで何度か取り上げられていた「おのこ草子(をのこ草子、あるいは草氏とも)」のことをはじめからただのでっちあげたと知っていながら「あれは間違いなく江戸時代にあった」とか言っている人間がいたならば、そいつはオカルト研究家ではなくてただの嘘つきということになるだろう。そういうことだ。
はなしを戻す。これは自分がジュセリーノについていろいろと調査していて得た実感なのだが、オカルト、あるいはオカルティズムというものは今の日本のテレビマスコミの主流にあるような「明日ではなくて今日中に答えを出せ」というような促成栽培とは絶対に間尺はあわない。無理矢理あわせようとするとそこには必ず嘘が生じる。あるいは、テレビに出るようなオカルト関係の人間は皆嘘つきばかりというような、笑うに笑えないような悲しい事態になってしまうのである。
2010.06.23
それ以前ジュセリーノには予言者としての活動履歴はまったくない。
従って、2001年9月11日に起きた同時多発テロの警告の手紙(もちろん日付を偽造したものである)を実際に目にした人はいてもそれは皆事件の起きたあとでということになる。
同様、「的中した」と言っているジュセリーノによる警告の手紙というものは全て2003年以降にしか公表されていないし、2005年にジュセリーノがブラジル中の注目を浴びてから公表した事前公表の予言は見事なくらいの外れっぷりを見せている。
それにしても今尚下のような地震の予言に対して「不安を覚えた」という人が一向に減らないというのにはアタマを悩めている。
最近もまた地元の人から「近々ここらへんで大きな地震が来るとか言われているけどあれはなんなんだろう?」とか「13日にあった地震のあとになんかそういう予言をしたガイジンがいるのを聞いたが、それがアレ(ジュセリーノ)のことなのか?」みたいなことを言われたりしている。
ときどきだが、なんとも答えようのない質問も来る。
そんなのはこの自分に質問をするよりも、ブログなんかで今でもジュセリーノのことをまるで実績のある予言者であるかのように喧伝している(つまり嘘を書いているということだ)その人にぶつけたほうがよっぽど早いだろう。
というか言われて自分もそういうジュセリーノの予言について「当たるかも」みたいな無責任なことを書いているブログなんかを目にすると「しょうもない人間ばっかなんだなぁ」とこっちが暗い気分になる。
改めて言うが、ジュセリーノ・ノーブレガ・ダ・ルースの予言とはひとことでいえば「フィクション」であり嘘でしかない。彼に予言者としての実績はまったくない。
そんなことはジュセリーノの予言が日本に紹介される前からブラジルでとっくに明らかになっていたことだった。
問題なのは、にもかかわらず、この日本にそんなインチキ予言者を商売にしようと目論んだオカルト出版社であるとかテレビマスコミが存在したことのほうなのだ。
こういった連中にこそ鉄槌でも食らわせないと、ほっといたままにするとこれからも(ありもしない)地震予言におびえる被害者の人たちは減ることはなくても増えるだけなのかもしれない。
そんなことは絶対にさせませんけどね。
とりあえずこれからはそういうマスコミに乗っかっている問題のあるHPやらブログをひとつひとつここで検証し批判をしていこうかぐらいの気持ちではおります。
それが自分のところにくる被害者の方々の要望にそったものであるのならば、ということですが。まあ最後のゴミ掃除みたいな感じになるのだろうけれど。
2010.06.22
[註1]2001年とするものもあるが、自著の中でジュセリーノは2001年頃は長期海外旅行中としているので、そうするとその事実と符合しなくなるという矛盾が生じる。なのでその場合でも、最低でも2002年以降とするのが正しい。(『未来からの警告』P249)
【追記】
何故ジュセリーノの活動開始時期を「2003年から」と言い切れるのか? その根拠は?というような問い合わせが相次いでいる。
直接的な証拠は当時ブラジルのサンパウロに住んでいたという女性からのメールということになる。自分はこの情報をかなり早い時期に受け取っている(このブログをジュセリーノ予言検証に特化した07年の2月のころだ)
0218 (その2) セナの死について考える (2007年02月)
情報を送ってきたのはふたりいて、ひとりの方がジュセリーノという予言者の登場時期を「2003年ころ」としていて、もうひとりの方は「2005年か2006年」としていた。
このズレは決して単なる誤差ではなかった。のちのちたとえば『予言者ジュセリーノの疑惑』という本の中でも述べられていたとおりで、ジュセリーノがサンパウロ郊外に住んでいる心霊師たちと交流しはじめた時期とも一致しているし、TAM航空の墜落を警告していたと名乗り出てそれがサンパウロのローカルテレビで取り上げられたのが2003年のころだった。そして例のブラジルの連邦司法の判決(つまり差し戻し)が出て、それが「裁判所もジュセリーノの予知能力を認めた」とブラジルのマスコミを通じて騒ぎ出したのが2005年ということになる。つまりブラジル国内でもジュセリーノという自称予言者の知名度にも大きな時差があったということなのだ。
もうひとつ、それよりも重要なことは、この「事実」というものを裏付ける傍証というか検証作業も通過しているということだろう。
そののちいろいろとブラジルで見ることのできる記事や画像というものを片っ端から目を通したのだが、ジュセリーノが他者に送ったといっている警告の手紙やら公証届けのある片割れというもの、どのすべてもが何故か「2003年以降の初公開」になっていることだ。
なんでこんな不自然な事実というものを当時誰も気がつかなかったのだろうか?
不思議でしょ。こんな簡単なトリックに誰も気がつかなかったとすれれば、日本にいる出版社・テレビ・スポーツ新聞は全てバカ者揃いということになってしまう。
そこに気がつけば、この日本でこのような不易で不毛な『ジュセリーノ騒動』というものは起こらなかっただろう。たま出版の本もソフトバンクの本も出なかっただろうし、日本テレビのふたつの番組もなかっただろう。ジュセリーノの来日と講演も、そしてテレ東の番組も存在しなかったはずである。
しかしそんなわけはないよな。彼らははじめから(ジュセリーノがインチキをする自称予言者であることを)知っていて、そしてこの自称予言者を商売のネタにしようと目論み、チラチラ見え隠れするこういう不都合な事実は伝えないという手段をとったのだろう。
自分が腹を立てているのはこういうマスコミの連中、あるいはジュセリーノに群がった連中が、自分は騙されたであるとかの「被害者面」を通していることだ。
そういうやつらには「そうじゃねぇだろう。オマエは被害者じゃなくて視聴者を騙した加害者サイドの人間なんだよ」といってやりたいのだ。今でも。
自分はかつてオカルトを飯の種にしている連中のことを「さもしい連中」と卑下したことがあった。
オカルト、あるいはオカルティズムというものは確かに研究の対象というものにはなるだろう。それはわかる。しかし、それは決してテレビを頂点とするようなマスコミの商業ベースの上に乗っけてはいけないものなのだ。
その線引きというものは確実に存在する。それはたとえば「(テレビ番組に迎合するための)嘘をついてはいけない」ということもある。
例を挙げる。もし、テレビで何度か取り上げられていた「おのこ草子(をのこ草子、あるいは草氏とも)」のことをはじめからただのでっちあげたと知っていながら「あれは間違いなく江戸時代にあった」とか言っている人間がいたならば、そいつはオカルト研究家ではなくてただの嘘つきということになるだろう。そういうことだ。
はなしを戻す。これは自分がジュセリーノについていろいろと調査していて得た実感なのだが、オカルト、あるいはオカルティズムというものは今の日本のテレビマスコミの主流にあるような「明日ではなくて今日中に答えを出せ」というような促成栽培とは絶対に間尺はあわない。無理矢理あわせようとするとそこには必ず嘘が生じる。あるいは、テレビに出るようなオカルト関係の人間は皆嘘つきばかりというような、笑うに笑えないような悲しい事態になってしまうのである。
2010.06.23
2010年6月19日土曜日
070619 2006年8月の予言
\ | 8月-2006 |
・ | a)Terremoto no japao causara mais panico as pessoas e crise japonesa comeca a surgir mais forte. 日本で地震。人々は大きなパニックに。そして日本は大きな危機をむかえる。 |
・ | b)descobrirao a mafia de vendas de remedios |
・ | c)grandes protestos na venezuela e mortes e atentados. ベネズエラで大きなデモと死者。 |
・ | bの訳が何故こうなるのかはよくはわからない。ある種の意訳だと思う。ブラジルの実情からするとオーソドックスな出来事なのだろうか。 いうまでもないことだがa)はハズレ判定。 |
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2010年6月9日水曜日
100609 Sendaで地震
これもだいぶ前からコメントやらメールをいただいている件であるが、正直扱いに困っている。
ジュセリーノの年間予言の中に「2010年 6月18日 日本のセンダ地域でM7.2の強い地震」[註1]というのがある。
その「センダ」ってどこなのかがさっぱり判断がつかないからだ。
googleearthで「せんだ」で調べると「千田」であるとか仙田、泉田、川田、船田、扇田というような「せんだ」と読める地名はそれこそ日本各地にいくらでもある。
これでは6月18日に日本のどこかで大地震があればジュセリーノ予言肯定の立場の者たちは「予言は当たった」とか言い出すことも可能ということになる。
考えるのもアホ臭いことだが。
またこれに関しては「VAN」さんという方からは「せんだといえばナハナハで那覇(沖縄)の可能性も考えたほうがいい」というようなふざけた意見も寄せられてきた。
まあ不謹慎といえば不謹慎なのだけど、ジュセリーノの機関銃並みの地震予言大連発自体が不謹慎なわけだし、このようなギャグ飛ばす人がいても目くじらたてることもないかなとも思うようになっている。
でも念のためにこれは書いておくが、ジュセリーノの予言ってこういう欠陥品ばかりなのですよ。
2010.06.09
[註1]Há um forte terremoto de 7.2 na escala Richter, nas proximidades de Senda - Japão em 18 de junho de 2010
【追記】
「常識的に考えれば、これはセンダイ つまり(あなたの住む)仙台のことでしょう」(by『ガイナ』さん)というようなコメントを多数頂いている。
常識…か…
ジュセリーノという自称予言者の予言について語るときに「常識」をあてはめることが、いかにむなしくバカバカしいことなのかについてはもう言うまでもないことだけども。
もちろん、ジュセリーノがスペルミスをしてSendaiをSendaにしてしまった可能性はあることだとおもう。
しかしそれだってやはりあくまでも可能性のひとつでしかないと思う。(なにしろジュセリーノ本人は「自分は夢でその場所にいる」と公言している自称予言者だからだ)[註→※1]
もしジュセリーノが「あれはスペルミス(タイプミス)で(地震が起きるのは)センダイです」と訂正をしたという事実があるのならばともかく、ジュセリーノが何も言っていない以上は、ここはやはりまず「センダで地震が起きるという予言」として扱うべきなんじゃないのかね。
ああこれも付け加えておくとするが、6月18日ドンピシャでなくとも(例によって)一週間前後の範囲でならは、宮城(福島)沖でM5程度の地震が起きたとしてもさほど不思議なことではない。よくあることだからだ。
2ちゃんねるで騒いでいるバカどもに対して言っておくとするが。
[※1]「PONさん」という方から「Senda earthquakeで検索すると結構でてきます」というコメントをいただいた。要するに、SENDAIとすべきところを間違ってSENDAにしてしまった例がいくつも見つかるというのだ。実際に自分も調べてみるとそんなに数はなかったが確かにいくつも出てきた。また、下のような世界地図の画像も教えていただいた。やはりSENDAIをSENDAとスペルミスするというのはよくあることのようだ。
上でも書いたとおりでジュセリーノは「夢でその場所にいる」と公言している自称予言者であるから、もしジュセリーノがこういった地図を見て予言を連発しているのだとすると(その事実があるのならばということだが)ジュセリーノの予言の信憑性というものを著しく損なう傍証となってしまうということも念頭に置くべきだろう。(まあだから自分もこの点にはしつこいくらいにこだわっているのだけれど)
10.06.21
【追記2】
さらに「大熊猫」さんというかたからジュセリーノの予言に出てくる日本の地名について「国際的に知られた地域か、それ以上に多いのは自分が講演会で訪れた地域です。今回のsendaも講演会で訪れた仙台の事を指した可能性が高い」
というコメントを頂いた。なるほど調べてみると確かにそういう傾向は強いようだ。
さらに、ジュセリーノの地震の予言で出てくる地名、ここ最近あるいは数年以内に大きな地震の起きた場所(地名)が非常におおい。それだけではない。起きる期日もまた法則性があって、その大きな地震が実際にあった日付に近いところばかりだという
ことを書いてきた方が何人もいた。
まあそれはすでに自分も2年以上も前に指摘したことなのであるが。
しかし考えてほしい。同じ規模の大地震が同じ時期に二度続けて起きる可能性はどのくらいになるものかを。
ジュセリーノの地震予言というもの、仔細に見てゆくとそういった実にいい加減というか人をバカにしたものばかりだということは付け加えて言っておこうかと思う。
2010.06.11
【追記 3】
6月13日(日)の昼過ぎに福島沖を震源とするかなり大きな地震があった。そのためにだと思うがこのブログの訪問者も四桁に近いところになった。(夜11時現在)
全然うれしくもなんともないが。
コメントの数も半端じゃない。まだ未集計だが、50以上80くらいはあるのではないのか。メールの数はそれほどでもないのだが。
コメントの内訳は、約半分近くは「ジュセリーノの予言は当たった(といっていい)」というようなジュセリーノ予言肯定者からのもの。
残り約半分は、ジュセリーノの予言に対応して自分がこの記事で書いた上の個所「6月18日ドンピシャでなくとも(例によって)一週間前後の範囲でならは、宮城(福島)沖でM5程度の地震が起きたとしてもさほど不思議なことではない。よくあることだからだ」というのが当たった、とするもの。
まあ自慢にもなんにもならないが、確かに自分の書いた個所は予言として見た場合は「当たり」である。
まあ、書いたとおりで当たりもへったくれもない。自分が書いたのは「よくある出来事」だからだ。
しかし、ジュセリーノの予言については見ての通りで、まだ当たったとか外れたとか結果を出す時期ではないだろう。ジュセリーノが書いた6月18日が来て、その後で当たったとか外れたとかの判定を出すのがスジというものだろう。
というか「ジュセリーノの予言」をあくまでも肯定するという立場の人たちは何故今日13日に福島沖で起きた地震を指して「ジュセリーノの予言は当たった」とするのだろうか。自分にはそれがわからない。
文章を読む能力(読解力)が欠けているのか、それとも理性を失わせてしまう病(オカルト病?)の怖さということなのだろうか。
はっきりいって自分にはただのバカにしか見えないんだが、こういう人たちが。
2010.16.13
ジュセリーノの年間予言の中に「2010年 6月18日 日本のセンダ地域でM7.2の強い地震」[註1]というのがある。
その「センダ」ってどこなのかがさっぱり判断がつかないからだ。
googleearthで「せんだ」で調べると「千田」であるとか仙田、泉田、川田、船田、扇田というような「せんだ」と読める地名はそれこそ日本各地にいくらでもある。
これでは6月18日に日本のどこかで大地震があればジュセリーノ予言肯定の立場の者たちは「予言は当たった」とか言い出すことも可能ということになる。
考えるのもアホ臭いことだが。
またこれに関しては「VAN」さんという方からは「せんだといえばナハナハで那覇(沖縄)の可能性も考えたほうがいい」というようなふざけた意見も寄せられてきた。
まあ不謹慎といえば不謹慎なのだけど、ジュセリーノの機関銃並みの地震予言大連発自体が不謹慎なわけだし、このようなギャグ飛ばす人がいても目くじらたてることもないかなとも思うようになっている。
でも念のためにこれは書いておくが、ジュセリーノの予言ってこういう欠陥品ばかりなのですよ。
2010.06.09
[註1]Há um forte terremoto de 7.2 na escala Richter, nas proximidades de Senda - Japão em 18 de junho de 2010
【追記】
「常識的に考えれば、これはセンダイ つまり(あなたの住む)仙台のことでしょう」(by『ガイナ』さん)というようなコメントを多数頂いている。
常識…か…
ジュセリーノという自称予言者の予言について語るときに「常識」をあてはめることが、いかにむなしくバカバカしいことなのかについてはもう言うまでもないことだけども。
もちろん、ジュセリーノがスペルミスをしてSendaiをSendaにしてしまった可能性はあることだとおもう。
しかしそれだってやはりあくまでも可能性のひとつでしかないと思う。(なにしろジュセリーノ本人は「自分は夢でその場所にいる」と公言している自称予言者だからだ)[註→※1]
もしジュセリーノが「あれはスペルミス(タイプミス)で(地震が起きるのは)センダイです」と訂正をしたという事実があるのならばともかく、ジュセリーノが何も言っていない以上は、ここはやはりまず「センダで地震が起きるという予言」として扱うべきなんじゃないのかね。
ああこれも付け加えておくとするが、6月18日ドンピシャでなくとも(例によって)一週間前後の範囲でならは、宮城(福島)沖でM5程度の地震が起きたとしてもさほど不思議なことではない。よくあることだからだ。
2ちゃんねるで騒いでいるバカどもに対して言っておくとするが。
[※1]「PONさん」という方から「Senda earthquakeで検索すると結構でてきます」というコメントをいただいた。要するに、SENDAIとすべきところを間違ってSENDAにしてしまった例がいくつも見つかるというのだ。実際に自分も調べてみるとそんなに数はなかったが確かにいくつも出てきた。また、下のような世界地図の画像も教えていただいた。やはりSENDAIをSENDAとスペルミスするというのはよくあることのようだ。
上でも書いたとおりでジュセリーノは「夢でその場所にいる」と公言している自称予言者であるから、もしジュセリーノがこういった地図を見て予言を連発しているのだとすると(その事実があるのならばということだが)ジュセリーノの予言の信憑性というものを著しく損なう傍証となってしまうということも念頭に置くべきだろう。(まあだから自分もこの点にはしつこいくらいにこだわっているのだけれど)
10.06.21
【追記2】
さらに「大熊猫」さんというかたからジュセリーノの予言に出てくる日本の地名について「国際的に知られた地域か、それ以上に多いのは自分が講演会で訪れた地域です。今回のsendaも講演会で訪れた仙台の事を指した可能性が高い」
というコメントを頂いた。なるほど調べてみると確かにそういう傾向は強いようだ。
さらに、ジュセリーノの地震の予言で出てくる地名、ここ最近あるいは数年以内に大きな地震の起きた場所(地名)が非常におおい。それだけではない。起きる期日もまた法則性があって、その大きな地震が実際にあった日付に近いところばかりだという
ことを書いてきた方が何人もいた。
まあそれはすでに自分も2年以上も前に指摘したことなのであるが。
しかし考えてほしい。同じ規模の大地震が同じ時期に二度続けて起きる可能性はどのくらいになるものかを。
ジュセリーノの地震予言というもの、仔細に見てゆくとそういった実にいい加減というか人をバカにしたものばかりだということは付け加えて言っておこうかと思う。
2010.06.11
【追記 3】
6月13日(日)の昼過ぎに福島沖を震源とするかなり大きな地震があった。そのためにだと思うがこのブログの訪問者も四桁に近いところになった。(夜11時現在)
全然うれしくもなんともないが。
コメントの数も半端じゃない。まだ未集計だが、50以上80くらいはあるのではないのか。メールの数はそれほどでもないのだが。
コメントの内訳は、約半分近くは「ジュセリーノの予言は当たった(といっていい)」というようなジュセリーノ予言肯定者からのもの。
残り約半分は、ジュセリーノの予言に対応して自分がこの記事で書いた上の個所「6月18日ドンピシャでなくとも(例によって)一週間前後の範囲でならは、宮城(福島)沖でM5程度の地震が起きたとしてもさほど不思議なことではない。よくあることだからだ」というのが当たった、とするもの。
まあ自慢にもなんにもならないが、確かに自分の書いた個所は予言として見た場合は「当たり」である。
まあ、書いたとおりで当たりもへったくれもない。自分が書いたのは「よくある出来事」だからだ。
しかし、ジュセリーノの予言については見ての通りで、まだ当たったとか外れたとか結果を出す時期ではないだろう。ジュセリーノが書いた6月18日が来て、その後で当たったとか外れたとかの判定を出すのがスジというものだろう。
というか「ジュセリーノの予言」をあくまでも肯定するという立場の人たちは何故今日13日に福島沖で起きた地震を指して「ジュセリーノの予言は当たった」とするのだろうか。自分にはそれがわからない。
文章を読む能力(読解力)が欠けているのか、それとも理性を失わせてしまう病(オカルト病?)の怖さということなのだろうか。
はっきりいって自分にはただのバカにしか見えないんだが、こういう人たちが。
2010.16.13
2010年5月17日月曜日
100517 口蹄疫の発生とジュセリーノの予言
まあ今一番問い合わせが来ているのはこちらの事件についてであろう。
宮崎を中心とした九州の何ヶ所かで日本国内では10何年ぶりかの口蹄疫の発生が確認された。
現地の関係者の方々のご苦労、あるいは心労というものは私にとっても沈痛以外の何者でもない。これは天災ではなくて人災としての要素が非常に大きいからだ。
「ジュセリーノはこの予言を公表してましたか?」という問い合わせであるが、確認作業にものすごい手間隙がかかってしまった。
自分が調べなおしたのは日本国内で発売されたジュセリーノの予言が収録されている書籍と公式HRなどに掲載されている年間の予言などだが、現状ではジュセリーノが「日本国内で口蹄疫発生」という予言はひとつもない。もしかすると(まだみつからない)といったほうがいいのかもしれないが。
というのも、「だいぶ前にジュセリーノの講演に行った」という人から「ジュセリーノは『日本で家畜の病気が蔓延するだろう』(時期不明)というようなことを言っていたような気がします」というようなメールが来ているのだ。
それ自体がまだ「?」のつく情報だが、このようなことを書いてくる人が実際にいる以上は、ここで自分は「ひとつもない」と断言するわけにもいくまいと思う。
但し前後関係からすると、ジュセリーノは日本国内での口蹄疫の発生の予知の公表などはまったく考えてはいなかったはずだ。これは間違いない。
そもそもジュセリーノは口蹄疫の発生と蔓延の仕組みに関して大きな間違い(勘違い)を犯しているということはこのブログでも取り上げたことがある。
今回の日本での口蹄疫の発生がそうなのだが、この口蹄疫の発生もまた政治家の失態が招いた人災としての側面が大きい。
ひとつは、現場では不安視されていたにもかかわらず、今までストップしていた韓国・中国からの牛の輸入を、功をあせった政治家たちが解禁を許可したために、(検査システムのゆるい韓国あたりから)感染牛(水牛といわれている)が日本国内に入って来たとする見方がなされていることだ。
もうひとつの政治家の失態とは、現場から口蹄疫感染の第一例が報告されたにもかかわらず、政府の対応が後手に回ったことだった。
その理由が情けない。担当大臣がメキシコに外遊中で事態の把握のために二度手間三度手間となり現地への対応のための連絡が10日近くも遅れたとなっている。
それどころか、このような事態(担当大臣の長期海外旅行)のときは国内に残留している閣僚が緊急に担当を兼任するのが常識だというのにその申し渡しもされていなかったという。
これは「不慣れだったので」とか「なにぶんはじめてのことでしたので」というような言い訳が許されるようなレベルではない。明かな怠慢としかいいようがない。
これと同じようなことはこれからも起きてしまうのだろう。だから自分は今宮崎で起きていることは「決して他人事ではない」と言う。
☆
ジュセリーノの口蹄疫の予言は毎年見ることができる。ブラジルでは毎年のように起きていることだからだ。
ところが「ブラジルで口蹄疫の発生」のジュセリーノ予言は、何故か他の(たとえば鳥インフルエンザなどの)疫病の蔓延と同じように、その発生時期に季節性が見て取れる。
簡単にいうと、1月と2月(ブラジルでは夏)になぜか「ブラジルの○○で口蹄疫が発生」という予言が集中してみられるのだ。
今回の日本での発生の感染源であると推定されている中国と韓国の発生時期をみれば一目瞭然なのであるが、ともに1月から3月と冬からのまだ寒い時期に感染が確認されている。
ブラジルやアルゼンチンでも、日本-つまり北半球とは季節が逆になる8月の冬の季節にでも口蹄疫の発生と蔓延は頻繁に起きている。
口蹄疫の感染には季節はあまり関係がない。少なくとも、寒いからであるとか、あるいは暑いから発生するというものではない。コレラであるとかの伝染病とは違うものだ。
では何故ジュセリーノは口蹄疫という家畜病罹患には季節性があると思い込んでいるのか。あるいはジュセリーノの口蹄疫の予言には季節性があるのだろうか。
これはブラジルにいる日系人のかたからのお手紙で知ったことなのだが、かつてジュセリーノは2005年発表の2006年の年間予言の中に「口蹄疫の発生」というものを入れ込んで、これが時期的に当たった(とみなされている)からだろうというのだ。
要するに、ジュセリーノは「過去の栄光をもう一度」とばかりに、毎年年末に出す年間予言の1月と2月(ブラジルの夏)にはこの「口蹄疫の発生」の予言を入れ込んでくるらしい。
☆
それで、ジュセリーノは「日本で口蹄疫が発生」という予言は公表したかどうかだが、今のところやはり「していなかった」と言い切れるような材料は見当たらない。
ただこれはいえると思う。ジュセリーノが口蹄疫の発生のメカニズムというものを誤解している以上は、カタチになるなにかでの公表はされていないはずだと。
上でも書いたが、口蹄疫とは季節であるとかそういうことで発生する家畜病ではないからだ。
そのほとんどが今回の宮崎のように「検疫体制の不全」であるとかむしろ人為的な要素でその国に侵入したり大量発生する。これはもうどうにも動かしようもない事実である。
今回の件で現地宮崎の体制なり対応に問題があったと責める人たちがいるが、そういう考えを持っている人たちは単に無知なだけだろう。
初動以前の段階に、宮崎以外のどこの地域にでも、この「口蹄疫」が発生する危険というものはすでにあったのだ。
今年の一月に中国で口蹄疫が発生したということがわかった時点で政府は中国(香港)・韓国から生牛(水牛を含む全ての偶蹄目)の輸入はストップしなければならなかった。
というか日本国内に進入する危険は察知されていたし、そういう案件は上がっていたものの、それをひねりつぶした政治家がいたことこそが今回の「口蹄疫の国内大発生」の全ての原因になる。
この事実からは絶対に目をそらしてはいけないと思う。なぜかマスコミではこのことにはまったく触れていないようだが。
タグ: ジュセリーノ ジュセリーノ予言の真実
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宮崎を中心とした九州の何ヶ所かで日本国内では10何年ぶりかの口蹄疫の発生が確認された。
現地の関係者の方々のご苦労、あるいは心労というものは私にとっても沈痛以外の何者でもない。これは天災ではなくて人災としての要素が非常に大きいからだ。
「ジュセリーノはこの予言を公表してましたか?」という問い合わせであるが、確認作業にものすごい手間隙がかかってしまった。
自分が調べなおしたのは日本国内で発売されたジュセリーノの予言が収録されている書籍と公式HRなどに掲載されている年間の予言などだが、現状ではジュセリーノが「日本国内で口蹄疫発生」という予言はひとつもない。もしかすると(まだみつからない)といったほうがいいのかもしれないが。
というのも、「だいぶ前にジュセリーノの講演に行った」という人から「ジュセリーノは『日本で家畜の病気が蔓延するだろう』(時期不明)というようなことを言っていたような気がします」というようなメールが来ているのだ。
それ自体がまだ「?」のつく情報だが、このようなことを書いてくる人が実際にいる以上は、ここで自分は「ひとつもない」と断言するわけにもいくまいと思う。
但し前後関係からすると、ジュセリーノは日本国内での口蹄疫の発生の予知の公表などはまったく考えてはいなかったはずだ。これは間違いない。
そもそもジュセリーノは口蹄疫の発生と蔓延の仕組みに関して大きな間違い(勘違い)を犯しているということはこのブログでも取り上げたことがある。
今回の日本での口蹄疫の発生がそうなのだが、この口蹄疫の発生もまた政治家の失態が招いた人災としての側面が大きい。
ひとつは、現場では不安視されていたにもかかわらず、今までストップしていた韓国・中国からの牛の輸入を、功をあせった政治家たちが解禁を許可したために、(検査システムのゆるい韓国あたりから)感染牛(水牛といわれている)が日本国内に入って来たとする見方がなされていることだ。
もうひとつの政治家の失態とは、現場から口蹄疫感染の第一例が報告されたにもかかわらず、政府の対応が後手に回ったことだった。
その理由が情けない。担当大臣がメキシコに外遊中で事態の把握のために二度手間三度手間となり現地への対応のための連絡が10日近くも遅れたとなっている。
それどころか、このような事態(担当大臣の長期海外旅行)のときは国内に残留している閣僚が緊急に担当を兼任するのが常識だというのにその申し渡しもされていなかったという。
これは「不慣れだったので」とか「なにぶんはじめてのことでしたので」というような言い訳が許されるようなレベルではない。明かな怠慢としかいいようがない。
これと同じようなことはこれからも起きてしまうのだろう。だから自分は今宮崎で起きていることは「決して他人事ではない」と言う。
☆
ジュセリーノの口蹄疫の予言は毎年見ることができる。ブラジルでは毎年のように起きていることだからだ。
ところが「ブラジルで口蹄疫の発生」のジュセリーノ予言は、何故か他の(たとえば鳥インフルエンザなどの)疫病の蔓延と同じように、その発生時期に季節性が見て取れる。
簡単にいうと、1月と2月(ブラジルでは夏)になぜか「ブラジルの○○で口蹄疫が発生」という予言が集中してみられるのだ。
今回の日本での発生の感染源であると推定されている中国と韓国の発生時期をみれば一目瞭然なのであるが、ともに1月から3月と冬からのまだ寒い時期に感染が確認されている。
ブラジルやアルゼンチンでも、日本-つまり北半球とは季節が逆になる8月の冬の季節にでも口蹄疫の発生と蔓延は頻繁に起きている。
口蹄疫の感染には季節はあまり関係がない。少なくとも、寒いからであるとか、あるいは暑いから発生するというものではない。コレラであるとかの伝染病とは違うものだ。
では何故ジュセリーノは口蹄疫という家畜病罹患には季節性があると思い込んでいるのか。あるいはジュセリーノの口蹄疫の予言には季節性があるのだろうか。
これはブラジルにいる日系人のかたからのお手紙で知ったことなのだが、かつてジュセリーノは2005年発表の2006年の年間予言の中に「口蹄疫の発生」というものを入れ込んで、これが時期的に当たった(とみなされている)からだろうというのだ。
要するに、ジュセリーノは「過去の栄光をもう一度」とばかりに、毎年年末に出す年間予言の1月と2月(ブラジルの夏)にはこの「口蹄疫の発生」の予言を入れ込んでくるらしい。
☆
それで、ジュセリーノは「日本で口蹄疫が発生」という予言は公表したかどうかだが、今のところやはり「していなかった」と言い切れるような材料は見当たらない。
ただこれはいえると思う。ジュセリーノが口蹄疫の発生のメカニズムというものを誤解している以上は、カタチになるなにかでの公表はされていないはずだと。
上でも書いたが、口蹄疫とは季節であるとかそういうことで発生する家畜病ではないからだ。
そのほとんどが今回の宮崎のように「検疫体制の不全」であるとかむしろ人為的な要素でその国に侵入したり大量発生する。これはもうどうにも動かしようもない事実である。
今回の件で現地宮崎の体制なり対応に問題があったと責める人たちがいるが、そういう考えを持っている人たちは単に無知なだけだろう。
初動以前の段階に、宮崎以外のどこの地域にでも、この「口蹄疫」が発生する危険というものはすでにあったのだ。
今年の一月に中国で口蹄疫が発生したということがわかった時点で政府は中国(香港)・韓国から生牛(水牛を含む全ての偶蹄目)の輸入はストップしなければならなかった。
というか日本国内に進入する危険は察知されていたし、そういう案件は上がっていたものの、それをひねりつぶした政治家がいたことこそが今回の「口蹄疫の国内大発生」の全ての原因になる。
この事実からは絶対に目をそらしてはいけないと思う。なぜかマスコミではこのことにはまったく触れていないようだが。
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2010年5月15日土曜日
100515 国会で起きた超常現象について
「今世間で話題になっている国会議会で起きた超常現象」についてのメールが何通か来ている。
自分は以前「外気功」と呼ばれているような、人の体を直接触らないで倒したり引き寄せたりする奇術についてこのブログでも書いたことがある。あれは要するに人間の心理を突いて、さも何かしらのチカラがはたらいて倒れたり押したりに見えるようにしているだけである。
問題の国会で起きた「超常現象」と言われているのシーンのビデオがyouTUBEにもあった。
画面向かって中央左寄りにいる甘利明という国会議員が隣に立っていた腕組みをしている初鹿という男性議員を両手で押したところ、押された初鹿議員のうしろにいた三宅雪子議員がものすごい勢いで前にドテッという感じで転倒している。
何故これが「超常現象」かというと、転倒した三宅雪子議員が自分のすぐ隣にいた押された側の初鹿議員ではなくて、最初に初鹿議員を押した甘利議員に暴力行為を受けた(突き飛ばされた)と言っているからだ。
では、その最初に押された初鹿議員はなんて言っているかというと、これが謎に包まれているのだ。
開会が遅れたりで、やっと本会議が終わりました。昨日の内閣委員会の質疑の際に自民党の大臣経験者につき飛ばされたようで、転倒して負傷した三宅雪子議員が松葉杖で本会議に出席していました。採決で壇上に上がる時は大変そうでした。
http://twitter.com/AkiHatsushika/statuses/13905161035
この初鹿昭博という甘利明議員に直接に押された議員は、自分が押された勢いでもって三宅雪子議員が転倒したということ、つまり自分が当事者として体験した事実も記憶にないのだ。これを謎と呼ばずになんと呼べばいいのだろうか。
ふつう、自分が接触した相手があれだけの勢いで倒れこんだということは、自分に対しても相当なチカラ(押すエネルギー)が加えられたということだから記憶に残らないはずがない。その記憶(体感)すらこの初鹿議員にはないらしい。
まさに謎が謎を呼ぶような超常現象が(しかも日本の国会で、大勢のカメラの前で)起きてしまったということになる。
しかも、ビデオをスローで再生してみると、さらに多くの超自然現象が起きていることがわかる。三宅議員を前に突き倒すだけの運動エネルギー(みたいなもの)はどこから来たのかだ。
普通、このような状態で歩き出そうとした人間(片足立ちになる)が横、あるいは前方斜めから(二次的な)圧力を受けた場合、後ろの方向に尻餅をつくような形で倒れる。ビリヤードを連想するとわかりやすいかもしれない。
つまり、後ろに倒れこもうとする人間に与えられた運動エネルギーとか位置エネルギーをも帳消しにして、さらにその何倍もの運動エネルギー(のようなもの)が三宅議員の後方から加えられた(あるいは前方から引き寄せられた)ということになる。
その押す力(エネルギーみたいなもの)はどこから来たのだろうか。それがまったくわからない。
三宅議員の言い分と、この初鹿昭博議員の「証言」、そしてこの現場のビデオを見て総合的な判断を下すと、三宅雪子議員は「私は甘利議員が放った目に見えない圧力によって真後ろから突き飛ばされました」と主張しているんだなと受け取らざるを得ないことになる。
しかもだ。このような不可解な状況にもかかわらず、転倒した三宅雪子議員はすぐさまに「(初鹿議員ではなくて)最初に初鹿議員を押した甘利議員に転倒させられた(と認識をもった)」というのだから、もしかするとこの三宅雪子という人は(相手の意思を読み取る)テレパシーかなにか特殊な持ち主である可能性も浮上してくるではないか。
聞けば、民主党の国会対策委員会は、最初に初鹿議員を押した甘利議員を、三宅議員に対しても暴力行為があったとして懲罰動議にかけるといっているらしいが、何を悠長なことを言ってるのだろう。そんなことやってる場合か。
懲罰動議より先に「日本の国会で起きた超常現象の実在の証拠」として「サイエンス」とか「パリティ」といった科学論文誌に論文として提出するべきだろう。
民主党が「三宅議員は(初鹿議員にでなく)甘利議員に転倒させられたといっているということは、それはすなわち甘利議員が(単なるトリックの「外気功」ではなく)超能力の持ち主かなにかで、それが本当にこの世に実在するという前提があればことだからだ。
もし、これが甘利議員の超能力の仕業でないとしたら(つまりこの世には外気功というような超能力というものは存在しないとしたら)それはこの三宅雪子と初鹿昭博が組んだ猿芝居ということになるのだろうけれど。
2010.05.15
[追記]
この件に関するコメントがいくつか来ている。紹介できるようなものがないのが残念だが。
自分はなにも外気功というような超能力の実在前提でこのようなことを書いているのではない。
彼ら(民主党であり、三宅・初鹿両議員)の言い分は「甘利明議員は外気功というような超能力の使い手であり、そのみえないパワーを使って三宅議員を突き飛ばして転倒させて怪我を負わせた」になるのだがそれでいいのかということだ。
もちろん自分は超常現象を否定する立場にあり、この現象の真相は単に三宅と初鹿の仕組んだ猿芝居だと確信している。(偶発事故の可能性もないということ)
ただしこれが重要なことなのだが、このふたりが芝居を打ったということを証明する直接証拠らしいものもない。これも事実である。
但し傍証はいくらでも出てきている。
・そもそも三宅初鹿両議員はこの委員会に所属はしていない。三宅は自分の所属する委員会が流会になったのちに何者かの招集を受けて、ともに見学の立場で議会に入場している。
・共産党の議員からの指摘もあったが、参加資格のない見学の議員があの場所(通路)にまで足を踏み入れることがそもそも議会の進行を妨げる妨害行為になる。
・現実、初鹿議員は腕組みをして、議長席に歩み寄ろうとした甘利議員の前に立ちふさがった。(だから甘利議員は初鹿議員を押したのだ)
・一度「どけろ」といわんばかりに手で払うしぐさをした甘利議員に対して、初鹿議員はそれを拒否する意思を示すように首を横に振っているようにも見える。(甘利議員がハメられたと述懐しているのはこれを指していると思われる)
・そののちに、初鹿容疑者は甘利議員が自分を押しのけようとするのに身構えて腰を低くして前かがみの姿勢をとった。つまり、初鹿容疑者ははじめから甘利議員の通行を邪魔する目的であの場所に立っていた可能性が非常に大きいということになる。
・その他 三宅議員の「事件後」の発言に「自転である」とするものがあったという他議員の証言があったり、肝心の「診断書の内容が直接転倒事故と結びついたものとは見られないものである」とするもの…
信じられないくらいの数の疑惑が浮上してきているのは皆様も御存知であろう。
自分が思うこととは、国会がどうしたとかそういうことよりも、このような安易な仕掛けで何かを企むと結局恥じを晒すことになるというのは、テレビとかが仕立てる(インチキ)オカルトと同じだよということなのだが。
[追記 2]
事件の詳細が明らかになるにつれて、内容がジュセリーノとも超常現象からも遠く離れてきたものになってしまった。
この三宅雪子という人の言い分(証言)自体もコロコロと変わってきているし、そのままではただの「虚言癖の国会議員がいました」的な内容の記事でしかなくなる。
いやオカルトであるというもの、そもそもが人間の「虚言癖」という悲しい性と密接に関わりがある。
オカルトの謎を暴くという行為自体が実は「誰が嘘をついているのか」を暴くことでもあるし。
三宅雪子の証言内容の変節については、彼女のHPを見ることではっきりとわかることがいくつかあった。
ひとつは「押された段階で誰が自分を押したのかはわかっていた」が、どこでどうなったのか「あとから人に教えてもらった」ことになっている。
つまり、それでは(現場の状況からすると)三宅雪子は自分を突き飛ばした相手のことを誰か知らずに振り返りざま、甘利議員に向かって「ひどーい」という言葉を投げつけて、そしてそのあとで自分を押した相手が甘利議員であると教えられて知ったということになってしまうからだ。
最初の段階で、すでこの三宅雪子の態度はおかしかったということだ。
で、この一連の三宅の不可思議な行動に整合性というものを求めると、どうしても、三宅の行動が「はじめから甘利議員が自分(と初鹿議員)を突き飛ばすことが決まっていた上でのことだったという推測を強くしてしまうことになるのだが、三宅はこの自分の証言の変節というものが逆に「芝居(自作自演)ではないのか」という世間の疑いの目を強くしていることに気づいていなかったのだろうか。
[追記 3]
「先日(18日)日本テレビ朝の番組に三宅雪子議員が電話で出てました。とんだ食わせ者ですね」という意見が来た。
はなしには聞いていたが、実物を見ないことには何もいえない。今しがたその問題のシーンがyouTUBEにアップされていることを教えられて見たところだ。
こちらからの角度のほうがよりいっそう事件の真相を知るには好都合だろう。これを見ると、三宅容疑者は甘利明議員が初鹿議員を手で押すのを目で確認してから前方(彼女にとっては左ということになる)に飛び出していることになる。
つまり、彼女が「うしろから押された」といっている「後ろ」とは甘利議員の立っている側とは反対側のことになるわけだし、(はじめから誰が押したかは知っていたという供述を翻して)「あとから誰が押したかを教えられて知った」と言っていることになる。無茶苦茶である。
(映像という)事実証拠を突きつけられて、それでもこうまでして平然と嘘をつくことが出来るのはどうしてなのか。
自分などは、カルト信者による犯罪にも通じる怖さというものを感じている。
あなたもあのオウム事件のときの容疑者となったオウム真理教の信者の証言やらテレビでの発言を思い出しませんか?
にしても、番組司会の加藤浩次のいきなりの「当たってませんよね」という質問の仕方はストレート過ぎたのではないか。もちろん、それが彼の持ち味であり、また多くの視聴者の率直な感想であるというのもわかっているつもりではあるが。
2010.05.19
2010年5月13日木曜日
100513 大地震の予言についてひとことふたこと
ジュセリーノは「今月14日に東京で大地震がある」という予言を公表している。[註1]
そのためか最近再びこのブログの訪問者数が伸びている。
いつも言っていることだが、自分はこういう数字の伸びははっきりいって好きではない。
このような訪問者の伸びがあるということは、それだけ多くの日本人が不安を感じているということでもあるからだ。
しかし、ありがたいのは、今回は不安を訴えるメールであるとかコメントの数はさほど多くないということだ。
それでも50近い数のそういったコメント・メールは来ているが、以前(二年前)のような「500」だとか、あるいは「1000」という数に比べればずいぶんと減ったものだ。
それだけ皆がこのジュセリーノという予言者の真実の姿を学んだということだろうし、このようなブログをやってる立場の私にとっては喜ばしいことだと歓迎している。
まあそれでもやはり皆無ではないというのもこれもまた大きな事実なのだが。
何通かの(返事が必要だと思われる)メールに対しては御返事は差し上げた。
それにしてもだ。本来ならばこれは自分の仕事ではないはずだ。
本当ならば、こういうことをしなければならないのは「ジュセリーノ予言」をネタにして本を出したり、テレビ番組を作って放送した連中だろう。
以前は「なんで自分が連中の尻拭いのようなことまでしなければならないのだろう?」というような半分の怒りと半分の感傷を抱くこともあったが、今ではもう別のことを考えるようになっている。
はやり、日本人の誰かはこういうことをし続けなければならないのだろうし、それができるのはいまところこの日本ではただひとりこの自分だけだ。そしてそれを買って出たのはほかの誰でもない。この自分なんだよなぁというようなことだ。
まあだからこれからもどんどんとメールを送ってください、なんてね。
さて、それにしても最近特に思うのは「日本人の優しさ」というか、別の言葉でいうと「争いごとを好まない温和性」というものだ。
ジュセリーノの予言のような「まやかし予言」がこの世にはびこり、ある種のしこりのようにして奥深いところにいつまでものこってしまうのは、その一因を考えた場合、この日本人の特性である「争いを好まない温和性」というものが大いに関係しているのではないかという気がするのだ。
たとえば、例を出せば、インドネシアであるとか中国で流行りかけた「ジュセリーノ予言」があっさりと消えたのは、その国の政府が率先して「この予言を信じるな」という声明を出したからである。
日本ではジュセリーノはこのような扱いはうけていない。まあ強いていえば「過去の人」扱いではあるが、完全な意味での過去の人ではないのも事実。
自分は、こういうところがいつまでたってもジュセリーノの予言というものが人々の口の端から完全に消えることがないひとつの原因ではないのかと思っているのだ。
じゃあどうすればいいのか。それについては何度もここで書いているとおりである。
かつてジュセリーノのことを「的中率99%の予言者だ」とジュセリーノを持ち上げて紹介したマスコミすべてがちゃんとしたかたちで「あれはウソでした」と公式に認めて謝罪するしかないんじゃないかと。
そして、それをさせるのはこの自分(だけ)ではなくて、(自分を含めた)日本人すべてに課せられていることなのではないだろうか。
ジュセリーノの予言のウソに騙されて憤慨している、あるいは不安を感じたという人は、本当ならばジュセリーノの番組を作って流したテレビ朝日、日本テレビ、テレビ東京というテレビメディアに対しては抗議をするべきなのだ。
ジュセリーノの予言を肯定する内容の本を出版した「たま出版」「ソフトバンククリエイティブ」「講談社」に対して断固たる抗議するのが本当は当たり前のことなのである。
それをしないで「なんか騙されちゃったみたいだねぇ」みたいにまるで自分のせいにして黙り込むのは実はよくないことなのだ。
ちなみに、この「5月14日大地震がある」という予言が掲載されているのはテレビ東京の番組を下敷きにして一昨年「ソフトバンク」から出版された「ジュセリーノの警鐘」という本である。
この世には愚かな人間はなんぼでもいる。それは知っていたが、それでもこの「ジュセリーノの警鐘」という無茶苦茶な本を「自分がプロデュースしました」と誉れとして語る愚か者が本当に存在するとは思わなかった。しかし、いるんだよな、そういうバカヤロウがさ。
そっちのほうが私達日本人にとっては「恥」であり問題なのかもしれない。
[註1] 東京が(M7クラスの)大地震に見舞われる確率については以前ここで書いたことがある。 おおよそ100年に一度、このような大地震が東京(というか南関東)で起きているのは事実であるから、いつかは東京でこのような大地震は起きるだろう。そう見るのがごく普通の考え方になる。
しかし、ある特定された日にその大地震が起きる確率はおおざっぱに言えば「1/36500」になり、これはいつどの時点でも変わらない。もし99年間大きな地震が起きなかったからといって、その次の年の100年目に100%の確率で起きるということにはならない。
東京に住むということは毎日毎日この「1/36500」という確率と向き合って生きるということにほかならない。「1/36500」とはつまり「0.0000273」であり「0.00273%」ということだ。
しかし、この世には(特に東京に住むということは)0.00273%以上の確率で起き得る災難のほうがもっともっと多いのが大きな事実だということを忘れてはいけないと思う。
逆に言えば、ジュセリーノだって誰だって100年間毎日毎日「東京で大地震が起きる」と言ってればそのうちにその予言は的中する可能性はあるのだ。「(そういう意味で)ジュセリーノは努力不足だと思う 今の100倍以上の大地震の予言を公表しないと年にひとつの的中予言も出ない」というコメントを頂いたが。まあ実際そんなところだろうな。
[追記]
「100年に一度は正しくない」という御意見を頂いている。まあ確かに「100年に一度」という表現は正確ではない。でも皆は普通に「100年に一度は大地震が…」というでしょう。それをそのまま転用しただけで「100年に一度」は実証可能な数字からきたものではない。単なるたとえとして持ち出してきたつもりである。もちろん、「0.0000273」とか「0.00273%」というのも単に365日×100年を置き換えただけでそれ以上の深い意味はない。「ある特定の日に大地震が起きる確率」についての考え方を示してみたのだ。
関東地震 ウィキペディアでは「200年に一度」になっているが、これはあくまで相模トラフを震源とするものに限定しているからだ。
何にしても、ジュセリーノにしろ誰にしろ「5月○日に東京で大地震が起きる」と口にしても、それが本当に起きる可能性は限りなく小さいということは心にとどめるべきだろう。
また、「50近い数のメール・コメント」であるとか「500とか1000」というのはメール・コメントの数のことであって「50人」であるとか「500人とか1000人」と人数のことではない。あくまでもメール・コメントの数である。実際何人の人が「ジュセリーノの予言に不安を感じてメールやコメントを書き込んできたのかははっきりとはわからない。まあ常識的に考えて(同じ人が何通もメールを寄越しているのは確かなので)実数はその半分以下になるのではないだろうか。
[追記 2]
「100年に一度起きるか起きないかの東京直下大地震」というフレーズでいうと、ジュセリーノはわずか4年の間に「東京(関東)で大地震が起きる」という予言をすでに6回以上も事前公表している。結果はいうまでもないがすべて外れている。
中には「ジュセリーノは予言の公表が下手だな」みたいな感想を漏らすひともいる。あるいは上記で紹介したように「努力が足りない」と言ってきたひともいた。
「M.Y.C.O.」さんという方は、もしかするとマジシャンであるとか「超能力マジック」について精通している方のような気がする。
「M.Y.C.O.」さんからのメールには奇術とかマジックでごくごく普通に使われている「透視」「予知」のテクニックを学べば、少なくとも今のように(かまたのような人間にということか)トリックがバラされるようなドジは踏まないですんだだろうというようなことが書かれていた。そのメールに書かれていた予言のトリックというものを見て、自分は背筋が凍りつくような思いがした。
なるほど、「M.Y.C.O.」さんの書いているテクニックを使えば、(ジュセリーノでも誰でも)衆人監視の中で自分の予知能力を証明するひとつの方法として成立する。
しかし、よくよく考えてみたら、ジュセリーノはそのテクニックは使えないのだ。
もしジュセリーノがそれをやろうとすると、今度はジュセリーノが公表している自分のプロフィールに嘘があるということになってしまうからだ。
また、この「M.Y.C.O.」さんは一昨年の11月にテレ東で放送された「あらたなる五つの警告」という番組の「ブラジルで起きた一家殺人事件を警告したジュセリーノ」のコーナーは「ジュセリーノがヤマカワと組んだ茶番」ではなくて、「番組の制作サイドがはじめから仕込みをしていた」と主張している。(オンエアされた)画面にその決定的な証拠が写っているというのだ。
自分もこの番組のそのコーナーについて検証した記事の中で「番組が仕込んだヤラセの可能性」については触れた。番組がヤラセを仕込んだ可能性あるとだけ書いた。
なるほど、自分も言われて初めて気づいたのだが、ジュセリーノは何者かに事前に言い含められていたことをテレビカメラの前でやってしまった。そのため、このシーンがあらかじめ(自分の意思ではなくて)番組製作サイドから提案されたシナリオに沿ったものだということが丸わかりなのである。
自分は「ぎんぺい」さんという方から送っていただいたDVDで、この番組のV(ビデオ映像)をそれこそ繰り返し何度も何度もみている。そんな自分もそれにはまったく気がつかなかった。
やはりこの世には「自称予言者」のトリックを見破るというようなことをさせたら自分以上の実力の持ち主という方はなんぼでもいるようだ。
自分も、もうすこし謙虚にならないといけないなというようなことをしみじみと感じた。
さて「M.Y.C.O.」さんからの指摘であるが、もう少ししたら画像付きで(もしかして動画つきになるかもしれない)記事として載せようかと思う。今しばらくお待ちください。(2010.05.14)
※ 訂正とお詫び
長らく「M.Y.C.O.」さんの名前を「MYCO」さんと誤記してそのままにしていた。日本語表記だと「エムワイシーオー」さんになるのだそうです。謹んでお詫びいたします。
そのためか最近再びこのブログの訪問者数が伸びている。
いつも言っていることだが、自分はこういう数字の伸びははっきりいって好きではない。
このような訪問者の伸びがあるということは、それだけ多くの日本人が不安を感じているということでもあるからだ。
しかし、ありがたいのは、今回は不安を訴えるメールであるとかコメントの数はさほど多くないということだ。
それでも50近い数のそういったコメント・メールは来ているが、以前(二年前)のような「500」だとか、あるいは「1000」という数に比べればずいぶんと減ったものだ。
それだけ皆がこのジュセリーノという予言者の真実の姿を学んだということだろうし、このようなブログをやってる立場の私にとっては喜ばしいことだと歓迎している。
まあそれでもやはり皆無ではないというのもこれもまた大きな事実なのだが。
何通かの(返事が必要だと思われる)メールに対しては御返事は差し上げた。
それにしてもだ。本来ならばこれは自分の仕事ではないはずだ。
本当ならば、こういうことをしなければならないのは「ジュセリーノ予言」をネタにして本を出したり、テレビ番組を作って放送した連中だろう。
以前は「なんで自分が連中の尻拭いのようなことまでしなければならないのだろう?」というような半分の怒りと半分の感傷を抱くこともあったが、今ではもう別のことを考えるようになっている。
はやり、日本人の誰かはこういうことをし続けなければならないのだろうし、それができるのはいまところこの日本ではただひとりこの自分だけだ。そしてそれを買って出たのはほかの誰でもない。この自分なんだよなぁというようなことだ。
まあだからこれからもどんどんとメールを送ってください、なんてね。
さて、それにしても最近特に思うのは「日本人の優しさ」というか、別の言葉でいうと「争いごとを好まない温和性」というものだ。
ジュセリーノの予言のような「まやかし予言」がこの世にはびこり、ある種のしこりのようにして奥深いところにいつまでものこってしまうのは、その一因を考えた場合、この日本人の特性である「争いを好まない温和性」というものが大いに関係しているのではないかという気がするのだ。
たとえば、例を出せば、インドネシアであるとか中国で流行りかけた「ジュセリーノ予言」があっさりと消えたのは、その国の政府が率先して「この予言を信じるな」という声明を出したからである。
日本ではジュセリーノはこのような扱いはうけていない。まあ強いていえば「過去の人」扱いではあるが、完全な意味での過去の人ではないのも事実。
自分は、こういうところがいつまでたってもジュセリーノの予言というものが人々の口の端から完全に消えることがないひとつの原因ではないのかと思っているのだ。
じゃあどうすればいいのか。それについては何度もここで書いているとおりである。
かつてジュセリーノのことを「的中率99%の予言者だ」とジュセリーノを持ち上げて紹介したマスコミすべてがちゃんとしたかたちで「あれはウソでした」と公式に認めて謝罪するしかないんじゃないかと。
そして、それをさせるのはこの自分(だけ)ではなくて、(自分を含めた)日本人すべてに課せられていることなのではないだろうか。
ジュセリーノの予言のウソに騙されて憤慨している、あるいは不安を感じたという人は、本当ならばジュセリーノの番組を作って流したテレビ朝日、日本テレビ、テレビ東京というテレビメディアに対しては抗議をするべきなのだ。
ジュセリーノの予言を肯定する内容の本を出版した「たま出版」「ソフトバンククリエイティブ」「講談社」に対して断固たる抗議するのが本当は当たり前のことなのである。
それをしないで「なんか騙されちゃったみたいだねぇ」みたいにまるで自分のせいにして黙り込むのは実はよくないことなのだ。
ちなみに、この「5月14日大地震がある」という予言が掲載されているのはテレビ東京の番組を下敷きにして一昨年「ソフトバンク」から出版された「ジュセリーノの警鐘」という本である。
この世には愚かな人間はなんぼでもいる。それは知っていたが、それでもこの「ジュセリーノの警鐘」という無茶苦茶な本を「自分がプロデュースしました」と誉れとして語る愚か者が本当に存在するとは思わなかった。しかし、いるんだよな、そういうバカヤロウがさ。
そっちのほうが私達日本人にとっては「恥」であり問題なのかもしれない。
[註1] 東京が(M7クラスの)大地震に見舞われる確率については以前ここで書いたことがある。 おおよそ100年に一度、このような大地震が東京(というか南関東)で起きているのは事実であるから、いつかは東京でこのような大地震は起きるだろう。そう見るのがごく普通の考え方になる。
しかし、ある特定された日にその大地震が起きる確率はおおざっぱに言えば「1/36500」になり、これはいつどの時点でも変わらない。もし99年間大きな地震が起きなかったからといって、その次の年の100年目に100%の確率で起きるということにはならない。
東京に住むということは毎日毎日この「1/36500」という確率と向き合って生きるということにほかならない。「1/36500」とはつまり「0.0000273」であり「0.00273%」ということだ。
しかし、この世には(特に東京に住むということは)0.00273%以上の確率で起き得る災難のほうがもっともっと多いのが大きな事実だということを忘れてはいけないと思う。
逆に言えば、ジュセリーノだって誰だって100年間毎日毎日「東京で大地震が起きる」と言ってればそのうちにその予言は的中する可能性はあるのだ。「(そういう意味で)ジュセリーノは努力不足だと思う 今の100倍以上の大地震の予言を公表しないと年にひとつの的中予言も出ない」というコメントを頂いたが。まあ実際そんなところだろうな。
[追記]
「100年に一度は正しくない」という御意見を頂いている。まあ確かに「100年に一度」という表現は正確ではない。でも皆は普通に「100年に一度は大地震が…」というでしょう。それをそのまま転用しただけで「100年に一度」は実証可能な数字からきたものではない。単なるたとえとして持ち出してきたつもりである。もちろん、「0.0000273」とか「0.00273%」というのも単に365日×100年を置き換えただけでそれ以上の深い意味はない。「ある特定の日に大地震が起きる確率」についての考え方を示してみたのだ。
関東地震 ウィキペディアでは「200年に一度」になっているが、これはあくまで相模トラフを震源とするものに限定しているからだ。
何にしても、ジュセリーノにしろ誰にしろ「5月○日に東京で大地震が起きる」と口にしても、それが本当に起きる可能性は限りなく小さいということは心にとどめるべきだろう。
また、「50近い数のメール・コメント」であるとか「500とか1000」というのはメール・コメントの数のことであって「50人」であるとか「500人とか1000人」と人数のことではない。あくまでもメール・コメントの数である。実際何人の人が「ジュセリーノの予言に不安を感じてメールやコメントを書き込んできたのかははっきりとはわからない。まあ常識的に考えて(同じ人が何通もメールを寄越しているのは確かなので)実数はその半分以下になるのではないだろうか。
[追記 2]
「100年に一度起きるか起きないかの東京直下大地震」というフレーズでいうと、ジュセリーノはわずか4年の間に「東京(関東)で大地震が起きる」という予言をすでに6回以上も事前公表している。結果はいうまでもないがすべて外れている。
中には「ジュセリーノは予言の公表が下手だな」みたいな感想を漏らすひともいる。あるいは上記で紹介したように「努力が足りない」と言ってきたひともいた。
「M.Y.C.O.」さんという方は、もしかするとマジシャンであるとか「超能力マジック」について精通している方のような気がする。
「M.Y.C.O.」さんからのメールには奇術とかマジックでごくごく普通に使われている「透視」「予知」のテクニックを学べば、少なくとも今のように(かまたのような人間にということか)トリックがバラされるようなドジは踏まないですんだだろうというようなことが書かれていた。そのメールに書かれていた予言のトリックというものを見て、自分は背筋が凍りつくような思いがした。
なるほど、「M.Y.C.O.」さんの書いているテクニックを使えば、(ジュセリーノでも誰でも)衆人監視の中で自分の予知能力を証明するひとつの方法として成立する。
しかし、よくよく考えてみたら、ジュセリーノはそのテクニックは使えないのだ。
もしジュセリーノがそれをやろうとすると、今度はジュセリーノが公表している自分のプロフィールに嘘があるということになってしまうからだ。
また、この「M.Y.C.O.」さんは一昨年の11月にテレ東で放送された「あらたなる五つの警告」という番組の「ブラジルで起きた一家殺人事件を警告したジュセリーノ」のコーナーは「ジュセリーノがヤマカワと組んだ茶番」ではなくて、「番組の制作サイドがはじめから仕込みをしていた」と主張している。(オンエアされた)画面にその決定的な証拠が写っているというのだ。
自分もこの番組のそのコーナーについて検証した記事の中で「番組が仕込んだヤラセの可能性」については触れた。番組がヤラセを仕込んだ可能性あるとだけ書いた。
なるほど、自分も言われて初めて気づいたのだが、ジュセリーノは何者かに事前に言い含められていたことをテレビカメラの前でやってしまった。そのため、このシーンがあらかじめ(自分の意思ではなくて)番組製作サイドから提案されたシナリオに沿ったものだということが丸わかりなのである。
自分は「ぎんぺい」さんという方から送っていただいたDVDで、この番組のV(ビデオ映像)をそれこそ繰り返し何度も何度もみている。そんな自分もそれにはまったく気がつかなかった。
やはりこの世には「自称予言者」のトリックを見破るというようなことをさせたら自分以上の実力の持ち主という方はなんぼでもいるようだ。
自分も、もうすこし謙虚にならないといけないなというようなことをしみじみと感じた。
さて「M.Y.C.O.」さんからの指摘であるが、もう少ししたら画像付きで(もしかして動画つきになるかもしれない)記事として載せようかと思う。今しばらくお待ちください。(2010.05.14)
※ 訂正とお詫び
長らく「M.Y.C.O.」さんの名前を「MYCO」さんと誤記してそのままにしていた。日本語表記だと「エムワイシーオー」さんになるのだそうです。謹んでお詫びいたします。
2010年5月8日土曜日
100508 ニューヨーク株式大暴落とジュセリーノ予言
こんなニュースがあったために沢山のメールコメントをいただいております。
NY株続落、139ドル安
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2010050802000194.html?ref=rank
東京新聞web
たしかに、いわれて思い出したのだが、その昔(三年くらい前に)ジュセリーノはそんな感じの予言を公表していた。
一応念のためにとウィキペディアも見てみたのだが、2010年のところに
2010年6月15日 ニューヨーク株式市場が崩壊し、世界経済が危機に陥る。
というものはあった。
しかし、このウィキペディアの記述自体が実はウソである。
ウソという言い方も過酷かもしれないが、説明を加えるとこういうことになる。
ジュセリーノ(の予言)が日本に紹介されてもう三年以上が経つが、ジュセリーノはその間にこのような株式崩壊の予言をいくつもしているし、そのほとんど(註1)がすでにハズレている。
最近のでいうと昨年2009年度の年間予言の中には10以上のこのような「通貨危機」であるとか「国家破産」の予言があるのだが、どのひとつをとってもマトモに当ててはいない。これが事実なのである。
それどころか、ジュセリーノの予言のどこを見ても昨今深刻な問題として世界的にニュースになっているギリシャの金融危機の予言はない。
これが大きな事実である。もしジュセリーノが本当の意味での「予言者」ならば、このギリシャ金融危機の予言ぐらいは公開しておいて欲しいところである。
まあジュセリーノはこのようにして自分がただのニセモノの予言者である証拠を着々と積み上げているだけのハナシだ。
それにしても自分が情けないなと思うのは、ウィキペディアのこのジュセリーノ・ダ・ルースの項目の執筆をした人たちのことだ。
この項目の備考欄にこのようなことが書かれている。
現状は逼迫しているが、『未来からの警告』(p316)では2010年6月15日と記されている。
バカじゃないの。なにをして「現状は逼迫」なのでしょうか。その事実というかソースはなんなんだろう。ここはぜひとも提示してほしいところである。ちゃんとしたソースがあるのならね。
このような記述がいつまでも放置されていて、それに対して何も感じないというのはものすごく恥ずかしいことなのではないのか。
それに気づく人は誰もいなかったのだろうか。
というか「ウィキペディアって何?この予言者の出した本の宣伝のためのものなの?」みたいな呟きをしてしまう自分である。
[註1]「みち☆まり」さんによる。2009年の年間予言に「アルゼンチン発の南米の金融危機の可能性」(時期指定なし)というものがあって、それならば「まあ外れではないという程度の当たり」だそうだ。もちろんそれ以外の(期日指定の)金融危機の予言は全ハズレ状態。
[註2](他のブログで書いていることなので)御存知の方もいるかもしれないが、自分はウィキペディアの編纂をしたり、あるいは項目を新たに立ち上げることもある「ウィキペディアン」でもある。依頼をうけたり、あるいは自発的な意思でこのようなことをもう9年近く(つまりウィキペディア日本語版が立ち上がったころから)つづけている。こんな自分が言うのだから聞いて欲しいのだ。ウィキペディアの「ジュセリーノ・ダ・ルース」の項目はおかしなことになっている。他の同様のもの、似たようなものと比較してほしい。というかジュセリーノ・ダ・ルースの項目の執筆者たちは反省して、この項目をもっと事実主義に根ざした記述に改めてほしいと切に祈っている。
ウィキペディアによる「ジョセフ・マクモニーグル」の説明
[追加]
これもまた別のブログに(しつこいくらいに)書いていることになる。
最近のウィキの記述内容に対して(あるいはネット記事にもあてはまると思うのだが)時に全面的な信用というものは置いていない。
自分はウィキ執筆に臨んで「オマエにそれをやる資格はあるのか?」と常に自問自答を繰り返している。
もちろん、それは「自分のすることは公共の利益に適っているのか。反してはいないか」という過去の自責と自省・反省というものがあるからだ。
だから今までも自分はウィキに関しては(依頼をうけたものは別にして)自分にその資格なしと断じたものについては執筆も項目の立ち上げも慎んできた。
ウィキの「ジュセリーノ・ダ・ルース」の項目に対しても同じことで、自分がこの項目の執筆を謹んできたのは、自分が自分の名前でその項目に手を入れてしまうとどうなるかがわかるからだ。
まずまちがいなく頻繁なる「書き換え合戦」が起きる。そしてそれは多くの利用者の利益に反することにつながってしまう。
それがわかっているから自分は「ジュセリーノ・ダ・ルース」の項目には手を入れない。そういうことだ。
というか、自分が「ウィキで書かれていることを丸呑みにするな」といつも以上に強調するのは、自分がウィキの執筆者として今まで何度も心無い執筆者にイヤな目に遭わされてきた過去があるからでもある。
はっきりいうと、最近のウィキペディア執筆者の質というものはかなり落ちてきているし、それは(最近の)ジュセリーノの項目を見て感じることである。
[追記2]
何故「現状は逼迫しているが、『未来からの警告』(p316)では2010年6月15日と記されている。」と備考欄に書き込むことが「バカなこと」になるのかの説明を求めるコメントが何通か来た。
んー、こういうことまでも説明しなければならないのか。しかたないのう。
それでは説明しよう。まず、ジュセリーノのこの予言は何についての予言であるのかということが重要になる。
言うまでもない。ニューヨーク株式市場の崩壊についての予言である。ジュセリーノのこの予言は「ニューヨークの株式市況が崩壊して」それがきっかけとなって、結果として「世界経済が崩壊する」と言っている。原因と結果でいうのならば、原因がニューヨークの株式市場であって結果が世界経済の崩壊である。
では逼迫(ひっぱく)するというのは何のことなのであろう。言い換えれば、主語は何だということだ。
当然この予言は「ニューヨークの株式市場についての予言」であるから、ここで逼迫しているというのは「ニューヨークの株式市場」のことでなければならない。もし逼迫していると言っているのが「世界経済の崩壊(の危機)」のことならば、この予言の備考覧にあえて書くことではないだろう。そういうことを自分は指して「バカなこと」と言った(書いた)のだ。
また、原因と結果の関係で言った場合に、もし「世界経済危機が原因でその結果ニューヨークの株式市場が崩壊」だったら、それはもうジュセリーノの予言とはまったく関係のない出来事が起きたということになるので、そもそも備考欄で「(世界経済が)逼迫しているが…」の記述は必要ないということになる。
要するに、(主語が)どちらの場合にしても、備考欄に書かれている「事態は逼迫しているが…」以降の記述はまったく不必要なものになる。
だから自分は、この記述の主が「ニューヨークの株式市場が崩壊して世界経済が危機になる事態が逼迫している」と見るのならば「そのソースを出せ」と言った(書いた)のだ。
いったいどこに「ニューヨーク株式市場(崩壊)がきっかけとなり世界経済が危機になる」という事態が逼迫しているというソースが存在するのだろう。
オカルティストのHPとかブログなのか、それとも2ちゃんねるの書き込みなのか。
自分はウィキペディアにこのようなソースの存在しないただの妄想を面白がって書くような奴は即刻退場すべきだと考えている。
もちろんそれは上でも述べたとおりで「何が公共の利益なのか」であるとか「何が公共の利益に背くか」と常に自問自答しながらウィキペディア執筆をしているからであり、そういう面白がてらにウィキペディアに無責任な書き込みをする人間のせいで迷惑を蒙ったことが何度となくあったからだ。
NY株続落、139ドル安
http://www.tokyo-np.co.jp/article/economics/news/CK2010050802000194.html?ref=rank
東京新聞web
たしかに、いわれて思い出したのだが、その昔(三年くらい前に)ジュセリーノはそんな感じの予言を公表していた。
一応念のためにとウィキペディアも見てみたのだが、2010年のところに
2010年6月15日 ニューヨーク株式市場が崩壊し、世界経済が危機に陥る。
というものはあった。
しかし、このウィキペディアの記述自体が実はウソである。
ウソという言い方も過酷かもしれないが、説明を加えるとこういうことになる。
ジュセリーノ(の予言)が日本に紹介されてもう三年以上が経つが、ジュセリーノはその間にこのような株式崩壊の予言をいくつもしているし、そのほとんど(註1)がすでにハズレている。
最近のでいうと昨年2009年度の年間予言の中には10以上のこのような「通貨危機」であるとか「国家破産」の予言があるのだが、どのひとつをとってもマトモに当ててはいない。これが事実なのである。
それどころか、ジュセリーノの予言のどこを見ても昨今深刻な問題として世界的にニュースになっているギリシャの金融危機の予言はない。
これが大きな事実である。もしジュセリーノが本当の意味での「予言者」ならば、このギリシャ金融危機の予言ぐらいは公開しておいて欲しいところである。
まあジュセリーノはこのようにして自分がただのニセモノの予言者である証拠を着々と積み上げているだけのハナシだ。
それにしても自分が情けないなと思うのは、ウィキペディアのこのジュセリーノ・ダ・ルースの項目の執筆をした人たちのことだ。
この項目の備考欄にこのようなことが書かれている。
現状は逼迫しているが、『未来からの警告』(p316)では2010年6月15日と記されている。
バカじゃないの。なにをして「現状は逼迫」なのでしょうか。その事実というかソースはなんなんだろう。ここはぜひとも提示してほしいところである。ちゃんとしたソースがあるのならね。
このような記述がいつまでも放置されていて、それに対して何も感じないというのはものすごく恥ずかしいことなのではないのか。
それに気づく人は誰もいなかったのだろうか。
というか「ウィキペディアって何?この予言者の出した本の宣伝のためのものなの?」みたいな呟きをしてしまう自分である。
[註1]「みち☆まり」さんによる。2009年の年間予言に「アルゼンチン発の南米の金融危機の可能性」(時期指定なし)というものがあって、それならば「まあ外れではないという程度の当たり」だそうだ。もちろんそれ以外の(期日指定の)金融危機の予言は全ハズレ状態。
[註2](他のブログで書いていることなので)御存知の方もいるかもしれないが、自分はウィキペディアの編纂をしたり、あるいは項目を新たに立ち上げることもある「ウィキペディアン」でもある。依頼をうけたり、あるいは自発的な意思でこのようなことをもう9年近く(つまりウィキペディア日本語版が立ち上がったころから)つづけている。こんな自分が言うのだから聞いて欲しいのだ。ウィキペディアの「ジュセリーノ・ダ・ルース」の項目はおかしなことになっている。他の同様のもの、似たようなものと比較してほしい。というかジュセリーノ・ダ・ルースの項目の執筆者たちは反省して、この項目をもっと事実主義に根ざした記述に改めてほしいと切に祈っている。
ウィキペディアによる「ジョセフ・マクモニーグル」の説明
[追加]
これもまた別のブログに(しつこいくらいに)書いていることになる。
最近のウィキの記述内容に対して(あるいはネット記事にもあてはまると思うのだが)時に全面的な信用というものは置いていない。
自分はウィキ執筆に臨んで「オマエにそれをやる資格はあるのか?」と常に自問自答を繰り返している。
もちろん、それは「自分のすることは公共の利益に適っているのか。反してはいないか」という過去の自責と自省・反省というものがあるからだ。
だから今までも自分はウィキに関しては(依頼をうけたものは別にして)自分にその資格なしと断じたものについては執筆も項目の立ち上げも慎んできた。
ウィキの「ジュセリーノ・ダ・ルース」の項目に対しても同じことで、自分がこの項目の執筆を謹んできたのは、自分が自分の名前でその項目に手を入れてしまうとどうなるかがわかるからだ。
まずまちがいなく頻繁なる「書き換え合戦」が起きる。そしてそれは多くの利用者の利益に反することにつながってしまう。
それがわかっているから自分は「ジュセリーノ・ダ・ルース」の項目には手を入れない。そういうことだ。
というか、自分が「ウィキで書かれていることを丸呑みにするな」といつも以上に強調するのは、自分がウィキの執筆者として今まで何度も心無い執筆者にイヤな目に遭わされてきた過去があるからでもある。
はっきりいうと、最近のウィキペディア執筆者の質というものはかなり落ちてきているし、それは(最近の)ジュセリーノの項目を見て感じることである。
[追記2]
何故「現状は逼迫しているが、『未来からの警告』(p316)では2010年6月15日と記されている。」と備考欄に書き込むことが「バカなこと」になるのかの説明を求めるコメントが何通か来た。
んー、こういうことまでも説明しなければならないのか。しかたないのう。
それでは説明しよう。まず、ジュセリーノのこの予言は何についての予言であるのかということが重要になる。
言うまでもない。ニューヨーク株式市場の崩壊についての予言である。ジュセリーノのこの予言は「ニューヨークの株式市況が崩壊して」それがきっかけとなって、結果として「世界経済が崩壊する」と言っている。原因と結果でいうのならば、原因がニューヨークの株式市場であって結果が世界経済の崩壊である。
では逼迫(ひっぱく)するというのは何のことなのであろう。言い換えれば、主語は何だということだ。
当然この予言は「ニューヨークの株式市場についての予言」であるから、ここで逼迫しているというのは「ニューヨークの株式市場」のことでなければならない。もし逼迫していると言っているのが「世界経済の崩壊(の危機)」のことならば、この予言の備考覧にあえて書くことではないだろう。そういうことを自分は指して「バカなこと」と言った(書いた)のだ。
また、原因と結果の関係で言った場合に、もし「世界経済危機が原因でその結果ニューヨークの株式市場が崩壊」だったら、それはもうジュセリーノの予言とはまったく関係のない出来事が起きたということになるので、そもそも備考欄で「(世界経済が)逼迫しているが…」の記述は必要ないということになる。
要するに、(主語が)どちらの場合にしても、備考欄に書かれている「事態は逼迫しているが…」以降の記述はまったく不必要なものになる。
だから自分は、この記述の主が「ニューヨークの株式市場が崩壊して世界経済が危機になる事態が逼迫している」と見るのならば「そのソースを出せ」と言った(書いた)のだ。
いったいどこに「ニューヨーク株式市場(崩壊)がきっかけとなり世界経済が危機になる」という事態が逼迫しているというソースが存在するのだろう。
オカルティストのHPとかブログなのか、それとも2ちゃんねるの書き込みなのか。
自分はウィキペディアにこのようなソースの存在しないただの妄想を面白がって書くような奴は即刻退場すべきだと考えている。
もちろんそれは上でも述べたとおりで「何が公共の利益なのか」であるとか「何が公共の利益に背くか」と常に自問自答しながらウィキペディア執筆をしているからであり、そういう面白がてらにウィキペディアに無責任な書き込みをする人間のせいで迷惑を蒙ったことが何度となくあったからだ。
2010年5月3日月曜日
100503 三年経って変わったことと全然かわっていないこと
定期的に同じようなことを書いているが、今尚止むことなく同じような内容のメール・コメントが寄せられて来るためだ。御容赦願いたい。
さて、自分はなにもマスコミで取り上げられて自分が有名になったり、金儲けの為にこのブログをやっているのではない。また、本を出そうとかそういう狙いがあったわけでもない。
このブログ「ジュセリーノ予言の真実」は、自分が(軽い動機で)2007年1月に書いたジュセリーノに関する記事に対して多くの人たちから寄せられたメールやコメントに困惑したところからはじまった。
多くの人たちが2006年12月に放送したテレビ朝日の番組を見て、このジュセリーノの予言というものを本気で本物だと捉えていた。そしてジュセリーノなるブラジル人の口から発せられた地震の予言に対して不安や恐怖というものを感じていたのである。
そして、自分が最初にジュセリーノの予言について書いた記事とは、ジュセリーノの予言そのものに対する検証・批判ではなくて、放送されたテレビ番組のウソを暴露するものだったのだ。
その最初に書いた記事を読んでもらえればわかることだが、要するに、自分が記事で書いたことは「あの番組はウソだらけだからまともに受け取るな」ということだった。
そうしたら、それからしばらくしてからだが、自分のところには沢山のメール・コメントが来るようになったのだ。
そのテレビ朝日の番組を見て不安に駆られてジュセリーノの予言について知りたいとインターネットで検索をしてこのブログにたどり着いた人たちからの感謝のメール・コメントであった。
その届いたメールの中には「(2007年の)三月に東京を脱け出て田舎に戻ろうと思っていました」であるとか、「あれからもう寝れなくて困っています」という体調不良に悩む人、「地球と人類の未来に絶望して中絶することも考えていた」という妊娠中の女性からのものもあったくらいだった。
これも時々書いていることだが、自分の周囲には、かつてこのような(日本の)マスコミがでっちあげた「予言」の第一ケースであった「ノストラダムスの予言」の間接的な被害を蒙った知人友人が何人もいた。
オウムによる地下鉄サリン事件の被害者であるとか、あるいは家族がオウムに入信してしまい、そしてそこから引き離すのに苦労したという人たちが身近にいたのだ。
それだけではない。その地下鉄サリン事件が起きた1995年の三月ころ、自分は地下鉄を通勤利用する人間であり、事件のおきた3月20日も早朝6時ころに代々木上原駅から千代田線で北千住駅を利用している。
「たられば」は禁物だが、自分もまたあの地下鉄サリン事件の被害者になっていた可能性だってまったくのゼロではないのだ。
送られてきた多くのメールやコメントをひとつひとつ見てゆくうちにそのときのことが胸をよぎったのだ。
で、自分の出来ることとはなんなんだろうというようなことを考えはじめて、そして考え続け、考え抜いて出した結論、それが「今度は日和らないでおこう。黙って見過ごすのは今回はナシにしよう」ということだ。自分はそういう決断をした。
それがそもそもこのブログをジュセリーノの予言という嘘というものに特化させた理由だ。(2010.05.03)
2
いつぞやここでも取り上げたコメントだが、「(ジュセリーノ予言の嘘を止めたいというのならば)ブログなんてやってないでテレビ局や(本を出した)たま出版にメール出すなどして直接文句を言えばいいじゃない」という意見を頂いている。
最近またもこういった感じのコメントが来るようになった。
んー、どこから説明すればいいのだろう?
誤解を解くためにこれから言っておこうか。
まず、自分はこれらのテレビ局と出版社に対してまったく何も言わなかったというわけではない。
まず、2006年暮に「超常現象スペシャル」というジュセリーノを紹介した番組を放送したテレビ朝日に対して(計)二通のメールを送っている。
そのうちの一通はこのブログでその文面を公開しているとおりで、ジュセリーノの予言だけではなくて番組で取り上げた「気の存在」を証明するとした「科学的な実験」というものが、実は画面合成によって作られた捏造であることも含めての番組に対する批判である。
そしてここでは公開はしなかったが、もう一通は合名によるもので「ジュセリーノの予言」は実はブラジルではすでにその虚構が暴かれていたこと、そして番組ではジュセリーノが公表した予言のほとんどが外れていることを隠して作られているということを告発するものである。
テレビ朝日側からはなんの音沙汰もなかったのだが。
また「たま出版」に対しても都合3通ほどの警告のメールを送っている。
2007年3月に出た「未来からの警告」の中にある嘘(ジュセリーノの嘘だけではなくて監修者である韮澤潤一郎の嘘だ)について、読者に対して謝罪と訂正の必要があるということを説いたものだ。
これもまったく無視されたが。いや、無視するどころではない。なんと韮澤潤一郎(敬称略)はこういう内容のメールが何通も届いていたにもかかわらず、これらのメール手紙類をなかったこととして、それどころか「自分は一年後にそれを知った」という新たなウソというものをついているザマである。
こういう人たちに対してメディアテラシーを説くということが、実はものすごくむなしいのだということだけは痛切に知っただけでも収穫はあったとすべきなのかもしれないが。
(これは繰り返しになるが)少なくともこれだけは言っておく。
自分はこれらのテレビ局・出版社に対して直接何もいわなかったというのでは決してないのだ。
(2010.05.05)
3
もちろん黙殺されたからといってそれを悲しんだりあるいは怒ってみたりしたというのではない。そんなのははじめからわかっていたことでもあるし。
ただ自分としては彼らにわかってもらいたいことはあった。
彼らのやっている番組作りや本づくりの手法というものはすで時代遅れだということをだ。
それこそもし20年も前ならばこういうオカルト番組もある種の「半フィクション物」として成立はしていたしそれなりに視聴率の取れるものだった。これは事実だ。
でもこの2000年代にこういった番組の手法はもう通用しない。そういう時代になったのだ。
彼らはそのことを知らない。あるいは認めようとはしないようだ。
そのいい例がひとつあった。いい例というのもへんな言い方になるが。
(2010.05.07)
4
昨夏放送された「超常現象スペシャル」のシリーズ第何弾目になるのかはしらないが、その番組の中で扱われていたオカルト物件について自分はこのブログで番組の嘘ばらしのようなことをした。
特に、その中のひとつである「ミサイルを撃墜するUFOの映像」というものが、実はただ単に目撃談をもとにして再現されたアニメであることを暴露した記事についてはかなりの反響があった。是非両論のだ。
非難する論調のメール・コメントをより多く頂いた印象がある。
単純に「所詮お笑いでしょうこんなの。なのに何故そうムキになって暴露したり否定したりするのでしょうか?」というようなものから「完全な営業妨害行為だから記事を削除すべき」というようなむしろこちらが「なんで?」と聞きたくなるような感じの強い憤慨を示したものとかそれはいろいろあった。
90713 笑えないお笑い番組 テレ朝の超常現象特番のことだが
その記事の中でも繰り返し強調したことなのだが、自分が言っているのは放送された番組が「お笑い番組としては失格だろう」ということだ。そして何故お笑い番組として失格なのかを懇切丁寧に説明したつもりであった。
これは伝聞のまた伝聞でしかないのだが、どうも、この記事がそのテレビ朝日の番組関係者の目にとまり、この記事に対して激怒したらしい。[註1]
もしそれが事実という意味で本当のことならば、つまりその記事を見て激怒したというのが事実だったならば、それは非常に喜ばしいことだと自分は捉えている。[註2]
何故ならば、それ(彼らを怒らせること)が自分の目的のひとつでもあったからだ。
何故そんなことをするかというと(言うまでもないことだが)番組の内容の向上に繋がればと思うところがあるからだ。
要するに、このシリーズ番組を再び(本当の意味での)お笑い番組として再生させるきっかけになればということなのだが。まあかれらにすれば大きなお世話といったところなんだろうが。
(2010.05.08)
5
とにかく昨夏放送されたその番組を見てわかったこと、それは彼ら(オカルト番組を作る人たち)はまだ全然懲りていないということだった。もしかすると、彼らはある種の自家中毒に陥った中毒患者と同じなのかもしれない。
自分はなにもオカルト番組がいけないというつもりはないし、言ってもいない。
ただ、すでにネタバレしているような、真相が知れ渡っているような古いオカルト物件を知らんぷりして再利用したり、番組側が自分の手で「インチキオカルト」をでっち上げるのは明らかにモラルに違反しているだろうし、それで「全然笑えないお笑い番組」にしていることを指して「失格だ」と言っている。
それを即刻改めよと強く主張しているのだし、それが伝わらないのならば、このような強行手段(つまり本来ならば度の過ぎたようなネタバレをすること)も取るよということなのだが。
果たしてこれはいつまで続くのかそれは自分にもよくわからない。わからないがこのようなはなしも漏れ伝わってきている。
昨夏放送のその番組では、放送直前になって突然カットされたビデオシーンというものが大量にあるというのは自分も知っていたが、その内容を克明にリポートしてくださった方(もちろんテレビ朝日の関係者の方である)がいたのだ。
それを見て、そしてそのあと朝方のニュースでマスコミの囲み取材に対して、うつろなまなざし、震える声で「五月決着」を繰り返す鳩山由紀夫の顔を見ると、世の中はずいぶんと困ったことになっているんだなというようなことをしみじみと感じている自分である。(つづく)
[註1]それどころか、実は自分はこの番組の出演者・番組関係者からメールやコメントを貰っている。
[註2]彼ら、つまりテレビ朝日の番組制作の当事者(オフィス・トゥー・ワンという番組制作プロダクションの関係者である可能性を含めて)がこのブログの存在を知っているというようなことは前々から伝え聞いてはいた。今にして思えば、思い当たるHNの人たちもいたし、その内容からも「ははん、これはもしかすると内部の人間からのコメントだな」と感じるようなものもあったことはあった。というのも、何を勘違いしたのか、後に日本テレビで放送されたみのもんた司会の特番の内容についてもふれていた同一HNのコメントもあったからだ
※追記※
(記事を出してから)何通かの「番組関係者」を名乗る人からのメールがあった。ほとんどのメールドメインがwebメールなので果たしてすべて本物なのか、どれが本物なのかかどうかは今の時点ではわからない。というのも、それらのメールに書かれていることを並べると、そこには大きな矛盾がいくつも存在するのだ。
まあ、ここでそれらのメールを公表するのはルール違反にもなるし、自分の信義にもかかわることになるので、あくまでも「事象」として取り上げるとするが、こんな感じだ。
あるメールには「番組制作は(ブログで書かれていることぐらい)わかっているし、エンタメ(=お笑い番組という意味だろう)の方向をだしている」と書かれており、一方、別のメールには「(UFO映像が再現アニメであることは)ブログで指摘されて初めて知った次第です」と述べている。
まあこれをどう考えるのは非常に難しいことだし断定はできないだろう。
単純に考えれば、どちらかがあるいは両方ともに番組関係者を名乗っただけのニセメールの可能性ということになるだろうし、そこのところは今の段階では断言はできない。
しかし、ところがこういう矛盾した内容になる番組関係者を名乗るメール群であるが
「立場を越えて」というかなんというのか、共通して書いてきていることもあるからまた困る。まあ困ることでもないのだけれど。
なにかというと、それが前述した「番組製作のトップはこのブログの存在をウザがっている」ということだし「あるいは怒って(激怒と表現したものもある)いますよ」ということなのだが。
まあだから自分としても「もし本当ならば」という前提で「それが事実だという意味で本当のことならば、つまりその記事を見て激怒したというのが事実だったならば」みたいなまどろっこしい書き方をするしかないし、その上で「それが本当ならば非常に喜ばしいことだと自分は捉えている」みたいな、書いている自分さえも何を言いたいのかがよくわからないような書き方になるのだけれども。
さて、自分はなにもマスコミで取り上げられて自分が有名になったり、金儲けの為にこのブログをやっているのではない。また、本を出そうとかそういう狙いがあったわけでもない。
このブログ「ジュセリーノ予言の真実」は、自分が(軽い動機で)2007年1月に書いたジュセリーノに関する記事に対して多くの人たちから寄せられたメールやコメントに困惑したところからはじまった。
多くの人たちが2006年12月に放送したテレビ朝日の番組を見て、このジュセリーノの予言というものを本気で本物だと捉えていた。そしてジュセリーノなるブラジル人の口から発せられた地震の予言に対して不安や恐怖というものを感じていたのである。
そして、自分が最初にジュセリーノの予言について書いた記事とは、ジュセリーノの予言そのものに対する検証・批判ではなくて、放送されたテレビ番組のウソを暴露するものだったのだ。
その最初に書いた記事を読んでもらえればわかることだが、要するに、自分が記事で書いたことは「あの番組はウソだらけだからまともに受け取るな」ということだった。
そうしたら、それからしばらくしてからだが、自分のところには沢山のメール・コメントが来るようになったのだ。
そのテレビ朝日の番組を見て不安に駆られてジュセリーノの予言について知りたいとインターネットで検索をしてこのブログにたどり着いた人たちからの感謝のメール・コメントであった。
その届いたメールの中には「(2007年の)三月に東京を脱け出て田舎に戻ろうと思っていました」であるとか、「あれからもう寝れなくて困っています」という体調不良に悩む人、「地球と人類の未来に絶望して中絶することも考えていた」という妊娠中の女性からのものもあったくらいだった。
これも時々書いていることだが、自分の周囲には、かつてこのような(日本の)マスコミがでっちあげた「予言」の第一ケースであった「ノストラダムスの予言」の間接的な被害を蒙った知人友人が何人もいた。
オウムによる地下鉄サリン事件の被害者であるとか、あるいは家族がオウムに入信してしまい、そしてそこから引き離すのに苦労したという人たちが身近にいたのだ。
それだけではない。その地下鉄サリン事件が起きた1995年の三月ころ、自分は地下鉄を通勤利用する人間であり、事件のおきた3月20日も早朝6時ころに代々木上原駅から千代田線で北千住駅を利用している。
「たられば」は禁物だが、自分もまたあの地下鉄サリン事件の被害者になっていた可能性だってまったくのゼロではないのだ。
送られてきた多くのメールやコメントをひとつひとつ見てゆくうちにそのときのことが胸をよぎったのだ。
で、自分の出来ることとはなんなんだろうというようなことを考えはじめて、そして考え続け、考え抜いて出した結論、それが「今度は日和らないでおこう。黙って見過ごすのは今回はナシにしよう」ということだ。自分はそういう決断をした。
それがそもそもこのブログをジュセリーノの予言という嘘というものに特化させた理由だ。(2010.05.03)
2
いつぞやここでも取り上げたコメントだが、「(ジュセリーノ予言の嘘を止めたいというのならば)ブログなんてやってないでテレビ局や(本を出した)たま出版にメール出すなどして直接文句を言えばいいじゃない」という意見を頂いている。
最近またもこういった感じのコメントが来るようになった。
んー、どこから説明すればいいのだろう?
誤解を解くためにこれから言っておこうか。
まず、自分はこれらのテレビ局と出版社に対してまったく何も言わなかったというわけではない。
まず、2006年暮に「超常現象スペシャル」というジュセリーノを紹介した番組を放送したテレビ朝日に対して(計)二通のメールを送っている。
そのうちの一通はこのブログでその文面を公開しているとおりで、ジュセリーノの予言だけではなくて番組で取り上げた「気の存在」を証明するとした「科学的な実験」というものが、実は画面合成によって作られた捏造であることも含めての番組に対する批判である。
そしてここでは公開はしなかったが、もう一通は合名によるもので「ジュセリーノの予言」は実はブラジルではすでにその虚構が暴かれていたこと、そして番組ではジュセリーノが公表した予言のほとんどが外れていることを隠して作られているということを告発するものである。
テレビ朝日側からはなんの音沙汰もなかったのだが。
また「たま出版」に対しても都合3通ほどの警告のメールを送っている。
2007年3月に出た「未来からの警告」の中にある嘘(ジュセリーノの嘘だけではなくて監修者である韮澤潤一郎の嘘だ)について、読者に対して謝罪と訂正の必要があるということを説いたものだ。
これもまったく無視されたが。いや、無視するどころではない。なんと韮澤潤一郎(敬称略)はこういう内容のメールが何通も届いていたにもかかわらず、これらのメール手紙類をなかったこととして、それどころか「自分は一年後にそれを知った」という新たなウソというものをついているザマである。
こういう人たちに対してメディアテラシーを説くということが、実はものすごくむなしいのだということだけは痛切に知っただけでも収穫はあったとすべきなのかもしれないが。
(これは繰り返しになるが)少なくともこれだけは言っておく。
自分はこれらのテレビ局・出版社に対して直接何もいわなかったというのでは決してないのだ。
(2010.05.05)
3
もちろん黙殺されたからといってそれを悲しんだりあるいは怒ってみたりしたというのではない。そんなのははじめからわかっていたことでもあるし。
ただ自分としては彼らにわかってもらいたいことはあった。
彼らのやっている番組作りや本づくりの手法というものはすで時代遅れだということをだ。
それこそもし20年も前ならばこういうオカルト番組もある種の「半フィクション物」として成立はしていたしそれなりに視聴率の取れるものだった。これは事実だ。
でもこの2000年代にこういった番組の手法はもう通用しない。そういう時代になったのだ。
彼らはそのことを知らない。あるいは認めようとはしないようだ。
そのいい例がひとつあった。いい例というのもへんな言い方になるが。
(2010.05.07)
4
昨夏放送された「超常現象スペシャル」のシリーズ第何弾目になるのかはしらないが、その番組の中で扱われていたオカルト物件について自分はこのブログで番組の嘘ばらしのようなことをした。
特に、その中のひとつである「ミサイルを撃墜するUFOの映像」というものが、実はただ単に目撃談をもとにして再現されたアニメであることを暴露した記事についてはかなりの反響があった。是非両論のだ。
非難する論調のメール・コメントをより多く頂いた印象がある。
単純に「所詮お笑いでしょうこんなの。なのに何故そうムキになって暴露したり否定したりするのでしょうか?」というようなものから「完全な営業妨害行為だから記事を削除すべき」というようなむしろこちらが「なんで?」と聞きたくなるような感じの強い憤慨を示したものとかそれはいろいろあった。
90713 笑えないお笑い番組 テレ朝の超常現象特番のことだが
その記事の中でも繰り返し強調したことなのだが、自分が言っているのは放送された番組が「お笑い番組としては失格だろう」ということだ。そして何故お笑い番組として失格なのかを懇切丁寧に説明したつもりであった。
これは伝聞のまた伝聞でしかないのだが、どうも、この記事がそのテレビ朝日の番組関係者の目にとまり、この記事に対して激怒したらしい。[註1]
もしそれが事実という意味で本当のことならば、つまりその記事を見て激怒したというのが事実だったならば、それは非常に喜ばしいことだと自分は捉えている。[註2]
何故ならば、それ(彼らを怒らせること)が自分の目的のひとつでもあったからだ。
何故そんなことをするかというと(言うまでもないことだが)番組の内容の向上に繋がればと思うところがあるからだ。
要するに、このシリーズ番組を再び(本当の意味での)お笑い番組として再生させるきっかけになればということなのだが。まあかれらにすれば大きなお世話といったところなんだろうが。
(2010.05.08)
5
とにかく昨夏放送されたその番組を見てわかったこと、それは彼ら(オカルト番組を作る人たち)はまだ全然懲りていないということだった。もしかすると、彼らはある種の自家中毒に陥った中毒患者と同じなのかもしれない。
自分はなにもオカルト番組がいけないというつもりはないし、言ってもいない。
ただ、すでにネタバレしているような、真相が知れ渡っているような古いオカルト物件を知らんぷりして再利用したり、番組側が自分の手で「インチキオカルト」をでっち上げるのは明らかにモラルに違反しているだろうし、それで「全然笑えないお笑い番組」にしていることを指して「失格だ」と言っている。
それを即刻改めよと強く主張しているのだし、それが伝わらないのならば、このような強行手段(つまり本来ならば度の過ぎたようなネタバレをすること)も取るよということなのだが。
果たしてこれはいつまで続くのかそれは自分にもよくわからない。わからないがこのようなはなしも漏れ伝わってきている。
昨夏放送のその番組では、放送直前になって突然カットされたビデオシーンというものが大量にあるというのは自分も知っていたが、その内容を克明にリポートしてくださった方(もちろんテレビ朝日の関係者の方である)がいたのだ。
それを見て、そしてそのあと朝方のニュースでマスコミの囲み取材に対して、うつろなまなざし、震える声で「五月決着」を繰り返す鳩山由紀夫の顔を見ると、世の中はずいぶんと困ったことになっているんだなというようなことをしみじみと感じている自分である。(つづく)
[註1]それどころか、実は自分はこの番組の出演者・番組関係者からメールやコメントを貰っている。
[註2]彼ら、つまりテレビ朝日の番組制作の当事者(オフィス・トゥー・ワンという番組制作プロダクションの関係者である可能性を含めて)がこのブログの存在を知っているというようなことは前々から伝え聞いてはいた。今にして思えば、思い当たるHNの人たちもいたし、その内容からも「ははん、これはもしかすると内部の人間からのコメントだな」と感じるようなものもあったことはあった。というのも、何を勘違いしたのか、後に日本テレビで放送されたみのもんた司会の特番の内容についてもふれていた同一HNのコメントもあったからだ
※追記※
(記事を出してから)何通かの「番組関係者」を名乗る人からのメールがあった。ほとんどのメールドメインがwebメールなので果たしてすべて本物なのか、どれが本物なのかかどうかは今の時点ではわからない。というのも、それらのメールに書かれていることを並べると、そこには大きな矛盾がいくつも存在するのだ。
まあ、ここでそれらのメールを公表するのはルール違反にもなるし、自分の信義にもかかわることになるので、あくまでも「事象」として取り上げるとするが、こんな感じだ。
あるメールには「番組制作は(ブログで書かれていることぐらい)わかっているし、エンタメ(=お笑い番組という意味だろう)の方向をだしている」と書かれており、一方、別のメールには「(UFO映像が再現アニメであることは)ブログで指摘されて初めて知った次第です」と述べている。
まあこれをどう考えるのは非常に難しいことだし断定はできないだろう。
単純に考えれば、どちらかがあるいは両方ともに番組関係者を名乗っただけのニセメールの可能性ということになるだろうし、そこのところは今の段階では断言はできない。
しかし、ところがこういう矛盾した内容になる番組関係者を名乗るメール群であるが
「立場を越えて」というかなんというのか、共通して書いてきていることもあるからまた困る。まあ困ることでもないのだけれど。
なにかというと、それが前述した「番組製作のトップはこのブログの存在をウザがっている」ということだし「あるいは怒って(激怒と表現したものもある)いますよ」ということなのだが。
まあだから自分としても「もし本当ならば」という前提で「それが事実だという意味で本当のことならば、つまりその記事を見て激怒したというのが事実だったならば」みたいなまどろっこしい書き方をするしかないし、その上で「それが本当ならば非常に喜ばしいことだと自分は捉えている」みたいな、書いている自分さえも何を言いたいのかがよくわからないような書き方になるのだけれども。
2010年4月20日火曜日
100420 アイスランド火山噴火とジュセリーノ予言
アイスランド南部のエイヤフィヤットラヨークトル氷河にある火山地帯の噴火が世界的な話題というか深刻な問題になっている。
まあ例によってこの事件(噴火)をジュセリーノは扱っていたか?警告文は事前公表されていたのかという質問が寄せられている。数はそれほどでもないが。
というか、最近では自分で調べてそして「見当たりませんでした」という結果を送ってきてくれるような人が多くなっている。こういうのは実にありがたいことである。
というように、ジュセリーノはこの世界的な問題にまでなっているこの噴火に関する「予言」は公表はしていない。
この噴火が始まったのは昨年の暮れのころであるから、ジュセリーノにしろこういうオカルトサイドの人間がこの噴火の予言の事前警告をでっちあげることだって、実はまったく出来ないことでもないのだが。
というのも、地震学というのか火山学というのかはよくわからないが、科学というよりも一種の体験則からこの大噴火を予知していた人はいたことはいたようなのである。
そういうものまでも「オカルト」扱いするわけにはいかないのだろうが。まあ結果がズバリだとしても、それは単なる偶然という可能性だってまだ捨てきれないと思う。
それよりも自分が「あいかわらずだなぁ…」と思ったのは、「ジュセリーノが過去に『2007年の12月31日までに黒い雲で覆われる』」といっていたのはこれのことである」としたり顔でネットの掲示板で書き込むバカヤロウが本当にいたことだ。
前にもここで書いたことだけれども、ジュセリーノがそれで言っていたのは(仮にもっと宗教的な意味を込めたとしても)「自分は夢の中で黒い雲が空を覆うのを見た」ということであって、本当に黒い雲のことなのだ。そして「皆はそれ目にするだろう」と言っているのだ。
では、世界中のどれだけの人がこの火山の噴火によって「黒い雲が空を覆う」のを目にしたのだろうか。皆無だろう。現地の人が目で見たのものとはあくまでも立ち上る黒い噴煙であり、火山灰の影響で薄白く濁る空である。もし、火山噴煙が空を覆ったとしてもそれは決して「黒く」はならない。
何故黒くならないかというと、それはまあ気象であるとか地理的条件[註1]もあるが、上空を漂うような微小な火山灰の粒子ならば、その空気層は太陽光を浴びて通過したり乱反射はするだろうが、太陽光をさえぎったり吸収するほど密な構造にはならない。
時に雨雲が黒く見えるのは、それ自体(雨雲)が黒いからではなくて、(水滴が)太陽光をさえぎるほど密な構造になっているからなのだ。
それだけ大きな差というものはあるということだけは知っておいてほしい。
でないと、これからもときどき現れるだろう、擬似科学かぶれの無茶苦茶なことをいだすカルトサイドやマスコミの餌食になる危険性というものがあるからだ。
[註1]アイスランドは北緯65度あたり、つまりほとんど北極圏に位置する島である。
この時期もちろんアイスランドも春ではあるが、それでもまだ太陽の位置は低く昼は短い。
追記
案の定というかなんというのか、写真を添付してきて
「これはどう見えますか。黒い雲が空を覆いつくしているしか見えないんですけど」
というメールを送ってきた人がいた。
写真がものすごく小さいのではっきりとは見えなくて困ったが、どうやらこの人は空が暗いのと雲が黒いのの区別がついていないようだ。
追記その2
送られてきたメールについていた画像のURLを手がかりにして元画像らしきものにたどり着くことが出来た。
どうやらこれのようだ。
これならば一目でわかるだろう。
要するに、この人は「火山灰の影響で空(雲)が黒くなっている」のではなくて「太陽の位置が低くて夕方と同じに単に空が暗い」というのがわからないのだろう。
もっとわかりやすく言うと、別に火山灰の影響がなくても、北極圏でこの時期この時間帯にこのような条件で撮ればこのような写真になるのだということがわかっていないようなのだ。
実際、下の写真を見ればわかるだろう。
太陽の位置(横顔の向こう側)あたりは白く輝いている。
これが火山灰の影響で空が白く濁っているということなのだ。黒くもなんともない。
上の写真だって細かな場所をひとつひとつ見れば「家の中に明かりがともっているのは何故なのか」、あるいは「噴煙が白く見えるのは何故なのか」とかいくらでも「黒い雲」に対して突っ込みをすることは可能だろう。
さて、なんの目的があって、ありもしない「黒い雲」というものを見たり、それをジュセリーノの予言に結び付けて語りたがるのだろう。
この日本にこういう人が何人もいるのは何故なのだろう。
※この二枚の写真は、画像にも入っているとおりでReuters通信社にその権利すべてが帰属する報道写真である。
追記3
「噴煙のことを黒い雲といっているのでは」という珍解釈者がいる。
いや違うだろう。だったらこのアイスランドの火山の噴火とジュセリーノ予言を無理矢理結びつけることに必然はあるのか。これまであった火山の噴火噴煙とジュセリーノ予言とは何故結びつかないのか。というような新たな問いが生まれるからだ。
自分がここで槍玉に挙げているのは「アイスランドの火山噴火による噴煙で黒くなった空こそがジュセリーノが予言していた黒い雲のことである」と掲示板でしたり顔で書き込んでいるバカヤロウどもである。
ジュセリーノ本人は(まだ)自分の予言とこのアイスランド火山噴火を結びつけるようなことは言い出してはいない。まあ言い出したらそのときは我々は満を持して大いに笑ってやろうではないか。
追記4
それにしてもこの世には「写真」とは事実を映すものだとかたくなに信じ込んでいる人が多いのには驚かされる。
写真なんて、(仕事で写真を撮る人間=プロが一番よく知っていることなのだが)事実を映すものではない。そこには写真を撮った人間が意図するなにかが入り込む余地があるものなのだ。
ここでも何度か触れたことだけれども、UFO信者であるとか、いわゆる「陰謀論者」と呼ばれる人はそのことがわかっていない。
写真なんて取り方(解釈)によっても、あるいは撮り方(撮影の方法)によっても変わるものだし、だからこそ芸術(表現形式)のひとつとしても認められているのである。
まあこういう「幼児脳(=陰謀論者)」の人たちとハナシをしていると本当に疲れるのでございますよ。
わかりますか?くるみさん。
2010年4月15日木曜日
100415 中国青海省で地震
すでにご存知の方も多いようだが、中国青海省で大きな地震が起きて多数の死亡者が出たという。
http://www.asahi.com/international/update/0414/TKY201004140190.html
ニュース「中国でM7.1の地震 400人死亡、1万人負傷」朝日com
先んじて書いておく。
ジュセリーノの先行公表された予言の中には、中国であるとか、もちろん(チベットを含めて)青海省で地震というようなものはひとつもない。
ジュセリーノは毎月世界中のどこかで大地震が起きるという予言群を公表しているわけで、つまり二重の意味で大外ればかりということになる。
一応、今年四月の地震予言の分だけを書き抜いておくとする。
59 – ギリシャで M6.0
61 – コンゴ(人民共和国)M6.5
62 – 日本のセンダイ M6.0
64 – 2010年4月20日 イリノイ(合衆国か)M6.0
69 – ソロモン(諸島)4月11日前後?に M8.0
73 – イラン 4月7日(地震規模は書かれていない)
今でも懲りもせずにジュセリーノは毎月毎月これだけの数の地震予言を公表しているので、当然二ヶ月や三ヶ月にひとつくらいは「当たったかな?」とみえてしまうものでてくる。なにしろジュセリーノが地震が起きると言っている地域は世界的にも有名な地震多発地域か、でなければ近年大きな地震のあったところばかりを指定してくるからだ。
Sendaiというのは宮城の仙台のことのようだ。(県名ぐらいちゃんと書けって)
はなしは変わるが、三月中にジュセリーノが来日するという噂があったのだが、結局
お流れになったようだ。来日の目的は講演会と、そしてプロモート活動だとかいわれていたが。
その後どうなったのだろうか。まあ「来るなら来い」ぐらいの気持ちでいますけどね、最近は。
http://www.asahi.com/international/update/0414/TKY201004140190.html
ニュース「中国でM7.1の地震 400人死亡、1万人負傷」朝日com
先んじて書いておく。
ジュセリーノの先行公表された予言の中には、中国であるとか、もちろん(チベットを含めて)青海省で地震というようなものはひとつもない。
ジュセリーノは毎月世界中のどこかで大地震が起きるという予言群を公表しているわけで、つまり二重の意味で大外ればかりということになる。
一応、今年四月の地震予言の分だけを書き抜いておくとする。
59 – ギリシャで M6.0
61 – コンゴ(人民共和国)M6.5
62 – 日本のセンダイ M6.0
64 – 2010年4月20日 イリノイ(合衆国か)M6.0
69 – ソロモン(諸島)4月11日前後?に M8.0
73 – イラン 4月7日(地震規模は書かれていない)
今でも懲りもせずにジュセリーノは毎月毎月これだけの数の地震予言を公表しているので、当然二ヶ月や三ヶ月にひとつくらいは「当たったかな?」とみえてしまうものでてくる。なにしろジュセリーノが地震が起きると言っている地域は世界的にも有名な地震多発地域か、でなければ近年大きな地震のあったところばかりを指定してくるからだ。
Sendaiというのは宮城の仙台のことのようだ。(県名ぐらいちゃんと書けって)
はなしは変わるが、三月中にジュセリーノが来日するという噂があったのだが、結局
お流れになったようだ。来日の目的は講演会と、そしてプロモート活動だとかいわれていたが。
その後どうなったのだろうか。まあ「来るなら来い」ぐらいの気持ちでいますけどね、最近は。
2010年4月13日火曜日
100413 民主党は靖国参拝をしない党ではないということ(重複)
早稲田大学の大槻教授がブログで民主党支持を表明しているのですが、その理由がちょっとおかしいんですねというコメントが来ている。しかも結構な数が。
誰がどの政党を支持しようとも、あるいは、それを表明したからといって、それにいちいち何かを言うようなことはしたくないし、このブログはそういうもの(=政治について語るもの)でもない。
しかし、このブログの読者さんの多くは、ジュセリーノだけにかかわらず、こういうテレビでやるインチキオカルトというものに対して非常に敏感なひとたちで、中でも何かがあればコメント投稿してくるというコア層に支えられているのは大きな事実だ。
だから、韮澤潤一郎(敬称略)であるとか、この大槻教授とか、インチキオカルト番組に頻繁に顔を出す人たちのネット上での発言にも目を配っているのだろうし、こうして自分のところにも感想を求めるメール(コメント)が来るわけだ。
だからまあそれに応えるという意味でこの件にも触れておくとする。
大槻教授のブログの問題の記事に目を通す。
【会いに来てくれ 九段坂!】の結びのところにこうある。
(民主党を支持する)その理由は、たった一つ。靖国神社参拝をしないからだ。つまり、あの悲惨な戦争で散った戦死者を侮辱しないからだ。
自分は「ええっ?!」と思った。我が目を疑ってしまった。そう感じた人も多いようだ。
まず、民主党自体は党是として靖国神社参拝を禁止しているのではない。現実に民主党の中には以前も現在も靖国参拝を行う国会議員が何人もいる。[※→追加]
ただし、現状ではある種の戦略として大臣閣僚及び閣僚級の国会議員に対して靖国参拝を自粛するようにと通達をしているらしい。[※→追加2]
だから、大槻教授が「靖国参拝をしないから民主党を支持します」というのは理由としてものすごくおかしいということになる。まあ、これは誰でもすぐにわかることだと思う。
そして、さらに言えばだが、その民主党が連立を組んでいる二つの政党の一方である「国民新党」であるが、この政党についてはご存知の方も多いだろう。この国民新党、靖国参拝派とべったり一心同体の政党といっていいい。
なにしろ、この党の初代党首(代表)が「みんなで靖国参拝をしましょうの会」の会長職でもある綿貫民輔(わたぬき・たみすけ)元国会議員なのである。[註1]
もし、大槻教授が国民新党のチカラを借りるようにして誕生したこの現政権のことを指して「民主党を支持する」というのであれば、自然科学者しても「失格」ということにもなりかねないのでないか。大槻教授の言っていることは非論理的すぎるということになるからだ。
教授、そこまで思いが及ばなかったのだろうか。
それにもし、大槻教授が「靖国参拝を是としてきた今まで政府与党を許せない」というのであるのならば、だったら何故それ(つまり靖国参拝全面禁止)を党是としている社民党であるとか共産党を支持すると表明しないのだろう。そっちのほうがよっぽど理由と方法論と目的の三位一体が完全合致をしているだろうに。
だから大槻教授が「民主党は即刻に国民新党と手を切れ、連立内閣から追い出せ。だったら自分は民主を支持する」と発言したのであれば、まあそれはありなりかもしれない。
大槻教授がブログの中で綴っていた、戦地で亡くなった人たちとその家族に対する思いというものはもちろん自分は理解する。[註2]
だからといって、その理由でもって「だから民主を支持する」と表明するというのは笑って済ませることではない。
教授のやっていること(=民主党を支持するということを表明すること)が、その戦時中に国民を騙してきた軍部の手先となった御用学者と同じやないの…といわれても反論できない面があるからだ。
これ、下手すると深刻な問題にもなりかねないことなのだ。
大槻教授といえば、テレビでオカルトを叩く側のヒトというイメージがある。そのオカルトを叩く側がこんな無茶苦茶なこと(まあある種のオカルトだ)を言ってはいけないと思うし、無為な揚げ足取りのネタにされるではと危惧しているのだ。
そして、自分が心配することがもうひとつある。
大槻教授が大学の教授であって大勢の学生に対してものを教える立場にある人間だということだ。
そういう立場にある人がこんな「トンデモ」さんでは、学生たちもたまったもんじゃないだろう。おそらく学生たちは陰でこの教授のことをバカにするのでは。
大槻教授は即刻自分のこの発言は訂正するとか、もっとちゃんとした論理的説明を加える必要があるだろう。悪いことはいわない。あくまでも忠告の部類としてだ。[了]
2010.04.07
※誰かこの記事を大槻教授のブログに投稿してください。お願いします。
[註1]綿貫民輔元議員の実家が神社であり、綿貫元議員は現在でも宮司の有資格者である。
[註2]私の伯父のひとりが戦地死亡者、つまり戦死者であり戦没者である。当然自分はこの伯父とは会ったことはないのだが、それでもいろいろとつながりを感じることはある。(この伯父のことを知る)皆すべてがまるで口を揃えるように、伯父と自分は「生まれ変わりかと思うくらいにそっくりだ」とか言うからだ。
その伯父は昭和二十年に23才で死亡となっているので大正十年ころの生まれとなる。大槻教授の父君よりも相当に年若のはずだが、同じ宮城県からの出征なので、もしかするとどこかでつながりがあるかもしれないと思うと不思議な気分になる。こういうことって迂闊に口にすべきではないのは承知なのだが。
追加
[註3]そののち軽く調べただけでも、「靖国参拝をする会」所属の閣僚級民主党として原口一博総務大臣と滝実法務副大臣の名前がでてきた。閣僚ではないが、民主党の党要職者には松原仁なんてのもいる。大槻教授、もし「靖国参拝をしないから民主を支持する」という主張を曲げないのであれば、これらの民主議員に対してなんかを言わないでいるわけにはいくまいて。
追加2
自粛を要請する指示があったというソースがいくら探しても出てきませんね。なんで自分が「靖国参拝を自粛する指示があった」と書いたかというと、以前民主党の議員?の誰かがテレビでそう答えていたからなのだが。
もしそのソースをご存知の方がいらしたらご一報をお願いします。
追記
なんか収集がつかなくなっている。
勘違いしているひとも多いが、自分は大槻教授を批判しているというのではない。
民主党を支持する「その理由は、たった一つ。靖国神社参拝をしないからだ」ではあまりに非論理的だ。この部分は訂正か削除すべきだと自分は言っている。
もし自分が大槻教授を批判するつもりならば、むしろ後半の「つまり、あの悲惨な戦争で散った戦死者を侮辱しないからだ」の個所に対して突っ込みをいれている。
実際に大槻教授のこの発言に対して「むしろこっちが問題発言かもしれません」という意見が何通か来ている。
靖国神社を参拝することが何故戦没者を屈辱することになるのか。それを説明するのは大変難しいのでは。
単純にいえば、閣僚級の議員、大臣が公人として靖国神社を参拝するという行為、それが「戦没者を屈辱する行為だ」というのは、死んだ人たちの気持ちを代弁していることにはならないだろう。あくまでも残された側、つまり生きている人間の気持ちでしかない。つまり「そう見える」あるいは「そう思う」という生きている我々の気持ちであり思いである。
大槻教授が「屈辱している」と感じたとしても、それはあくまでも大槻教授の気持ちであるわけだし「思い」なわけだ。
これを「非論理」というキーワードでは批判できない。
自分が大槻教授のこのブログ文を見て感じた「ええっ?!」というのは、ようするにこれが自然科学者の発言だからだ。自然科学者がこんな非論理を口にしては拙いことになるでしょうということ。
これがもし社民党であるとかの議員、政治家の発言ならばほっとく。
もし大槻教授が単に「鳩山首相は靖国参拝をしていないから支持する」という意味で「民主を支持する」と言っているのならば「ご愁傷様でした」と思うだけだ。
自分がここでこんなことを書くのは大槻教授がオカルトを「非論理的」と叩く自然科学者だからであって、自然科学者がこんな非論理的なことを言ってはいかんでしょうということ。だから大槻教授はこれについては詳しい説明が必要だし、出来ないなら訂正するとか削除すべきだと言っている。そういうこと。
さて、大槻教授の書いた「つまり、あの悲惨な戦争で散った戦死者を侮辱しないからだ」の個所だが、自分がこれを見て反射的に思ったこととは「戦地死亡者に対する最大の屈辱とは、それは弔わないこと、つまり何もしないことではないのか」だった。
自分のこの気持ちを説明を上手く説明するのは難しい。人の発言を批判している場合ではない。順番としてはこれを皆にちゃんと説明できるようになってからだ。
2010.04.11
いやだから、自分は大槻教授を批判しているのではない。
何回おんなじことを言えばいいんだろう。
最初に自分は「誰がどの政党を支持しようとも、それを表明したとしてもいちいちそれに対して言うつもりはない」と前置きしているわけで。
もし批判をするのであれば大槻教授が民主党を支持することに対して文句をいわなければならないだろう。それがこの件での「大槻教授批判」というものになる。
自分は大槻教授(にしろ誰にしろ)どの政党を支持しようともそれを表明することもなんとも思っちゃいない。(ただし昨年の総選挙でそういう人たちが多かったという事実に対しては憂れいてはいるが)
自分がここで書いているのは大槻教授が民主党(あるいは民主政権のことなのかもしれないが)を支持する理由として「ただひとつ靖国参拝をしないからだ」と書いていることのその論理的破綻というものをこのまま放置してはいけないということであって、何故かと言うと大槻教授がオカルトを「非科学的である」と批判しているひとでもあるからだ。
だからこそ、何故大槻教授は「民主は靖国参拝をしない」と書いたのかそれについての詳しい説明であるとか、あるいは、それ(民主は靖国参拝をしないこと)が民主を支持する「たったひとつの理由」でいいのだろうかとかの反問に対しては答える必要はあるはずだろうと書いたつもりなのだが。
誰がどの政党を支持しようとも、あるいは、それを表明したからといって、それにいちいち何かを言うようなことはしたくないし、このブログはそういうもの(=政治について語るもの)でもない。
しかし、このブログの読者さんの多くは、ジュセリーノだけにかかわらず、こういうテレビでやるインチキオカルトというものに対して非常に敏感なひとたちで、中でも何かがあればコメント投稿してくるというコア層に支えられているのは大きな事実だ。
だから、韮澤潤一郎(敬称略)であるとか、この大槻教授とか、インチキオカルト番組に頻繁に顔を出す人たちのネット上での発言にも目を配っているのだろうし、こうして自分のところにも感想を求めるメール(コメント)が来るわけだ。
だからまあそれに応えるという意味でこの件にも触れておくとする。
大槻教授のブログの問題の記事に目を通す。
【会いに来てくれ 九段坂!】の結びのところにこうある。
(民主党を支持する)その理由は、たった一つ。靖国神社参拝をしないからだ。つまり、あの悲惨な戦争で散った戦死者を侮辱しないからだ。
自分は「ええっ?!」と思った。我が目を疑ってしまった。そう感じた人も多いようだ。
まず、民主党自体は党是として靖国神社参拝を禁止しているのではない。現実に民主党の中には以前も現在も靖国参拝を行う国会議員が何人もいる。[※→追加]
ただし、現状ではある種の戦略として大臣閣僚及び閣僚級の国会議員に対して靖国参拝を自粛するようにと通達をしているらしい。[※→追加2]
だから、大槻教授が「靖国参拝をしないから民主党を支持します」というのは理由としてものすごくおかしいということになる。まあ、これは誰でもすぐにわかることだと思う。
そして、さらに言えばだが、その民主党が連立を組んでいる二つの政党の一方である「国民新党」であるが、この政党についてはご存知の方も多いだろう。この国民新党、靖国参拝派とべったり一心同体の政党といっていいい。
なにしろ、この党の初代党首(代表)が「みんなで靖国参拝をしましょうの会」の会長職でもある綿貫民輔(わたぬき・たみすけ)元国会議員なのである。[註1]
もし、大槻教授が国民新党のチカラを借りるようにして誕生したこの現政権のことを指して「民主党を支持する」というのであれば、自然科学者しても「失格」ということにもなりかねないのでないか。大槻教授の言っていることは非論理的すぎるということになるからだ。
教授、そこまで思いが及ばなかったのだろうか。
それにもし、大槻教授が「靖国参拝を是としてきた今まで政府与党を許せない」というのであるのならば、だったら何故それ(つまり靖国参拝全面禁止)を党是としている社民党であるとか共産党を支持すると表明しないのだろう。そっちのほうがよっぽど理由と方法論と目的の三位一体が完全合致をしているだろうに。
だから大槻教授が「民主党は即刻に国民新党と手を切れ、連立内閣から追い出せ。だったら自分は民主を支持する」と発言したのであれば、まあそれはありなりかもしれない。
大槻教授がブログの中で綴っていた、戦地で亡くなった人たちとその家族に対する思いというものはもちろん自分は理解する。[註2]
だからといって、その理由でもって「だから民主を支持する」と表明するというのは笑って済ませることではない。
教授のやっていること(=民主党を支持するということを表明すること)が、その戦時中に国民を騙してきた軍部の手先となった御用学者と同じやないの…といわれても反論できない面があるからだ。
これ、下手すると深刻な問題にもなりかねないことなのだ。
大槻教授といえば、テレビでオカルトを叩く側のヒトというイメージがある。そのオカルトを叩く側がこんな無茶苦茶なこと(まあある種のオカルトだ)を言ってはいけないと思うし、無為な揚げ足取りのネタにされるではと危惧しているのだ。
そして、自分が心配することがもうひとつある。
大槻教授が大学の教授であって大勢の学生に対してものを教える立場にある人間だということだ。
そういう立場にある人がこんな「トンデモ」さんでは、学生たちもたまったもんじゃないだろう。おそらく学生たちは陰でこの教授のことをバカにするのでは。
大槻教授は即刻自分のこの発言は訂正するとか、もっとちゃんとした論理的説明を加える必要があるだろう。悪いことはいわない。あくまでも忠告の部類としてだ。[了]
2010.04.07
※誰かこの記事を大槻教授のブログに投稿してください。お願いします。
[註1]綿貫民輔元議員の実家が神社であり、綿貫元議員は現在でも宮司の有資格者である。
[註2]私の伯父のひとりが戦地死亡者、つまり戦死者であり戦没者である。当然自分はこの伯父とは会ったことはないのだが、それでもいろいろとつながりを感じることはある。(この伯父のことを知る)皆すべてがまるで口を揃えるように、伯父と自分は「生まれ変わりかと思うくらいにそっくりだ」とか言うからだ。
その伯父は昭和二十年に23才で死亡となっているので大正十年ころの生まれとなる。大槻教授の父君よりも相当に年若のはずだが、同じ宮城県からの出征なので、もしかするとどこかでつながりがあるかもしれないと思うと不思議な気分になる。こういうことって迂闊に口にすべきではないのは承知なのだが。
追加
[註3]そののち軽く調べただけでも、「靖国参拝をする会」所属の閣僚級民主党として原口一博総務大臣と滝実法務副大臣の名前がでてきた。閣僚ではないが、民主党の党要職者には松原仁なんてのもいる。大槻教授、もし「靖国参拝をしないから民主を支持する」という主張を曲げないのであれば、これらの民主議員に対してなんかを言わないでいるわけにはいくまいて。
追加2
自粛を要請する指示があったというソースがいくら探しても出てきませんね。なんで自分が「靖国参拝を自粛する指示があった」と書いたかというと、以前民主党の議員?の誰かがテレビでそう答えていたからなのだが。
もしそのソースをご存知の方がいらしたらご一報をお願いします。
追記
なんか収集がつかなくなっている。
勘違いしているひとも多いが、自分は大槻教授を批判しているというのではない。
民主党を支持する「その理由は、たった一つ。靖国神社参拝をしないからだ」ではあまりに非論理的だ。この部分は訂正か削除すべきだと自分は言っている。
もし自分が大槻教授を批判するつもりならば、むしろ後半の「つまり、あの悲惨な戦争で散った戦死者を侮辱しないからだ」の個所に対して突っ込みをいれている。
実際に大槻教授のこの発言に対して「むしろこっちが問題発言かもしれません」という意見が何通か来ている。
靖国神社を参拝することが何故戦没者を屈辱することになるのか。それを説明するのは大変難しいのでは。
単純にいえば、閣僚級の議員、大臣が公人として靖国神社を参拝するという行為、それが「戦没者を屈辱する行為だ」というのは、死んだ人たちの気持ちを代弁していることにはならないだろう。あくまでも残された側、つまり生きている人間の気持ちでしかない。つまり「そう見える」あるいは「そう思う」という生きている我々の気持ちであり思いである。
大槻教授が「屈辱している」と感じたとしても、それはあくまでも大槻教授の気持ちであるわけだし「思い」なわけだ。
これを「非論理」というキーワードでは批判できない。
自分が大槻教授のこのブログ文を見て感じた「ええっ?!」というのは、ようするにこれが自然科学者の発言だからだ。自然科学者がこんな非論理を口にしては拙いことになるでしょうということ。
これがもし社民党であるとかの議員、政治家の発言ならばほっとく。
もし大槻教授が単に「鳩山首相は靖国参拝をしていないから支持する」という意味で「民主を支持する」と言っているのならば「ご愁傷様でした」と思うだけだ。
自分がここでこんなことを書くのは大槻教授がオカルトを「非論理的」と叩く自然科学者だからであって、自然科学者がこんな非論理的なことを言ってはいかんでしょうということ。だから大槻教授はこれについては詳しい説明が必要だし、出来ないなら訂正するとか削除すべきだと言っている。そういうこと。
さて、大槻教授の書いた「つまり、あの悲惨な戦争で散った戦死者を侮辱しないからだ」の個所だが、自分がこれを見て反射的に思ったこととは「戦地死亡者に対する最大の屈辱とは、それは弔わないこと、つまり何もしないことではないのか」だった。
自分のこの気持ちを説明を上手く説明するのは難しい。人の発言を批判している場合ではない。順番としてはこれを皆にちゃんと説明できるようになってからだ。
2010.04.11
いやだから、自分は大槻教授を批判しているのではない。
何回おんなじことを言えばいいんだろう。
最初に自分は「誰がどの政党を支持しようとも、それを表明したとしてもいちいちそれに対して言うつもりはない」と前置きしているわけで。
もし批判をするのであれば大槻教授が民主党を支持することに対して文句をいわなければならないだろう。それがこの件での「大槻教授批判」というものになる。
自分は大槻教授(にしろ誰にしろ)どの政党を支持しようともそれを表明することもなんとも思っちゃいない。(ただし昨年の総選挙でそういう人たちが多かったという事実に対しては憂れいてはいるが)
自分がここで書いているのは大槻教授が民主党(あるいは民主政権のことなのかもしれないが)を支持する理由として「ただひとつ靖国参拝をしないからだ」と書いていることのその論理的破綻というものをこのまま放置してはいけないということであって、何故かと言うと大槻教授がオカルトを「非科学的である」と批判しているひとでもあるからだ。
だからこそ、何故大槻教授は「民主は靖国参拝をしない」と書いたのかそれについての詳しい説明であるとか、あるいは、それ(民主は靖国参拝をしないこと)が民主を支持する「たったひとつの理由」でいいのだろうかとかの反問に対しては答える必要はあるはずだろうと書いたつもりなのだが。
070413 海外からのメール
【ジュセリーノ予言の真実 0413】 海外からのメール
まず、昨日補足の欄にも書いたことだがこちらにも書いておく。
さっそくメールが来ている。昨日書いた件についてだが、
韮沢氏は掲示板で質問に対して
>「最近のやり取りで「(3月に日本で)地震がありましたね」といわれ、
>予知に満足しておられたようですが、なお機会があったら、
>ニュースを見るような予知があるのかどうか聞いてみましょう。」
と答えているのだという。まあ、その部分については自分もうっすらと記憶がある。確かに韮沢氏はそんな感じもことをおっしゃっていました、というか書いていましたね。
というか、自分としてはこの部分がひっかかっていたので昨日のようなものを書いたともいえなくもないである。
これもその不思議な香りが漂ってくる文章だなと気にかかっていた。
>>最近のやり取りで「(3月に日本で)地震がありましたね」といわれ、
>>予知に満足しておられたようですが、
ただの伝言なのか、メールなのか手紙なのか、電話なのか、電話だとしたら間に通訳を挟んでいる状態でなのか、それともネット・ミーティングのようなテレビ電話を使っての会話なのか、その状況をいろいろ推定してみると非常に味わい深いものがあるが。
それよりも自分がむっとしてしまったのは「予知に満足した状態のジュセリーノ」という部分にだ。予知に満足した状態のジュセリーノなんて誰もが想像したくはないものなのではないか。
なにしろジュセリーノは「自分の予知が当らないことを望んでいる」と言っている予言者なのだから。
それ以上の推測は不愉快なことでもあるし、無駄な想像の上にさらに無駄な仮定を重ねることになるのでこれについて書くのはここいらで留めて置く。
ただ、それぞれが自分の中でこのことについては深く考えて頂きたいことだとは思っている。
「(ジュセリーノ氏は)予知に満足しておられたようです」
と韮沢氏が掲示板での質問に答えるような形で書いていたという事実だけは忘れないようにしたい。
さて本題である。
最近になって海外からもメールが来るようになった。まだチラホラといった程度だが。それでもトータルで20通は超えたはずである。もっと来ているのかな?
やはりブラジルからのものが多い。(ドメインだけでは断定は出来ないのが辛いところだ)
「日本でジュセリーノは有名(popular)なのですか?」とか「日本のジュセリーノの反応(reaction)は?」とか「評判(reputation)は?」「bad roumour(=rumor噂=悪評だと思うが)はあるのか?」とか質問責めのような状態である。
というかやはりメールを寄越してくるほとんどのブラジルの人の場合、ジュセリーノのことを本物の予言者だと信じきっているようなのである。ニュアンスからするとだが。
まあやはりそんなもんなんでしょ。日本人の半分以上がまだ細木和子のことをよく当る占い師だとか江原啓之のことを本物の霊能力者だと信じているのと同じ事だ。
まあそれでメールの返答に苦しんでいたりもするのだが。
一応「critical side(批判的な立場)」という表明は出しているのだがなぁ・・・
名前からすると日系かなと感じるような人にはローマ字つづりの日本語文(Konnichiwa Hazimemashite みたいな感じ)も併記して送り返したのだが果してその効果はあるのだろうか。あればいいのだが。
【追加事項】
いまだその部分に関する自分の考えというものが上手く伝わっていないようなので念のためにもう一度書いておく。
「ジュセリーノの予言の本=たま出版から出たジュセリーノの本」
完全にそうだとは言えないと自分は思っているのだ。そう言っているのである。下手をすると、日本の読者はジュセリーノの予言の本を買ったつもりでいて実は「韮沢潤一郎の予言」を読まされている可能性だって考えられるよ、というようなことを言っているのだ。
もちろん翻訳物だから多少の誤差は生じる。それは仕方がない。しかし出版人であるのならば少なくも翻訳物を出すときには原書との追従性というものを念頭に置くべきであろう。ところがこの韮沢潤一郎という人にはそういうモラル・ハザード(=論理の欠如 誤用だけど)というものがまったく通用しない。
かつて「MJ12」という機密文書が世の中を騒がせたときのことだ。この韮沢潤一郎という人はいまそのときと似たようなこと、同じようなことをやっている。
かつて日本では「ノストラダムスの予言といえば五島勉が書いていること=本当のノストラダムスの書いたこと」と長く信じられてきていた。その五島勉の嘘がばれるまでものすごい長い年月がかかってしまったのである。
それと同じようなことが今回のジュセリーノにも言えるような気がしてならないのである。まだジュセリーノの本の日本語版がほかの出版社から出たのであったならば、自分は「買わないほうがいい」とかは言ってはいないだろう。そういうことだ。
もちろんだからといってジュセリーノの予言自体にもものすごい問題はある。
つまり日本の読者は二重のハンディを負わされているようなものなのだ。
それを自覚しないとジュセリーノの予言騒動がたとえ終わったとしても、第二・第三のジュセリーノはやってくるのである。たま出版から。
※改題しました
「ジュセリーノ予言の真実0413 前日の続き・そしてブラジルからのメール」
まず、昨日補足の欄にも書いたことだがこちらにも書いておく。
さっそくメールが来ている。昨日書いた件についてだが、
韮沢氏は掲示板で質問に対して
>「最近のやり取りで「(3月に日本で)地震がありましたね」といわれ、
>予知に満足しておられたようですが、なお機会があったら、
>ニュースを見るような予知があるのかどうか聞いてみましょう。」
と答えているのだという。まあ、その部分については自分もうっすらと記憶がある。確かに韮沢氏はそんな感じもことをおっしゃっていました、というか書いていましたね。
というか、自分としてはこの部分がひっかかっていたので昨日のようなものを書いたともいえなくもないである。
これもその不思議な香りが漂ってくる文章だなと気にかかっていた。
>>最近のやり取りで「(3月に日本で)地震がありましたね」といわれ、
>>予知に満足しておられたようですが、
ただの伝言なのか、メールなのか手紙なのか、電話なのか、電話だとしたら間に通訳を挟んでいる状態でなのか、それともネット・ミーティングのようなテレビ電話を使っての会話なのか、その状況をいろいろ推定してみると非常に味わい深いものがあるが。
それよりも自分がむっとしてしまったのは「予知に満足した状態のジュセリーノ」という部分にだ。予知に満足した状態のジュセリーノなんて誰もが想像したくはないものなのではないか。
なにしろジュセリーノは「自分の予知が当らないことを望んでいる」と言っている予言者なのだから。
それ以上の推測は不愉快なことでもあるし、無駄な想像の上にさらに無駄な仮定を重ねることになるのでこれについて書くのはここいらで留めて置く。
ただ、それぞれが自分の中でこのことについては深く考えて頂きたいことだとは思っている。
「(ジュセリーノ氏は)予知に満足しておられたようです」
と韮沢氏が掲示板での質問に答えるような形で書いていたという事実だけは忘れないようにしたい。
さて本題である。
最近になって海外からもメールが来るようになった。まだチラホラといった程度だが。それでもトータルで20通は超えたはずである。もっと来ているのかな?
やはりブラジルからのものが多い。(ドメインだけでは断定は出来ないのが辛いところだ)
「日本でジュセリーノは有名(popular)なのですか?」とか「日本のジュセリーノの反応(reaction)は?」とか「評判(reputation)は?」「bad roumour(=rumor噂=悪評だと思うが)はあるのか?」とか質問責めのような状態である。
というかやはりメールを寄越してくるほとんどのブラジルの人の場合、ジュセリーノのことを本物の予言者だと信じきっているようなのである。ニュアンスからするとだが。
まあやはりそんなもんなんでしょ。日本人の半分以上がまだ細木和子のことをよく当る占い師だとか江原啓之のことを本物の霊能力者だと信じているのと同じ事だ。
まあそれでメールの返答に苦しんでいたりもするのだが。
一応「critical side(批判的な立場)」という表明は出しているのだがなぁ・・・
名前からすると日系かなと感じるような人にはローマ字つづりの日本語文(Konnichiwa Hazimemashite みたいな感じ)も併記して送り返したのだが果してその効果はあるのだろうか。あればいいのだが。
【追加事項】
いまだその部分に関する自分の考えというものが上手く伝わっていないようなので念のためにもう一度書いておく。
「ジュセリーノの予言の本=たま出版から出たジュセリーノの本」
完全にそうだとは言えないと自分は思っているのだ。そう言っているのである。下手をすると、日本の読者はジュセリーノの予言の本を買ったつもりでいて実は「韮沢潤一郎の予言」を読まされている可能性だって考えられるよ、というようなことを言っているのだ。
もちろん翻訳物だから多少の誤差は生じる。それは仕方がない。しかし出版人であるのならば少なくも翻訳物を出すときには原書との追従性というものを念頭に置くべきであろう。ところがこの韮沢潤一郎という人にはそういうモラル・ハザード(=論理の欠如 誤用だけど)というものがまったく通用しない。
かつて「MJ12」という機密文書が世の中を騒がせたときのことだ。この韮沢潤一郎という人はいまそのときと似たようなこと、同じようなことをやっている。
かつて日本では「ノストラダムスの予言といえば五島勉が書いていること=本当のノストラダムスの書いたこと」と長く信じられてきていた。その五島勉の嘘がばれるまでものすごい長い年月がかかってしまったのである。
それと同じようなことが今回のジュセリーノにも言えるような気がしてならないのである。まだジュセリーノの本の日本語版がほかの出版社から出たのであったならば、自分は「買わないほうがいい」とかは言ってはいないだろう。そういうことだ。
もちろんだからといってジュセリーノの予言自体にもものすごい問題はある。
つまり日本の読者は二重のハンディを負わされているようなものなのだ。
それを自覚しないとジュセリーノの予言騒動がたとえ終わったとしても、第二・第三のジュセリーノはやってくるのである。たま出版から。
※改題しました
「ジュセリーノ予言の真実0413 前日の続き・そしてブラジルからのメール」
2010年4月12日月曜日
100412 ポーランド大統領機墜落事故
4月10日(日本時間4月10日午後3時ごろ)[註1]にロシアで起きたポーランド大統領搭乗機の墜落事故についてのお問い合わせが多数きている。
もちろんお問い合わせといったって「ジュセリーノは予言してましたか?」というようなあいも変わらずの不毛なものを含めてのジュセリーノがらみのものだが。
もちろんそんな予言などジュセリーノは公表はしていない。一応念のためにジュセリーノのポルトガル語のHPなども見てみたのだが特に何といって変化もない。
というか、もし、ジュセリーノが「この事故を予知してました。警告の手紙を送ってました」みたいなことを言い出したら、おそらくジュセリーノは自分自身の破滅を招くだけだろう。
追記
今日(12日朝)再びジュセリーノのHPを見たら、下の方に「ポーランドの政府関係者に2007年に手紙を送った」という旨のことが新たに付け加えてあった。
これはついいましがた付け加えられたようだ。どうもブラジルでのこの事故の外電の入電自体がかなり遅れているということもあるようだが、ジュセリーノ、例によって事故直後の詳細不明の外電だけをもとにして「警告の手紙を送った」と言っているようで、事故の細かな部分がすでに事実とは違っているものを公表していた。
以下は英語(元はポーランド語)に翻訳したその個所である。
第一報
10日の夕方(日本テレビ)
11日未明
この事故による死亡者数だが、最初に87人と伝えられ、そして事故の有様が伝えられてゆくうちに死亡者数が132人であるとか、97人と違って伝えられている。
どっちにしても「132人以上」ってことはないはずだ。
これを見れば「ああジュセリーノまた事故のニュースを見て『事前に警告していた』と言い張ってるのね…」とすぐにわかる仕組みになるわけだ。
いつものことだけどね、こんなのは。
[註1]自分がこの事故を知ったのが10日の夕方のことである。その段階で事故の起きた日付時間だが当初「現地時間で10日未明」と伝えられていた。なんか時間があわないなぁ…と思っていたら未明ではなくて午前中だった。「未明」というのは事故の起きた場所(ロシア西部)ではなくてポーランド時間に換算しての時間表示だったようだ。
もちろんお問い合わせといったって「ジュセリーノは予言してましたか?」というようなあいも変わらずの不毛なものを含めてのジュセリーノがらみのものだが。
もちろんそんな予言などジュセリーノは公表はしていない。一応念のためにジュセリーノのポルトガル語のHPなども見てみたのだが特に何といって変化もない。
というか、もし、ジュセリーノが「この事故を予知してました。警告の手紙を送ってました」みたいなことを言い出したら、おそらくジュセリーノは自分自身の破滅を招くだけだろう。
追記
今日(12日朝)再びジュセリーノのHPを見たら、下の方に「ポーランドの政府関係者に2007年に手紙を送った」という旨のことが新たに付け加えてあった。
これはついいましがた付け加えられたようだ。どうもブラジルでのこの事故の外電の入電自体がかなり遅れているということもあるようだが、ジュセリーノ、例によって事故直後の詳細不明の外電だけをもとにして「警告の手紙を送った」と言っているようで、事故の細かな部分がすでに事実とは違っているものを公表していた。
以下は英語(元はポーランド語)に翻訳したその個所である。
See excerpt from the letter of authority in Poland: - 2007
Here I saw in my dreams precognitive plane Tupolev -154, exit
Warsaw on the way to the Russian city of Smolensk 10 \ 04 \ 2010 and Next take problems that can kill more than 132 people in an accident which may to kill the President of Poland Lech Kaczynska.
The plane will have problems in the turbine. …
第一報
10日の夕方(日本テレビ)
11日未明
この事故による死亡者数だが、最初に87人と伝えられ、そして事故の有様が伝えられてゆくうちに死亡者数が132人であるとか、97人と違って伝えられている。
どっちにしても「132人以上」ってことはないはずだ。
これを見れば「ああジュセリーノまた事故のニュースを見て『事前に警告していた』と言い張ってるのね…」とすぐにわかる仕組みになるわけだ。
いつものことだけどね、こんなのは。
[註1]自分がこの事故を知ったのが10日の夕方のことである。その段階で事故の起きた日付時間だが当初「現地時間で10日未明」と伝えられていた。なんか時間があわないなぁ…と思っていたら未明ではなくて午前中だった。「未明」というのは事故の起きた場所(ロシア西部)ではなくてポーランド時間に換算しての時間表示だったようだ。
2010年3月31日水曜日
100331 コメントその他 (10年03月度)
(2010.03.12の個所は移動しました → 100315
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2010年になってからということだが、このブログに貼り付けられるads広告にジュセり-ノの予言というNiftyポータルコンテンツの貼り付け広告が現れることが多くなった(ようである)。
いくつものご指摘を頂戴している。もちろん、自分はこの事態を看過も容認もしていないし、そのための手だけは打ってきたつもりでいる。
というかさ、普通は、広告を出すほうも、あるいはadsもgoogleも、このブログにジュセリーノのコンテンツの広告を出したって意味がないどころか、逆効果になることぐらいはわかりそうなものだけどなぁ(笑)。そこまで手間は掛けてられないということなんだろうが。
誰があのコンテンツのプロデュースをしているのか、または何を目的としてあのようなウェブデザインになっているのか自分も掴みきれていない。
しかし、誰がジュセリーノに対して恋愛であるとか個人的な事象の占いを依頼したいと思うんだろうか。これも自分にはまったく読めないしわからない。
あのなぁ、そもそもジュセリーノっていうブラジル人は「予知夢で事件の現場にいる」と言っている自称予言者である。
そんな人間に、個人の-たとえば結婚であるとか恋愛を相談して、まともなアドバイスであるとか指針といったものを期待するほうがおかしいだろう。
それとも、ジュセリーノに自分に関する予知夢を見てほしいと期待する人がいると読んでいるのだろうか。
そのことを考えると、なんかおかしくておかしくて笑いがこみ上げてとまらなくなるのだ。
こういうことも言えるからだ。もし、ジュセリーノの見たといっている予知夢が本物だとすると、依頼者のすぐそばには時間と場所を越えて現れたジュセリーノの視線というものが注がれているということになるのである。しかも、真昼間だけ、あるいは公共の場所だけ、とかだったらいいけれど、ジュセリーノのその視線というものは、未来の(依頼者である)あなたの自宅にも、ひょっとすると就寝中の寝室にももしかすると入浴中にも、またもしかするとトイレの中にいる未来のあなたに対して注がれるかもしれないということになる。
もちろんそんなわけがあるはずもないのだが、少なくとも、予知夢を見るといっている予言者に対して個人的な相談事を依頼する人というのは予知夢占者に対してそれを期待するということになるのだということぐらいはわかっていたほうがいいだろう。
まあここまでは冗談みたいなもの。
さて、自分が本気で考え直してほしいと強く願っているのは、いままでここでも二度ほど書いてきたことだけれども、ジュセリーノのことを本物の予知能力者であるとして、そのジュセリーノを応援していると表明してきた職業占い師の皆さんに対してである。
ジュセリーノの絡んでいるその占いのページを見て、そしてそれでもジュセリーノを支持するのかどうかについては、よーくと考え直してほしいのものだ。
ジュセリーノのやっていることはあなたたちの生業(なりわい)である占業というものに対する侮蔑行為になるからだ。
そして、あなたがジュセリーノに対する支持を表明するということは、それは、あなたの顧客の皆に対する最大の裏切り行為でもあるのだ。
ある意味、これがラストチャンスともいえる。これを逃して、それでもジュセリーノへの支持を止めないという占い師がいたら、それはこの世に存在し活動するすべての同業者と袂を分かつことでもある。その覚悟はしたほうがいいのではないだろうか。
大きなお世話だろうが。
2010.03.14
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今までいろいろなブログの相互リンクサイトから勧誘があったり御推薦を受けたりしていたのだが、こちらとしてはあまり積極的にお受けすることはなかった。
そうなったのにはいろいろな理由がある。ひとつは広告枠を強制されたりするものは断らないわけにはいかないわけだし、そもそも、自分はこのようなシステムを利用して自分のブログの訪問者数を上げたり認知度を上げても、長い目で見た場合自分のこのブログのためにはならないし、積極的な意味はないと思っている人間である。
どうもそこのところが根本的に誤解されているようだ。
今回、BUZZというところから御推薦を受けてその相互リンクを利用させていただくことにしたのには自分の中で起きたちょっとした心境の変化というものも作用しているのかもしれない。「心境の変化」っていってしまうと大げさになるが、要するに目的とするもの、自分が相対峙しているものが変わったということに遅まきながら気がついたということでもある。
まあ悪いほうには転がらないとは思うのだが。どうだろう。御感想の方をよろしく。
2010.03.15
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【100315】の記事の追記部分を再録
3月14日(日)の午後に放送された「たかじんのそこまで言って委員会」(よみうりテレビ製作)という番組で、この「チャレンジ25」という政府キャンペーンの危うさというものが取り上げられたそうである。生憎自分は見てはいないのだが。[註1]
以前、テレ朝の「朝まで生テレビ」でやっていたのとほぼ同様の構図で「CO2削減推進派」と懐疑派による議論が交わされていたというのだが、番組に出演した推進派というのがたったひとりだったそうである。
その懐疑派の主頭は例によって「環境問題は何故ウソがまかりとおるのか」などでおなじみの武田邦彦。[註2]
誤解されて困っていることでもあるのだが、自分はこの武田邦彦という人の主張には非常に懐疑的でありそして否定的である。ここで自分が武田邦彦と同じことを書いているものだから「武田邦彦の本から引用をしている」あるいは「武田邦彦の同調者」と思っている人もいるようだがそうではない。単に引用元が同じというだけのことだ。
武田邦彦という人の主張の困ったところは、たとえば「ペットボトルの分別回収は無意味だ」とか言ってしまうことだろう。何度かここで書いているが、自分は「ペットボトルの分別回収」には意味はあるし、まだまだ改善の余地がいくらでもあると感じている立場である。自分がペットボトルの回収に意味があると思うのは、もしペットボトルを不燃物・石油製品と同じ枠で回収しはじめると、今度は都市衛生の面でいろいろと問題が浮上してくるのが目に見えているからだ。要するに、地球環境とかそういう大仰な視点ではなくて、もっと身近な問題としてペットボトルの分別回収は是と思っているということ。どうもこの武田という人の主張には、そういった都市生活者としての実感が抜け落ちていて、首をひねるような無茶苦茶なものばかりなのが困るところである。まあそういう意味では大槻義彦教授と同じ「学者バカ」の匂いが漂う。
しかし、もっとしょーもないのは推進派として番組に登場した明日香壽川(あすか・じゅせん)という学者で、この人はその朝生の地球温暖化の回に出演したときもアタマを抱えたくなるような無茶苦茶なことばかりいっていたのだが、今回の出演時にも司会の辛坊治郎に「地球温暖化の証拠はなんなんだ?」と訊かれて「あなたは(地球の温暖化を)実感していませんか?」と聞き返していたのだそうだ。
アホかコイツ。「地球の温暖化を実感できる」ってどんな立場の人間なんだ。神か。北極のシロクマ君か。南極のペンギンさんか。
常に地球上のあちこちと移動してきて地域地域の温暖化を実感したという人間相手にでなければこんな質問は無意味だしミスリードでもある。そんなことに気がつかないとしたら相当のオオバカヤロウである。
自分は5年前まで東京にいて、そして仙台に移住した人間[註3]だが、とてもではないが「地球の温暖化」なんて体感は出来ないし、実感も持っていない。体感して実感があるのは「都市熱(シティーヒート)」である。都市熱の実感と地球の温暖化はまったく別の問題である。絶対に一緒くたにしてはいけないことなのだ。
こういう「まやかし」を平気でやるようなヤツだから「胡散臭い」と言われるんだろうし、心ある推進派からも嫌われるんだろうがねぇ。まあこういううさんくさい人間がもっと前面に出てきてくれたほうが「懐疑派」としてはありがたいことなのかもしれないけどね。
(2010.03.15)
[註1] この番組、仙台(宮城地区)では普通に大阪と同じ放送スケジュールで見られる。東京にいた時もなんやかんやで録画したものを何度かは見ていた。あまり面白い番組とは思わないが、まあそれでもゲストの人選によってはだが、「見る価値有り」というのも何本かはあったと記憶している。
[註2] そののち頂いたメールによるとだが、懐疑派としてゲスト的に出演したのも武田邦彦ひとりだけだったようだ。そういう意味では、まあフェアな論戦ではあったようである。ただし、レギュラーパネラーの勝谷誠彦(かつや・まさひこ)が武田邦彦型の懐疑派の主張に乗っかって明日香壽川に対して論戦を挑んだのだとか。まあこれも番組の演出のうちだろうから、こういう個所に文句をいってもしかたがないのだろうが、もし、真面目に論議をするのであれば、こういう乱暴な区分けというか、番組製作サイドが視聴者にわかりやすいようにと議論を「二律対称構造」に仕立てて論戦をさせるのは、まあはっきりいって無意味に等しいことだ。なぜならば、(自分もそうなのだが)二酸化炭素の排出量を減らすことには基本賛成の立場をとるが、だからといって鳩山(民主)のように性急で穴だらけの(しかも国民に対してはオカルトで追い立てるような手法を使っての)施策には断固反対する立場の人間もいるからだ。いくら時間を掛けたとしてもまともな実のある結論は出ないだろうし、下手をすると視聴者に対して「事実ではないこと」を伝えてしまうという危険もあるのだ。(この手のテレビ番組を見るたびに)自分も危惧しているところである。ジュセリーノという自称予言者についてもまるっきりそうだった。彼が「地球環境のために」という「美々辞麗々句」を持ち出してきて、それにコロリと騙された日本人が多いというのがそれを物語っている。それとまったく同じことなのだ。自分は、ジュセリーノに騙されるなというのと同じように、鳩山には騙されるなと言っている。あ、言っちゃった(笑)
[註3]
正確には「自分も」というべきなんだろうな。でないと自分が何をこの明日香壽川に文句垂れているのかがわかりにくいだろう。
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ジュセリーノがブラジルの公式HPでこのブログに対して非難というものを表明しているということはちょっと前にも触れた。
このことに関していくつもメールやらコメントを頂いている。[註]
中には「大丈夫でしょうか?」というようなご心配[註2]もあるが、大体はこのブログの活動を評価するといったものだ。ありがたいことである。
ただし、そんな中にもジュセリーノ騒動をすでに過去のものとして捉えているものがあったのはとても残念である。
改めて強調するが、この醜悪な「インチキ予言者騒動」は決して終わったのではなくて、いまなお深く進行中なのである。
わかりやすく言えば、ジュセリーノのビジネスを日本でアシストしている組織というものは存在しているわけだし、「ジュセリーノの予言占い」という有料のネットコンテンツもあったりするのだ。これが現実である。
ジュセリーノ騒動というもの、決して過去のものではないのだ。以前のようにテレビ・マスコミなどで取り上げられることがなくなったとか新刊本が出なくなったというだけのことで。
さて、自分のところにはマスコミなどのジュセリーノ(元)関係者を名乗る人間からも何通かメールなどが来ているのだが、そういう人間からのメールの中に「ジュセリーノ騒動」を過去のものとした論調のものがあると自分は無性に腹が立ってくる。
マスコミ関係者がジュセリーノを過去のものにしたがるのは、それは単にもう自分たちマスコミはジュセリーノで金儲けはできなくなったと判断しただけのことだろう。そしてその責任逃れをやっているだけのことだ。
もしこのようなことを実際に自分の目の前で言われたら、もしかすると自分は「オマエらいい加減にしろよ」と怒鳴りつけるかもしれない。「誰がこんな騒動を引き起こしたのだ? オマエらだろうが」と詰め寄るかもしれない。
ジュセリーノ騒動は決して過去のものではない。今でもこの日本には「ジュセリーノの予言」をメシの種にしている人間はいるのだ。しかも卑怯な手段を用いて。この現実から目をそむけてはいけない。
2010.03.18
[註]3月18日現在、メール30通前後、コメントが20件ほど。
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首相である鳩山由紀夫に対する批判が次から次に舞い込んできています。
このブログは別に鳩山首相や民主党を批判することを目的としているのではないのでここでそのひとつひとつに触れることも取り上るつもりもない。
たとえば、生前贈与記載漏れと巨額脱税事件であるとか、あるいは いわゆる「故人献金」問題のことで、鳩山由紀夫を糾弾しようとか思ってはいない。そっちのほうはその道の専門家の皆様にお任せしたい。
ただしこれは言っておこうか。鳩山由紀夫という人が日本国首相という立場で、国連という晴れの場で「CO2削減25%」というスローガンをぶち上げたその姿というものが、民主党が野党だったころに、政治秘書が政治資金法違反で検挙された自民党の代議士に向かって議員辞職を迫り、その中で「もし自分の秘書が逮捕されたら自分だったら即座に辞職する」と啖呵を切ってみせたときの姿とどうしてもだぶって見えるのである。
故人献金疑惑にしてもそうだったし、多額の脱税が発覚したときの弁明もそうだし、小沢民主党幹事長の当時の秘書が逮捕されたときの苦し紛れの弁明・言い訳も皆そうなのだが、この人が野党民主党時代にぶち上げた威勢のいい発言というもの、そのどれもこれもが首相就任した現状では有権者の期待を裏切っている。
それが内閣支持率の急降下という数字となって現れているのだろう。
この「25%削減(支持率じゃなくてCO2のほうだが)宣言」もまた同じような運命を辿ることになるのではないか。そんな気がしてならないのだ。
2010.03.18
【100315】の記事の追記の追記の個所
この「CO2削減目標25%」について、自分が前々からまやかしがあるのではないかと思っていたところがあった。それがはっきりとした。やはり、鳩山(民主)の掲げた削減25%というのは、CO2排出権取引を行使しての達成目標なんだそうだ。これじゃ地球環境の為にもなんにもなってないじゃないか。ただの政治取引と同じだ。それにこれでは、いざとなったら途上国から排出権を金を出して買ってそれで「達成しました」と嘯(うそぶ)くことだってできることになる。ひどいまやかしである。しかも、その資金は果たしてどこから出てくるものなのかを考えてみよ。もちろん我々の国家予算、つまり税金からなのだ。
それにこれではこの「チャレンジ25」は、はじめから形を変えたODA(海外援助)ということになってしまう。
自分はこんなものを日本の対外政策のひとつとして認めることは絶対に出来ないね。あなたは認められますか?
こんなジョークがある。笑えないジョークだが。
(首相記者会見にて)
記者「10年後にCO2の25%削減という目標は少し厳しすぎないでしょうか?各産業界からも反論が噴出しています…」
鳩山「確かに困難な目標かもしれません。しかし決して不可能な数字ではないと私は確信しております」
記者「その確信の根拠というものをお聞かせください」
鳩山「わたしは10年どころか、わずか半年で30%も削減させた実績があります」
記者「内閣支持率かよ」
【100319】 事実というものの重みについての追記個所
「アマゾンの書評が消えてますよ」というご連絡を頂いた。実際に見てみると消えていた。自分はこの「真生」を名乗る本人が自主的に削除したのかと思っていたのだが、そうではなかった。
「Joe」さんという方からメールを頂いた。どうやら、「Joe」さんがアマゾンに削除を要請して、それがかなったということらしい。頂いたメールのその個所を公開する。(了承済)
いろいろとご意見はあるとは思うが、こういったご助力に対しては感謝あるのみである。自分としては言論を封殺しようとかそういうつもりはまったくなくて、削除があるとしたら本人による自主削除というものをと期待していたのだが。それがこの真生という人に伝わらなかったことは残念である。
これは以前にも書いたことだが、最近ではこのようなアマゾンの書評というものも半ば2ちゃんねるのような無責任な書込みが目立つ。しかし、たとえばアマゾンの場合でも「取得したID」というものがあるわけで、今後この「真生」という人は、自分のこのIDでは使えなくなるだろうし、もっと悲惨なのは、自分の書いたことが第三者には信じてもらえなくなったり、まともにとりあってもらえなくなる可能性だって出てくるだろう。
そしてそれはジュセリーノ本人や「ジュセリーノは本物の予言者」だとかブログや掲示板で書き込んでいた人たちにもいえることなのだ。
自分で自分の首を絞めているのである。もしそのことに本当に気がついていないのだとしたらそれこそが悲劇であり、そして第三者的な視点からすると滑稽な喜劇なのだが。
2010.03.20
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100315の記事で取り上げた「チャレンジ25」のテレビCMのことだが、その後まったくオンエアされなくなったという。
それがはじめから予定されていた期間が過ぎたためなのか、それとも何かほかに理由があるからなのかは自分にはわからない。
総務省の内情に詳しいという人のコメント・メールで「総務省の職員(つまり官僚ということになるが)はこのCO2の25%削減案というものには非常に冷ややかで、大多数の人間はむしろ乗り気ではないのです」という内部告発のようなものも来ている。
最近になって、そのひとりから再び)「環境省の事務方からも民主党の政治主導によって出された25%削減案については、本質的な点について(つまり実現の可能性について)強い反撥があったと聞きます…」というようなコメントを頂戴した。
また「鳩山首相が国連でのスピーチした内容を知って愕然とした環境省官僚が公然と環境省正副大臣(民主党など与党の政治家)に対して鳩山首相批判を口にした」であるとかの噂話は何本かのルートからも伝え聞いている。
それが決して上のキャンペーンCMのこととストレートに結びつくものではないが、なんにしても、環境省、そして総務省(テレビ局などマスコミの管轄省庁)共に、この民主(というか鳩山首相)のCO2の25%削減案に対して諸手を挙げて賛成しているというのではないということ、また、一枚岩どころか民主党との関係がかなり危うい状態にあるのだけは確かなようだな。
こんなことで果たして本当に我々日本人の将来は良くなるのだろうか…と非常に暗い気分になる。
2010.03.27
☆☆☆☆☆
たま出版の掲示板で韮澤潤一郎(敬称略)がUFOであるとかについてどんなアホなことを書き込んでいたとしても、それはいってしまえばお笑いの範疇であるからここで取り上げて槍玉に上げるようなことでもないと思っている。
が、事実から大いに背いたことを書いているとなるとはなしは別である。
「蜜柑夢」さん、「テキーラサンライズ」さんその他の方々から情報提供があった。たま出版の掲示板にこのような書き込みがあるという。
温暖化と寒冷化と地軸の揺らぎ
投稿者:ニラサワ
気候変動の複雑な状況について、最近の研究結果が発表されています。やはり二十世紀の二酸化炭素の排出が寒冷化を上回っていたようです。さらに地軸の揺らぎの問題もあるようで、予知の警告とどのように関係してくるのでしょうか。
http://www.nati...pand
2010/03/27(Sat) 15:33 [14384]
アホか(笑)これこそがIPCCの責任者が「データ捏造を捏造しました」と告白した、いわゆるアイスホッケー理論をグラフ化したものなのだが。しかも引用されているナショナルグラフィックの記事の日付をみるとちゃんと2009年の9月になっている。
いったいなんのつもりでこんなことを言い出したのだろうか、このニラサワという人。
しかもねぇ、このグラフよく見てほしいのだが、横軸は年刻みで2000年での気温変化(過去はあくまでも推定である)で、縦軸はプラスマイナス一度づつの二度の範囲を大きく拡大している。
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/bigphotos/images/090903-arctic-warming-ice-age_big.jpg
ご存知の方も多いだろう。たとえ地球規模だとしても、(太陽の表面の活動などの影響で)平均気温の変化というものは(2000年のあいだに)年に二度違うことなんてざらにあるわけだし、この図だけで地球温暖化を知れというのがそもそもおかしなことなのだ。
このグラフはそういった「恣意的にゆがめられたもの」なのだ。
しかも、既報のとおりで、このグラフ、さらに過去50年の気温の低下をかなり低く底上げ(底下げ?)して作成されたものなのだ。
さて、それよりも自分が気になるのはこのヒト(韮澤潤一郎)の文章の乱れのほうかもしれない。
気候変動の複雑な状況について、最近の研究結果が発表されています。やはり二十世紀の二酸化炭素の排出が寒冷化を上回っていたようです。さらに地軸の揺らぎの問題もあるようで、予知の警告とどのように関係してくるのでしょうか…
これでは何を言っているのかさっぱりわからない。
自分ぐらいになると
やはり二十世紀の二酸化炭素の排出(でもたらされた温暖化というもの)が寒冷化を上回っていたようです。
さらに地軸の揺らぎ(が地球の気温変動に影響するなど)の問題もあるようで、
というように、脳内校正を施してからこのヒトの文章を読めるようになってしまったが。(笑)
いや、これは笑い事で済むはなしではない。
「未来から警告」「続・未来からの警告」という二冊の本に満載されている日本語的には無茶苦茶な「ニラサワ語」で書かれた監修者註を読みすぎた - ある種の後遺症みたいなものだからだ。
つかさ、ニラサワさんも校正者というか通訳ぐらいつけなさいな。もし本当に自分の言いたいことを多くのヒトに伝えたいというのであれば。
2010.03.28
☆☆☆☆☆
※ この個所は新記事として独立させました。こんなの不本意なのだが。
【100413】民主党は靖国参拝をしない党ではない
これはだいぶ以前に少しだけ書いたことだが、誤解を招いているところもあるようなので丁寧な説明をしておこうかと思う。かつて「陰謀論は嫌いだ」と書いたことの補足説明だ。
実は自分は「陰謀論」そのものはさほど嫌ってはいない。
自分が嫌っているのは、このような「陰謀論」を展開する「陰謀論者」の中でも、あまたこの世に存在するいくつもの「陰謀論」のひとつひとつを精査せずに、なんでもかんでも信憑性があるがのごとく書いたり言っている人たちだ。
というか(ここから先が重要)自分はそういう人たちのことを、(『TT』さんの言葉を借りればだが)幼児脳と馬鹿にしているし、そして少しだけ憐れんでいたりする。
このブログにもかつて「くるみ」を名乗る「911」を巡る陰謀論の信者が無謀な論戦を挑んできたことがあった。
自分が彼女に言いたいことは今でもかわらない。情報を鵜呑みにするな。少しは自分のアタマで考えろ、ということだ。
もし、彼女に少しでも物事を考えるチカラというものがあるのならば、自分の前に並べられたこれらの「仮説」の中には並存できないものがいくつもあることぐらいは気づくはずなのだ。
それが出来ないでなんでもかんでも「なんとなく信憑性のありそうなものすべて」を鵜呑みにしているから(他の陰謀論者同様に)自分の言が論理的破綻していることにも気づかないでいる。自分のような人間にそれを指摘されるとまともに答えられないで狼狽して別のはなしにもっていこうとする(逃げようとする)のだろう。
これでは幼児脳と言われても、憐れみの視線で見つめられてもしかたがないだろう、そういうことだ。
こういうこともあった。ジュセリーノ騒動以前の出来事である。
自分がまだ東京にいたころなのだが、とある非公式な席で911にまつわる陰謀論で座が盛り上がったことがあった。自分は口を挟まずにただ彼らの話に耳を傾けていたのだが、誰だったかに意見を求められたので、つい(話の内容に辟易していたからでもある)「どの論に対しても(彼らのいうところの)決定的証拠というものはないから、それだけでアメリカであるとかユダヤ組織による自作自演説は成り立たない」というようなことを口にしてその座の盛り上がりを一瞬にして白けさせてしまったのだ。(笑)
するとだね、911陰謀論を肯定的に熱く語っていたその中のひとりが近所にある大型書店まですっとんでいってコンノケンイチだったかの「911の謎」みたいな新刊書を買ってきて[註]「じゃあ、それをここで説明してくださいよ」とその本を突きつけてきたのだ。(笑)
だから自分はその本を使って、陰謀論と呼ばれているような、つまり一緒くたにされているひとつひとつの論であるとか、あるいは「決定的な証拠と呼ばれているもの」の弱点(つまり自作自演説の証拠にはならないということ)を説明したのだけれども。
自分がやってみせたこのようなことは実はそんなには難しいことではない。
なぜなら、陰謀論と呼ばれているものの論理的矛盾を突くのには一種のノウハウ(方法論)というものがあるからだ。
というか、この世に流れている「陰謀論」自体が、実はここ数十年まったく進化していないせいでもある。
つまり「陰謀論」そのものが進化(変化)していないので、「陰謀論の論破」もまた昔々の方法論だけで充分事足りてしまうということなのだ。
以上、自分が嫌うのは、得意げにこのような陰謀論を語る人間のほうであって、陰謀論そのものはそんなには嫌ってはいないということを説明した。
このような陰謀論というものは、結局のところ、それこそ「UFO目撃談」同様、いつまでたっても「情報以前の情報」あるいは「情報未満の情報」から変化しないということをおかしいと感じなければ。(※情報量、つまり数ばかりが増えてゆき、肝心の情報の質はいつまでたっても変化しないということ)
特にこの日本では、このようにして「陰謀論」あれもこれも肯定的に語る「陰謀論者」こそが、これら(アメリカあたりから流されてくる)情報の正しい処理方法であるとか、取り扱いに関する知識と理解が欠けているような気がする今日この頃である。
本屋で誰でも買えるような「陰謀論」の本をいくら大量に買い込んで読み込んだとしても、それではただの知識オタクにはなれるかもしれないが、知識に振り回されるだけだ。そのことには気がついて欲しいと願う。
(つづく)
2010.03.31
[註]徳間書店から出た「世界はここまで騙された」という本のようだ。
☆☆☆☆☆
映画「2012」のDVDが発売された。
かつての同業者から「DVDが何枚も余ってます。なんなら(もちろんタダでということ)送りましょうか?」というメールが来た。
ご好意はありがたかったが、この「2012」という映画は観てしまった。酷い映画だった。二度とみたくない。それだけだ。
まあ映画は映画(つまりフィクション)であって、内容にリアリティがないだとか文句をつけてもしかたない。
その切り口で、マヤによる人類滅亡予言をここで批判をしてもしかたがないだろう。
前にも書いたとおりで、そもそも「マヤ民族による人類滅亡の予言」がただのフィクションに過ぎない。近年になってから、マヤの予言というものを拡大解釈してマヤ民族には「人類滅亡の予言」があるとかのでっちあげをしている人間がいるだけのことだ。
自分がこの映画を「酷い映画」と切り捨てるように評するのは、単純に映画として出来がよくないという意味だ。
特にこの「2012」という映画、いろいろな意味で「後味の悪さ」ばかりが残る映画なのだ。
たとえば、ジョン・キューザック演じる主人公一家が入り口の閉じた「箱舟」に無理矢理乗り込もうとしたため、その結果何十人、いやもしかすると何百人もの箱舟の搭乗者(及び動物たち)が犠牲者になっているわけで、こういう展開をする映画は、たとえ娯楽映画だとしても、いや娯楽映画だからなおのこと観ていい気分はしない。
このような「主人公を生き延びさせるために用意されたとしかいいようのない無謀な展開」の映画を観るたびに「昔見た大作映画にもなんかこんな無茶苦茶な展開なのがあったよなぁ…」とは思っていた。タイトルこそ思い浮かばなかったのだが。
それが、最近ある人から言われて「パールハーバー」にもあてはまるし、あの「タイタニック」にも通じるところがあることに気がついた。
ああいった映画が好きな人ならば、もしかすると、この「2012」を観ても不満は感じないだろうし、主役の(自分たちが生き延びるために他の犠牲者が何人でもかまわないというような)行動原理に疑問を感ぜずに共感を覚えることもできるのかもしれない。
自分はダメだね。こういう映画は。
映画終わり、水面から顔を出した主人公に向かって「オマエが死ねばよかったのに」と本気で思ったと何かに書いていた人がいたが、自分はまあ、少しだけ同意である。
2010.03.30
【91017】「2012」という映画について
※ 実際に見てダメだと思った映画について「ダメ映画である」とあえてわざわざと書くのは自分の本意とするところではない。あれからもこの映画について意見を寄せてくる方が絶えないし、自分の意見を求められるのでそれに応える意味で書いてみた。
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というかさ、普通は、広告を出すほうも、あるいはadsもgoogleも、このブログにジュセリーノのコンテンツの広告を出したって意味がないどころか、逆効果になることぐらいはわかりそうなものだけどなぁ(笑)。そこまで手間は掛けてられないということなんだろうが。
誰があのコンテンツのプロデュースをしているのか、または何を目的としてあのようなウェブデザインになっているのか自分も掴みきれていない。
しかし、誰がジュセリーノに対して恋愛であるとか個人的な事象の占いを依頼したいと思うんだろうか。これも自分にはまったく読めないしわからない。
あのなぁ、そもそもジュセリーノっていうブラジル人は「予知夢で事件の現場にいる」と言っている自称予言者である。
そんな人間に、個人の-たとえば結婚であるとか恋愛を相談して、まともなアドバイスであるとか指針といったものを期待するほうがおかしいだろう。
それとも、ジュセリーノに自分に関する予知夢を見てほしいと期待する人がいると読んでいるのだろうか。
そのことを考えると、なんかおかしくておかしくて笑いがこみ上げてとまらなくなるのだ。
こういうことも言えるからだ。もし、ジュセリーノの見たといっている予知夢が本物だとすると、依頼者のすぐそばには時間と場所を越えて現れたジュセリーノの視線というものが注がれているということになるのである。しかも、真昼間だけ、あるいは公共の場所だけ、とかだったらいいけれど、ジュセリーノのその視線というものは、未来の(依頼者である)あなたの自宅にも、ひょっとすると就寝中の寝室にももしかすると入浴中にも、またもしかするとトイレの中にいる未来のあなたに対して注がれるかもしれないということになる。
もちろんそんなわけがあるはずもないのだが、少なくとも、予知夢を見るといっている予言者に対して個人的な相談事を依頼する人というのは予知夢占者に対してそれを期待するということになるのだということぐらいはわかっていたほうがいいだろう。
まあここまでは冗談みたいなもの。
さて、自分が本気で考え直してほしいと強く願っているのは、いままでここでも二度ほど書いてきたことだけれども、ジュセリーノのことを本物の予知能力者であるとして、そのジュセリーノを応援していると表明してきた職業占い師の皆さんに対してである。
ジュセリーノの絡んでいるその占いのページを見て、そしてそれでもジュセリーノを支持するのかどうかについては、よーくと考え直してほしいのものだ。
ジュセリーノのやっていることはあなたたちの生業(なりわい)である占業というものに対する侮蔑行為になるからだ。
そして、あなたがジュセリーノに対する支持を表明するということは、それは、あなたの顧客の皆に対する最大の裏切り行為でもあるのだ。
ある意味、これがラストチャンスともいえる。これを逃して、それでもジュセリーノへの支持を止めないという占い師がいたら、それはこの世に存在し活動するすべての同業者と袂を分かつことでもある。その覚悟はしたほうがいいのではないだろうか。
大きなお世話だろうが。
2010.03.14
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今までいろいろなブログの相互リンクサイトから勧誘があったり御推薦を受けたりしていたのだが、こちらとしてはあまり積極的にお受けすることはなかった。
そうなったのにはいろいろな理由がある。ひとつは広告枠を強制されたりするものは断らないわけにはいかないわけだし、そもそも、自分はこのようなシステムを利用して自分のブログの訪問者数を上げたり認知度を上げても、長い目で見た場合自分のこのブログのためにはならないし、積極的な意味はないと思っている人間である。
どうもそこのところが根本的に誤解されているようだ。
今回、BUZZというところから御推薦を受けてその相互リンクを利用させていただくことにしたのには自分の中で起きたちょっとした心境の変化というものも作用しているのかもしれない。「心境の変化」っていってしまうと大げさになるが、要するに目的とするもの、自分が相対峙しているものが変わったということに遅まきながら気がついたということでもある。
まあ悪いほうには転がらないとは思うのだが。どうだろう。御感想の方をよろしく。
2010.03.15
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【100315】の記事の追記部分を再録
3月14日(日)の午後に放送された「たかじんのそこまで言って委員会」(よみうりテレビ製作)という番組で、この「チャレンジ25」という政府キャンペーンの危うさというものが取り上げられたそうである。生憎自分は見てはいないのだが。[註1]
以前、テレ朝の「朝まで生テレビ」でやっていたのとほぼ同様の構図で「CO2削減推進派」と懐疑派による議論が交わされていたというのだが、番組に出演した推進派というのがたったひとりだったそうである。
その懐疑派の主頭は例によって「環境問題は何故ウソがまかりとおるのか」などでおなじみの武田邦彦。[註2]
誤解されて困っていることでもあるのだが、自分はこの武田邦彦という人の主張には非常に懐疑的でありそして否定的である。ここで自分が武田邦彦と同じことを書いているものだから「武田邦彦の本から引用をしている」あるいは「武田邦彦の同調者」と思っている人もいるようだがそうではない。単に引用元が同じというだけのことだ。
武田邦彦という人の主張の困ったところは、たとえば「ペットボトルの分別回収は無意味だ」とか言ってしまうことだろう。何度かここで書いているが、自分は「ペットボトルの分別回収」には意味はあるし、まだまだ改善の余地がいくらでもあると感じている立場である。自分がペットボトルの回収に意味があると思うのは、もしペットボトルを不燃物・石油製品と同じ枠で回収しはじめると、今度は都市衛生の面でいろいろと問題が浮上してくるのが目に見えているからだ。要するに、地球環境とかそういう大仰な視点ではなくて、もっと身近な問題としてペットボトルの分別回収は是と思っているということ。どうもこの武田という人の主張には、そういった都市生活者としての実感が抜け落ちていて、首をひねるような無茶苦茶なものばかりなのが困るところである。まあそういう意味では大槻義彦教授と同じ「学者バカ」の匂いが漂う。
しかし、もっとしょーもないのは推進派として番組に登場した明日香壽川(あすか・じゅせん)という学者で、この人はその朝生の地球温暖化の回に出演したときもアタマを抱えたくなるような無茶苦茶なことばかりいっていたのだが、今回の出演時にも司会の辛坊治郎に「地球温暖化の証拠はなんなんだ?」と訊かれて「あなたは(地球の温暖化を)実感していませんか?」と聞き返していたのだそうだ。
アホかコイツ。「地球の温暖化を実感できる」ってどんな立場の人間なんだ。神か。北極のシロクマ君か。南極のペンギンさんか。
常に地球上のあちこちと移動してきて地域地域の温暖化を実感したという人間相手にでなければこんな質問は無意味だしミスリードでもある。そんなことに気がつかないとしたら相当のオオバカヤロウである。
自分は5年前まで東京にいて、そして仙台に移住した人間[註3]だが、とてもではないが「地球の温暖化」なんて体感は出来ないし、実感も持っていない。体感して実感があるのは「都市熱(シティーヒート)」である。都市熱の実感と地球の温暖化はまったく別の問題である。絶対に一緒くたにしてはいけないことなのだ。
こういう「まやかし」を平気でやるようなヤツだから「胡散臭い」と言われるんだろうし、心ある推進派からも嫌われるんだろうがねぇ。まあこういううさんくさい人間がもっと前面に出てきてくれたほうが「懐疑派」としてはありがたいことなのかもしれないけどね。
(2010.03.15)
[註1] この番組、仙台(宮城地区)では普通に大阪と同じ放送スケジュールで見られる。東京にいた時もなんやかんやで録画したものを何度かは見ていた。あまり面白い番組とは思わないが、まあそれでもゲストの人選によってはだが、「見る価値有り」というのも何本かはあったと記憶している。
[註2] そののち頂いたメールによるとだが、懐疑派としてゲスト的に出演したのも武田邦彦ひとりだけだったようだ。そういう意味では、まあフェアな論戦ではあったようである。ただし、レギュラーパネラーの勝谷誠彦(かつや・まさひこ)が武田邦彦型の懐疑派の主張に乗っかって明日香壽川に対して論戦を挑んだのだとか。まあこれも番組の演出のうちだろうから、こういう個所に文句をいってもしかたがないのだろうが、もし、真面目に論議をするのであれば、こういう乱暴な区分けというか、番組製作サイドが視聴者にわかりやすいようにと議論を「二律対称構造」に仕立てて論戦をさせるのは、まあはっきりいって無意味に等しいことだ。なぜならば、(自分もそうなのだが)二酸化炭素の排出量を減らすことには基本賛成の立場をとるが、だからといって鳩山(民主)のように性急で穴だらけの(しかも国民に対してはオカルトで追い立てるような手法を使っての)施策には断固反対する立場の人間もいるからだ。いくら時間を掛けたとしてもまともな実のある結論は出ないだろうし、下手をすると視聴者に対して「事実ではないこと」を伝えてしまうという危険もあるのだ。(この手のテレビ番組を見るたびに)自分も危惧しているところである。ジュセリーノという自称予言者についてもまるっきりそうだった。彼が「地球環境のために」という「美々辞麗々句」を持ち出してきて、それにコロリと騙された日本人が多いというのがそれを物語っている。それとまったく同じことなのだ。自分は、ジュセリーノに騙されるなというのと同じように、鳩山には騙されるなと言っている。あ、言っちゃった(笑)
[註3]
正確には「自分も」というべきなんだろうな。でないと自分が何をこの明日香壽川に文句垂れているのかがわかりにくいだろう。
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ジュセリーノがブラジルの公式HPでこのブログに対して非難というものを表明しているということはちょっと前にも触れた。
このことに関していくつもメールやらコメントを頂いている。[註]
中には「大丈夫でしょうか?」というようなご心配[註2]もあるが、大体はこのブログの活動を評価するといったものだ。ありがたいことである。
ただし、そんな中にもジュセリーノ騒動をすでに過去のものとして捉えているものがあったのはとても残念である。
改めて強調するが、この醜悪な「インチキ予言者騒動」は決して終わったのではなくて、いまなお深く進行中なのである。
わかりやすく言えば、ジュセリーノのビジネスを日本でアシストしている組織というものは存在しているわけだし、「ジュセリーノの予言占い」という有料のネットコンテンツもあったりするのだ。これが現実である。
ジュセリーノ騒動というもの、決して過去のものではないのだ。以前のようにテレビ・マスコミなどで取り上げられることがなくなったとか新刊本が出なくなったというだけのことで。
さて、自分のところにはマスコミなどのジュセリーノ(元)関係者を名乗る人間からも何通かメールなどが来ているのだが、そういう人間からのメールの中に「ジュセリーノ騒動」を過去のものとした論調のものがあると自分は無性に腹が立ってくる。
マスコミ関係者がジュセリーノを過去のものにしたがるのは、それは単にもう自分たちマスコミはジュセリーノで金儲けはできなくなったと判断しただけのことだろう。そしてその責任逃れをやっているだけのことだ。
もしこのようなことを実際に自分の目の前で言われたら、もしかすると自分は「オマエらいい加減にしろよ」と怒鳴りつけるかもしれない。「誰がこんな騒動を引き起こしたのだ? オマエらだろうが」と詰め寄るかもしれない。
ジュセリーノ騒動は決して過去のものではない。今でもこの日本には「ジュセリーノの予言」をメシの種にしている人間はいるのだ。しかも卑怯な手段を用いて。この現実から目をそむけてはいけない。
2010.03.18
[註]3月18日現在、メール30通前後、コメントが20件ほど。
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首相である鳩山由紀夫に対する批判が次から次に舞い込んできています。
このブログは別に鳩山首相や民主党を批判することを目的としているのではないのでここでそのひとつひとつに触れることも取り上るつもりもない。
たとえば、生前贈与記載漏れと巨額脱税事件であるとか、あるいは いわゆる「故人献金」問題のことで、鳩山由紀夫を糾弾しようとか思ってはいない。そっちのほうはその道の専門家の皆様にお任せしたい。
ただしこれは言っておこうか。鳩山由紀夫という人が日本国首相という立場で、国連という晴れの場で「CO2削減25%」というスローガンをぶち上げたその姿というものが、民主党が野党だったころに、政治秘書が政治資金法違反で検挙された自民党の代議士に向かって議員辞職を迫り、その中で「もし自分の秘書が逮捕されたら自分だったら即座に辞職する」と啖呵を切ってみせたときの姿とどうしてもだぶって見えるのである。
故人献金疑惑にしてもそうだったし、多額の脱税が発覚したときの弁明もそうだし、小沢民主党幹事長の当時の秘書が逮捕されたときの苦し紛れの弁明・言い訳も皆そうなのだが、この人が野党民主党時代にぶち上げた威勢のいい発言というもの、そのどれもこれもが首相就任した現状では有権者の期待を裏切っている。
それが内閣支持率の急降下という数字となって現れているのだろう。
この「25%削減(支持率じゃなくてCO2のほうだが)宣言」もまた同じような運命を辿ることになるのではないか。そんな気がしてならないのだ。
2010.03.18
【100315】の記事の追記の追記の個所
この「CO2削減目標25%」について、自分が前々からまやかしがあるのではないかと思っていたところがあった。それがはっきりとした。やはり、鳩山(民主)の掲げた削減25%というのは、CO2排出権取引を行使しての達成目標なんだそうだ。これじゃ地球環境の為にもなんにもなってないじゃないか。ただの政治取引と同じだ。それにこれでは、いざとなったら途上国から排出権を金を出して買ってそれで「達成しました」と嘯(うそぶ)くことだってできることになる。ひどいまやかしである。しかも、その資金は果たしてどこから出てくるものなのかを考えてみよ。もちろん我々の国家予算、つまり税金からなのだ。
それにこれではこの「チャレンジ25」は、はじめから形を変えたODA(海外援助)ということになってしまう。
自分はこんなものを日本の対外政策のひとつとして認めることは絶対に出来ないね。あなたは認められますか?
こんなジョークがある。笑えないジョークだが。
(首相記者会見にて)
記者「10年後にCO2の25%削減という目標は少し厳しすぎないでしょうか?各産業界からも反論が噴出しています…」
鳩山「確かに困難な目標かもしれません。しかし決して不可能な数字ではないと私は確信しております」
記者「その確信の根拠というものをお聞かせください」
鳩山「わたしは10年どころか、わずか半年で30%も削減させた実績があります」
記者「内閣支持率かよ」
【100319】 事実というものの重みについての追記個所
「アマゾンの書評が消えてますよ」というご連絡を頂いた。実際に見てみると消えていた。自分はこの「真生」を名乗る本人が自主的に削除したのかと思っていたのだが、そうではなかった。
「Joe」さんという方からメールを頂いた。どうやら、「Joe」さんがアマゾンに削除を要請して、それがかなったということらしい。頂いたメールのその個所を公開する。(了承済)
(前略)今回は直接メールで、「真正という人のレビューは、本の内容とまったく異なるもので、特定の人物の名誉を著しく毀損しています。実際の本は該当人物のブログの内容をまとめたものではなく、出版社が書いたものです。 削除すべきだと思います」と書いたところ、下記のような返事が来まして、削除されたようです。とこういう経緯があったとのこと。
(以下、アマゾンからの返答コピー)
Amazon.co.jpにご連絡いただき、ありがとうございます。
Amazon.co.jpではレビューガイドラインに沿って、カスタマーレビューをチェックし、ガイドラインから外れていると判断したレビューは非掲載にいたしております。
ご指摘のとおり、このレビューは、当サイトのレビューガイドライン「作品の内容と全く無関係なコメント」に抵触するとみなされたため、非掲載とさせていただきました。
いろいろとご意見はあるとは思うが、こういったご助力に対しては感謝あるのみである。自分としては言論を封殺しようとかそういうつもりはまったくなくて、削除があるとしたら本人による自主削除というものをと期待していたのだが。それがこの真生という人に伝わらなかったことは残念である。
これは以前にも書いたことだが、最近ではこのようなアマゾンの書評というものも半ば2ちゃんねるのような無責任な書込みが目立つ。しかし、たとえばアマゾンの場合でも「取得したID」というものがあるわけで、今後この「真生」という人は、自分のこのIDでは使えなくなるだろうし、もっと悲惨なのは、自分の書いたことが第三者には信じてもらえなくなったり、まともにとりあってもらえなくなる可能性だって出てくるだろう。
そしてそれはジュセリーノ本人や「ジュセリーノは本物の予言者」だとかブログや掲示板で書き込んでいた人たちにもいえることなのだ。
自分で自分の首を絞めているのである。もしそのことに本当に気がついていないのだとしたらそれこそが悲劇であり、そして第三者的な視点からすると滑稽な喜劇なのだが。
2010.03.20
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100315の記事で取り上げた「チャレンジ25」のテレビCMのことだが、その後まったくオンエアされなくなったという。
それがはじめから予定されていた期間が過ぎたためなのか、それとも何かほかに理由があるからなのかは自分にはわからない。
総務省の内情に詳しいという人のコメント・メールで「総務省の職員(つまり官僚ということになるが)はこのCO2の25%削減案というものには非常に冷ややかで、大多数の人間はむしろ乗り気ではないのです」という内部告発のようなものも来ている。
最近になって、そのひとりから再び)「環境省の事務方からも民主党の政治主導によって出された25%削減案については、本質的な点について(つまり実現の可能性について)強い反撥があったと聞きます…」というようなコメントを頂戴した。
また「鳩山首相が国連でのスピーチした内容を知って愕然とした環境省官僚が公然と環境省正副大臣(民主党など与党の政治家)に対して鳩山首相批判を口にした」であるとかの噂話は何本かのルートからも伝え聞いている。
それが決して上のキャンペーンCMのこととストレートに結びつくものではないが、なんにしても、環境省、そして総務省(テレビ局などマスコミの管轄省庁)共に、この民主(というか鳩山首相)のCO2の25%削減案に対して諸手を挙げて賛成しているというのではないということ、また、一枚岩どころか民主党との関係がかなり危うい状態にあるのだけは確かなようだな。
こんなことで果たして本当に我々日本人の将来は良くなるのだろうか…と非常に暗い気分になる。
2010.03.27
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たま出版の掲示板で韮澤潤一郎(敬称略)がUFOであるとかについてどんなアホなことを書き込んでいたとしても、それはいってしまえばお笑いの範疇であるからここで取り上げて槍玉に上げるようなことでもないと思っている。
が、事実から大いに背いたことを書いているとなるとはなしは別である。
「蜜柑夢」さん、「テキーラサンライズ」さんその他の方々から情報提供があった。たま出版の掲示板にこのような書き込みがあるという。
温暖化と寒冷化と地軸の揺らぎ
投稿者:ニラサワ
気候変動の複雑な状況について、最近の研究結果が発表されています。やはり二十世紀の二酸化炭素の排出が寒冷化を上回っていたようです。さらに地軸の揺らぎの問題もあるようで、予知の警告とどのように関係してくるのでしょうか。
http://www.nati...pand
2010/03/27(Sat) 15:33 [14384]
アホか(笑)これこそがIPCCの責任者が「データ捏造を捏造しました」と告白した、いわゆるアイスホッケー理論をグラフ化したものなのだが。しかも引用されているナショナルグラフィックの記事の日付をみるとちゃんと2009年の9月になっている。
いったいなんのつもりでこんなことを言い出したのだろうか、このニラサワという人。
しかもねぇ、このグラフよく見てほしいのだが、横軸は年刻みで2000年での気温変化(過去はあくまでも推定である)で、縦軸はプラスマイナス一度づつの二度の範囲を大きく拡大している。
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/bigphotos/images/090903-arctic-warming-ice-age_big.jpg
ご存知の方も多いだろう。たとえ地球規模だとしても、(太陽の表面の活動などの影響で)平均気温の変化というものは(2000年のあいだに)年に二度違うことなんてざらにあるわけだし、この図だけで地球温暖化を知れというのがそもそもおかしなことなのだ。
このグラフはそういった「恣意的にゆがめられたもの」なのだ。
しかも、既報のとおりで、このグラフ、さらに過去50年の気温の低下をかなり低く底上げ(底下げ?)して作成されたものなのだ。
さて、それよりも自分が気になるのはこのヒト(韮澤潤一郎)の文章の乱れのほうかもしれない。
気候変動の複雑な状況について、最近の研究結果が発表されています。やはり二十世紀の二酸化炭素の排出が寒冷化を上回っていたようです。さらに地軸の揺らぎの問題もあるようで、予知の警告とどのように関係してくるのでしょうか…
これでは何を言っているのかさっぱりわからない。
自分ぐらいになると
やはり二十世紀の二酸化炭素の排出(でもたらされた温暖化というもの)が寒冷化を上回っていたようです。
さらに地軸の揺らぎ(が地球の気温変動に影響するなど)の問題もあるようで、
というように、脳内校正を施してからこのヒトの文章を読めるようになってしまったが。(笑)
いや、これは笑い事で済むはなしではない。
「未来から警告」「続・未来からの警告」という二冊の本に満載されている日本語的には無茶苦茶な「ニラサワ語」で書かれた監修者註を読みすぎた - ある種の後遺症みたいなものだからだ。
つかさ、ニラサワさんも校正者というか通訳ぐらいつけなさいな。もし本当に自分の言いたいことを多くのヒトに伝えたいというのであれば。
2010.03.28
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※ この個所は新記事として独立させました。こんなの不本意なのだが。
【100413】民主党は靖国参拝をしない党ではない
これはだいぶ以前に少しだけ書いたことだが、誤解を招いているところもあるようなので丁寧な説明をしておこうかと思う。かつて「陰謀論は嫌いだ」と書いたことの補足説明だ。
実は自分は「陰謀論」そのものはさほど嫌ってはいない。
自分が嫌っているのは、このような「陰謀論」を展開する「陰謀論者」の中でも、あまたこの世に存在するいくつもの「陰謀論」のひとつひとつを精査せずに、なんでもかんでも信憑性があるがのごとく書いたり言っている人たちだ。
というか(ここから先が重要)自分はそういう人たちのことを、(『TT』さんの言葉を借りればだが)幼児脳と馬鹿にしているし、そして少しだけ憐れんでいたりする。
このブログにもかつて「くるみ」を名乗る「911」を巡る陰謀論の信者が無謀な論戦を挑んできたことがあった。
自分が彼女に言いたいことは今でもかわらない。情報を鵜呑みにするな。少しは自分のアタマで考えろ、ということだ。
もし、彼女に少しでも物事を考えるチカラというものがあるのならば、自分の前に並べられたこれらの「仮説」の中には並存できないものがいくつもあることぐらいは気づくはずなのだ。
それが出来ないでなんでもかんでも「なんとなく信憑性のありそうなものすべて」を鵜呑みにしているから(他の陰謀論者同様に)自分の言が論理的破綻していることにも気づかないでいる。自分のような人間にそれを指摘されるとまともに答えられないで狼狽して別のはなしにもっていこうとする(逃げようとする)のだろう。
これでは幼児脳と言われても、憐れみの視線で見つめられてもしかたがないだろう、そういうことだ。
こういうこともあった。ジュセリーノ騒動以前の出来事である。
自分がまだ東京にいたころなのだが、とある非公式な席で911にまつわる陰謀論で座が盛り上がったことがあった。自分は口を挟まずにただ彼らの話に耳を傾けていたのだが、誰だったかに意見を求められたので、つい(話の内容に辟易していたからでもある)「どの論に対しても(彼らのいうところの)決定的証拠というものはないから、それだけでアメリカであるとかユダヤ組織による自作自演説は成り立たない」というようなことを口にしてその座の盛り上がりを一瞬にして白けさせてしまったのだ。(笑)
するとだね、911陰謀論を肯定的に熱く語っていたその中のひとりが近所にある大型書店まですっとんでいってコンノケンイチだったかの「911の謎」みたいな新刊書を買ってきて[註]「じゃあ、それをここで説明してくださいよ」とその本を突きつけてきたのだ。(笑)
だから自分はその本を使って、陰謀論と呼ばれているような、つまり一緒くたにされているひとつひとつの論であるとか、あるいは「決定的な証拠と呼ばれているもの」の弱点(つまり自作自演説の証拠にはならないということ)を説明したのだけれども。
自分がやってみせたこのようなことは実はそんなには難しいことではない。
なぜなら、陰謀論と呼ばれているものの論理的矛盾を突くのには一種のノウハウ(方法論)というものがあるからだ。
というか、この世に流れている「陰謀論」自体が、実はここ数十年まったく進化していないせいでもある。
つまり「陰謀論」そのものが進化(変化)していないので、「陰謀論の論破」もまた昔々の方法論だけで充分事足りてしまうということなのだ。
以上、自分が嫌うのは、得意げにこのような陰謀論を語る人間のほうであって、陰謀論そのものはそんなには嫌ってはいないということを説明した。
このような陰謀論というものは、結局のところ、それこそ「UFO目撃談」同様、いつまでたっても「情報以前の情報」あるいは「情報未満の情報」から変化しないということをおかしいと感じなければ。(※情報量、つまり数ばかりが増えてゆき、肝心の情報の質はいつまでたっても変化しないということ)
特にこの日本では、このようにして「陰謀論」あれもこれも肯定的に語る「陰謀論者」こそが、これら(アメリカあたりから流されてくる)情報の正しい処理方法であるとか、取り扱いに関する知識と理解が欠けているような気がする今日この頃である。
本屋で誰でも買えるような「陰謀論」の本をいくら大量に買い込んで読み込んだとしても、それではただの知識オタクにはなれるかもしれないが、知識に振り回されるだけだ。そのことには気がついて欲しいと願う。
(つづく)
2010.03.31
[註]徳間書店から出た「世界はここまで騙された」という本のようだ。
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映画「2012」のDVDが発売された。
かつての同業者から「DVDが何枚も余ってます。なんなら(もちろんタダでということ)送りましょうか?」というメールが来た。
ご好意はありがたかったが、この「2012」という映画は観てしまった。酷い映画だった。二度とみたくない。それだけだ。
まあ映画は映画(つまりフィクション)であって、内容にリアリティがないだとか文句をつけてもしかたない。
その切り口で、マヤによる人類滅亡予言をここで批判をしてもしかたがないだろう。
前にも書いたとおりで、そもそも「マヤ民族による人類滅亡の予言」がただのフィクションに過ぎない。近年になってから、マヤの予言というものを拡大解釈してマヤ民族には「人類滅亡の予言」があるとかのでっちあげをしている人間がいるだけのことだ。
自分がこの映画を「酷い映画」と切り捨てるように評するのは、単純に映画として出来がよくないという意味だ。
特にこの「2012」という映画、いろいろな意味で「後味の悪さ」ばかりが残る映画なのだ。
たとえば、ジョン・キューザック演じる主人公一家が入り口の閉じた「箱舟」に無理矢理乗り込もうとしたため、その結果何十人、いやもしかすると何百人もの箱舟の搭乗者(及び動物たち)が犠牲者になっているわけで、こういう展開をする映画は、たとえ娯楽映画だとしても、いや娯楽映画だからなおのこと観ていい気分はしない。
このような「主人公を生き延びさせるために用意されたとしかいいようのない無謀な展開」の映画を観るたびに「昔見た大作映画にもなんかこんな無茶苦茶な展開なのがあったよなぁ…」とは思っていた。タイトルこそ思い浮かばなかったのだが。
それが、最近ある人から言われて「パールハーバー」にもあてはまるし、あの「タイタニック」にも通じるところがあることに気がついた。
ああいった映画が好きな人ならば、もしかすると、この「2012」を観ても不満は感じないだろうし、主役の(自分たちが生き延びるために他の犠牲者が何人でもかまわないというような)行動原理に疑問を感ぜずに共感を覚えることもできるのかもしれない。
自分はダメだね。こういう映画は。
映画終わり、水面から顔を出した主人公に向かって「オマエが死ねばよかったのに」と本気で思ったと何かに書いていた人がいたが、自分はまあ、少しだけ同意である。
2010.03.30
【91017】「2012」という映画について
※ 実際に見てダメだと思った映画について「ダメ映画である」とあえてわざわざと書くのは自分の本意とするところではない。あれからもこの映画について意見を寄せてくる方が絶えないし、自分の意見を求められるのでそれに応える意味で書いてみた。
2010年3月28日日曜日
100328 無茶苦茶なたとえ話を耳にした
まあ、環境であるとか地球温暖化について語ると、たとえそれが善意からくるものでであっても、よくと考えると無茶苦茶なたとえ話に置き換える人が出てくる。
たとえば、この二酸化炭素というものをゴミに置き換えて、そして地球というものをひとつのマンションにたとえて、このようなたとえばなしというかおとぎばなしにして語っている人がいる。
最近、マンションから出るゴミの量が増えすぎて共益費だけではまかなえなくなってきたので、マンションの住民が一致協力してゴミの量を減らそうと努力する、つまりそれが地球温暖化に対する私たちの取り組みと同じなのです。
これってなんかおかしいでしょう。
もしおかしいと感じないとしたらその人のほうがおかしい。
もちろんこんな方法では決して本質な解決(ゴミの量を減らす)には結びつかないからだ。
もし、マンション全体から出るゴミの量が急激に増えたのが事実だとすれば、そこにはちゃんとした理由があるはずで、それを究明しないことには、どれだけマンションの住民が一致団結したとしても「適切な解決」にはならない。
たとえば、入居世帯数が増えたからだとか、どこかの部屋から出るゴミの量が一挙に増えたからとか、なにか決定的な原因があるはずなのだ。それに対処しないで何が問題解決になるのであろうか。
というか、環境の問題、特に二酸化酸素排出に関して我々に課せられているのは、このようなたとえばなしで置き換えられる「不公平な解決方法」なのではないか。
たとえば(たとえばなしにたとえばなしで返すのも大人げないのだが)こういうことだ。
マンションから出るゴミの量が増えたその理由についてよく調べてみたら、最近越してきた住人の部屋から膨大な量のゴミが出されているのがわかった。これでは不公平なことになるから、これからは出したゴミの量にふさわしい料金を別枠で徴収することにした。
このたとえばなしなら「そりゃそうだ」と納得する人も多いのでは。
勘違いしないでほしい。自分はこれを環境問題であるとか地球温暖化に対する解決策にそのまま当てはめていいとかそういうことを言っているのではない。
要するに、「環境問題であるとか地球温暖化について語るときは下手なたとえばなしに持ち込んで丸め込むような卑怯な手段をとるな」ということを言いたいのだ、自分は。
誰に対してということではない。すべての人にだ。
たとえば、この二酸化炭素というものをゴミに置き換えて、そして地球というものをひとつのマンションにたとえて、このようなたとえばなしというかおとぎばなしにして語っている人がいる。
最近、マンションから出るゴミの量が増えすぎて共益費だけではまかなえなくなってきたので、マンションの住民が一致協力してゴミの量を減らそうと努力する、つまりそれが地球温暖化に対する私たちの取り組みと同じなのです。
これってなんかおかしいでしょう。
もしおかしいと感じないとしたらその人のほうがおかしい。
もちろんこんな方法では決して本質な解決(ゴミの量を減らす)には結びつかないからだ。
もし、マンション全体から出るゴミの量が急激に増えたのが事実だとすれば、そこにはちゃんとした理由があるはずで、それを究明しないことには、どれだけマンションの住民が一致団結したとしても「適切な解決」にはならない。
たとえば、入居世帯数が増えたからだとか、どこかの部屋から出るゴミの量が一挙に増えたからとか、なにか決定的な原因があるはずなのだ。それに対処しないで何が問題解決になるのであろうか。
というか、環境の問題、特に二酸化酸素排出に関して我々に課せられているのは、このようなたとえばなしで置き換えられる「不公平な解決方法」なのではないか。
たとえば(たとえばなしにたとえばなしで返すのも大人げないのだが)こういうことだ。
マンションから出るゴミの量が増えたその理由についてよく調べてみたら、最近越してきた住人の部屋から膨大な量のゴミが出されているのがわかった。これでは不公平なことになるから、これからは出したゴミの量にふさわしい料金を別枠で徴収することにした。
このたとえばなしなら「そりゃそうだ」と納得する人も多いのでは。
勘違いしないでほしい。自分はこれを環境問題であるとか地球温暖化に対する解決策にそのまま当てはめていいとかそういうことを言っているのではない。
要するに、「環境問題であるとか地球温暖化について語るときは下手なたとえばなしに持ち込んで丸め込むような卑怯な手段をとるな」ということを言いたいのだ、自分は。
誰に対してということではない。すべての人にだ。
2010年3月19日金曜日
100319 事実というものの重みについて
それがたとえブログの書き込みであっても名誉毀損は成立するという最高裁判所の判決が出た[註]ことで、この自分も意見というか感想を求められる。(そういうメールが来ているという意味)
意見とか感想とか訊かれてもねぇ。一般的なことしか言えないし書けないのだが。
なにしろこのケース(裁判)と自分のこのブログには、これといった共通点はないからだ。だからあくまでも「一般的なこと」しか書けないし言えない。
自分は、問題となるブログのことはよくは知らないのだが、知者の方が言っているところでは、やはり何が事実なのか、何が事実ではないのかという大切なことを読者に明快に提示できていたのかという点においては落ち度はあったようである。それがこの最高裁の判決に結びついた可能性高いということだろう。
たとえば、自分はこのブログでも「全国BSC」という組織と「真光元(まこも)」という宗教団体の結びつきというものを書いているブログのことをご紹介した。
この真光元というところ、施設内で重度の糖尿病患者を放置して死に至らしめたという犯罪(過失致死)を実際に犯している。
これは決して事故なのではない。その被害者の少女は治療目的のためにその施設に移管されて必要不可欠なインスリン注射もせずに放置されたから死んだのだ。
それを指して、そういう常識はずれのことをするから人はこの宗教団体のことをカルトと言う。自分もそれに従いこの宗教団体をカルトであると言ったし書いた。
たとえば、だからもし上記の事件(裁判)に無理矢理あてはめた場合ということだが、もし、自分が「全国BSC」のことをカルトである、と言ってしまった場合にはその事実証拠の提示が求められるだろうし、それが出来なければ、もしかすると相手(BSCが訴えた場合には)「名誉毀損」というものが成立してしまう可能性はあるのだろう。
しかし、自分がここで書いているのは「真光元」という宗教団体と、全国BSCの深い結びつきというものを端的に示した文書でありHPである。つまり自分がここで書いているのは「事実」なのである。自分の意見であるとか主張ですらない。
自分は「事実」は事実しか書かないし、推測でしかない場合はちゃんとそのように「推測であるが~」をつけるなどして、読者に対してははっきりとわかるように分けて書いている。
まあ、上の裁判のケースはあくまでも非常に特殊なケースであって、この判例というものが今後すべての同様の裁判に当てはまるとは思えないが、むしろ自分としてはこの判例は大歓迎である。
なんでかというと、自分はブログや掲示板などで、事実でないことばかりを書かれて「名誉毀損」という実害を蒙っている被害者でもあるからだ。
実際、アマゾンのレビューのページでも事実無根のことを書いているアホウがいたりするのだから始末が悪い。
こういった「いい加減なことを書く連中」が少しでも減ってくれるのであればそれは自分にとってはありがたいことでもある。
最後に勝つのは愛かもしれないが、事実もなのだ。
[註]朝日comの記事「ネット上の中傷書き込みで名誉棄損罪確定 最高裁初判断」
http://www.asahi.com/digital/internet/TKY201003160454.html
2010年3月16日
参照
紀藤正樹弁護士のブログより
不当な最高裁判決に驚き!と困惑!!
「真光元(しんこうげん)と薬事法」
「真光元(しんこうげん)の裏面」
追記
「アマゾンの書評が消えてますよ」というご連絡を頂いた。見てみると本当に消えていた。自分はこの「真生」を名乗る本人が自主的に削除したのかと思っていたのだが、そうではなかったようだ。「Joe」さんという方からメールが来て知ったのだが、このJOEさんという方がアマゾンに削除を要請してそれがかなったということらしい。頂いたメールのその個所を添付する。
(前略)今回は直接メールで、「真正という人のレビューは、本の内容とまったく異なるもので、特定の人物の名誉を著しく毀損しています。実際の本は該当人物のブログの内容をまとめたものではなく、出版社が書いたものです。 削除すべきだと思います」と書いたところ、下記のような返事が来まして、削除されたようです。
(以下、アマゾンからの返答コピー)
Amazon.co.jpにご連絡いただき、ありがとうございます。
Amazon.co.jpではレビューガイドラインに沿って、カスタマーレビューをチェックし、ガイドラインから外れていると判断したレビューは非掲載にいたしております。
ご指摘のとおり、このレビューは、当サイトのレビューガイドライン「作品の内容と全く無関係なコメント」に抵触するとみなされたため、非掲載とさせていただきました。
とこういう経緯があったとのこと。
いろいろとご意見はあるとは思うが、こういったご助力に対しては感謝あるのみである。自分としては言論を封殺しようとかそういうつもりはまったくなくて、削除があるとしたら本人による自主削除というものをと期待していたのだが。それがこの真生という人に伝わらなかったことは残念である。
これは以前にも書いたことだが、最近ではこのようなアマゾンのレビュー(書評)もまるで2ちゃんねるのような無責任な書込みが目立つようになった。しかし、たとえばアマゾンの場合でも「取得したID」というものがあるわけで、今後この「真生」という人は、自分のこのIDでは使えなくなるだろうし、もっと悲惨なのは、自分の書いたことが第三者には信じてもらえなくなったり、まともにとりあってもらえなくなる可能性だって出てくるだろう。
そしてそれはジュセリーノ本人や「ジュセリーノは本物の予言者」だとかブログや掲示板で書き込んでいた人たちにもいえることなのだ。
自分で自分の首を絞めているのである。もしそのことに本当に気がついていないのだとしたらそれこそが悲劇であり、そして第三者的な視点からすると滑稽な喜劇なのだが。
2010.03.20
意見とか感想とか訊かれてもねぇ。一般的なことしか言えないし書けないのだが。
なにしろこのケース(裁判)と自分のこのブログには、これといった共通点はないからだ。だからあくまでも「一般的なこと」しか書けないし言えない。
自分は、問題となるブログのことはよくは知らないのだが、知者の方が言っているところでは、やはり何が事実なのか、何が事実ではないのかという大切なことを読者に明快に提示できていたのかという点においては落ち度はあったようである。それがこの最高裁の判決に結びついた可能性高いということだろう。
たとえば、自分はこのブログでも「全国BSC」という組織と「真光元(まこも)」という宗教団体の結びつきというものを書いているブログのことをご紹介した。
この真光元というところ、施設内で重度の糖尿病患者を放置して死に至らしめたという犯罪(過失致死)を実際に犯している。
これは決して事故なのではない。その被害者の少女は治療目的のためにその施設に移管されて必要不可欠なインスリン注射もせずに放置されたから死んだのだ。
それを指して、そういう常識はずれのことをするから人はこの宗教団体のことをカルトと言う。自分もそれに従いこの宗教団体をカルトであると言ったし書いた。
たとえば、だからもし上記の事件(裁判)に無理矢理あてはめた場合ということだが、もし、自分が「全国BSC」のことをカルトである、と言ってしまった場合にはその事実証拠の提示が求められるだろうし、それが出来なければ、もしかすると相手(BSCが訴えた場合には)「名誉毀損」というものが成立してしまう可能性はあるのだろう。
しかし、自分がここで書いているのは「真光元」という宗教団体と、全国BSCの深い結びつきというものを端的に示した文書でありHPである。つまり自分がここで書いているのは「事実」なのである。自分の意見であるとか主張ですらない。
自分は「事実」は事実しか書かないし、推測でしかない場合はちゃんとそのように「推測であるが~」をつけるなどして、読者に対してははっきりとわかるように分けて書いている。
まあ、上の裁判のケースはあくまでも非常に特殊なケースであって、この判例というものが今後すべての同様の裁判に当てはまるとは思えないが、むしろ自分としてはこの判例は大歓迎である。
なんでかというと、自分はブログや掲示板などで、事実でないことばかりを書かれて「名誉毀損」という実害を蒙っている被害者でもあるからだ。
実際、アマゾンのレビューのページでも事実無根のことを書いているアホウがいたりするのだから始末が悪い。
こういった「いい加減なことを書く連中」が少しでも減ってくれるのであればそれは自分にとってはありがたいことでもある。
最後に勝つのは愛かもしれないが、事実もなのだ。
[註]朝日comの記事「ネット上の中傷書き込みで名誉棄損罪確定 最高裁初判断」
http://www.asahi.com/digital/internet/TKY201003160454.html
2010年3月16日
参照
紀藤正樹弁護士のブログより
不当な最高裁判決に驚き!と困惑!!
「真光元(しんこうげん)と薬事法」
「真光元(しんこうげん)の裏面」
追記
「アマゾンの書評が消えてますよ」というご連絡を頂いた。見てみると本当に消えていた。自分はこの「真生」を名乗る本人が自主的に削除したのかと思っていたのだが、そうではなかったようだ。「Joe」さんという方からメールが来て知ったのだが、このJOEさんという方がアマゾンに削除を要請してそれがかなったということらしい。頂いたメールのその個所を添付する。
(前略)今回は直接メールで、「真正という人のレビューは、本の内容とまったく異なるもので、特定の人物の名誉を著しく毀損しています。実際の本は該当人物のブログの内容をまとめたものではなく、出版社が書いたものです。 削除すべきだと思います」と書いたところ、下記のような返事が来まして、削除されたようです。
(以下、アマゾンからの返答コピー)
Amazon.co.jpにご連絡いただき、ありがとうございます。
Amazon.co.jpではレビューガイドラインに沿って、カスタマーレビューをチェックし、ガイドラインから外れていると判断したレビューは非掲載にいたしております。
ご指摘のとおり、このレビューは、当サイトのレビューガイドライン「作品の内容と全く無関係なコメント」に抵触するとみなされたため、非掲載とさせていただきました。
とこういう経緯があったとのこと。
いろいろとご意見はあるとは思うが、こういったご助力に対しては感謝あるのみである。自分としては言論を封殺しようとかそういうつもりはまったくなくて、削除があるとしたら本人による自主削除というものをと期待していたのだが。それがこの真生という人に伝わらなかったことは残念である。
これは以前にも書いたことだが、最近ではこのようなアマゾンのレビュー(書評)もまるで2ちゃんねるのような無責任な書込みが目立つようになった。しかし、たとえばアマゾンの場合でも「取得したID」というものがあるわけで、今後この「真生」という人は、自分のこのIDでは使えなくなるだろうし、もっと悲惨なのは、自分の書いたことが第三者には信じてもらえなくなったり、まともにとりあってもらえなくなる可能性だって出てくるだろう。
そしてそれはジュセリーノ本人や「ジュセリーノは本物の予言者」だとかブログや掲示板で書き込んでいた人たちにもいえることなのだ。
自分で自分の首を絞めているのである。もしそのことに本当に気がついていないのだとしたらそれこそが悲劇であり、そして第三者的な視点からすると滑稽な喜劇なのだが。
2010.03.20
2010年3月15日月曜日
100315 「チャレンジ25」のテレビCMについて思うこと
1
自分があまりテレビを見ない人間だからなのだが、皆がまるで口を揃えるようにして「チャレンジ25」というCO2削減を訴えるキャンペーンCMの気持ち悪さについて語っていても、いまひとつピンとこないところがあったし、話の輪の中に入れずにいた。(だからここでも取り上げなかった)
「しろくま」さんという方から、その問題のテレビCMの動画(今ではyouTUBEなどでも見ることが出来る[注1])を携帯動画として送ってもらって、それを実際に(携帯で)見た率直な感想は
「あっ、こりゃ完全にオカルトだわ…」といったものだった。
届けられたCMは2パターンあった。[註2]共通しているのは、崩れる氷山、まばらになった海氷の上を渡ろうとしているシロクマ、多発する山火事、そして砂漠化する大地といった映像であり、それに被さるテロップ(字幕)とナレーション、といったところ。
そして締めとして、地球温暖化防止のためにCO2(二酸化炭素)削減目標(2020年までに25%)に向かってチャレンジしましょうと訴えかけて終わる。
このテレビCMが孕んでいる問題点とそれへの批判については後回しにする。いっしょくたにすると誤解する人がまたぞろ増えそうな気がするからだ。
実際に自分が最初にこれを見て「このCM、失敗だなぁ」と思ったのは、その内容であるとかメッセージがどうとか言う前に「人選ミス」のことだった。
ふたつあるうちのひとつは、加山雄三がナレーションと出演をしているもので、まあこれについては、(少なくとも15秒間のテレビCFとしてみた場合にということだが)「気味が悪い」というようなものでもなかった。
だが、もうひとつの方だが、加山雄三ではなくて、陰気くさい男の声のナレーションで、この声の主が皆が言っている鳩山由紀夫(首相)の声だとはすぐに結びつかなかった。(携帯端末だからか)
しかし、皆が「なんかキモチ悪い」といっているのは、きっとこれのことなのだろうと納得はいった。
実際、鳩山由紀夫の陰気臭くてモゴモゴともぐったような声に乗って、山火事や乾燥した大地というような映像を見せられたらたとえ短いCMだとはいえ気分はよくないし、ついうっかりすると、何かオカルト映画とか、下手をするとカルト団体の宣伝に見えなくもない。
もちろん、自分だって、鳩山由紀夫の陰気なしゃべり方や頼りなげな地声というものを責めてもしかたがないのはよーくわかっているつもりなのだが。[注1]
でも、だったら何故鳩山由紀夫はこのようなCMに「声だけの出演」みたいな中途半端な登場をしてしまったのだろうか。
日本の首相が日本の国民に向かってCO2削減を訴えるというのならば、堂々と顔出ししたパターンにすればいいだろうに。(そうすれば自分もまた面と向かって批判も出来ただろう)
こんな「ナレーションだけ差し替えてみました」みたいなやりかたは、どこか姑息さというものを感じさせるだけだ。
2010.03.12
[注1] 政府広報のHPからも見ることが出来るようである。でもリンクはしない。だってキモチ悪いんだもん。
[注2] 実際に存在するのはやはりこの2パターンだけであった。
[注3] 本来ならば、責められるべき立場にあるのはナレーターの鳩山(首相)ではなくて、このテレビCMをプロデュースしたり演出したりする、いわゆる「作る立場」の人たちということになるだろう。要するに、レコーディグのときにキチンと鳩山由紀夫に対して「もっとハキハキと」とか「力強い口調で」とダメだししなければならなかったはずなのだ。それが彼らの仕事というものだ。
☆☆☆☆☆
2
もちろん、テレビCMの不出来を論うことだけが目的でこんなことを書いているのではない。
これはここで何度も書いてきていることだが、そもそも、この「地球温暖化防止のためにCO2の排出を削減しましょう」というスローガンは論理的ではない。[註1]
ましてや、一国の首相が音頭を取って「25%の削減を目標に頑張りましょう」というのは輪をかけて無茶苦茶なことなのだ。
それを指して自分は「オカルトだ」といっている。そのことだけは言っておく必要はあるだろう。そう感じている。
さて、ここにきて、鳩山首相が掲げた10年で25%の削減という目標に対していろいろなところから疑問や懐疑的な意見が続出している。(まああたりまえのことなんだけどね)
地球温暖化の防止が目標ならば、人類が排出する二酸化炭素は少なければ少ないほどよいわけだが、果たして、この(10年後に)25%削減という数字はその目的達成のための有効な値になっているのだろうか?
ここいらあたりに大いなる欺瞞というものを感じるのだ。普通に考えればだよ、本来の分母(大気中に存在する二酸化炭素量)の総量がその何十倍何百倍ひょっとすると何万倍かもしれないというのに、日本だけが(10年後を目標にして1990年当時の)1/4を減らしたところであんまり意味はないだろう。[註2]
ところが、わが国の首相はどうやら25%を減らすことが本当に地球環境のためになると信じ込んでいる「オカルトの徒」らしいのである。困ったハナシだが。
自分が思うのは、この「25%削減」という目標値を掲げるということに意味があるとすれば、それはあくまでも日本という国の(国際的)立場にとってということだろう。
言葉を変えて言えば、25%削減っていうのは、単に「政治的」なことでしかないと思うのだ。
もし、はじめから「25%削減って言っておくと我々日本人は得をしますよ」というのだったら、自分も、まあそのハナシには乗らないわけでもないし、ここでオカルトだと批判するようなものでもないと思っている。
そうでなくて、「いや、(25%削減は)あくまでも地球環境のためにであって、政治利用ではない」みたいなことを言い出す人があまりにも多いからハナシはこんがらがる。責任者は誰なんだ、みたいなはなしになるのだ。
2010.03.13
[註1]まず、「二酸化炭素が増えたこと、つまり人類が人類であるがゆえに排出した二酸化炭素の増加こそが地球温暖化の最大(あるいは)唯一の原因なのだろうか?」という命題がある。それに対する答えはすでに出ているといっていいだろう。答えはノーだ。まったく違う。二酸化炭素だけが地球温暖化の犯人ではないのだ。それどころか「二酸化炭素の増加はむしろ温暖化の結果であって原因ではない」と主張している科学者グループもいるのだ。そういう人たちが温暖化の原因として挙げているのは「太陽活動」であり、地球の地殻活動である。火山の噴火などで空中に排出されたメタンガスなどの(二酸化炭素よりも)重い(=つまり熱を蓄えやすく、そして比較的拡散しやすい)元素である。まあ、確かにこっちの説の方が実は理にはかなっているわけだが。それに、この「二酸化炭素原因説」の最大の提唱者であるはずのIPCCの主導的な立場にある人間がデータの捏造の事実というものをあっさりと認めてしまったということもある。それはこのブログでも何度か触れたことなのでここでは詳細は省くが。
(誤解を招かないように付け加えておくが、何も自分は二酸化炭素の増加と地球温暖化はまったく関係ないと言い張っているのではない)
[註2]実際、地球物理学に詳しそうな知り合いにたずねてみたのだが、彼は含み笑いを浮かべるだけでまともにこたえてはくれなかった。まあ、まともに考えて答えのでる領域のものではないことなんだということだけは自分も理解したが。彼が言下に匂わせたところをうまくまとめるのは難しい。要するに(変動幅の大きな)不確実な要素に正確な値(25%)を関連付けて出てくる答えは時にイエスにもなるしまた別のときはノーにもなる。それだけの大きな振幅というものがあるということなのだろう。
☆☆☆☆☆
3
自分があのCMはオカルトである、と言い切る理由は以上である。
ありもしないことをさもあるかのように仕立て上げるという行為は詐欺でもあるわけだし、その行為に金銭的なものがたとえ絡まなくとも決して許されるようなことではない。もし騙している当人に詐欺という意識がまったくないのならば、それは「オカルトでしょ」ということになってしまう。
実際に自分の周囲の人たちが口にしていたことを拾い上げると、一番多かったのは「二酸化炭素を25%減らさないと本当に山火事が続出したり水不足が深刻になるのか?」という非常にシンプルな疑問であり、そして不安だった。
うーん、まあ確かにあんなCMを見てしまうと、それがあのCMの訴求点であるように見えてしまうというのもうなずけることなのだ。そしてそれがあの「チャレンジ25」のキャンペーンCMの致命的な欠陥なのだ。[註1]
もちろん自分は「そんなことはない」とはっきりと言い切ることが出来る。[註2]
世界各地で見られる旱魃(かんばつ)であるとか、あるいは山火事のような自然災害と温暖化の関係についてはなんともいえない。しかし、少なくとも、二酸化炭素の増加がこの地球温暖化のすべての原因でないことぐらいはよく考えれば誰でもがわかることなのだ。
ところが困ったもので、この世にはそういう初歩的なことは見て見ぬ振りをして、インチキとしかいいようのない情報を織り交ぜて、まるで「二酸化炭素がこのまま増え続けると未来は大変なことになるぞ」というようなタチの悪い脅しを仕掛けてくる連中がいたりするのだ。
そして、この「チャレンジ25」というキャンペーンもまたその中のひとつとしてカウントしてもいいものだろう。
「風吹けば桶屋が儲かる」ということわざ(故事成句)がある。簡単に言えば、世の中は巡り巡って意外な結果を及ぼす…という(まるでバタフライ・エフェクトそのものだが)意味合いで使われるが、ほかにも「当てにならないものを期待するたとえ」であるとか「一見、論理的に思えるが、大所から見た場合無茶な因果関係になっている様」という場合に使われたりすることもある。
その伝で言えば、この「二酸化炭素が増えれば…」に続く部分はどう繋がってゆき、そして最終的には誰が儲かるようなシステムになっているのか。それについては我々はよくと見張っておいたおいたほうがいいだろう。
なんにしても、二酸化炭素を減らすこと自体は決して悪ではない。
しかし、二酸化炭素を減らさないと山火事が増えて、大地が乾燥して大変なことになるぞ、とテレビCMという媒体を使って明言した日本国の首相はこの鳩山由紀夫がはじめてであるし、自分が先進国の首長の発言をすべてチェックしたというわけではないが、二酸化炭素を25%削減すれば温暖化に効果があるとまで言い切った一国の首長はいまのところこの鳩山由紀夫ただひとりのようである。
そのことだけは我々日本人はよーくと記憶に留めておくべきだろう。
[註1]地球環境の為に、ではなくて我々日本人の為に世界の先進国に先駆けCO2排出量の削減目標25%を実現させましょう、というキャンペーンCMにすればいいだけのことだ。実際にそういうことなんだから。
[註2]二酸化炭素排出量をいくら削減しても高温化は止まらない可能性だってあるし、あるいは、仮に排出量が増えたとしても地球全体が定常的に寒冷化に向かう可能性だってあるということ。
2010.03.13
☆☆☆☆☆
※ あまりにも反響が大きいので、この部分を別の記事として独立させた。メールに対するお返事やコメントの掲載はしばらくお待ちください。
追記
3月14日(日)の午後に放送された「たかじんのそこまで言って委員会」(よみうりテレビ製作)という番組で、この「チャレンジ25」という政府キャンペーンの危うさというものが取り上げられたそうである。生憎自分は見てはいないのだが。[註1]
以前、テレ朝の「朝まで生テレビ」でやっていたのとほぼ同様の構図で「CO2削減推進派」と懐疑派による議論が交わされていたというのだが、番組に出演した推進派というのがたったひとりだったそうである。
その懐疑派の主頭は例によって「環境問題は何故ウソがまかりとおるのか」などでおなじみの武田邦彦。[註2]
誤解されて困っていることでもあるのだが、自分はこの武田邦彦という人の主張には非常に懐疑的でありそして否定的である。ここで自分が武田邦彦と同じことを書いているものだから「武田邦彦の本から引用をしている」あるいは「武田邦彦の同調者」と思っている人もいるようだがそうではない。単に引用元が同じというだけのことだ。
武田邦彦という人の主張の困ったところは、たとえば「ペットボトルの分別回収は無意味だ」とか言ってしまうことだろう。何度かここで書いているが、自分は「ペットボトルの分別回収」には意味はあるし、まだまだ改善の余地がいくらでもあると感じている立場である。自分がペットボトルの回収に意味があると思うのは、もしペットボトルを不燃物・石油製品と同じ枠で回収しはじめると、今度は都市衛生の面でいろいろと問題が浮上してくるのが目に見えているからだ。要するに、地球環境とかそういう大仰な視点ではなくて、もっと身近な問題としてペットボトルの分別回収は是と思っているということ。どうもこの武田という人の主張には、そういった都市生活者としての実感が抜け落ちていて、首をひねるような無茶苦茶なものばかりなのが困るところである。まあそういう意味では大槻義彦教授と同じ「学者バカ」の匂いが漂う。
しかし、もっとしょーもないのは推進派として番組に登場した明日香壽川(あすか・じゅせん)という学者で、この人はその朝生の地球温暖化の回に出演したときもアタマを抱えたくなるような無茶苦茶なことばかりいっていたのだが、今回の出演時にも司会の辛坊治郎に「地球温暖化の証拠はなんなんだ?」と訊かれて「あなたは(地球の温暖化を)実感していませんか?」と聞き返していたのだそうだ。
アホかコイツ。「地球の温暖化を実感できる」ってどんな立場の人間なんだ。神か。北極のシロクマ君か。南極のペンギンさんか。
常に地球上のあちこちと移動してきて地域地域の温暖化を実感したという人間相手にでなければこんな質問は無意味だしミスリードでもある。そんなことに気がつかないとしたら相当のオオバカヤロウである。
自分は5年前まで東京にいて、そして仙台に移住した人間[註3]だが、とてもではないが「地球の温暖化」なんて体感は出来ないし、実感も持っていない。体感して実感があるのは「都市熱(シティーヒート)」である。都市熱の実感と地球の温暖化はまったく別の問題である。絶対に一緒くたにしてはいけないことなのだ。
こういう「まやかし」を平気でやるようなヤツだから「胡散臭い」と言われるんだろうし、心ある推進派からも嫌われるんだろうがねぇ。まあこういううさんくさい人間がもっと前面に出てきてくれたほうが「懐疑派」としてはありがたいことなのかもしれないけどね。
(2010.03.15)
[註1] この番組、仙台(宮城地区)では普通に大阪と同じ放送スケジュールで見られる。東京にいた時もなんやかんやで録画したものを何度かは見ていた。あまり面白い番組とは思わないが、まあそれでもゲストの人選によってはだが、「見る価値有り」というのも何本かはあったと記憶している。
[註2] そののち頂いたメールによるとだが、懐疑派としてゲスト的に出演したのも武田邦彦ひとりだけだったようだ。そういう意味では、まあフェアな論戦ではあったようである。ただし、レギュラーパネラーの勝谷誠彦(かつや・まさひこ)が武田邦彦型の懐疑派の主張に乗っかって明日香壽川に対して論戦を挑んだのだとか。まあこれも番組の演出のうちだろうから、こういう個所に文句をいってもしかたがないのだろうが、もし、真面目に論議をするのであれば、こういう乱暴な区分けというか、番組製作サイドが視聴者にわかりやすいようにと議論を「二律対称構造」に仕立てて論戦をさせるのは、まあはっきりいって無意味に等しいことだ。なぜならば、(自分もそうなのだが)二酸化炭素の排出量を減らすことには基本賛成の立場をとるが、だからといって鳩山(民主)のように性急で穴だらけの(しかも国民に対してはオカルトで追い立てるような手法を使っての)施策には断固反対する立場の人間もいるからだ。いくら時間を掛けたとしてもまともな実のある結論は出ないだろうし、下手をすると視聴者に対して「事実ではないこと」を伝えてしまうという危険もあるのだ。(この手のテレビ番組を見るたびに)自分も危惧しているところである。ジュセリーノという自称予言者についてもまるっきりそうだった。ジュセリーノは「地球環境のために」という美辞麗句を持ち出してきて、それにコロリと騙された日本人が多いというのがそれを物語っている。それとまったく同じことなのだ。自分は、ジュセリーノに騙されるなというのと同じように、鳩山には騙されるなと言っている。あ、言っちゃった(笑)
[註3]正確には「自分も(この明日香壽川同様に)東京(首都圏)から近年仙台に移住した人間だが…」というべきなんだろうな。でないと、自分がこの明日香壽川に何を文句垂れているのかがわかりにくいかもしれない。要するに、自分は「仙台に在住している人間がどうすれば地球温暖化を実感できるんだ、無茶を言うなー」と明日香に文句を言っている。
☆☆☆☆☆
追記の追記
自分がひどいまやかしだなと思ったところがもうひとつはっきりとした。なんと、鳩山(民主)の掲げた削減25%というのは、CO2排出権取引を行使しての達成目標なんだそうだ。[註]これじゃ地球環境の為にもなんにもなってないじゃないか。ただの政治取引と同じだ。それにこれでは、いざとなったら途上国から排出権を金を出して買ってそれで「達成しました」と嘯(うそぶ)くことだってできることになる。ひどいまやかしである。しかも、その資金は果たしてどこから出てくるものなのかを考えてみよ。もちろん我々の国家予算、つまり税金からなのだ。
それにこれではこの「チャレンジ25」は、はじめから形を変えたODA(海外援助)ということになってしまう。
自分はこんなものを日本の対外政策のひとつとして認めることは絶対に出来ないね。あなたは認められますか?
[註] こんなジョークがある。笑えないジョークだが。
(首相記者会見にて)
記者「10年後にCO2の25%削減という目標は少し厳しすぎないでしょうか?各産業界からも反論が噴出しています…」
鳩山「確かに困難な目標かもしれません。しかし決して不可能な数字ではないと私は確信しております」
記者「その確信の根拠というものをお聞かせください」
鳩山「わたしは10年どころか、わずか半年で30%も削減させた実績があります」
記者「内閣支持率かよ」
自分があまりテレビを見ない人間だからなのだが、皆がまるで口を揃えるようにして「チャレンジ25」というCO2削減を訴えるキャンペーンCMの気持ち悪さについて語っていても、いまひとつピンとこないところがあったし、話の輪の中に入れずにいた。(だからここでも取り上げなかった)
「しろくま」さんという方から、その問題のテレビCMの動画(今ではyouTUBEなどでも見ることが出来る[注1])を携帯動画として送ってもらって、それを実際に(携帯で)見た率直な感想は
「あっ、こりゃ完全にオカルトだわ…」といったものだった。
届けられたCMは2パターンあった。[註2]共通しているのは、崩れる氷山、まばらになった海氷の上を渡ろうとしているシロクマ、多発する山火事、そして砂漠化する大地といった映像であり、それに被さるテロップ(字幕)とナレーション、といったところ。
そして締めとして、地球温暖化防止のためにCO2(二酸化炭素)削減目標(2020年までに25%)に向かってチャレンジしましょうと訴えかけて終わる。
このテレビCMが孕んでいる問題点とそれへの批判については後回しにする。いっしょくたにすると誤解する人がまたぞろ増えそうな気がするからだ。
実際に自分が最初にこれを見て「このCM、失敗だなぁ」と思ったのは、その内容であるとかメッセージがどうとか言う前に「人選ミス」のことだった。
ふたつあるうちのひとつは、加山雄三がナレーションと出演をしているもので、まあこれについては、(少なくとも15秒間のテレビCFとしてみた場合にということだが)「気味が悪い」というようなものでもなかった。
だが、もうひとつの方だが、加山雄三ではなくて、陰気くさい男の声のナレーションで、この声の主が皆が言っている鳩山由紀夫(首相)の声だとはすぐに結びつかなかった。(携帯端末だからか)
しかし、皆が「なんかキモチ悪い」といっているのは、きっとこれのことなのだろうと納得はいった。
実際、鳩山由紀夫の陰気臭くてモゴモゴともぐったような声に乗って、山火事や乾燥した大地というような映像を見せられたらたとえ短いCMだとはいえ気分はよくないし、ついうっかりすると、何かオカルト映画とか、下手をするとカルト団体の宣伝に見えなくもない。
もちろん、自分だって、鳩山由紀夫の陰気なしゃべり方や頼りなげな地声というものを責めてもしかたがないのはよーくわかっているつもりなのだが。[注1]
でも、だったら何故鳩山由紀夫はこのようなCMに「声だけの出演」みたいな中途半端な登場をしてしまったのだろうか。
日本の首相が日本の国民に向かってCO2削減を訴えるというのならば、堂々と顔出ししたパターンにすればいいだろうに。(そうすれば自分もまた面と向かって批判も出来ただろう)
こんな「ナレーションだけ差し替えてみました」みたいなやりかたは、どこか姑息さというものを感じさせるだけだ。
2010.03.12
[注1] 政府広報のHPからも見ることが出来るようである。でもリンクはしない。だってキモチ悪いんだもん。
[注2] 実際に存在するのはやはりこの2パターンだけであった。
[注3] 本来ならば、責められるべき立場にあるのはナレーターの鳩山(首相)ではなくて、このテレビCMをプロデュースしたり演出したりする、いわゆる「作る立場」の人たちということになるだろう。要するに、レコーディグのときにキチンと鳩山由紀夫に対して「もっとハキハキと」とか「力強い口調で」とダメだししなければならなかったはずなのだ。それが彼らの仕事というものだ。
☆☆☆☆☆
2
もちろん、テレビCMの不出来を論うことだけが目的でこんなことを書いているのではない。
これはここで何度も書いてきていることだが、そもそも、この「地球温暖化防止のためにCO2の排出を削減しましょう」というスローガンは論理的ではない。[註1]
ましてや、一国の首相が音頭を取って「25%の削減を目標に頑張りましょう」というのは輪をかけて無茶苦茶なことなのだ。
それを指して自分は「オカルトだ」といっている。そのことだけは言っておく必要はあるだろう。そう感じている。
さて、ここにきて、鳩山首相が掲げた10年で25%の削減という目標に対していろいろなところから疑問や懐疑的な意見が続出している。(まああたりまえのことなんだけどね)
地球温暖化の防止が目標ならば、人類が排出する二酸化炭素は少なければ少ないほどよいわけだが、果たして、この(10年後に)25%削減という数字はその目的達成のための有効な値になっているのだろうか?
ここいらあたりに大いなる欺瞞というものを感じるのだ。普通に考えればだよ、本来の分母(大気中に存在する二酸化炭素量)の総量がその何十倍何百倍ひょっとすると何万倍かもしれないというのに、日本だけが(10年後を目標にして1990年当時の)1/4を減らしたところであんまり意味はないだろう。[註2]
ところが、わが国の首相はどうやら25%を減らすことが本当に地球環境のためになると信じ込んでいる「オカルトの徒」らしいのである。困ったハナシだが。
自分が思うのは、この「25%削減」という目標値を掲げるということに意味があるとすれば、それはあくまでも日本という国の(国際的)立場にとってということだろう。
言葉を変えて言えば、25%削減っていうのは、単に「政治的」なことでしかないと思うのだ。
もし、はじめから「25%削減って言っておくと我々日本人は得をしますよ」というのだったら、自分も、まあそのハナシには乗らないわけでもないし、ここでオカルトだと批判するようなものでもないと思っている。
そうでなくて、「いや、(25%削減は)あくまでも地球環境のためにであって、政治利用ではない」みたいなことを言い出す人があまりにも多いからハナシはこんがらがる。責任者は誰なんだ、みたいなはなしになるのだ。
2010.03.13
[註1]まず、「二酸化炭素が増えたこと、つまり人類が人類であるがゆえに排出した二酸化炭素の増加こそが地球温暖化の最大(あるいは)唯一の原因なのだろうか?」という命題がある。それに対する答えはすでに出ているといっていいだろう。答えはノーだ。まったく違う。二酸化炭素だけが地球温暖化の犯人ではないのだ。それどころか「二酸化炭素の増加はむしろ温暖化の結果であって原因ではない」と主張している科学者グループもいるのだ。そういう人たちが温暖化の原因として挙げているのは「太陽活動」であり、地球の地殻活動である。火山の噴火などで空中に排出されたメタンガスなどの(二酸化炭素よりも)重い(=つまり熱を蓄えやすく、そして比較的拡散しやすい)元素である。まあ、確かにこっちの説の方が実は理にはかなっているわけだが。それに、この「二酸化炭素原因説」の最大の提唱者であるはずのIPCCの主導的な立場にある人間がデータの捏造の事実というものをあっさりと認めてしまったということもある。それはこのブログでも何度か触れたことなのでここでは詳細は省くが。
(誤解を招かないように付け加えておくが、何も自分は二酸化炭素の増加と地球温暖化はまったく関係ないと言い張っているのではない)
[註2]実際、地球物理学に詳しそうな知り合いにたずねてみたのだが、彼は含み笑いを浮かべるだけでまともにこたえてはくれなかった。まあ、まともに考えて答えのでる領域のものではないことなんだということだけは自分も理解したが。彼が言下に匂わせたところをうまくまとめるのは難しい。要するに(変動幅の大きな)不確実な要素に正確な値(25%)を関連付けて出てくる答えは時にイエスにもなるしまた別のときはノーにもなる。それだけの大きな振幅というものがあるということなのだろう。
☆☆☆☆☆
3
自分があのCMはオカルトである、と言い切る理由は以上である。
ありもしないことをさもあるかのように仕立て上げるという行為は詐欺でもあるわけだし、その行為に金銭的なものがたとえ絡まなくとも決して許されるようなことではない。もし騙している当人に詐欺という意識がまったくないのならば、それは「オカルトでしょ」ということになってしまう。
実際に自分の周囲の人たちが口にしていたことを拾い上げると、一番多かったのは「二酸化炭素を25%減らさないと本当に山火事が続出したり水不足が深刻になるのか?」という非常にシンプルな疑問であり、そして不安だった。
うーん、まあ確かにあんなCMを見てしまうと、それがあのCMの訴求点であるように見えてしまうというのもうなずけることなのだ。そしてそれがあの「チャレンジ25」のキャンペーンCMの致命的な欠陥なのだ。[註1]
もちろん自分は「そんなことはない」とはっきりと言い切ることが出来る。[註2]
世界各地で見られる旱魃(かんばつ)であるとか、あるいは山火事のような自然災害と温暖化の関係についてはなんともいえない。しかし、少なくとも、二酸化炭素の増加がこの地球温暖化のすべての原因でないことぐらいはよく考えれば誰でもがわかることなのだ。
ところが困ったもので、この世にはそういう初歩的なことは見て見ぬ振りをして、インチキとしかいいようのない情報を織り交ぜて、まるで「二酸化炭素がこのまま増え続けると未来は大変なことになるぞ」というようなタチの悪い脅しを仕掛けてくる連中がいたりするのだ。
そして、この「チャレンジ25」というキャンペーンもまたその中のひとつとしてカウントしてもいいものだろう。
「風吹けば桶屋が儲かる」ということわざ(故事成句)がある。簡単に言えば、世の中は巡り巡って意外な結果を及ぼす…という(まるでバタフライ・エフェクトそのものだが)意味合いで使われるが、ほかにも「当てにならないものを期待するたとえ」であるとか「一見、論理的に思えるが、大所から見た場合無茶な因果関係になっている様」という場合に使われたりすることもある。
その伝で言えば、この「二酸化炭素が増えれば…」に続く部分はどう繋がってゆき、そして最終的には誰が儲かるようなシステムになっているのか。それについては我々はよくと見張っておいたおいたほうがいいだろう。
なんにしても、二酸化炭素を減らすこと自体は決して悪ではない。
しかし、二酸化炭素を減らさないと山火事が増えて、大地が乾燥して大変なことになるぞ、とテレビCMという媒体を使って明言した日本国の首相はこの鳩山由紀夫がはじめてであるし、自分が先進国の首長の発言をすべてチェックしたというわけではないが、二酸化炭素を25%削減すれば温暖化に効果があるとまで言い切った一国の首長はいまのところこの鳩山由紀夫ただひとりのようである。
そのことだけは我々日本人はよーくと記憶に留めておくべきだろう。
[註1]地球環境の為に、ではなくて我々日本人の為に世界の先進国に先駆けCO2排出量の削減目標25%を実現させましょう、というキャンペーンCMにすればいいだけのことだ。実際にそういうことなんだから。
[註2]二酸化炭素排出量をいくら削減しても高温化は止まらない可能性だってあるし、あるいは、仮に排出量が増えたとしても地球全体が定常的に寒冷化に向かう可能性だってあるということ。
2010.03.13
☆☆☆☆☆
※ あまりにも反響が大きいので、この部分を別の記事として独立させた。メールに対するお返事やコメントの掲載はしばらくお待ちください。
追記
3月14日(日)の午後に放送された「たかじんのそこまで言って委員会」(よみうりテレビ製作)という番組で、この「チャレンジ25」という政府キャンペーンの危うさというものが取り上げられたそうである。生憎自分は見てはいないのだが。[註1]
以前、テレ朝の「朝まで生テレビ」でやっていたのとほぼ同様の構図で「CO2削減推進派」と懐疑派による議論が交わされていたというのだが、番組に出演した推進派というのがたったひとりだったそうである。
その懐疑派の主頭は例によって「環境問題は何故ウソがまかりとおるのか」などでおなじみの武田邦彦。[註2]
誤解されて困っていることでもあるのだが、自分はこの武田邦彦という人の主張には非常に懐疑的でありそして否定的である。ここで自分が武田邦彦と同じことを書いているものだから「武田邦彦の本から引用をしている」あるいは「武田邦彦の同調者」と思っている人もいるようだがそうではない。単に引用元が同じというだけのことだ。
武田邦彦という人の主張の困ったところは、たとえば「ペットボトルの分別回収は無意味だ」とか言ってしまうことだろう。何度かここで書いているが、自分は「ペットボトルの分別回収」には意味はあるし、まだまだ改善の余地がいくらでもあると感じている立場である。自分がペットボトルの回収に意味があると思うのは、もしペットボトルを不燃物・石油製品と同じ枠で回収しはじめると、今度は都市衛生の面でいろいろと問題が浮上してくるのが目に見えているからだ。要するに、地球環境とかそういう大仰な視点ではなくて、もっと身近な問題としてペットボトルの分別回収は是と思っているということ。どうもこの武田という人の主張には、そういった都市生活者としての実感が抜け落ちていて、首をひねるような無茶苦茶なものばかりなのが困るところである。まあそういう意味では大槻義彦教授と同じ「学者バカ」の匂いが漂う。
しかし、もっとしょーもないのは推進派として番組に登場した明日香壽川(あすか・じゅせん)という学者で、この人はその朝生の地球温暖化の回に出演したときもアタマを抱えたくなるような無茶苦茶なことばかりいっていたのだが、今回の出演時にも司会の辛坊治郎に「地球温暖化の証拠はなんなんだ?」と訊かれて「あなたは(地球の温暖化を)実感していませんか?」と聞き返していたのだそうだ。
アホかコイツ。「地球の温暖化を実感できる」ってどんな立場の人間なんだ。神か。北極のシロクマ君か。南極のペンギンさんか。
常に地球上のあちこちと移動してきて地域地域の温暖化を実感したという人間相手にでなければこんな質問は無意味だしミスリードでもある。そんなことに気がつかないとしたら相当のオオバカヤロウである。
自分は5年前まで東京にいて、そして仙台に移住した人間[註3]だが、とてもではないが「地球の温暖化」なんて体感は出来ないし、実感も持っていない。体感して実感があるのは「都市熱(シティーヒート)」である。都市熱の実感と地球の温暖化はまったく別の問題である。絶対に一緒くたにしてはいけないことなのだ。
こういう「まやかし」を平気でやるようなヤツだから「胡散臭い」と言われるんだろうし、心ある推進派からも嫌われるんだろうがねぇ。まあこういううさんくさい人間がもっと前面に出てきてくれたほうが「懐疑派」としてはありがたいことなのかもしれないけどね。
(2010.03.15)
[註1] この番組、仙台(宮城地区)では普通に大阪と同じ放送スケジュールで見られる。東京にいた時もなんやかんやで録画したものを何度かは見ていた。あまり面白い番組とは思わないが、まあそれでもゲストの人選によってはだが、「見る価値有り」というのも何本かはあったと記憶している。
[註2] そののち頂いたメールによるとだが、懐疑派としてゲスト的に出演したのも武田邦彦ひとりだけだったようだ。そういう意味では、まあフェアな論戦ではあったようである。ただし、レギュラーパネラーの勝谷誠彦(かつや・まさひこ)が武田邦彦型の懐疑派の主張に乗っかって明日香壽川に対して論戦を挑んだのだとか。まあこれも番組の演出のうちだろうから、こういう個所に文句をいってもしかたがないのだろうが、もし、真面目に論議をするのであれば、こういう乱暴な区分けというか、番組製作サイドが視聴者にわかりやすいようにと議論を「二律対称構造」に仕立てて論戦をさせるのは、まあはっきりいって無意味に等しいことだ。なぜならば、(自分もそうなのだが)二酸化炭素の排出量を減らすことには基本賛成の立場をとるが、だからといって鳩山(民主)のように性急で穴だらけの(しかも国民に対してはオカルトで追い立てるような手法を使っての)施策には断固反対する立場の人間もいるからだ。いくら時間を掛けたとしてもまともな実のある結論は出ないだろうし、下手をすると視聴者に対して「事実ではないこと」を伝えてしまうという危険もあるのだ。(この手のテレビ番組を見るたびに)自分も危惧しているところである。ジュセリーノという自称予言者についてもまるっきりそうだった。ジュセリーノは「地球環境のために」という美辞麗句を持ち出してきて、それにコロリと騙された日本人が多いというのがそれを物語っている。それとまったく同じことなのだ。自分は、ジュセリーノに騙されるなというのと同じように、鳩山には騙されるなと言っている。あ、言っちゃった(笑)
[註3]正確には「自分も(この明日香壽川同様に)東京(首都圏)から近年仙台に移住した人間だが…」というべきなんだろうな。でないと、自分がこの明日香壽川に何を文句垂れているのかがわかりにくいかもしれない。要するに、自分は「仙台に在住している人間がどうすれば地球温暖化を実感できるんだ、無茶を言うなー」と明日香に文句を言っている。
☆☆☆☆☆
追記の追記
自分がひどいまやかしだなと思ったところがもうひとつはっきりとした。なんと、鳩山(民主)の掲げた削減25%というのは、CO2排出権取引を行使しての達成目標なんだそうだ。[註]これじゃ地球環境の為にもなんにもなってないじゃないか。ただの政治取引と同じだ。それにこれでは、いざとなったら途上国から排出権を金を出して買ってそれで「達成しました」と嘯(うそぶ)くことだってできることになる。ひどいまやかしである。しかも、その資金は果たしてどこから出てくるものなのかを考えてみよ。もちろん我々の国家予算、つまり税金からなのだ。
それにこれではこの「チャレンジ25」は、はじめから形を変えたODA(海外援助)ということになってしまう。
自分はこんなものを日本の対外政策のひとつとして認めることは絶対に出来ないね。あなたは認められますか?
[註] こんなジョークがある。笑えないジョークだが。
(首相記者会見にて)
記者「10年後にCO2の25%削減という目標は少し厳しすぎないでしょうか?各産業界からも反論が噴出しています…」
鳩山「確かに困難な目標かもしれません。しかし決して不可能な数字ではないと私は確信しております」
記者「その確信の根拠というものをお聞かせください」
鳩山「わたしは10年どころか、わずか半年で30%も削減させた実績があります」
記者「内閣支持率かよ」
2010年3月9日火曜日
100309 トルコでの地震について その他
あれからも、何通もメールを頂いています。
メアドさえ書いてあれば、返事の必要なものには返事を差し上げています。
ただし、ここで取り上げるかどうかはまた別の問題になりますので、そこのところはよろしく。
さて、チリに続いて、今度はトルコで大きな地震があって、死傷者がかなり出ているようだ。
お問い合わせが多かったのは、やはり「ジュセリーノが公表した最新のものにそれに該当するものはあるのか?」というような質問。
それに対するお答えですが、該当するようなものはありませんでした。まあ、毎度のことだけどね。
こういう質問、なにか大きな事件や天災、事故があるたびに寄せられるのだけれども、(念の為にと改めて表明しておくのだが)たとえそれらしい合致点というものが見出せたとしても、それはもうこの「ジュセリーノ騒動」の本質とはまったく関係のないことでしかないのだ。それだけは言っておこうか。
ジュセリーノというブラジル人は何のためにこんな無益な行為(あたらないことが趨勢明らかになった年間予言の公表)を毎年々々繰り返しているのだろうか。
どうにもそのあたりのシステムというか大きな理由はよくはわからないのだけれども、いいですか、このつまらない行事、過去4年間も続いていることなのである。
毎年のように世界のどこかで(甚大な被害をもたらす)大きな地震がおきているわけだし、ジュセリーノのように年間五十以上百近くの地震の予言を公表していれば、そのうちのひとつやふたつは、なんとなくそれらしい合致点のあるものくらいは必ず出てくる。それが確率というものだろう。
2010.03.08
2
さて、今年になって、ハイチ、チリ、そしてトルコと、大きな地震の被害報道が続いてるからだが、「今年は大地震の当たり年ではないか」みたいなことを言ったり(ブログなどで)書いたりしている人がいる。
あるいは、「地球、人類の滅亡のシグナルである」とか「カタストロフィ(終末的大災害)の前触れではないか」といい気になってほざいているバカが本当にいるから困ったもんだと思う。
そういった無責任な書込みを見て不安になったという人も結構いるとみえて、そのことを訴える内容のメールとかコメントがきたりするわけです。
どこから「今年は地震のあたり年」みたいな無理矢理な結論を引っ張りだしてくるのかはよくわからないのだけれども、少なくとも、今年の二月までの大型地震の発生数をみる限りでは、特に地震発生が多いというのでは決してない。
そもそも(大きな)地震というものは、前述のとおりで、地球規模で見た場合には、毎日のようにどこかでおきている。
それが人の住んでいるところであっても、そうでなくてもだ。
もっとわかりやすく言えば、この地球、ほとんどが海に覆われているわけだし、地震のほとんどつまり7割は「海底地震」になるわけだし、陸地だって、人が住んでいる場所、人口の密集している地域のほうが圧倒的に少ないのだ。
この(ハイチ、チリの)地震の特異点とは、要するに、人のたくさん住んでいる地域(の近く)で起きた地震だった、ということなのだ。
地震というものは、そこに人が住んでいるとか住んでいないとかの違いで起きたり起きなかったりするものではない。
人の沢山住んでいる場所、地域で大きな地震が起きて、そして(二次的なものを含めて)被害が甚大なものになったとすれば、それは「地学」「地層学」とはまた別の「社会科学」の領域の問題なんです。
つまり、各々の国情の違いであるとか、防災の認識の問題だということです。
いや、だからこそ、自分もチリの地震の場合、起きた地震の規模もそうだけど、報道を見るたびに、遅々として進まない復旧作業や、多発している略奪行為であるとか、あるいは悪化する衛生事情に対して「大変なことだな・・・」と大震災に対する認識というものを新たにするのだけれど。
特に、自分が注意を払って見ているのは、現地での「デマ」の発生とか、デマが広がったとかだろう。例の津波に関する誤った報道が引起してしまったパニック騒動もそのひとつだった。
自分はどうしても、一昨年9月に愛知を中心とする東海地方で起きてしまったジュセリーノの予言が原因となって広まったパニックと重ねて見てしまうのだ。
あのときのパニックというものを未然に防ぐ有効な手段というものがあったとすれば、それは何だったのだろうか。それについては自分は今でも考えることがある。
出る結論はいつも同じである。
要するに、面白半分でマトモな取材もしないで、ジュセリーノのことを「的中率90%の予言者」とか持ち上げたり、番組にしたり記事にしたマスコミがちゃんと自己責任でもって「ジュセリーノの予言は作られたものでインチキです」とはっきり言えばよかったのだという結論になるのだ。
でさて、そのマスコミの連中は、そののちジュセリーノについて、その真贋についてマトモに言及したことはあったのだろうか。まったくないよな。聞いたことがない。
それについては、どのテレビ局も出版社もだんまりを決め込んだままというなんかキモチ悪い状況が続いているのが現状である。情けないハナシだが。
そのマスコミ、(ジュセリーノ同様に)どこもかもが自分らの生命線、財産であるはずの信頼性というものを失ってきていることにまったく気がついていないようなのだが。
自分は、こういうのは「自殺行為」というんだと思うのだが、どうなんでしょうね。顧客である視聴者読者離れを引き起して、自分のクビを絞めているのもそうだし、多くのマスコミ媒体が経営危機に面しているのに対して、なんの同情論も沸き起こってこないというのもその何よりの証左だと思うのだ。
極端なことを言うのであれば、虚報を垂れ流しにしたままでも平気なツラをしているマスコミならば、ごめんなさいの一言も言えないのであれば、むしろこの世から消え去ってくれたほうがどれだけ世の中(あるいは日本)のためになるんだろう。
そして、多くの(テレビにソッポを向き始めた)視聴者の心の奥にあるものとはそれなんじゃないだろうかね、そんな気がしてならないのだ。
2010.03.09
メアドさえ書いてあれば、返事の必要なものには返事を差し上げています。
ただし、ここで取り上げるかどうかはまた別の問題になりますので、そこのところはよろしく。
さて、チリに続いて、今度はトルコで大きな地震があって、死傷者がかなり出ているようだ。
お問い合わせが多かったのは、やはり「ジュセリーノが公表した最新のものにそれに該当するものはあるのか?」というような質問。
それに対するお答えですが、該当するようなものはありませんでした。まあ、毎度のことだけどね。
こういう質問、なにか大きな事件や天災、事故があるたびに寄せられるのだけれども、(念の為にと改めて表明しておくのだが)たとえそれらしい合致点というものが見出せたとしても、それはもうこの「ジュセリーノ騒動」の本質とはまったく関係のないことでしかないのだ。それだけは言っておこうか。
ジュセリーノというブラジル人は何のためにこんな無益な行為(あたらないことが趨勢明らかになった年間予言の公表)を毎年々々繰り返しているのだろうか。
どうにもそのあたりのシステムというか大きな理由はよくはわからないのだけれども、いいですか、このつまらない行事、過去4年間も続いていることなのである。
毎年のように世界のどこかで(甚大な被害をもたらす)大きな地震がおきているわけだし、ジュセリーノのように年間五十以上百近くの地震の予言を公表していれば、そのうちのひとつやふたつは、なんとなくそれらしい合致点のあるものくらいは必ず出てくる。それが確率というものだろう。
2010.03.08
2
さて、今年になって、ハイチ、チリ、そしてトルコと、大きな地震の被害報道が続いてるからだが、「今年は大地震の当たり年ではないか」みたいなことを言ったり(ブログなどで)書いたりしている人がいる。
あるいは、「地球、人類の滅亡のシグナルである」とか「カタストロフィ(終末的大災害)の前触れではないか」といい気になってほざいているバカが本当にいるから困ったもんだと思う。
そういった無責任な書込みを見て不安になったという人も結構いるとみえて、そのことを訴える内容のメールとかコメントがきたりするわけです。
どこから「今年は地震のあたり年」みたいな無理矢理な結論を引っ張りだしてくるのかはよくわからないのだけれども、少なくとも、今年の二月までの大型地震の発生数をみる限りでは、特に地震発生が多いというのでは決してない。
そもそも(大きな)地震というものは、前述のとおりで、地球規模で見た場合には、毎日のようにどこかでおきている。
それが人の住んでいるところであっても、そうでなくてもだ。
もっとわかりやすく言えば、この地球、ほとんどが海に覆われているわけだし、地震のほとんどつまり7割は「海底地震」になるわけだし、陸地だって、人が住んでいる場所、人口の密集している地域のほうが圧倒的に少ないのだ。
この(ハイチ、チリの)地震の特異点とは、要するに、人のたくさん住んでいる地域(の近く)で起きた地震だった、ということなのだ。
地震というものは、そこに人が住んでいるとか住んでいないとかの違いで起きたり起きなかったりするものではない。
人の沢山住んでいる場所、地域で大きな地震が起きて、そして(二次的なものを含めて)被害が甚大なものになったとすれば、それは「地学」「地層学」とはまた別の「社会科学」の領域の問題なんです。
つまり、各々の国情の違いであるとか、防災の認識の問題だということです。
いや、だからこそ、自分もチリの地震の場合、起きた地震の規模もそうだけど、報道を見るたびに、遅々として進まない復旧作業や、多発している略奪行為であるとか、あるいは悪化する衛生事情に対して「大変なことだな・・・」と大震災に対する認識というものを新たにするのだけれど。
特に、自分が注意を払って見ているのは、現地での「デマ」の発生とか、デマが広がったとかだろう。例の津波に関する誤った報道が引起してしまったパニック騒動もそのひとつだった。
自分はどうしても、一昨年9月に愛知を中心とする東海地方で起きてしまったジュセリーノの予言が原因となって広まったパニックと重ねて見てしまうのだ。
あのときのパニックというものを未然に防ぐ有効な手段というものがあったとすれば、それは何だったのだろうか。それについては自分は今でも考えることがある。
出る結論はいつも同じである。
要するに、面白半分でマトモな取材もしないで、ジュセリーノのことを「的中率90%の予言者」とか持ち上げたり、番組にしたり記事にしたマスコミがちゃんと自己責任でもって「ジュセリーノの予言は作られたものでインチキです」とはっきり言えばよかったのだという結論になるのだ。
でさて、そのマスコミの連中は、そののちジュセリーノについて、その真贋についてマトモに言及したことはあったのだろうか。まったくないよな。聞いたことがない。
それについては、どのテレビ局も出版社もだんまりを決め込んだままというなんかキモチ悪い状況が続いているのが現状である。情けないハナシだが。
そのマスコミ、(ジュセリーノ同様に)どこもかもが自分らの生命線、財産であるはずの信頼性というものを失ってきていることにまったく気がついていないようなのだが。
自分は、こういうのは「自殺行為」というんだと思うのだが、どうなんでしょうね。顧客である視聴者読者離れを引き起して、自分のクビを絞めているのもそうだし、多くのマスコミ媒体が経営危機に面しているのに対して、なんの同情論も沸き起こってこないというのもその何よりの証左だと思うのだ。
極端なことを言うのであれば、虚報を垂れ流しにしたままでも平気なツラをしているマスコミならば、ごめんなさいの一言も言えないのであれば、むしろこの世から消え去ってくれたほうがどれだけ世の中(あるいは日本)のためになるんだろう。
そして、多くの(テレビにソッポを向き始めた)視聴者の心の奥にあるものとはそれなんじゃないだろうかね、そんな気がしてならないのだ。
2010.03.09
2010年2月28日日曜日
100228 コメント その他(10年2月度)
ご注進というかなんというのか。この自分のことを批判している人がいるとかいないとか。あるいはこの自分に批判されたとして、それに反論しているように読めるようなことをブログに書いている人がいるとか。
いやまあ批判を受けるのはまったくかまわない。それが前提でこのようなブログをやっているようなものだし。
ただし、やっぱりそれは名指しされてなんぼだと思うのだ。直接具体的にわたしの名前が出されてもいないのにそれにいちいち再反論してもしかたがない。
でもどうして自分を批判している人間の名前を出せないのだろう。そっちのほうが問題だろう。
自分は批判すべき事実があるのであれば、ここではちゃんと相手の名前ぐらいは出しますがね。「荒俣宏」とか「大槻教授」とか「山口敏太郎」とかね。
なぜならば自分の発言にはちゃんとした論拠があって誰にでも理解可能なものだという自信があるからだ。
まあだから、批判する対象の名前を挙げられないのは「そうではない(自分の論拠に自信がない)からだろう」と推測するのだ。違うのかなぁ。
さて、山口敏太郎がブログで、年末のテレ朝の番組内で大槻教授に対して無謀な論戦を挑んだことに対して「実はあれは・・・」と打ち明け話的なことを書いている。
あのね、山口君ね、そういうのも「後出し」っていうんだよ。ジュセリーノの予言とおんなじでさ。
自分の思っていることをムーブメントにして世の中を動かしたいというんだったら、最初からそのつもりでいることをちゃんとブログで書いておかないと。
あとになってから「実はアレは・・・」的な打ち明け話をしてみても、単にみっともないだけよ。
と、批判をするならのならば、反論をするのであればこんな具合にちゃんと名前を出せばいいのさ。
2010.01.02
まあ、山口敏太郎の(オカルト否定派である)大槻教授に対する論議というものがどれだけのものかについては大槻教授のブログ記事を読まれたほうがよかろう。
時間も出来たことだし、この自分も昨年12月23日のテレ朝の番組を一度でも目を通しておこうかと思っている。でないとこのブログの読者に対しても失礼なことにもなるわけだしな。(10.01.03)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
いろいろとご連絡を頂いているが、ここで現在の自分が置かれている状況について具体的に述べるのは控えるとする。ただし、この自分は以前となんの変化もない。そのままである。このブログをつづけるのに何一つ支障はない。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
年が明けてから韓国からのコメントが増えてきた。
聞けば、なんでも韓国のテレビ局がジュセリーノに取材をしてそれが放送されたとか。それでなのだろうか。
だとしたら、これはこれでものすごく恥ずかしいことのような気がする。どうみたってこれもまた日本からのある種の輸出品みたいなものだからだ。
こんな恥ずかしい輸出品もないが。
個人でやっていることにはどうしたって限界というものはあるけれど、んー、なんとかできなかったものだろうかと苦い気持ちでいます。
自分が苦く思っているというのは、(もし、ジュセリーノ予言騒動が韓国に移動するような形で流布しはじめたらそれは)この日本でジュセリーノ予言の正体の暴露が徹底されてなかったからだろうなということ。
2010.01.06
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
上に書いた韓国の件、ネットニュース(アメーバ)があった。
あの予知能力者ジュセリーノ氏が今度は韓国でブームに!?
1月07日 23時00分
記事中でこのブログのことに触れていた。だからなのかね、アクセス数が増えているのは。
せっかく名前を出してもらってこんなことをいうのは申し訳ないんだが、どうせこのブログの名前を出すのならばリンクぐらいはしてほしかったところ。[註]
でもわかるのだよ。これはリンクのし忘れだとかではなくて意図的にリンクをしなかったということは。
記者の名前を見てなるほどと思った。
「西元啓子」でググるとこういうのが出てくる
そういう人なのだ。いやこれ笑い事じゃ済まないことなんだけどね。
2010.01.10
[註]と思ったら、いつのまにかこのブログへのリンクが加えられていた。下のほうにだが。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
なんとなく「言い忘れていた」「書き忘れていた」というような感じになってしまった話題である。
ジュセリーノは今年も(つまり厳密には昨年の暮れということになるが)年間の予言というものを自身のHPで公表している。
昨年までであれば、その中の問題になりそうな予言をピックアップして、その欺瞞(明らかなる嘘)をここで批判したり、あるいは検証を繰り広げてきたものだが、(流石にジュセリーノも懲りたと見えて)今年の年間予言を見る限りにおいては、そんなヘンテコリンなものはだいぶ減ったようだ。(それでもあることはあるんだよ)
これを成長とみるのか、あるいは退化と捉えるのかは判断が難しいところだが。
さて、このブログで「2010年の年間予言」を(どう)扱うかどうかだが、自分はその必要なしと判断した。[註1]
だいたいにして、本来なら、それは新しいジュセリーノの日本事務局である「ジュセリーノ・ワールドワイド」の仕事のはずである。
かれらがそれをしないということはどういうことなのかを考えればよい。
そう「ジュセリーノ・ワールドワイド」はジュセリーノの年間予言というものを単純に商売のネタにしているからだろう。
こうなると、自分と彼ら(ジュセリーノ・ワールドワイド)の対立点は明確であるといえる。
簡単に言えば「非営利vs営利」という図式になるのだろう。
「人の世を騒がすような予言というものをメシのタネにしていいものなのかという提議のためにも、ここは静観するのもひとつの方法だと思うのです」というような意見もある。[註2]
まあ、もしジュセリーノの予言というものがまた誰かの手によって世間を騒がせたときには、そのときには再びガッツリと叩かせていただくとしよう。それは約束する。
もしジュセリーノの「2010年間予言」というものが気になるという方はジュセリーノの公式HPでチェックされたらよかろうと思う。
英語版もあるので翻訳にはそんなには苦労はしないはずだ。
2010.01.11
[註1]一応念のために「みち☆まり」さんという、一昨年までは毎年のようにジュセリーノの年間予言について細かな日本語対応翻訳(日本語訳ではない、念のため)を担当してきた方にお伺いを立ててみたのだが、その返答が返ってきた。「もうやりません というか・・・ジュセリーノが年間予言を公表していたことさえ知らなかったんです」だそうだ。まあそんなもんだろうなぁ。今となっては。
[註2]また、かつて「うらこまち」というHNでこのブログの記事の為、なにかとご協力いただいていた女子大生の人がいたのだが、今年になって彼女から久しぶりにメールが(つまり年賀メール)来た。彼女はこのブログが(ジュセリーノの)年間予言について触れていないのは、意図的にだと思っていた・・・というようなことを書いていた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
正直に言えば、ここのところ晴れ晴れとした気分にはなれない日ばかりである。
平日はほとんど自宅に届けられた数多の書類に目を通して、次から次にと処理をしてゆく。
出かけられるのは夜になってから、という日も珍しくない。
買い物も通販頼みなところがある。
時間が出来たときだけ仙台駅東口のPCショップや中古・パーツ屋巡りをして、仕事に必要なもの、請け負ったものを買い集めたり、場合によってはそのままお客のところに直送したりしている。
精神的にも時間的にも非常にキツい。最近、その「晴れ晴れとしたこと」とか、「高揚した気分になれたこと」といえば、打ち上げ花火を間近で見れたことと、生の竹内結子を間近で見れたことくらいか(註)
だが、もちろんのこと、ジュセリーノにしろ誰にしろ、このようなオカルトで人の心を惑わせて、それで金儲けを企むような輩のことを批判し攻撃し続けようという意志だけは変っていない。聞いたところだが、さらなる酷い事実があることも自分のところに情報として届いているからだ。
最近、何故かは知らないが「かまたはここ最近、精神的に滅入ってきているので、ダークサイドの誘惑に陥ちるのではないか」というような推測が某業界では飛び交っているようである。
本当にそういう危惧を心配するメールが来ていたりするのだ。
でも、「ダークサイド」ってなんなんだろうね。
わたしはアナキン・スカイウォーカーなのか、ダースベイダーになるのか。
その人たちが何を意味して「ダークサイド」といっているのかはなんとなくわかる。どうやら向こう側もそれを含めてなのか、いろいろと交渉の窓口を広げようとしているようではある。
一切その手に乗るつもりはないけれどね。
ただ、ここでひとつお願いというか、あらかじめお断りしておくとしよう。
少しの間(たぶん二・三週間くらいになると思う)このブログは新たな記事は載せない。
但し、わかる人にはわかるように更新だけはしつづける。
今、自分は利害の一致しないふたつの勢力と向き合っている。そのどちらも自分にとってはある種の「敵」であり、批判 -つまり、言葉による攻撃の刃なるものを向けなければならない相手である。
そして、そのふたつの勢力同士もまた今や「敵対するもの同士」という、ちょっと不思議な構図になっている。
この間、もしかすると、私にとって非常にネガティヴなニュースが流れるかもしれないが、ご心配なく。
それもまた2年、いや3年も前から想定していた「ワンノブゼム」なのであるから。
では、ここで「ブラックアウト」を宣言します。
(2010.01.22)
(註)
そんな自分を見かねてなのだろうが、先々日の20日の午後、久々に仙台に帰ってきた仕事仲間から「Kスタ(宮城球場)に来ませんか?」と誘い出された。 前にもちょっと触れた映画「ゴールデンスランバー」のイベントがあるという。時間的なことを考えて渋っていると「かまたさん、好きなんでしょ?」と押された。それに対して「好きなのはともかくとして、応援はしたいと思っている・・・」とかわすように答える。いや実際そんな感じなのだ。聞けば、その催し、映画の内容に沿うような演出があって、主演のふたり(堺雅人と竹内結子)と監督の中村義洋もくるし、そのトークイベントの締めとして、花火を打ち上げるらしいというのを聞いてやっと行く気になれた。 そのトークイベント自体は寒寒としたもので、PAの調子が悪いのか竹内結子の声がさっぱり聞こえないとか、マナーを無視して特設ステージに駆け寄る不届き者が続出したりと正直滅入ってしまった。 まあそれでも次々と打ち上げられる花火を見上げているうちに、少しだけだが気分は高揚していた。
イベント終了後、主演のふたりを出待ちをすると言い張る連れ合いを残しイベント会場を後にすると、自分ひとりだけで球場の近くにある蕎麦屋で時間つぶしをした。30分以上、もしかすると小一時間くらいしてからか、その連れから携帯に電話があって「クルマを駐車場から出してからゆくから入り口近くで待っていてほしい」と言われたので、球場(運動公園)の入り口近くまで戻ったのだが、そのときにプチ奇跡が起きた。
遠くから歓声が上がり、自分が背にしていた国道を、いかにも「送迎用です」という感じの「一号車」とステッカーの貼ってある白いバンが通り過ぎてゆこうとしていた。そのバンを目指して押し寄せる人人人・・・ ゆっくりと通り過ぎていった一号車のバンの暗い車内を目をよく凝らして見ると中にいたのは堺雅人のようだった。思わず自分は、彼に向かって「頑張れ!」と声をかけたくなっていた。もちろん声には出さなかったけれどね。
そして、続いてやって来た「二号車」のバンは低速になると目の前で停車したのだ。信号待ちだった。その二号車の後部座席には竹内結子がいた。その距離わずか2メートルあるかないかの接近遭遇である。 彼女はファンに向かって手を振って笑顔で応えていた。
自分が立っていたところに大勢の人が押し寄せてきた。いつのまにか自分の周囲は「竹内さーん」とか叫ぶ若い女性だらけになっていた。パニック状態である。
すぐに警官なのか警備の人間なのか、青い制服姿の若い男が慌ててやって来ると、紅白に塗り分けた警棒を横に広げてフェンスの前に仁王立ちになると「危ないからサクには寄りかからないで!」とヒステリックな大きな声で注意を喚起する。
で、何に驚いたかというと、後部座席の竹内結子がとった行動であった。彼女はスライド式のウィンドウを自分で開けると、「今日はありがとう! みんな気をつけて帰ってね!」と心のこもった言葉での感謝の言葉を口にした。
生の竹内結子を見かけたのは実はこれが二度目か三度目である。最初に見たのは「イノセント・ワールド」という彼女の初主演映画の舞台挨拶のときだったので1998年かそこいらのころだった。もう10年以上も前ということになる。なんていうのかな、そのときの竹内結子の印象というと、元気いっぱいのキャラを精一杯アピールしている新進の女優さん、くらいのごく普通の印象しかなかったが。
「気をつけて帰ってね」 この言葉には自分はやられた。この言葉、子を持つ母親でなければ咄嗟には出てこない。そういう言葉だ。自分は竹内結子の心の中にあるものを一瞬だけ垣間見たようなそんな気がした。見た目であるとか外側だけではなくて、人の心を打つ「美」とはなんなのかを改めて教えられたような気がした。とても清清しい気持ちになった自分である。
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