2007年1月29日月曜日

070129 ジュセリーノの予言 予言というものの価値について

  
【ジュセリーノ予言の真実 0129】 予言というものの価値について

自分はノストラダムスのことならばある程度のことは書けるし、普通の人よりはずっとずっと詳しい。

少なくとも「ノストラダムス予言詩集(ル・サンチュリ)」全編(正確には第十巻まで)原詩に目を通した人なんてそんなにいるはずもないだろうし。

しかし、その他の予言者(エドガー・ケイシーとか)に関してはあまり興味もないし、ほとんど詳しくもないのでたいしたことは書けない。

この番組で取り上げていたブラジル人の予言者「ジュセリーノ」という人のことも、この番組を見てはじめて知った。

というか、別に知らなくても全然かまわなかったと今でも思っている。

なんでか。それはこの世にはこういう「予言(預言)」をしている人がごまんといるということは知っているからだ。

実は、ノストラダムス(や、たぶんケイシーもそうだと思うが)と、こういう現在進行形の-つまり生きている予言者たちとの大きな違いは、それこそすでに死んでいるのか、まだ生きているかだけだったりする。

いやこれは冗談で言っているのではない。

予言が予言として世の中に広がるために必要なこと、それは予言者が一切そのことに対して口を閉ざしてしまうことだからだ。

現在進行形の(生きている)予言者にありがたみが薄いのはそのせいである。

予言というものがありがたがれるためには、予言者本人になりかわって「解釈」をする人が必要になるからだ。

そうすれば、たとえその予言がハズれても、それは解釈者の責任に転化することが出来る。予言者本人の名誉は絶対に傷つかずにすむという構造になっているのだ。

あとはその解釈者だけををとっかえひっかえすればいいわけだから。

ところが、その予言者がまだ生きている場合はそうはいかない。ハズれた予言に対する責任は予言を口にした予言者自身がしなくてはいけないわけで、不祥事を起こした会社の社長みたいな立場になり、それまでどれだけ予言を「当てていた」ように見えてもその時点でその予言者は失墜してしまうことになる。

こうして毎年のように新しい予言者は現れて消えていっているのだ。

そのジュセリーノという人の予言だが、ちょっと見逃せないのは、各国から送られてきたという「公式文書」の真贋というものではないだろうか。

公式文書とはなにか。それは「ある国から国へ、あるいは組織へ、あるいは個人に対して送られた手紙」のことだ。

これらの公式文書と「私書」との大きな違いは、送った側にその「送った」という記録とその内容が残されることである。(郵便局長の名義でされる内容証明と同じだ)そしてそれらは当然のことながらすべて自国人に対しても、そうでない人間にも公開される。

もし仮に、日本の外務省でも政府でもこのジュセリーノという人に対して「公式文書」を送ったというのであれば(註)、日本政府、外務省に問い合わせればその「写し」というか片割れを見ることが出来る。(もちろん手続きは大変だけどね)

もし、そういうものが残っていないとすればそれは「公式文書」とは呼ばないし、あるいは捏造されたもののどちらかということになる。「機密文書」を「公式文書」と言ってはいけない。あれとこれとはまったく別の物だ。そんなものを見せびらかす人間かいたらその時点でまず贋物と思った方がいい。

果してテレビ局はちゃんとそこまで調べたのだろうか?

実はこのような「偽の公式文書」なるものが世間を賑わせることは多い。
あの「MJ-12文書」だって「公式の文書」と言われていたが、実はヘッドの部分だけをコピーして、違う二種類以上のものをつぎはぎしたものが共犯者の手によって公開されただけということが明らかになった。こういうことは海外ではよくある「イタズラ」なのだ。

さて、その予言の内容だが、考えてみれば、地震であるとか天災に関するものについていうのであれば当っても当然というくらいにあいまいさを残したままのものばかりである。

というか、むしろ当らないほうがおかしいというくらいのレベルである。こういうものまで果して「予言」としてひとくくりにしていいのであろうかという疑問もある。

そこでこのジュセリーノという人の書いたという予言の内容について今一度振り返ってみるが、実はそんなに大仰でもなんでもないことばかりであることに気がつく。

多くの気象学者が言っていたり書いていたりすることとそんなに大きな矛盾はない。そういうものを大量に何通も送ったというだけならば実はどうってことはないことだ。

その2

自分はこの「ジュセリーノ」という予言者がどれだけ世界的に有名な予言者なのかをgoogle検索などで探してみた。

その結果だが、そんなに世界的に有名というほどでもないようなのだ。

当人のHPはすぐに出て来たのだが、いかんせんポルトガル語のみであった。ポルトガル語なんてほとんど読めないし、しかも自分の使っているブラウザ全てがポルトガル語には言語対応させていないので、どれで見てもところどころ文字化けする。

IEではスペイン語(西ヨーロッパ語)は入っているのだが、英語環境では
文字化けは解消しない。さすがマイクロソフトである。(皮肉だよ※1)

それでも書いてあることは、なんとなくだが判ることはわかる。写真が添えられていて「ホラこんな予言も当てたんですよ」という自慢するページであることはわかるようになっているからだ。

9・11のテロや2004年のインドネシア大津波2005年のロンドンとマドリードでの爆破テロを予言して的中したということが取り上げられている。

なんつーか、これを見た時点でなにか嫌な感じは受けた。(※2)

で、それで次に自分が試したのは、グーグル(Google)ならでは特殊な使い方といえる「言語別によるピックアップ」と、その比率を見比べて、どれくらい「世界的に認知されている人物か」を調べることだった。(※3)

で、その結果だが、「jucelino」だけだと約 123,000 件がピックアップされる。

フルネームの「jucelino nobrega da Luz」でも約 17,300 件という膨大な数だ。しかしその内訳をみるとあまり芳しくはないのである。ほとんどがポルトガル語で70%以上(75%)を占め、英語のページは18%、その他25%となっている。総計が100を越えるのは二重言語(バイリンガル)三重言語(トリリンガル)のページがあるからだ。

ちなみに、ノストラダムス(nostradamus 一般的な仏語表記)の場合どうなるかというと、「nostradamus」だけだと約 6,750,000件になる。フルネームの「michel nostradamus 一般的な仏語表記」だと399,000件。名前をミカエル(michael)にしたり、ミッシェル・ド・ノストラダヴス(michel de nostradavus)、とかいろいろ伝わっている全ての表記を全部ひっくるめると、約8,970,000にならんとする膨大なヒット数である。さすが世界的有名な予言者だけのことはある。

エドガー・ケイシー(ケーシー Edgar Cayce)でも 約 915,000件である。

このノストラダムスの検索結果を言語別セレクトでみると、自国語であるフランス語よりも英語、その他のページのほうが圧倒的に多い。

これが「世界的」であるかどうかの第一関門かと思うのだ。

どういうことか、別の例を出して見る。

中田英寿である。アルファベットの「hidetoshi nakata」でググると、その結果は 約 310,000 件になる。(もちろん中には、日本にある日本語のページも含まれる。ここがグーグルのすごいところなのだが)

この時点でナカタはジュセリーノ(ジョセリーノ)よりも世界的に認知された人物ということは出来るのだが、そこまでつっこむことはあるまい。スポーツと予言というジャンルによるハンディもあるからだ。

その言語別セレクトをみると自国(ナカタの場合日本といっていいのかすら悩むが)の日本語よりも英語・イタリア語・その他のほうが圧倒的に多いのだ。

ちなみに松井秀喜(hideki matsui) の検索結果は、約 654,000 件(英語・その他44% 日本語67%)、イチロー(ichiro)だと約822,000件(英語・その他58%日本語61%) 残念だがまだどちらも英語よりも日本語ページのほうがちょっとだけ多い。ここは野球というスボーツのローカリティーの差であろう。


予言者ジュセリーノ(ジョセリーノ)に関する日本語のページ(※4)ももちろんあることはあるのだが、これといって本人のHPの解説とかにはなっていないので、新しく知ることが出来たのは、むしろブラジルの「反証サイト」のようなところに載っていた「ハズレてんじゃん!」みたいな情報の方が多かった。

ウィキペディアにもあったが、これといってカギになるような大きなことは(まだ)書かれてはいない。

まず、なんにしても本人がどんなことを言い、書いているのかということを詳しく知らないことには真面目な意味での批判も批評も出来ない。これは大前提である。


これから自分が述べるジュセリーノ(ジョセリーノ)の予言に対する批判は、そういう二次的な情報から仕入れた知識だけを元にしている。

だが決して的ハズレな批判にはならないと思う。

まず、批判すべきなのは、ジョセリーノではなく、彼のことをまるで「世界的な予言者(註2)」であるかのように紹介して、彼の予言についてねつ造をしたこのテレビ番組、ひいてはテレビ朝日そのものではないかということを強く思うのである。(※5)

結果から言うと、まず、このテレビ番組で流されていたジュセリーノ(ジョセリーノ)の予言というものは、都合の悪い個所は意図的に隠したり捻じ曲げてナレーションをつけていたといわれてもしかたがないくらいに本人がかつて公表した「予言」を改竄したものであった。

なるほど、自分が見ていて「なんだかスカスカだなぁ。こんなレベルのを「予言」扱いしていいわけ?」と感じたのも、メインの大きな予言がことごとくハズれまくっており、それを意図的に抜かした結果だからなのだ。

あいかわらずだなぁ。深夜番組の「プレステージ」時代から延々20年近くもやりつづけてきたお得意の手法である。

以前ちょっとだけ書いたことがあるが、自分はこの「プレステージ」という番組で使うという「心霊現象」のVの制作の現場にたまたまだが立ち会ったことがあった。

それは、おそらくはここでこんなことを書いても誰も信用してくれないような不真面目で不謹慎な意図でもってこの番組のVは作られていたのである。

サブ(調整室)で怒鳴り散らすディレクターだかADの「こんなんじゃ、誰も怖がらねーよ!ボケ 作り直せ!」という顔は今でも忘れない。(※6)

話を戻す。繰り返すけど、ジュセリーノ(ジョセリーノ)は、この番組がオンエアされた時点で、すでに大きな予言を幾つもハズしていたのだ

その外した予言の中でも、我々がもっとも問題視しなければならないのは「2006年8月に日本で大地震、日本は危機的状態に陥る 」という予言であろう。

昨年の8月にそんな大きな地震ありましたっけ?

あれか、それとも映画「日本沈没」が公開されて日本中で話題になったってことの予言なのかな? 

っていうか番組では映画「日本沈没」のVをけっこう使っていたなぁ(笑)

もちろん、番組内ではそんなハズした予言のことはまったくのスルー状態。

これでは「あるある大事典」並の捏造放送といわれてもしかたがないのではないか。

まああれもこれもどっちただのバラエティ番組ですけどね。


その3


さて、自分がこれから述べるのは「予言」というものの持つ意味とか価値のことになる。

最近のオカルティストの中には「予言は警告であり、予言が外れるということは問題にはならない。むしろ外れたことを喜ぶべきである」というような擁護論を口にする人間がいる。

果してそんな不真面目な態度で「予言」というものを取り扱っていいのであろうか。まずそのことに苦言を呈する。

それは間違いだろう。何故なら、警告ならばはじめから警告として口にするべきだからだ。なにも「予言」なんて形を取る必要はないのだ。

そもそも、予言と警告はべつのものだ。一緒くたにすることが不真面目というか不謹慎なことなのである。

まして、テレビとはそもそもそういう使命をもったメディアである。警告は必要だが、予言は必要ではない。

次に、問題にすべきは「予言」をする人間の資格であると思うのだ、やはり。

このようなカタストロフィー(破滅)的な「予言」が流布するということは、とりもなおさず人の心を不安にさせたりすることでしかない。

誰にそんな権利があって、そのようなことが許されてるのであろうか。このことについてはもっと突き詰めて考えなければならないと思うのである。

誰かがその権利を無為に行使しようとしているのであれば、それは絶対に辞めさせなければならないと思うのだ。

そもそも、マスコミのような世間に対して影響力のあるものならば「止めさせる側」にあるべきではないだろうか?違うだろうか?

じゃあ何故テレビ局というマスコミがそういう煽動的な予言を喜んで流すのかといえば、ひとつは金になるからであろう。いわゆる視聴率のことであるが。

もうひとつ自分は「人を不安がらせること自体をおもしろがっているからなのではないか」そんな気がしてならないのだ。

特にTBSとテレビ朝日の番組作りにおいては。

なんのためにそんなことをするのかはわからないが、日本を不安にするネタにはすぐに飛びつくという変な習性があるような気がするのだ。

もし、彼らが「予言は警告だ」と開き直るのであれば、先述した「はじめから警告は警告として流せばよい」という言葉を返す。

繰り返すが、予言なんてまどろっこしい形を取る必要なんてまったくない。特にテレビというメディアにおいては。

で、もしその「警告としての予言」に固執するのであればだが、当然のことだがその予言が外れたのならば、その時点で予言を口にした当事者であるテレビ局は視聴者相手に「ごめんなさい」と頭を下げなければならない。

というか本来はそれでいいはずなのだが。

それが出来ないくらいテレビ局の当事者達のプライドが高くなっているということなのだろうが。

まあこれが一連の捏造(オーラのなんとかも含めて)の大きな原因でもあるわけだが。


あこれはまり知られていないことだが、参考のために書いておくけれど、古代の中国、あるいは中世のヨーロッパにおいて「占い師」という職業は非常に大切にされた「特別職」であった。王室に仕えてかなり裕福な生活が許されていた。

しかし、外れた予言をした「占い師」は舌を抜かれたりあるいは処刑されたりするのがあたりまえでもあったのだ。つまりそれだけ「占う」という行為は命懸けであったということだ。

これはもちろん暴論だが、こういう処刑ならば現代に復活させて構わないんじゃないのかと思うことがある。それは、それだけ人心を惑わすということがいかに重い罪なのかということは肝に銘じてほしいからだ。

もちろん、実際に命を取るわけにはいかないが、外れた予言を口にした占い師は二度とテレビに出さないという極刑に処する、ぐらいの厳しい態度で臨んでほしいんだが。

TBSさん。どうだろう?

切にそう思う今日このごろのテレビ事情である。(了)

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この記事は「予言というものの価値について」1・2・3(2007.01.29)を合わせて書き改めたものです。


(註1)何故か一時期、「ジュセリーノは『日本の政府から公式の手紙を受け取った』とは言ってなかったぞ」という書きこみが連続してあった。しかし、ジュセリーノはそう確かに言ったのである。阪神淡路大震災を数年前から予言していたという彼は何度も日本の政府に手紙を書いて警告したというのだが、その際に(地震の前に)日本の政府(関係者)から警告に対する感謝状が届いたということを実はインタビューで答えている。(原書にもその記述はあるという)

ところが、テレビの番組では何故か「日本の政府」から返事をもらったという部分はカットされていたらしい。(※後日確認したらやはりカットされていた。本には「政府」とはっきり書かれていたそうだが)何故だろうか。やはりこの部分を突っ込まれるとすぐに嘘がばれるからか。さて、たまから出る本にはその部分についてはどのように記述するのであろうか?(やはり『政府関係者』という表現になっているそうである。どちらにしても『公式』という表現は省いたということだ)

それと興味深かったのはその連続した書きこみのIPがやはりものすごく似ていたというか非常に近い場所から連続して行なわれていたということだった。自分はこのような場合いくら数があろうとも書きこみは一件と計算しているが。(2007.03.16追記)


(註2)厳密に言えば「世界的に有名な大事件を予言したジュセリーノという人物」なのであるが、聞きようによっては「世界的に有名な、大事件を予言したジュセリーノという人物」ともとれるような言い回しがされていた。っていうか自分が引っ掛かっていた。(2007.07.19追記) 

※1 流石に最新のIEではこのような「文字化け」は起こらなくなった。(2007.09.01)

※2 もちろんはっきりとは書いてはいないが、「書類の偽造」であるとの疑念はこのときすでにあったということだ。

※3 「みち☆まり」さんが最初のころ(たぶん一番最初)メールをしてきたのは、このGoogleの使い方に関するものであった。

※4 例のオリハルなんとかからリンクされているジュセリーノの日本語のページのことである。はっきりと批判はしていないが、酷い機械訳をそのまま載せているので全然読めたものではないということを言いたかったのだ。

※5 このころ、自分はまだこの番組のこの企画の部分が韮沢氏側からの持ち込みであることは知らずにこのようなことを書いている。まあ考えてみれば番組内での韮沢氏の発言を見れば、番組進行のイニシアティヴを握っていたのが韮沢氏であることはわかる。すでにこのころ「たま出版」でジュセリーノの本を日本で出すことは決まっていたということなのだが。

※6 勘違いされている方もおいでのようだが、自分はこのプレステージの「心霊関係」の番組に関与していたのではない。あくまでもこのプレステージという番組でときおりやる「映画・ビデオ」の特集の時に協力していただけに過ぎない。だからここでは「たまたま」と書いているのだ。

(※2~6 2007.11.01)

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※追記

もういちど確認のためにこの記事を見直してみたのだが、今にしてみるとずいぶんと回りくどいようなことばかり書いている。

知らなかったのだからしかたないのだが。

もちろん今となっては書き直すことだって出来るし、削除もできるのだがあえてこのまま残すことにした。

自分とジュセリーノの関わりというものをはっきりとさせておくためには必要なんじゃないかと思うからだ。

たしかに間違っていたこともあった。直せてそれで支障のない限りはそのままにしておくつもりです。

ただし、オリジナルの1から3までは近日中に削除かタイトルの訂正をする予定です。

重複というのは、当時そうする必要があったからそうしたのであって今となっては無意味になってしまったからだ。

(2007.11.03)


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2007年1月28日日曜日

「気」の実験ビデオを検証する。

で、随分と時間が経ってしまったが、年末(12月30日)に放送されたテレビ朝日系の特別番組「たけしの超常現象SP」内で取り上げられていた「気功」に関する実験の話である。

知り合いの知り合いの、そのまた知り合いくらいの人からDVDに焼いたそのテレビ番組録画のVを借りて見ることが出来た。

ネットのストリーミングでも見れたことは見れたのだが、検証のためには何度も一時停止してとめたり、繰り返して見たりしなくてはならない。すごく不便であった。

「何かに録画したものを使わないことには詳しいことは解からないな、何も言えないな」と思っていたところにDVDのハイビ画質で見れたというのは非常に助かった。

まず、そのDVDを借りずとも、そうまでしなくてもすでにわかってしまってことはあった。スタジオ内で行なわれた実験のほうだ。

あれだけ大人数を近間隔で横一列に並べてしまうと、(ぶつかりはしないか、という意識が働き)どうしてもからだを横方向には動かしづらくなり、前か後ろにしか倒れられなくなる。

しかも、ご丁寧に後ろには(調度人数分の長さの)マットが敷いてあるわけで、これではまるっきり「うしろに倒れてください」とリーディングしているのも同じことなのである。

以前も書いたが、人間というものは目を閉じたままだと、そうそう長く立ってられるものではない。せいぜい10分がいいところなのではないか。こういうことがはじめて、という普通の人ならば4・5分が限界なのではないか。自分の経験だと大体は(あくまでも確率でいうとだが)7人を横に並ばせれば20分はかからないはずだ。

最後までひとり残った状態の人間のほうがどうしても長く立ってられるような気がするがそういうわけでもない。これは一種の暗示効果というか、「倒れても安全なんだ」という感覚がすり込まれてしまうと逆にすぐに倒れやすくなってしまう(と師匠に教わった)。

嘘だと思うならば、同じ状態を再現してやってみるといい。両脇になにもない状態ならば結構持つが、両脇に(あまり親しくない)人が立たれるとものすごく不安定になるものなのだ。

さすがというべきか、高田延彦は約二十分間は持ちこたえた。しかし、高田は年末にこんな番組に出てる場合じゃないんだが(笑)。プライドのほうは持ちこたえられなかったのか。

水着の女性をプールサイドに並べて立たせる、という実験に関しても同じようなことがいえる。まして「水着」を着せられていて、倒れても一番安全な方角は前にあるプールの水の中しかないのだからどうしたってプールの中に落ちてしまう。

と、こういう仕組みである。

少なくとも、このふたつの実験では、はたして気というものが人間の体に「力」として作用したのかどうかという証明にはなってはいない。(もちろん否定にもならないのだが)

また、レインボーブリッジから約2キロ離れたところに立っている番組アシスタント(古瀬絵理)を遠隔気功で倒す、という実験に関しては、その借りてきたDVDの助けがなければ解明は出来なかったであろう。

トリックを見破ることが出来た。

ひとことでいえば、ビデオの編集で、さも同時に倒れたように見せているだけなのだ。
レインボーブリッジの上から気功師が「1分以内に(倒す)」と言ってから、ここでなんと一回テープをカットしてしまっているのだ。本来ならばここでは絶対に絶対に編集を入れてはいけない個所なはずなのにだ。何故か。

理由は、そのあとで三画面(気功を送る人間の映像は一画面のみ)を同時に流して時間的にあわせているだけだからだ。

「1分以内に」と宣言してから実際にその実験台となった古瀬絵理がマットに倒れこむまでには相当のタイムラグがあったはずだ。下手をすれば2~3分くらいはあったかもしれない。

何故そんなことが判るかというと、気功を送っている人間の後ろを通り過ぎたクルマのエンジン音と、実際に映像に映っている、通り過ぎていったクルマの車種(大きさといった方がいいか)が違うからだ。(古瀬に落ちている影の長さの差というものから、もっと時間が経っているはずだと指摘してくれた方がいた。しかしこの画面ではわかりづらいのが残念である)

ここで編集(というか、時間の調整)作業をやったということがバレバレなのである。

さらに古瀬が後ろに尻餅をつくようにして倒れこんだ直後に、気功師を映しているビデオだけを止めて、そこで彼の手の動きをカットしてしまっているのもイタかった。

考えてみればいい。もし本物だったら、そのまま手の動きを写しつづけてもなんの支障もないはずなのだが。では何故後ろから手の動きを撮影していたビデオを止めたのか?

もちろん、そのまま手を動かしつづけていることがわかれば、「古瀬絵理が倒れこんだこと」と、「気を送っていたこと」とが無関係であることが絵面で一発でわかってしまうからだろう。




古瀬絵理が倒れこんだ瞬間の分解映像。
古瀬が倒れたのは気功師の手の動きとはまったく関係がなく、
ただのビデオの編集(三画面の入れ込み)でそう見せかけているだけ。



何故このような安易なトリックを用いたのであろうか?
セロのマジック(あれもビデオの編集だが)だってもうちょっとマシな出来なんだがなあ。

というか、マジックの番組作りたいんだったらちゃんとした手品師とかマジシャンを呼んで作ればいいのに。

さらによく考えてみるとだ、テレビドラマ「トリック」で散々こんな「マジック」のネタばらしをやってきたのは他の誰でもなく「テレビ朝日」自身なんだけどね。

もし、本当に気のチカラで古瀬を倒した、ということを証明したいのであれば、高解像ビデオカメラを使い、手の動きと古瀬を同時に一本のカメラで写せばいいだけだ。それがこの場合もっとも正しい撮影の方法になる。そんな簡単なことも思いつかなかったというのはここの番組制作スタッフ全員がアホに近いか、でなければあらかじめ意図的にこの方法を取ったかのどちらかしかない。さあ、どちらなのであろう。

ちなみにこの番組に登場した気功師は于雷(ゆう・れい)氏。中国からやって来て千葉在住の人。在日十数年になるという。

みた感じ初めから「騙そう」とかそういうことをしようとしているようには見えない。

第一に、スタジオで荒俣宏の質問に対して「相手の潜在意識に対して働きかけている」ときっぱり答えている。つまりどういうことかというと、「外気功」が一種の暗示効果であるということを言っているのである。

どちらかといえば、番組スタッフがこの人を騙して連れて来たというほうが正しいような気がする。

もうひとつ、むしろこちらの方が問題かもしれないのだが、東京電気大学の町好雄教授による「科学的な測定」の「科学としての真実性」ほうか。

この町教授という人、確かに人柄としては「いい人」ではあるのだが、「超能力」に関する実験ではいつも大きな勘違いというか問題の多い実験ばかりやっている。

昔は「番組のスタッフに騙されているのかなぁ?」ぐらいにしか思っていなかったのだがこうまで同じようなミスを繰り返しているところを見ると、この人の中にある種のあせりのようなものがあるのではないかという疑念が浮かんでくる。

今回も、試験者の血流量が多くなったり、血圧や体温が上昇したという事実を前にして「何かはある」と言っていた。(そりゃなにかはあるはずだ)

がしかし、その「何か」と試験者の体内に起こった計測の結果という事実との因果関係を明確に、確率的に証明するためには、たったひとりの「能力者」を呼んできて何度実験したってそんな結果にはなんの科学的な意味はないのだということを認めたがっていないようにさえ見える。

そんな「科学的な実験」なんかがあるはずがない。科学者である町教授だってそんなことぐらい理解しているはずだ。

ここで行われている「実験」というのは、映画やドラマでやっている「科学の実験」のシーンと同じでただのフィクションでしかない。

言葉はキツいが、この番組のスタッフは町教授のことをある種の「マッドサイエンティスト的な科学者・大学教授」として使っているに過ぎないのだ。

さらに、教授自身もそんな役割を振られてこんな番組で使われているということを知っていながらこの手の番組に出ているのではないだろうか。そんな気がするのだが。


「あるある大事典」の捏造問題でも喧(かまび)しく言われていることだが、この種の実験のためには複数の「超能力者」と複数の被験者を用意して何度も何度も実験を繰り返さなければ正しい実験結果は得られない。

この人は今でもユリ・ゲラーが行なった実験を「本物」だと信じているのであろうか?だとしたら悲しい話であるが。

まあ、「今回も騙された」、ということでいいのではないでしょうか。由美さん。

で、次は同じ番組内での「予言」であるが・・・(笑)


※文章のおかしな部分に手を入れ、誤字脱字を校正しました。また貴重なビデオを貸していただいた「いちかわ・ひろし」氏に対して御礼を申し上げます。(2007.02.04)

※問題の部分をビデオ撮影して分解写真として追加しました。この行為が著作権違反であることは充分承知の上での行為です。もちろん、そうしなければならないという強い義務感があったこのような行為に及んでおります。(2007.02.16)

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