2007年7月31日火曜日

070731 目次 07年07月

目次 07年07月 




07年06月ヘ

070701 二種類の人間
070702 確率というものがある
070704 7月13日の地震と津浪の予言
070705 予定は未定
070707 90年10月4日放送テレビ朝日の深夜番組「プレステージ」より
070707 90年10月4日放送テレビ朝日の深夜番組「プレステージ」より
070709 来ない
070710 「ハチソン効果」のときと同じなのか?
070710 江原啓之・テレビ朝日に対する批判とLD批判
070714 地震の予言が外れたからといって
070715 台風
070716 目次 7月分
070717 α(アルファ)
070718 新潟からもメールが来ています 
070719 FOREPLAY/LONGTIME
070720 韮沢コラム86に対する批判
070721 イニシャルトーク
070722 もうひとりの偽予言者登場
070724 新たな偽造疑惑
070725 新たな偽造疑惑(重複)
070727 予言のカラクリと予想のシステム
070729 末松議員のブログのこと
070731 TAM航空機事故予言の続報

07年08月へ




ライブドアブログ


6月ヘ

0701 二種類の人間
0702 確率というものがある
0704 7月13日の地震と津浪の予言
0705 予定は未定
0707 90年10月4日放送テレビ朝日の深夜番組「プレステージ」より
0707 90年10月4日放送テレビ朝日の深夜番組「プレステージ」より
0709 来ない
0710 「ハチソン効果」のときと同じなのか?
0710 江原啓之・テレビ朝日に対する批判とLD批判
0714 地震の予言が外れたからといって
0715 台風
0716 目次 7月分
0717 α(アルファ)
0718 新潟からもメールが来ています 
0719 FOREPLAY/LONGTIME
0720 韮沢コラム86に対する批判
0721 イニシャルトーク
0722 もうひとりの偽予言者登場
0724 新たな偽造疑惑
0725 新たな偽造疑惑(重複)
0727 予言のカラクリと予想のシステム
0729 末松議員のブログのこと
0731 TAM航空機事故予言の続報

8月へ

070731 TAM航空機事故予言の続報

それでこれは数名の方からメールで教えていただいたことなのであるが、やはりジュセリーノがTAM航空機の事故の後に発表した「事前に登録したという予言」の中には事実とは違う部分が多々あったらしい。

象徴的なのは、「タケシン」さんからいただいた

「事故の次の日の報道では犠牲者の数を乗客170名と乗務員6名の176名だったが、どうやら航空会社と空輸局の連携の不手際ミスで実際には186名というのが正確な人数だったようです。ところがジュセリーノの予言のほうは170人と6名のクルー(?)としてます。」


というメール(の一部)であるか。ほかにもいろいろと細かな点で「予言」としてはありえないような間違いもあるらしいのだが今のところ確認の取り様がないのでそれについては後回しにします。


http://www.jucelino.daluz.nom.br/carta_tam.htm
(公表されているTAM航空機墜落に関する予言)

http://ja.wikipedia.org/wiki/TAM%E8%88%AA%E7%A9%BA3054%E4%BE%BF%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E4%BA%8B%E6%95%85
ウィキペディアによるTAM航空3054便オーバーラン事故の記述

報道によれば、3054便は滑走路からオーバーランしそうになったため、機長が着陸復航をしようとして機首あげしようとしたが間に合わず、滑走路を飛び出した上に、道路を横切った挙句、TAM航空の貨物取扱場がある建物とガスリンスタンドに高速で衝突し爆発炎上した。この事故で乗員乗客186名全員と地上の8名の194名が犠牲となり、地上にいたTAM航空の職員13名が負傷した。また、速報では「消防関係者」の話として「旅客機に乗っていた全員と地上にいた人々を入れて200名以上が犠牲になった」という話が流されるなど、事故直後の混乱ぶりがうかがえる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/TAM%E8%88%AA%E7%A9%BA
TAM航空についての説明(同)


まあこれなんかは以前自分が書いてみせた「誤報を予言する」というその理由を考えた場合には(あくまでも論理的にはではあるが)「言い逃れ」の出来そうな間違いではあるのだが、その他の点が明らかにならないとやはり断言はできないであろう。

それにしてもなんかいつのまにかマスキングされている黒い部分が増えてなくないですか?気のせいですかね。

おそらくは、多くの日本の読者の方には初めてこのような同時進行の形で「ジュセリーノの予言」というもののいかがわしさが明らかになった事件ともいえるので、このことについては注意深く続報を待ちたいとおもっている。

2007年7月29日日曜日

070729 末松議員のブログのこと

コメントの数がどれだけ多くともその内容がいかに酷いものであろうとも、そのことでたじろいだり嘆いたりはしない。「そういうものだろう」という予想を立ててはじめたことだからである。

ただし、オン・デマンドな、早急な対応というものは無理だろうということでコメント欄は閉じさせてもらっている。しかしメールは、返事のできるものに関しては出来得る限り返事をして来た。

それでもまさか現職の国会議員のブログで書いたことの尻拭いのために自分のこのブログが活用されるとは正直思ってもいなかったのであるが。

事実関係からいうと、末松義規(すえまつ・よしき)という衆院議員がブログでたま出版から出た「未未からの警告 ジュセリーノ予言集I」を読んで、その本には「『7月13日、日本に大地震がある』という予言が書かれているので皆さんご注意を」と書いたことに対する読者の反応が飛んでもないことになってしまったのである。

コメント欄が、いわゆる「炎上」してしまったのである。

この人はこの直後にも新潟の地震被災地への巡行というものについてついうっかりではすまないようなことを書いてしまいそのことでも謝罪と訂正をしている。

そして7月29日現在でも「ジュセリーノの予言」についての新しい表明はされていない。

さて、その末松議員のブログのその記事のコメント欄にかなり早い時期に
「このブログぐらいは見るように」と、この自分のブログへのリンクを書き込んだ方がいたのである。

そのためだと思うのだが、いつもとは明らかに質の違うコメントやらメールが多数送られてきたのだ。メールで100通近く、コメントも実数はともかくやはり100以上は来たのではないか。

まさに自分にとってもこの事件は単なる「対岸の火事」では済まなかったのである。

自分は、その末松議員のブログのコメント欄にここへのリンクを貼った方に対しては「ナイス・プレーでした」という感謝の意を表したいと思っている。

そのおかげで自分が目標としていること、やらなくてはいけないと思ったことが形として実現したからである。

「こういうときのためにもこのブログをやっていてよかったと思っている」ということである。

さてその寄せられたコメントやらメールの内容だが、やはり一番多いのは「現職の国会議員が書いたことなのでものすごく心配していたのですが、このブログを読んでジュセリーノの予言というものがまったくのデタラメだということを知って安心しました」というようなものであった。

まあこのブログを2月に「ジュセリーノの予言の真実」としてジュセリーノの予言の嘘というものを暴く内容に特化させる直前とほぼ同じような感じである。

一言、これは認めておかなければならないとは思うのだが、やはり国会議員の発言であるとか書いたことというものには大きな影響力というものがあるのだということだ。

さてその「末松議員のブログの内容についてどう思うか?」という質問もかなり寄せられている。なるべく早めに対応しておけばよかったのだろうが、自分はこの末松議員のこの発言というものを「単なる一議員の発言」だとかそういう領域でのみ「ああだこうだ」と言ってはいけない種類のものだと思っている。

どうしてもこの人の所属している政党との関係なくして肝心肝要なことは言えないのではないかと懸念している。

しかし、今この時期はなんの因果か「参院選挙期間中」であって今自分がその政党であるとかについて踏み込んで書いたりするとあらぬ誤解を招いたりする危険がある。それで今まで自重させていただいた。

自分の書いたほかの記事を読んでもらえればすぐにわかることだけれども、私は今の民主党というものを嫌っている。それは隠してもしかたのないことだ。

何故「今の民主党」を嫌っているかと言えば、それは「結党当初に掲げた大目標」というものが勝手に捻じ曲げられてしまっているからだ。

自分達はやっちゃいけないはずの「数の論理」というものに頼るような形になり、自分たちの信念を曲げたというかひっこめたことに対する怒りである。

「横道に反れちゃったな」と感じたのはもう10年も前のことか。「道」の漢字が違いますか、そうですか。

それと関係があるのかどうかはわからないけれども、ここから出てくる「新人議員」には明らかな特徴というものがある。

「言っていることにリアリティーが感じられない」という一大特徴である。まあこれは多分自分の想像でしかないのだが「上がそうだからではないのか」と思うのである。「アタマがそうだからしょうがないんじゃないの」というような下衆な推測になってしまうのであるが。

そのリアリティのなさというものがそのまま例の永田元議員が引き起こした「偽メール」事件であるとか、この末松議員のようなオカルトを信じてしまうというところに繋がるのではないか、などと思ったりもするのである。

さて、その末松議員の書いたという記事を読んでの感想である。

自分には、この末松議員が本当に「未未からの警告」という本を読んだとは思えないのである。もし本当にあの本を読んでいたのならばああいう感想は書けないだろうという疑念を抱いている。

あくまでも可能性ではあるが、側近の誰かが読んでいた本の感想であるとか書かれている内容をちょこちょこと聞きかじり、まるで「読んだような気になって」ああいうことを書いたのではないだろうかと思っているのだ。

いわゆる「バーチャル・リアリティ」ではないが、他人の経験というものをまるで自分の経験であるかのように勘違いした人間が書くような文章の臭いが漂うのだ。

それこそ「韮沢コラム」において韮沢潤一郎氏が繰り広げているのと同じ臭いであり、文章の書き方である。

そして自分は断言するのである。あの時点で絶対に末松義規議員は「未未からの警告」という本を実際には読んではいないなと。

つまり読んでもいないからこそああいう記事が書けるのであり、「7月13日に大地震があるという予言がされていますので気をつけて下さい」なとど言えてしまうのであろうと。

そのことについてはあまり責める気持ちはない。大体が政治家なんてそんなもんだからだ。

しかし、自分に寄せられたコメントの中には末松議員に対して「裏切られた」であるとか「軽率すぎる」という怒りを表明したものが日に日に多くなっている。

実際、議員のブログのコメント欄を見てもそうだし、そういう怒りを感じたという人はものすごく多いのではないだろうか。

やはり自分もこの末松議員に対しては、ジュセリーノの予言なんていうものについて肯定的な意見をしたという事実があるのであるからそのことに対してはちゃんとした対応をすべきであろうと思う。なし崩し的にぐずぐすと時間が経つのを待つ、なんてことはすべきではないだろう。

で、さてここで末松議員への提言である。末松氏が国会議員であるがゆえの提言になる。

ジュセリーノは阪神淡路大震災を予言してそれを政府関係者に事前に手紙で警告していたと言っている。そしてその返礼状も受け取ったと言っているのである。たまの本からは削除されているが昨年末放送になったテレビ朝日の番組でははっきりそう言っていたし、(註1)原書にもしっかりと日本政府に手紙を何度も書いて送った、と書いている(ので放送でもそう言っていたのである)。

もしこれが本当ならば忌々(ゆゆ)しきことである。日本政府はそのような重大な警告の文書を受け取っておりながらそれを隠しているということになるからだ。

ジュセリーノのあの本を読んで内容を信じていて、そのことに対して義憤を感じないというのであれば「何が国会議員だ」ということにもなりかねないのである。

であるからして末松議員には、もし本当にあのジュセリーノの本を読んでいて内容について今でも肯定的に捉えているというのであればだが、この「ジュセリーノが日本政府に送ったという手紙の存在」というものについて徹底的に政府に対して追求してほしいのである。いやマジで。

そう思うのは私だけではあるまい。これを読んで私のこの意見に同意したという方はそれを末松議員に対して伝えてはくれまいか。

以上が私こと「かまたあきよし」からのお願いです。

私はあなたがブログで書いたことで引き起こした事件のある種の「被害者」でもあるのですよ、末松さん。まあ自分じゃ被害者だとは思ってもないけどね。




註1 「(日本政府関係者から)返事を受け取った」という個所はカットされたようである。

そのためにかそのテレビで流れたナレーション全体がギクシャクした感じになってしまっている。

「各国政府から感謝の手紙を受け取っているというジュセリーノ」というすぐあとに「この阪神淡路大震災についての予言の手紙を送ったジュセリーノ…」というというようなことを紹介しているのだが、それでナレーション文の頭尾が噛みあっていないのだ。

当然ながら各国政府から感謝の手紙を受け取ったという例としてこの阪神淡路大震災のことが取り上げられているのかと思うと、最後までよく耳をそばだてて聴くとそうではないようなのである。

これでは「なんだよ送っただけか」かとなるし、注意深く聞いていないとまるでジュセリーノが日本政府(関係者)から感謝の手紙を受け取ったかのような印象を受け取りかねない。

それにしてもこの番組(だけではないのだが)、やたら「世界的な大事件を予言したジュセリーノ」を連呼したりして、あきらかに視聴者をミスリードさせるようなナレーションばかりである。

これでははじめから捏造を目的としてジュセリーノの予言を紹介しているといわれてもしかたがないであろう。

かつて自分はテレビ朝日の番組製作関係者が仕事の場所で「所詮バラエティは嘘だろうがなんだろうが数字取ってナンボ」というようなことを言うのを見たことがあった。

それだけじゃないよ。同席していた友人でもある放送作家が「でも(すぐばれるような浅はかな)嘘はいかんでしょ…」というと、このテレ朝番組関係者は立ち上がり「ナンダテメエ」と唸ると、テーブル越しにいきなりその作家の胸倉を捕んで「だったら(そんなこと言う奴は)ここ(番組制作の現場という意味か)から出て行け!」と突き飛ばすようにして押したところまで見ている。

こんなのは一度や二度のことではないのだ。

民放の製作の現場なんてどこでもそんなもんなのである。たぶん今でも。

民放のバラエテイ番組制作の人間とは、結局のところ嘘を数字(視聴率)に変換することでのみ生き長らえている悲しい生き物であり、その集まりなのである。

2007年7月27日金曜日

070727  予言のカラクリと予想のシステム

 

※この記事は元々7月25日に日本対サウジで日本が負け、イラク対韓国でイラクが勝ち、決勝がサウジとイラクで争そわれることが決定した直後の0725(記事では0724)の直後に書いたものです。


自分がサッカーアジアカップの結果を当てていたことに関して結構な数のメールがきている。

しかしなぜか「それがどうした」とか「だからといってジュセリーノの予言がたいしたことではないということにはならない」みたいな予防線を張ったような論調というか書き方をしてくるような(おそらくは)ジュセリーノ予言信奉者のメールが多いのであるが。

なんでこんなメールが来るのか最初は腑に落ちなかったのだが、いろいろと見てゆくと、2ちゃんねる(のオカルト板にある「ジュセリーノの予言」というスレッド)に、この自分がアジアカップを予想していてそれが当っていると書き込んだ人がいたからのようである。

で、自分が大会前に書いたその予想というものをそのまま丸写しにする。

確かに過去二回連続して日本が優勝したアジアカップではあるが、前回前前回と今回とでは意味合いが違ってきているという現状の認識ができてない人間(マスコミで評論家と呼ばれている人たちである)が多いのは気になる。あとそれをそのまま鵜呑みにしている(J発足以降の世代のサッカーファン)が。

もちろん新規参入したオーストラリアがいるということも大きいのだが、それ以上に中東勢との力の差というものが開いているのだということを認めたがらない人が多いのである。これが怖い。

特に戦乱の収まったイラクのこの大会に賭けるモチベーションは異様なまでに高い。自分はこのイラクかサウジ、あるいはイランといった中東勢から優勝国が出ると予想している。カタールやUAEも侮れない。むしろ開催国(のひとつである)タイに入国できそうもないサウジがハンディか。

むしろまだこういう大きなトーナメント慣れのしていないオーストラリアや何故かアジアカップには勝てない韓国は準々あたりで姿を消すのではないか。


とこう書いたのである。

※結果は言わずと知れたことだけれどそのイラクとサウジで決勝が争われてイラクが勝利した。まあ自分の予想がズバリと的中したわけだ。(07.29追記)

それ以外にも オーストラリアが準々決勝で敗退(日本がPK戦を制して辛勝した) 韓国が何故かアジアカップでは勝てない(準決までは上がって来たのはお見事である。)

という個所も部分的には小当りである。

かように実をいえばサッカーの大きな大会のの行方についてならば予想を当てることはさほど難しくはないのである。

であるからして、自分は2006のワールドカップではイタリアを大本命に推してそれを当てているし、その前の2002日韓の時もブラジルを優勝の第三候補にして(大本命はスペインであった)それが当っている。(註)


「当らない」とすれば純粋な意味で予想を当てようとするのに必要ななにかを怠っていたり、あるいは誰かに(日本のスポーツマスコミとかだ)騙されてその情報を信じ込まされたりした結果に過ぎない。

そういうことを知らずして「優勝はイラクかサウジ」などと言っている人間の予想がそのままズバリ的中してしまうとそれこそ「予言」のように見えてしまうかもしれない。

しかし予想と予言は別のものである。

まあだからジュセリーノが「ワールドカップの優勝はイタリア」と事前予想してそれが当ったというのは、むしろジュセリーノの予言が予言ではなく、なにかを「元にした」一種の予想に過ぎないなということも思うのである。

でなければ逆に、地震や災害の予想がことごとく外れたり、あるいは大事件の予言には必ず前年前々年に似たような事件が起きていたりということの説明がつかなくなるからである。


※この記事は08.09に書き改めたものです。

追記

註 自分の実感としては2002の時には「予想を外した」という記憶しか残っていなかったのだが、葛飾の店の常連だった人から「あなたはブラジルを優勝の第三候補にしててそれで結構儲かっていたはずだ」という電話があった。

またそのときにアルバイトだった人間からも「店長の予想のおかげでプラマイゼロ近くまで収めることができてましたよ」という伝言があった。

記憶には残ってはいなかったのだが確かに当時のメモ(PCのハードディスクに残っていたもの)を見ると、自分は「スペインかイタリアがドイツ()を抑えてどちらかが優勝」の線で優勝の予想をしていた。で、そのスペインとイタリアではスペインの方がまずもって勝てるであろう。そのままスペインとドイツではスペインの方がコンディションの差からスペインの方が勝てる」と予想していたのだ。

つまりは、あの誤審さえなければ自分の予想もそんなには外れてはいなかったといえるのである。自分が予想の際に一番欠けていたのはサッカーに必ず隠然として存在する政治的な駆け引きというものを計算しなかったということになるのか。
だとすればひょっとしてあの「誤審」が一番有利に働いたのは優勝したブラジルだったかもしれない。

罪なことをしてくれたものだ。あれさえなければワールドカップが開始してから延々繰り返されてきた悪習さえも断ち切ることが出来たかもしれないのにだ。

もう二国開催みたいな馬鹿げたことは止めにしてもらいたいと強く思った。
(2007.07.29)

知っている人も多いようだが、その自分がサッカーのことを書いているブログの人気が突然という感じで沸騰してしまい多いときにはアクセス数が9000を超えた日がでている。

アフリエイトとかで儲けたいとかの気持ちがあればこんな予言のブログなんて辞めてそっちに力を注いだほうがお利口というものだろう。
(07.08.20)

2007年7月26日木曜日

070726 新たな捏造疑惑2

さてその偽造疑惑の続きである。

まず、これは0725の追記のところに書いたことでもあるがこちらにも念のために書いておこう。

「2ちゃんねる」でもこのこと(アダム航空機墜落のジュセリーノの予言がなぜか最初ブラジル国内でも流れた誤報そのままだったということ)に気がついてそれを事細かに記述していた方がおられた。

ジュセリーノの予言8【中越沖地震的中】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/occult/1184646618/
420 本当にあった怖い名無し sage 2007/07/19(木) 17:21:24 ID:ydnjlRqZ0
今年の1月1日に墜落したアダム航空機の事故の件だが、妙な事が分かった。

http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/airline/1171469817/

予知の内容と、最初の報道は上のリンクを見てもらったとおりなんだが、
この報道は誤報で実際には機体はスラウェシ島付近の海で尾翼の一部が海で見つかっただけ。
遺体もほとんど見つかっていないし、生存者も確認されていないようだ。
詳細は以下のWikipediaで。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E8%88%AA%E7%A9%BA574%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

私はアンチでも否定派でもなくジュセリーノに大いに期待しているひとりなのだが、
なぜジュセリーノの予知が最初の誤報に酷似しているのかについて重大な疑念を抱いている。


自分がこのことを記事にするよりもこの方の書き込みの方が先である。

自分はこの事実に関してはだいぶ以前に世界の航空事情に詳しい「TT」さんという方から教えられて知っていた。なんかこんなことを言い出すと負け惜しみっぽく聞こえるかもしれないが「どっちが先だ」とかそういうことを言いたいのではない。

ジュセリーノのような予言者が「誤報を予言してしまう」という事実にどれだけの大きな意味があるのか最初は自分も気がつかなかったくらいであった。逆にTTさんにそのことをメールで書いたときに「そういえばそうですね、それはすごい発見です。それについて書くのは今は抑えておいたほうが得策でしょう」と言われて取っておいた。

だから先に2ちゃんねるでこの事実について踏み込んで書かれた方(この方はこのブログの読者だそうである)がいたということを知らされたときは、「そうだよな。気づく人が出るのも時間の問題だしな」くらいにしか思わなかったのである。

誰であろうとどんな立場の人であろうとも、このジュセリーノの予言というものについて真剣に考えて自分の足(労力という意味)で、自分の意志でもって事実を確かめるということの出来る人ならばいずれは気がつくことだからだ。

このようなどう考えてもジュセリーノの予言というものの欺瞞の決定的な証拠となるような「不都合な真実」はほかにもまだいくつかある。自分はほかにもいくつも発見したし教えられもした。

それどころかジュセリーノが何かことを起こすたびに口を開くたびにそれはどんどん増えていってしまっているのだ。

問題なのは、ジュセリーノ自身が自分のしていることが、それが彼の予言が嘘であるという動かぬ証拠になってしまっているということに気がついていなかったり、日本でこのジュセリーノの予言というものを「当っている。これからも当たりつづけるのは間違いない」と彼の予言を広めようとしている「たま出版」の韮沢潤一郎氏もまったく気がついていないということだろう。

しかしそのようなことくらいは当然ブラジルではかなり知れ渡っているのである。

たとえば、ジュセリーノが2001年10月1日にブッシュ大統領に送ったという手紙(第三版140ページ)の中には、いくつものありえないような矛盾がジュセリーノ自身によって書かれている。そしてジュセリーノはそれを自分の予知夢の証明だと言っているのだが、実際のところはその逆で、ジュセリーノがただの嘘つきでしかないということを自分で暴露しちゃっているという証明になってしまっているのである。

新聞で報道されていた政府や軍の発表というものをそのまま鵜呑みにしたジュセリーノの大失態である。

同じく2001年10月1日付けのマスコミに送ったという手紙(同186ページ)と並べてみると、たまの本にはこの事件の事実検証は行なわれておらずに(同187ページには)「原書の原稿締め切り直後に発生した」と書かれているのである。それを知ったとき(教えてもらったとき)自分は何故か背中に冷や汗をかいたくらいだった。

ひょっとしてマリオ・エンジオ自身がこの大いなる矛盾というものに気がついていないとすればだが、マリオ・エンジオもまたジュセリーノと共犯関係にあるという証拠になってしまうからである。

しかも翻訳していた山川栄一氏も監修者の韮沢潤一郎氏もまだこのことには気がついてはいないということになるではないか。

もし仮に自分の友人であるとか親しい人間がたま出版にいて、この本の編集に関わっているとしたのならば、自分は即刻「この部分については触れるな。すぐに削除してなかったことにしろ」とアドバイスをするであろう。

ていうか本当に本当の意味での親身なアドバイスというものがあるとすれば「そんな出版社辞めちまえ」になるのだろうが。

で、これはついでになるがここで書いておこう。185ページ(第三版)に何気なく書かれてある(註)
(この手紙が書かれた日付が)最初に出された(事件18-1文書)2001年10月1日なので、まだ起きていないニューヨークの9.11テロ攻撃を予知していると述べている。

という部分はすごい。さすが予言の本だけはある、などと感心している場合ではない。普通ならありえないような大ポカだろう。もしこれが翻訳中に生じた間違いだとしても監修者とか編集者という役目の人がいるのならばこういうミスぐらいは潰しておくべきだろう。いくらなんでも。

いまさらだが、こういう感じのシンジラレナ~イくらいの記述については論(あげつら)って笑いものにするのはものすごく簡単なことだ。

しかし念を押すようにして改めて言うのだが、自分が目標としているのはあくまでも「ジュセリーノの予言の嘘」というものについて暴露することであって、このような「たま出版側のミス」を論い笑いものにすることではないということだ。

テレビでオカルト芸人「ニラサワさん」のボケっぷりを笑うのとは別物だということだ。それとこれとはまったく違うことだからだ。(まあこのことについては踏み込んで書かなければならないこともあるのだがここはおいて置くとする)

だからテレビに出ているニラサワさんを笑いものにすることはまったく構わないと思うし、それでいいのだろう。

だけれどもしかし、自分はたまの本は買わないし、人には「買うな」と言うのである。くり返しになるけれどもそれとこれはまったく別のことだからだ。笑って済ませていいこととそうでないことの区別というものはあるのである。

※ 註「VAN」さんからのご報告による。「マジで一瞬『9・11っていつ起きた事件だったっけ?』と考えてしまいました」だそうである。

文意をとるのであれば「2001年10月1日なので、起きたばかりのニューヨークの9.11テロ攻撃を予知していると述べている。」でなければいくらなんでもおかしなことになってしまう。

2007年7月25日水曜日

070725 新たな偽造疑惑(重複)

まだ詳細がはっきりするまでは取り上げないでおこうと思っていたのだが、17日にブラジルサンパウロで起きた航空機事故に関して、ジュセリーノが「あの事故を予言していた」というような文書を公開したようである。
http://www.jucelino.daluz.nom.br/carta_tam.htm

もちろん今までそんな「予言」など公表されていなかったはずだし、そのような文書など聞いたこともなかったのであるが、「ビーン」さんという方からきたメールで
「公式のページに新しい予言の届けをしたものがアップされているらしいのですが、このあいだの飛行機事故の予言らしいです」

ということを知らされて、その新しい方のHPを見てみたのだが、確かに新しい文書が追加されていた。

よく見てみると、たしかに17日に起きた航空機事故を予知してそれをTAM航空関係者に送っていたというような文書と、その画像、そして幾つかの発送と受け取りの証明(註1)のようなものが添付されていた。

多くのジュセリーノ・ファン(嫌味だよ)の方ならばご記憶であろう。以前、インドネシア領空で起きた「アダム航空の遭難事故」(07年1月1日)のときにもジュセリーノは似たようなことをやっている。

FMの放送局に対して「もうすぐ航空機の事故がある」とだけ予言の文書を送り、事故後になって「自分が予言していたのはこの事故のことだ」と予め公証所に登録しておいたという予言文書を公開したあの「事故」のことである。

しかし、問題になったのはそのジュセリーノが「夢で確かに見た」という光景が実際の事故とはまったくかけ離れていて、しかもなぜか事故直後にブラジル国内で流れた誤報そのままの内容であったことだったのである。(註2)

つまりジュセリーノはご丁寧にも自ら「誤報を予知した」と名乗り出るようなマネをしまったのである。(TTさんによる)

再びそれを想起・連想させる気持ちの悪い出来事である。

彼は何故そこまでして「事故を予知していてそれを通報していた」という偽の証拠偽造と疑われるようなことをするのであろうか。

サッカーで言えば、審判のすぐ目の前で自分から転げてみせてシミュレーション・ファールを取られるようなものである。

あるいは彼は今 一種の「裸の王様」のような状態において置かれているのかもしれない。

さて、全ての人には「このこと」については真剣に考えてほしいのだ。ものすごく重要なことである。
もし「ジュセリーノの予言」というものがただ単に何者かから伝えられた「言葉」を「預言」として発表しているのであるとしたら(いやそれでも許されることではないのだが)まだこのような「誤報」が混じりこむというのも理解の余地というものはあるだろう。

しかし、ジュセリーノは「(夢の中の自分は)その事件や事故の現場に居合わせていて、そして何処からか聞こえてくるアドバイスを耳にして、そして目が覚めるとそれを文章にする」と自分で言っている「予言者」なのである。

それではこのような「誤報という文字による情報」が混じりこむというような間違いは絶対にあってはならないことだからだ。

では何故このようなことが起きてしまうのか。以下の可能性が考えられるであろう。

1 ジュセリーノは自分の予言方法を勘違いしている。

※(夢の中の彼は)現場にはおらずにただ光景として「見た」ものだけを事件・事故の現場だと思い込んでいるだけとかそういうことである。もちろん意味のない仮定でしかないのだが。

たとえば、アダム航空機の墜落を例にした場合、航空機の墜落した現場は「インドネシアの洋上」であるが、一方「山中に墜落した」という誤報が流れたのは「インドネシアの陸地」であり「ブラジル国内」である。つまりジュセリーノが「誤報を予言してしまう」ということは「(夢の中の)ジュセリーノはその墜落の現場にはいない」ということを意味する。(『きっと彼は誤報を報じた新聞の紙面とかを夢でみたのでしょう』などということを言い出す人物が出てきそうだが、それではその人物はジュセリーノの予言というものを端から理解していない、信じていなかったということにもなりかねないのである)

2 ジュセリーノは自分の予言の方法について嘘をついている。

その「(夢の中の自分は)現場にいる」というのが、実はそうではないことは知りつつも何かの事情で「現場にいたのです」と嘘をついていた場合である。(非常に意味のない推測ではあるが、あえて肯定派の口を予め塞ぐためにも可能性のひとつとしてあげて、そして潰してみた)

3 ジュセリーノは予言者でもなんでもなくてただの嘘つき

ジュセリーノによる「自分は今まで沢山の予言をしてきてそれは全て当たっていた」という彼の証言と事実関係と状況証拠全てを合理的に説明するのに最も自然で最も可能性が高いのがこれになる。


なんにしても、もうジュセリーノとその周囲にはかなりの疑いの目が向けられており、なにか事件があれば逆にその欺瞞と嘘がすぐに暴かれるという負の循環が続いている状態(ジョアン・ヒグチ・ナシメント氏による)だそうだから、たぶん(まず間違いなく)この事故の予言に関しても「ジュセリーノの予言の矛盾点」といったものの続報、第二弾というものが日本にも届くであろう。間違いない。

※ この記事は予定していたものを25日に差し替えしたものです。
※ この記事は24日のものに新たに書き加えたものです

註1 「TAM航空のチケットの半券ではないか」というメールを頂いた。
※その後掲げられていた画像に加工がなされたようである。
    「AR」というのは郵便書留の送り証明書のようなもののことらしい。「半券」で    はないらしい。ひょっとすると半券が画像として掲げられていたのかもしれない。

註2 2ちゃんねるでもこのことに気がついてそれを事細かに記述していた方がおられた。


ジュセリーノの予言8【中越沖地震的中】
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/occult/1184646618/
420 本当にあった怖い名無し sage 2007/07/19(木) 17:21:24 ID:ydnjlRqZ0
今年の1月1日に墜落したアダム航空機の事故の件だが、妙な事が分かった。

http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/airline/1171469817/

予知の内容と、最初の報道は上のリンクを見てもらったとおりなんだが、
この報道は誤報で実際には機体はスラウェシ島付近の海で尾翼の一部が海で見つかっただけ。
遺体もほとんど見つかっていないし、生存者も確認されていないようだ。
詳細は以下のWikipediaで。

ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E8%88%AA%E7%A9%BA574%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85

私はアンチでも否定派でもなくジュセリーノに大いに期待しているひとりなのだが、
なぜジュセリーノの予知が最初の誤報に酷似しているのかについて重大な疑念を抱いている。


自分がこのことを記事にするよりもこの方の書き込みの方が先だった。

2007年7月24日火曜日

070724 新たな偽造疑惑

まだ詳細がはっきりするまでは取り上げないでおこうと思っていたのだが、17日にブラジルサンパウロで起きた航空機事故に関して、ジュセリーノが「あの事故を予言していた」というような文書を公開したようである。
http://www.jucelino.daluz.nom.br/carta_tam.htm

もちろん今までそんな「予言」など公表されていなかったはずだし、そのような文書など聞いたこともなかったのであるが、「ビーン」さんという方からきたメールで
「公式のページに新しい予言の届けをしたものがアップされているらしいのですが、このあいだの飛行機事故の予言らしいです」

ということを知らされて、その新しい方のHPを見てみたのだが、確かに新しい文書が追加されていた。

よく見てみると、たしかに17日に起きた航空機事故を予知してそれをTAM航空関係者に送っていたというような文書と、その画像、そして幾つかの発送と受け取りの証明のようなものが添付されていた。

多くのジュセリーノ・ファン(嫌味だよ)の方ならばご記憶であろう。以前、インドネシア領空で起きた「アダム航空の遭難事故」(07年1月1日)のときにもジュセリーノは似たようなことをやっている。

FMの放送局に対して「もうすぐ航空機の事故がある」とだけ予言の文書を送り、事故後になって「自分が予言していたのはこの事故のことだ」と予め公証所に登録しておいたという文文書を公開したあの「事故」のことである。

しかし、問題になったのはそのジュセリーノが「夢で確かに見た」という光景が実は事実とはまったくかけ離れていて、しかもなぜか事故直後にブラジル国内で流れた誤報そのままの内容であったことだったのである。

つまりジュセリーノはご丁寧にも自ら「誤報を予知した」と名乗り出るようなマネをしまったのである。(TTさんによる)

再びそれを想起・連想させる気持ちの悪い出来事である。

彼は何故そこまでして「事故を予知していてそれを通報していた」という偽の証拠偽造と疑われるようなことをするのであろうか。

サッカーで言えば、審判のすぐ目の前で自分から転げてみせてシミュレーション・ファールを取られるようなものである。

あるいは彼は今 一種の「裸の王様」のような状態において置かれているのかもしれない。

さて、全ての人には「このこと」については真剣に考えてほしいのだ。ものすごく重要なことだ。
もしジュセリーノの予言というものがただ単に何者かに伝えられた「言葉」を「預言」としているのであるとしたら(いやそれでも許されることではないのだが)まだこのような「誤報」が混じりこむというのも理解の余地というものはあるであろう。

しかし、ジュセリーノは「その事件や事故の現場に居合わせる夢をみて、そして何処からか聞こえてくるアドバイスを耳にして、そして目が覚めるとそれを文章にする」と自分で言っている「予言者」なのである。

それではこのような「誤報という文字による情報」が混じりこむというような間違いは絶対にありえないはずだからである。

では何故このようなことが起きるのか。以下の可能性が考えられるであろう。

1 ジュセリーノは自分の予言方法を勘違いしている。

※現場にはおらずにただ光景として「見た」ものだけを事件・事故の現場だと思い込んでいるだけとかそういう意味。もちろん意味のない仮定でしかないのだが。

たとえば、アダム航空機の墜落を例にした場合、航空機の墜落した現場は「インドネシアの洋上」であるが、「山中に墜落した」という誤報が流れたのは「ブラジル」である。つまりジュセリーノが「誤報を予言してしまう」ということは「ジュセリーノはその墜落の現場にはいない」ということを意味する。(『きっと彼は誤報を報じた新聞の紙面とかを夢でみたのでしょう』などということを言い出す人物が出てきそうだが、それではその時点でその人物はジュセリーノの予言というものを端から信じていなかったということにもなりかねないのである)

2 自分の予言の方法について嘘をついている。

その「現場にいる」という言葉が、そうではないことは知りつつも何かの事情で「現場にいたのです」と嘘をついていた場合である。(非常に意味のない推測ではあるが、あえて肯定派の口を予め塞ぐためにも可能性のひとつとしてあげてみたのである)

3 ジュセリーノは予言者でもなんでもなくてただの嘘つき
ジュセリーノによる「自分は予言をしてきてそれは全て当たっていた」という彼の証言と事実関係を全て合理的に説明するのに最も自然で可能性が高いのがこれになる。


なんにしても、もうジュセリーノとその周囲にはかなりの疑いの目が向けられており、なにか事件があれば逆にその欺瞞と嘘がすぐに暴かれるという負の循環が続いている状態(ジョアン・ヒグチ・ナシメント氏による)だそうだから、たぶん(まず間違いなく)この事故の予言に関しても「ジュセリーノの予言の矛盾点」といったものの続報、第二弾というものが日本にも届くであろう。間違いない。

※ この記事は予定していたものを25日に差し替えしたものです。

2007年7月22日日曜日

070722 もうひとりの偽予言者登場

すでにご存知という方も多いだろうと思うが、7月17日ブラジルのサンパウロにある空港でブラジル国内最大級の航空機事故が発生した。

ブラジルで航空機事故 犠牲者200人に達する可能性

17日午後7時(日本時間18日午前7時)ごろ、サンパウロ中心部のコンゴニャス空港で、乗客・乗員176人を乗せた国内線旅客機が着陸に失敗、空港近くの建物に衝突して炎上した。
地元メディアによると、少なくとも20人の遺体が機内で見つかり、建物にいた3人の死亡も確認された。事故現場で巻き込まれた人も含め、死者が200人近くにのぼるとの情報もある。在サンパウロ総領事館が邦人の被害の有無を調べている。

ブラジル南部ポルトアレグレ発サンパウロ行きのTAM航空エアバスA320機で、地元メディアによると滑走路をオーバーランして空港脇の自動車道も乗り越えたという。衝突した建物は宅配便などを扱うTAM社の子会社の倉庫で、従業員らが病院に搬送された。隣にあるガソリンスタンドに延焼しているとの情報もある。

TAM航空はブラジル最大手で、国内線で約5割、国際線で約6割のシェアがある。96年11月にサンパウロ市内の住宅地に墜落、乗客・乗員96人が全員死亡する事故を起こしている。

ブラジルでは昨年9月、ゴル航空機がアマゾン上空で小型機と接触して墜落し、乗客・乗員155人が全員死亡する事故があった。

出典:asahi.com 2007.07.18.10:41
http://www.asahi.com/international/update/0718/TKY200707180015.html



この事故がジュセリーノの月別の予言の中の

ブラジルのフォルタレーザ州からサンパウロのグアルリョス空港へ向っている旅客機が墜落して二百人以上が死亡する。

という個所のことであると言い出している人たちがいるのである。
というか「いたようである」と言い直したほうがよいのかもしれないが。

まず第一にこれはジュセリーノによる「10月の予言」であるということを前もって言っておかなければならないだろう。

流石にこのことが引っ掛かっていたのか、ジュセリーノ自身のこの事件に対する発言かどうだったのかはともかくとしても、「たま出版」のBBSではそのニラサワ氏による「これは予言とは関係のない事故でしょう」というような書き込みがなされていたようである。

まそれは良しとしてもだ。相変らず一言多いというか余計なことを付け加えるのがこの人のよくないところだ。

そのニラサワ氏、なんと「10月に別の飛行機事故が起きるということです」と書いているのである。

しかし、それではよく考えると、この「事故」との関連を抜きにしても不謹慎な発言ではないだろうか。これでは。

自分はそのことを諌めるようなことを書こうと思っていたのだが、流石に誰からか苦言を呈されたのかそのコメントも削除されてしまったようである。まあ削除したのならそれに越したことはないのだが、自分としてはもう少し早めにこのことを書いていればそれっぽく見えたかもしれないなと少し後悔はしているのだが。

というのも、自分は前からちょくちょく触れていた「TT」さんからのご意見を待っていたのだ。

前に自分がゴル航空とアダム航空の航空機事故の、それぞれのジュセリーノによる「事前に予言してそれを公証所に届けていた。それが的中していた」と言っているその「予言」の中にすでに内包している「不自然な前後関係」というものについて書いたときに、この「TT」さんから「かえって自分の首を締めかねないのでそういう書き方はしないほうが良いでしょう」というアドバイスをいただいたことがあったのだ。結果的にその「TT」さんの意見は正しかったし、そのアドバイスにしたがっていてよかったと思っている。まあだから餅は餅屋というけれど、航空機事故のような専門的な知識が必要とされるような分野での出来事ではなおさらこの「TT」さんの意見が届くのを待ってからという気持ちが強くあるのだが。

なんにしても、現実に航空機事故というものはあって、その事故で亡くなられた方がいるのだ。

そういう人たちのことが頭の中にあったのならば、「予言が当った」とかいって、その事故と「予言」を結びつけて語るということがどれだけのことなのかということはもう少しは考慮すべきなのである。自分はそう思っている。

いやもちろん、つまりだからそういう批判が向けられるのはこの自分にもなのだということでもあるのだが。

だからここではその点を考慮して詳しくは書かないけれど、6月中に自分がメールで(TTさんから教えてもらったこととして)書いて送ったひとつの例として挙げた「架空の予言」というものはやはり高確率でこのようにしてやはり実現してしまうのであるということなのだが。

「150人以上」というのは、もちろんブラジルにしてもどこの国の航空会社にしても国内線の主力機の乗客員数が200前後であり、常に満席状態にしてからフライトの便として載せるのが最近の会社の方針のようだから、人数に関しては当ったとしてもなんの不思議もないということだ。

そして今、世界中の航空会社各社による値引合戦の結果、メインテナンスに掛ける予算がどんどん削られてきて、「外注」や「下請け」そしてその「孫請け」と精度と責任が薄れてゆくような構造になっている現在、もし事故が起きるとすればその原因(のひとつ)が整備不良になる可能性というものが極めて高くなるということでしかないのである。

日本の航空会社の整備不良による事故のニュースも相当報道されていたのをご記憶のかたも多いはずである。

しかしそういう実情というものを知らずに、ただ単にあのような「予言」というものを受け取り、それが実現したとしたらあるいはギョッとしてしまう人もいるだろう。

不幸なことではあるが、3ヶ月に一度は世界のどこかで航空機の事故は起きているし、半年に一度という確率で乗客数が100人を超えるという大事故は起きている。これが現実なのである。

「航空機事故」というショッキングなニュースに「予言は当った」というようなことを口にしてしまう人がいても自分はあまり責める気にはなれない。

ただもう少しこの「現実の世界」というものがどのように動いているかということに目を向けて欲しいと願うだけである。


※ 最終校正07.11.30 途中八行省略した。

2007年7月21日土曜日

070721 イニシャルトーク

いろいろなメールが来ている。

「これについてはどう思うか?」「あれについてはどう思うか?」というようなものが多い。

答えられるようなものであればすぐにでも返事のメールを出したりするが、
中には答えを出すのには時期として微妙なものもあるので「それについては来週の日曜の8時過ぎまで待って下さい。記事にしますから」みたいな感じの保留にしなければならないのものが出て来た。

まあ、「来週の日曜(29日)の夜8時まで」みたいな言い方をすればなんのことか、半分は言ったのも同然なのだが。

以前もこのブログで書いたことがあるが、あそこは辞めたNといい、元代表のH(宇宙人だしな)といい、こういうネットに流れるような怪しげな情報やオカルトになんでこんなに弱いのだろう。どっちみち後悔するだけなのだが。
一種の体質みたいなものか。研究の余地がありそうだ。

そうでなくても当該のそのブログ、すぐに(別の件で)謝罪と訂正が入っていましたけれどもさ。

とりあえずこれをお読みになって下さい。私のいいたいことはご理解いただけると思います。(もう一年以上も前の記事だよ)

たぶんジュセリーノの件にしても、すぐに訂正とか削除がはいると思いますよ。

私のこういう予想は結構当ります。

夢で見たわけじやなくていわゆる「予想」というやつ。

2007年7月20日金曜日

070720 韮沢コラム86に対する批判

※このページは携帯端末でご覧になっているかたにはわかりづらい構成になっています。予めご了承下さい。

これからここで自分が展開するのは「たま出版」のHPに不定期連載されている「韮沢潤一郎コラム(通称:韮沢コラム)」の07.07.12付けの「86」に対する批判になる。

前回のコラム(85)に対する批判というか突っ込みは必要最小限と思われる部分だけを引用した。それが読者へのサービスとリンク先に対するマナーの両方に対するぎりぎりのところだと思ったからだ。

しかし今回は引用そのものを控える。その理由、端的に言えば「どこがどうした」というような部分的な批判では済まされないレベルのものだからだということなのだが、だからといって全部を引用するのはいくらなんでも気がひける。

まあそれでこれを読んでいる方にはお手数をおかけすることになるのだが、下記のURLにあるコラムの文章を何度も読むとか、あるいはその部分をコピー&ペーストしてテキストに貼り付けてこの記事と並立して読めるような状態にするとかしてお読みください。リンクも張りませんですいませんが。

http://tamabook.com/SPNE/shop.cgi?iframe=./shop_html/home.html&height=700
(ここから更に進みます)


さてこの「コラム86」を読んであなたはどのような感想を持たれたであろう。

「編集って大変なんだね」とか「意外に苦労しているんだね」といった感想を持たれた方も多いであろう。きっとそうだと思う。というかこの文章はそういう感想を持ってほしいという願いを持って書かれたものだからである。それも目的があってである。

自分は、これは下手な例えになるのだが、
寿司屋で板前が客から「出すの遅いよ。しかも不味いよ」と文句を言われたときに「申し訳ない・・・そのお客さんが口にした寿司のネタ、実はあんまり良いものじゃなくて。海が大時化で新鮮ないいのが入ってないみたいで…それでいろいろと手を加えてみたんだけど…」と言い訳されたような不快感があったのである。

要するに、私が受けた第一印象は「自分が手がけた商品の成立の内幕をバラしておいて、原因は自分のところにあるのではなくて他のところにあるのですよという言い訳」だった。それをお涙頂戴ばりに語っているだけでしかないよな。ということなのだが。

違うでしょそれは。問題なのは-問題にすべきなのは-自分のその加工(編集)の技術であって、決して原本に責任があるのではないということだ。

殆ど自家出版の日記のような構成」だとか「そのままでは国内での出版が出来る仕上がりではありません」だとかそういう侮蔑とも取れる表現はしてはならないし、だったらその本を売る前に、あるいはせめて前書きの段階で客にそのことは言っておくべきであって、今更言うことではないだろう。

(しかしこのふたつの侮蔑、なにもジュセリーノの本の原本にではなく「文芸社」の本に対していつもいわれている酷評そのものでもあるのだが。まあそれは置いておくとする。)

でなければ絶対にそんなことを口にするなよなという怒りもあった。
それがその本を買った客に対する「礼儀」というものなのではないだろうかと思うのである自分は。

もっと賢明な方法、それはそんな(苦労と手間のかかる)本の翻訳本などは出版しないでおく、ということなのでもあるが。

あるいはせめてはもっとプロフェッショナルな仕事の出来る編集者を連れてくることなのだが。

もちろん繰り返すけれども自分はこの「たまの本」は買っていない。客ではないということだ。だからこのような文句を言うことは本筋からすれば「お門違い」と逆に文句を言われてしまうのかもしれない。

それでも、自分ここの商品(本)については昔何冊も読んでいるという実績がある。それだからこそ「事前予言」ではないが本が出る前から同じこと(まあ買わないのが賢明だというようなこと)を言いつづけているのである。

そして実際にこの本を買ったという人からその内容を伝え聞いたり、見出しになったもの、図にしたものなどを見せられて「酷い内容だった」とか感想を聞かされているである。

なにが拙いのか。まず第一にだが、[監修者註]というものが沢山入り過ぎ。無駄に長くて場合によっては非常に邪魔臭く感じるということがあるようだ。

たとえば、(これはわざわざ手打ちしたものを送って来た方がいたのであるが)その本の176ページにこんな個所がある。2002年バリ島での爆弾テロやバリー・ホワイト(歌手)の死に関する予言についての記述に突然こんな監修者註が挿入されているのだ。

なぜここに歌手の病気が出てくるのだろう。おそらくバリ島のディスコで彼の曲がかかっていたのをジュセリーノが夢で見て、その歌手の身の上に飛んだのではないだろうか?

全然関係ないし、その推理はどう考えてもおかしい。どうせだったら「バリ島」と「バリー」というダジャレか?という推理のほうがまだ納得できるのではないか(そんなわけないかやっぱり)。

これでは読まされた側からするとそれこそ
「なぜここに必要もない監修者註が入ってくるのだろう」といいたくなると思うが。

なんにしてもこんな「監修者註」だったらなくてもいいし、というかないほうがマシだろう。

この本にはこのような「韮沢的推理」というものを展開したり、どう考えても無駄な[監修者註]が何箇所もあるのだという。(その人の感性の問題もあるので一概には断罪はできないが)

また、本文であげられている予言ひとつひとつに対して「~はこうだった」というような検証が入っているというのが、本文部分の流れをぶった切り、この本を読みにくいものにしているのではないかとも思う。

これがこの本の文章部分での致命的な構造的な欠陥と言い切れるのではないか。(VANさん)

もっと良い方法はいくらでもある。
たとえば、ページを上下分割の二段組構成にして、そういう[監修者註]であるとか、あるいは予言の検証部分をわけるという方法がある。

そうすれば、この本(原本)の文章の本来の姿を損ねることなく、なおかつそれをレフェリング(=論文の審査という意味)するという日本の読者ならではの特権を得ることもできたはずなのである。つまり、ジュセリーノの予言を信じないというような人たち(自分は除く)にもっと売れた可能性もあったはずなのである。

あるいは、後からジュセリーノから送られてきたという原本未収録の新しい予言というものがあるのであれば、それは巻末にまとめて別章にして「日本語版特別編集付録」とでもしておけばよかったのである。そしてそこで思いっきり自分の推理であるとかを好きなだけ載せるという方法もあるのである。

そしてそのほうが編集も随分とスムースに出来たはずだ。しかしこの本はそれをあえてしなかったのではないかと思う。

これが罠なのではないか。

そんなことをすれば(すっきりとした体裁にしてしまうと)この原本が出版された時点での2006年の残りの月予言というものに触れなければならなくなり、それがほとんど大外れしているという事実についても触れなくてはいけないこととなるからだ。

つまり「的中率90%」というのが大嘘だということがわかってしまうということになるので出来なかったのだなという推理も単なる邪推ではない(VANさんからの指摘)ということになってしまう。

だからこのコラムの前半部分はその事実から目を反らすために書かれた「言い訳」だなと自分も強く感じるのである。

さらに後半部分になると、自分はこのコラムが掲載されたその本当の理由について、そのあくどい(したたかと褒めることもできるのかもしれないが)やり口というものに気がついて本気になって腹を立ててしまっていた。

以前、「このコラム(をコピーしたものを)を読んでいて途中で気分が悪くなった」と書いたのはそういうことだ。

ところが何か勘違いしたのか「たとえ悪くなる未来だとしてもそれからは目を逸らさずにしっかりと受け止めることが重要です」と励ましのお言葉をメールで送って来ていただいた方がいた。ありがとうございます…としか言えないけど。

さて話を戻す。このコラムが掲載されたのが「7月13日、日本で大きな地震がある。多くの死者が出る」というジュセリーノの予言のその前日の12日であるということだ。

はやい話、これは「外れてもそれはあくまでもジュセリーノの予言のシステムに原因があってそれを言いつづけていた自分の責任ではない」という逃げ口上だからだ。

つまりジュセリーノの予言のシステムに対して「外れてもしかたがないのだ」とする彼なりの新しい解釈を追加してみせているのである。

関係ないだろう。この場に及んで。ジュセリーノ自身は「夢で見た光景と届く声」をもとに予言している、といっているのだから。当ろうが外れようがそのままそれはジュセリーノの責任である。今までそのやりかたで的中率90%とか言っていたのはどこの誰なんだ。

そんな一方では当ってももう一方で外れる可能性のある予言のシステムではどう頑張っても「的中率90%」にはならない。

つまりもっと露骨に言うと、彼は「的中率90%」というジュセリーノの商品価値と彼自身の保身を天秤にかけて後者をとったのである。


さらに自分としては「なんだそりゃあ?」といいたくなるような個所があったのでそれについても書く。

この9月にジュセリーノを扱うテレビ番組が放送されることが決った(この決ったということに関しては別の情報が自分のところに来ている)けれども、『風評被害』の怖れがあるので予言については放送はされないかもしれないと言っている個所である。

とてもではないが、すでに昨年末のテレビ番組で多くの人の心に不安の影を落とすような大きな嘘をついている人間の言葉とは思えないんだが。

いやそれよりもだ。突っ込みどころというか「オイ、ちょっと待て」といいたくなったのは「ジュセリーノの予言からそういう『風評被害を及ぼす怖れのある個所』を除いたら一体何が残るのだ?そんなもので数字が取れるのか?」という素朴な疑問である。

ひょっとしてそれってそのテレビ番組には「ジュセリーノの予言のコーナー」はなくて、自分がテレビに出るだけということなのか?という疑問なのだが。
実際どうなるのであろう。

こんなことを楽しみにするわけにはいかないが、これで目が離せなくなったなというのは確かである。


以上である。これでも自分が本当に言いたいことの0.5%も書いていないのだ。あれどこかで聞いたようなフレーズだけど。

そういう私なりの「解釈」を頭に入れてから、もういちどこの「韮沢コラム86」というものを頭からお読みいただきたい。

2007年7月19日木曜日

070719 FOREPLAY/LONGTIME

ボストンか。

(地震のあった)16日以降にどっと増えてきたのが「私はたまBBSを利用しているものですが…」という断り書きをしているメールやコメントである。

本当に鮮やかなくらいに16日を過ぎてから一気にどどっとくるようになった。

内容は千差万別である、といいたいのだがやはり大きくふたつに分かれる。

ひとつは「ジュセリーノの予言は当ったのだからもうこのブログは辞めろ」というもの、もうひとつは「まずなんにしてもジュセリーノの本(たま出版から出ている本のことである)を読んでからにしなさい」というもの。

どちらにしても、やはり「誤解をしている」というか、「わざとその部分については目を塞いだまま書いて寄越しているな」というものばかりなのであるが。

「当ったのだから辞めろ」という言い草は二重・三重の意味で大きな誤謬を犯している。

もちろん「当ってもいないし」それに「当った」からといってそれがこのブログを辞める理由にはならない。

さらに「当ったと思っているのはひょっとして16日の地震だけのことを指してはいないか?だとすればそれ以前の、見た目にも大外れの数々の予言については無視していいのか?」という新たな疑問を産むだけだということに気がついていない(振りをしているだけだ)からである。

次、その「まずなにはともあれジュセリーノの本を読んでから批判するなりなんなりしなさい」という意見であるが、それについてはずっと前からその「自分がたまの本など読む必要はない」理由については書いて来たつもりだ。

まず第一になによりも「たま出版」から出たその本がマリオ・エンジオの「O Homem Frente das Profecias」に追従した完全訳本であるのらばともかくもまったくもってそうではないという事実である。

もちろん翻訳物であるので多少のブレのようなものならばそれは容認する。しかし「たまの本」は完全にそういうルールすら無視しているのだ。

自分は「たま出版」から本が出る以前からそうなる可能性が高いと書いて来た。なぜならば過去「たま出版」から出された「韮沢潤一郎監修」とついた(原著のある)訳本はそういう改竄をされたものばかりだったからである。

ここにいる若い層のひとたちには通じないのかもしれないが「MJ-12」であるとか「ハチスン効果」であるとか「ノストラダムス」であるとかそういうオカルト本において今までどれだけの「嘘情報」を流しつづけてきたのかを知っていれば決して根拠のないことではないのである。

そして現実にたま出版から出た「来来からの警告」という本においてはそういう部分が数多く指摘されている。自分もそのことについては何度となくここで書いたつもりだ。

まずなんにしてもだ、そういう原著との違いというものがあるのであれば、そのことを第一に前書きかなんかでその理由であるとかの断り書きを入れるのが最低限のマナーというものであろう。たまの本はそれすら怠ってしまっているようなのである。(VANさんからのご指摘)

これでは「純粋にジュセリーノの本を読みたいと思っている人に対する裏切り行為」になるのではないのか。

以前、マイアミヘラルド国際版編集部から届いたという手紙に対する疑惑について書いたところ、たまから出た本の(原著と較べたときの)省略部分についての詳しい検証をしたものを送っていただいた。

それについては今までは確証がなかったのでここでは取り上げなかったのだが、要するに2006年の予言とブラジル国内で起きた事件に関する記述で、事実とまったく異なる個所、そして外れてしまった予言についてすっぱりと落としたということだ。

そういうことをしてある本なのである。

自分がやらなければならないと思っているのは、まずはなによりも「ジュセリーノの予言」に対する批判である。「ジュセリーノの予言」=「たまの本に書かれているジュセリーノの予言」ではないのである。それで

今自分にとって必要な本があるとすればそれはまず原書の「O Homem Frente das Profecias 」の方だ。自分がやっているのは、目的としているのはまず「ジュセリーノの予言の批判」である。いくら「たまの本」に書かれていることを批判してみてもそれはつまるところたま出版に対する批判であったり、あるいは韮沢潤一郎に対する批判でしかないことになりかねない。

その可能性はものすごく高いということも書いて来た。であるからして、自分は原書を入手したあとでその不完全な訳本としてそのたまの本を買うなりなんなりして手に入れようと思っている。地道だがそのためにちょっと入手に苦労はしたが葡日・日葡辞典であるとかポルトガル語の参考書は手許に置いている。(0427 その4 FAQ)より


と書いたのである。その基本的姿勢は今でも変わっていない。

また、それだからこそ、そののちに「早くたまの本を読んでどんどん批判してください」みたいなメールに対しては、それはジュセリーノ批判とは別のことなるという前置きをして

「自分が「たまの本」を買うというその目的はジュセリーノに対する批判としてではなく、たま出版に対する批判のために読んだり(そのために買ったり)する」とか「いずれは読むことにはなるのだろうけれどそれは先のことになる」と書いているのである。

そうしたところ自分が「2冊買うとなると」書いた部分に対して

>2冊も買ってどうするんですか?保存用?プレゼント用?


というつっこみをしてきた人がいた。

なわけがない。だいたい贈ってどうする。そんなもの喜ばれるわけがないじゃないか(笑)。「2冊」というのはたまからでた本の批判のためには初版、二版と両方入手してその違い、つまり読者に気付かれずにこっそりと行なった改竄部分がないかどうかを調べようと思っているからである。

で、実はもうすでにそのたまから出た本に関しては手配は終了している。金も払っている(2冊で1500円)。あとは送ってもらうなり自分が東京に行ったときに取りに行くだけになっている。

しかし間違えていけないのは、これは「ジュセリーノ予言」に対する批判とはわけなければならないということだ。

で、なんのためにそんなことをするのかといえば、それはもちろん2004年にこのブログを本体のHPから独立させたときの目的である「反カルト・非オカルト」に適ったことだからである。

だから、その「ジュセリーノ」と「たま出版=韮沢潤一郎」が重なった部分における批判というものについては充分すぎるくらい表現・記述については気をつけて明確にしているつもりなのであるが。

また、だからこそこのブログを読んでいる方々にもご注意を申し上げるのであるが

絶対に「ジュセリーノの予言=韮沢発言」ではない。韮沢氏の発言をそのまま鵜呑みにしていると、それはいつのまにか「ジュセリーノの発言ではないもの」を信じ込まされてしまうという危険があるのである。

そして、そういう前置きで自分はこれから「韮沢コラム」というものを批判する。そう、実はこの記事全てが前書きなのである。長いけど。

2007年7月18日水曜日

070718 新潟からもメールが来ています 

たくさんのメールが来ている。そのひとつひとつに個別にメールで返事をしているといくら時間があっても足りなくなるだろう。返事を待っているという方も多いとは思うのだが今回に限り全てのメールへの返事は出来ないかもしれない。ご容赦頂きたい。お願い致します。

新潟の方からのメールも来ている。7・8通か。(17日21時の段階)

「このブログを読んでいると勇気が出る」と書かれているかたもいる。逆に励まさたりもしている。「掲示板の悪口なんかにめげないで頑張って下さい」と。

また、是非このブログに自分の書いたものを掲載してほしいという方もいた。いろいろ考えたのだが今回は諸事情から見合わさせていただくことにした。

それでもというのであれば、書き直したものが再び自分に届くはずである。そのときに改めてご紹介したいと思う。

また、「この隙に乗じて」という感じの、よくないことを平気で書いてきたりする悪質なコメントもあった。残念なことであるが。

どういうことかというと、これは今朝知ったことなのだが、たまのBBSに「ニラサワ(=韮沢潤一郎)」の記名で来年夏関東地方に地震が起きるという予言がある、という書き込みがされているというのだが、それに類するような流言蜚語のたぐいである。

果してその予言は「ジュセリーノ本人によるもの」なのであろうかという疑問もあるが、それよりもなによりも「何もこの時期に」という怒りの方が先であった。

同じく、新潟出身の「オオモモ」さんという方がこのことに関して書いて来てくださったのだが

そんな予言をジュセリーノから受け取っていたのなら
もっと早く出しておくべきでしょう。違います?この
時期に発表したというのはタイミングを待っていて温
存していたとしか思えないんですね。そのタイミング
っていうのは何かジュセリーノが予言したことが当っ
て世間の注目が集まりそうなときに、本が売れる為に
インパクト大のものを出して来たのと違いますか?な
んていうのか、やることがミエミエっていうかでこう
いうところが自分にはすぐにピンと来てしまうのが悲
しいところです。新潟県人の性なのかしら。(苦笑)



ありうる話だと思う。新潟県人の気質のことではない。この「オオモモ」さんが書いている以外に韮沢氏がこの時期にあえて自社のBBSを使って書き込む理由は見当たらないということのほうだ。

出すのであれば、なにもこの時期でなくても全然構わなかったはずだし、それがジュセリーノ本人によるものだというのであればちゃんとした公証所に届けを出したという書面と一緒に紹介すべきなのではないか。

来年夏の予言についてあえてこの時期に出してくるというその正当な理由、もしそういうものがあるというのであれば、お願いである 教えて頂きたい。

2007年7月17日火曜日

070717 α(アルファ)

実際に犠牲者が出ているというのに、この時期「ジュセリーノの予言が…」みたいなことを書くこと自体が不謹慎なことなのであるが。


昨日の地震についてはもう何度も説明をしたので、今ここで書くことはそれらを簡潔にまとめたものになる。

A「3月、日本の東京で大きな地震が起きる(そしてパニックになる)」

B「3月25日、能登半島を中心とした大きな地震が起きる」

このAとBは違う物である。

A=Bとするためには、AあるいはBに何かを加えたりあるいは掛けたりしなければならない。それをα(アルファ)と呼ぶことにする。

また、

C「2007年(2008年)7月13日 日本で大きな地震(と津浪)が起きて多数の死傷者が出る」

D「2007年7月16日 新潟県を中心とする大きな地震(と津波)が起き死傷者が出る」

というのも較べてみればやはり別のものであり、このCとDを同じものとするためには、やはりそのαというものを足したり掛けたりしなければならない。

そして上にあるAとBを等しくするαとCとDを等しくするαはまったく同じものなのである。

それは何か、というようなことを昨日の16日、何人もの人に口頭で直接あるいは直電話で説明しなければならなかったのである。その中には7年ぶりに電話を掛けて来た元同僚がいた。

しかしこのブログを読んでいたのならそれくらいはもっと前に言っててくれてもよかろうに。まあいい。そのことは置いておく。

というように、自分はこのブログで書いていることはそのまま自分の周囲にいる人たちにはほとんどそのまま喋っていたし、だからこそ、こういうときにこのような内容の電話が殺到するのだろうし。

まあこれからもそうするということだ。

で、今いろいろな人からメールとかコメントとかがあって、あるいは他のブログやHPなども巡回してみたところである。

自分に対する悪口(?)みたいなものが延々と書き連ねてある掲示板などもあった。それについていちいち反論はしない。

しかし、ひとつ問い掛けたいことがあるのである。ブログなどで「ジュセリーノの予言は成就したのだ」とか書いていたりする人は同じことを自分の周囲の人たちに対しても同じ文脈で「ジュセリーノの予言は成就した」とか「当った」とか言うものなのだろうか?

ひょっとしてまだそういうことを一度もしたことがないという人でジュセリーノは本物の予言者だと固く信じているという人は是非とも実践してみればいい。それで得られるものがその人の本質であると言えるのではないか。

でなければ、それが出来ないというのであれば、やはりいくらネットでジュセリーノの予言について肯定的に語ろうが、否定している人間のことをボロクソに叩いてみたとしてもやはりそれは単なる「バーチャルな世界でのお遊び」でしかないのではないか。

現実世界の洗礼というものは頭で思いつくような簡単でもないし生易しいものではない。

自分がここで書いて来ているようなことはネットだけではなく実際の討論というものの中で得てきたものが殆どになる。

自分がほぼ実名でこのブログをやっていて、こうやって普段言っていることと同じようなことを書くことが出来ているのもそういう裏付けがあるからなのであるが。

まあそれでこれは古い話になるのだが、3月のある日電車の中で女子高生の一団が携帯のウェヴで見ているのがこの自分のブログであることを偶然に知ったときのことを思い出した。

まさか彼女たちは自分の目の前に座っている地味なおっさんが自分が今見ているブログを書いている人間なのだとは夢にも思わなかっただろう。

自分も、自分のこのブログを読んでいる人がいるということは頭では理解していたものの実際に目の当たりにすると不思議な感じがしたものだった。

現実世界というものは、今自分が向かっているその画面のその奥、その先で繋がっているものでなくて、それ以外の周囲にあるのだということを改めて思い知った瞬間でもあったのである。

まあそれでそのα(アルファ)の正体なのであるが

それは「オカルティズム」と呼ばれているものである

2007年7月15日日曜日

070715 台風

13日の夜、このブログでよく登場する「みち☆まり」さんに出したメールの中で、

「ジュセリーノの地震(と津波)の予言とは実は現在接近中のこの台風のことだったと言い出す奴とか出てくるでしょうね」と書いたところその「みち☆まり」さんから

「やはり結構いました。( ^▽^)   

というような返信が届いた。

14日夜の段階でもいつも巡回しているブログの中にそのようなことを書いているものがあったというのである。

いわゆるこれが本当の想定内というやつだ。まあそれでそのブログをいくつか見て回ったところである。

そういうことを書いている当人はなにか新しい画期的なコンセプトでも見つけたかのようにはしゃいじゃっているのが痛々しく感じる。

まあ何を書こうとも当人の自由ではあるのだが。

しかしだ、こういうことを言い出す人間は大切なものをどこかに置き忘れていることが多い。

まず、ジュセリーノは「地震の予言」については残したけれども「津浪」に関してはすでに撤回している。(たま出版はそうしている、ということだ)

地震の予言が台風という形で実現したのだから大当たりとはいえなくとも惜しい当りである、とか書いている連中はかつてたま出版の韮沢氏が書いた
「ジュセリーノの予言にはあいまいなものがない」という言葉を思い出せといっておく。

そのような従来の予言のようなものがないからジュセリーノは(他の予言者とは一線を画していて)すごいのだと豪語していたのである。

また、地震ではなくて台風の予言のことだったというのであれば、それはジュセリーノは予言者としての能力はともかくも「普通の人間としての能力は著しく欠けている」と言っているのと同じだということになるのだがそれでいいのか?と疑問を呈する。

地震と台風の区別がつかないというのは、それはジュセリーノのことをバカにしているのと同じことになる、ということだ。

また、ジュセリーノは台風やハリケーンに関する予言もしている。ではそれらの予言ももしかしたら地震の予言のことだったかもしれないねという新たな疑問すら生じてしまうことなのだ。

やっぱりというか、案の定なにがなんでも予言というものが当ったことにしたいという人間は多いみたいだが、そういうことを書いたりしていると今度は書いている人間がバカにしか見えなくなるということだけは忠告だけはしておく。

地震は地震だし台風は台風なのである。

このふたつを明確に区別できない人間が予言なんかしちゃいけねえよなぁ。

2007年7月14日土曜日

110714 地震の予言が外れたからといって

13日の地震の予言がハズれたからといって特にこれといって感想はない。
それは今までここで書いて来た通りである。

またひとつ外れた予言が増えた、というだけの話でしかない。

ただ、必ずや「来年の予言であるから外れたことにはならない」とか言い出す人間は出てくるのであろうが。

しかし、たとえ来年の7月の13日、日本に地震が起きたとしてもジュセリーノの予言は当ったことにはならない。

何故か、それはジュセリーノの過去にして来た予言というものをもう一度読めばよくわかる。

このような予言をした例があったのかどうかだ。

それと、必ずや「霊的には」とか話を別の方向にもって行ってこの「予言」を当ったことにしたがる人間も出てくるであろう。

そんなもんなんです。予言が外れたときの「言い訳」なんて。

それと、韮沢コラムの感想を求められるのであるが、今は何も言いたくはないというのが本音のところであります。

というか、わざわざコピペしてメールで送って来て下さった方がいて、まともに読もうとしたのだが、途中で止めた。

ただ、これははっきり言っておくけれども、非常に気分が悪い。なにかひとつくらいは書いておこうとも思ったのだが止めておく。今それについて書くと罵詈雑言になるだけだと思う。もう少し冷静になってからにします。しばらくお待ちを。いつものように揶揄する気分でもないのです。

申し訳ない。

そんなところです。

筑紫哲也か。

2007年7月11日水曜日

070711 千の風になって

自分はこのブログでは自分のプライバシーに関することは一切書かないようにしている。
内容がそれとは関わりのないことであるし、下手にそれについて触れると読み手をミスリードさせてしまう危険もあるからだ。(っていうかそういうことがあったようである)

時折、この自分の宗教観のようなものについて尋ねるようなメールが来るがそれについてはちゃんと答えている。隠したりするようなものでもなんでもない。

これをここで書くと意外に思われるかもしれないが、あえて書くのだが、墓参りというものはかなり頻繁に行っているほうだろう。

そしてこれは(だからといって人に勧めるのはできないものの)精神的な自衛としてはものすごく役に立つのである。

墓石を手で洗っていると心が落ち着くというところもある。
ふしぎだが。単純にそれが好きなだけかもしれないが。

墓石の表面についたぬるぬるやコケやら鳥のフンなどは手で撫でるようにして洗い落としている。決してタワシなどでゴシゴシ擦ってはいけない。傷になるからである。

話は変わる。

秋川雅史の「千の風になって」という曲が静かなヒットになっている。

この歌で有名になった秋川雅史といえばどうしても思い出すのはアイルトン・セナのことである。秋川がセナの大ファンだというのはかなり知られた話らしい。94年当時、秋川はイタリアのミラノ留学中であり、5月1日はイモラサーキットに行きF1サンマリノGPを現地で見ていたそうである。

自分もこの秋川の歌声でまっさきに連想したのはアイルトン・セナのことであった。

きけば秋川自身もこの歌を歌うときにはサンパウロ郊外にあるセナの墓のことが思い浮かぶのだそうだ。


もっとも自分はこの歌のことをあまり好きではない。もっと具体的にいうと、この曲そのものは決して嫌いではないのだが「日本語の歌詞の出だし」が嫌いなのである。

なんていうのか、日本語の訳はどこかきもちが悪い。

その日本語詩の元となったといわれているバージョンの原詩である。

Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am in a thousand winds that blow,
I am the softly falling snow.
I am the gentle showers of rain,
I am the fields of ripening grain.
I am in the morning hush,
I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight,
I am the starshine of the night.
I am in the flowers that bloom,
I am in a quiet room.
I am in the birds that sing,
I am in each lovely thing.
Do not stand at my grave and cry,
I am not there. I do not die.


やたらと「I am」が繰り返されている。

意訳してゆくと、「自分の墓の前に立って泣くな。自分は墓の中にいるのではない。眠っていない。自分は千の風の中にいる。その風は吹いている」となる。

決して「風になった」というニュアンスではないからである。ここが重要。
でどうしても自分がこの歌を(新井満の訳詞で)歌おうとすると「千の風にのって」と口ずさんでしまうのである。何回注意されても直らない。

というか、(~千の風にのって~と歌ってしまう)自分の方がこの歌の詩の部分に関してならば正しい認識をしているという変な自負もあるのだ。おっさんのたわごとと言われるかもしれないが。

「千の風」というのは決して強い風のことを指すのではない。「たくさんの」という意味もあるかもしれないがやはり「沢山のものに分散して」という意味のほうが強いのではないか。というか原詩のほうはそうだ。だから「自分は風によって拡散した存在である」といっているのであって、でなければこれ以降の重ねてゆくような描写が意味をもたないというか続かなくなる。

そのあとに続く描写でもって、その現在の自分の姿について語っている個所はわかりやすい。雪でもあり雨でもあり鳥の声でもあると言っている。この世の全て(の美しいもの)になると言って聞かせているのである。風になったのではない。風にのって拡散した存在だからである。

ピート・シンフィールドに「Still・・・」という曲があるが、その詩の世界とも非常に近いものがあるのではないか。

まあだからこの詩のオリジンは、(親しい人の)墓の前で(その死を)悲しんで下を向くことが供養なのではない。上を見上げろ。周囲にあるものを見つめなおせ。笑うことが大切なのだということだと自分は受け取っているが。

そして、この「詩」は輪廻転生というものをやんわりと否定しているということでもある。

ヒトの魂がそのままの形を保ったまま存在するということはありえないんだよ、ということを言っているからである。

そう、死後も魂というものがあって、それがそのままの形で存在し続けるなんてことはなによりも傲慢な考え方・発想であることを戒めてもいるからだ。

それにしても不思議なのは、死後の世界であるとかスピリチュアルなものを信じているという人でもこの歌を良い歌だといっている人が多いことである。なんかおかしくはないか。

死後の世界であるとか霊魂とかのことを、もし本気で信じているのであれば、この歌の歌詞について深く考えてみればわかりそうなものなのだが。ジレンマには陥らないのか。
大きなお世話だが。

そこまで深く考えている人間なんてそんなにもいないのかもしれないけれど。


このあいだちょっとした訳(わけ)があって、ふたりで雨の中を墓参りをしてきた。傘を片手にして墓石を手でこすって汚れを落としていると、ふと「千の風になって」の出だしの部分がよみがえって口をついて出てきた。同行した知人がそれを聞いて笑った。

たわしでお墓の石を拭かないでください。
細かなキズがつきます。
手でそっとふいてください

2007年7月10日火曜日

070710 江原啓之・テレビ朝日に対する批判とLD批判

まずこの記事をご覧いただきたい。

過熱する『オーラの泉』批判、ゴールデン進出は失敗!?
「宗教の価値が曖昧な日本では、『自分さえよければ』というような考え方が横行しがちですが、守護霊の存在を知ると、利己的な考え方がなくなります。私は前世を知ることで、自分の苦手なものに対する原因がわかり、前向きに生きられるようになったんです」と話すのは、人気バラエティ番組『国分太一・美輪明宏・江原啓之のオーラの泉』(テレ朝)を支持する、江原信奉者、“エハラー”の女性だ。
 自称スピリチュアル・カウンセラー江原と美輪明宏がゲストを霊視し、前世や未来をズバリ言い当てる同番組は、今年4月にゴールデンタイムに進出した。だが5月下旬時点で、バラエティ番組部門の週間視聴率ベスト10に食い込んだのは4月21日放送のSP版のみ(ビデオリサーチ調べ)で、決して好調とは言い切れない模様。そんな中、江原が牽引してきたスピリチュアルブームに対し、「Newsweek日本版」(5月16日号)が批判の声を取り上げたり、精神科医の香山リカ氏ら著名人や、宗教関係の学会、科学者からも問題視する声が上がるなど、どうやらブームに陰りが見え始めているようなのだ。
 このムードを後押ししている背景に、今年2月、全国霊感商法対策弁護士連絡会(以下、全国弁連)が、昨今の行き過ぎた霊感番組に対し、その是正を求める要望書を、民放連や日本放送協会、BPO(放送倫理・番組向上機構)、NHK、各民放キー局に提出したことがある。これは『オーラの泉』『天国からの手紙』(フジ/不定期放送の特番)のような霊感番組が、各局が準ずる、民放連の定める放送基準──具体的には、放送基準の第7章の「宗教を取り上げる際は、客観的事実を無視したり、科学を否定する内容にならないよう留意する」、第8章の「占い・運勢判断およびこれに類するものは、断定したり、無理に信じさせたりするような取り扱いはしない」など──に明らかに反するとして、番組の是正を要請したもの。全国弁連の紀藤正樹弁護士は、次のように語る。
「テレ朝の言い分は、『江原がやっていることは、宗教でも占いでもない』なのですが、これはまったくの詭弁ですよ。我々の申し入れを受けて、4月21日放送分より、『「前世」、「守護霊」は現在の科学で証明されたものではありません。人生をよりよく生きる、ひとつのヒントです』というテロップが番組の最後に表示されるようになりましたが、是正措置はこれのみです」
 テレビ局にとってご都合主義ともいえる、こうした言い分がまかり通っているのも、民放連がその機能をほとんど果たしておらず、事実上、番組作りが各局の自主的な判断に任せられているからだと、紀藤弁護士は言う。
「本来、テレビ局は『報道機関』であり、たとえバラエティ番組でも、取材に基づかない内容は放送してはいけないはず。視聴率が取れるからといって『あなたの前世はヨーロッパの騎士』だの、検証不可能かつ有意性のないことを断定的に報じるべきではありません。今のテレビ局は、“報道機関の仮面をかぶった、バラエティ集団”ですよ。報道機関のふりをして、視聴者を信用させすぎる。現にその悪影響は出ており、霊感番組の世界観を利用した、悪徳な霊感商法の被害が増加しています。統一教会に至っては、勧誘の際、教団の名を隠して各地のビデオセンターに誘いだし、ゲストを教化するために『天国からの手紙』などの録画を使用しているんです」(同)そこで、当の江原氏に、番組が霊感商法の呼び水になりつつある現実を、どう受け止めているのか伺うべくオファーしたところ、取材拒否。江原氏に代わり、前出のエハラーの女性が、こう反論する。
「騙されるのは本人次第なので、江原氏のせいにするのは違うと思います。『AVビデオを観ると性犯罪が起こるから、AVビデオの生産を廃止しろ』と言っているようなものですよ」
 確かに、先般の「あるある捏造」問題しかり、テレビの情報を鵜呑みにする視聴者の姿勢にも問題はあるだろう。しかし、視聴者に情報をフィクションとして受け止める余地を与えるためにも、今回なされた『オーラの泉』のテロップ処置は、あまりにお粗末ではなかろうか。ゴールデン進出によって、これまで見過ごされてきたブームの闇が明るみになってきたとは、皮肉な話である。
    

記事で書いてあることはおしなべて正論といえる。ただ、江原啓之や細木数子のような霊感師や占い師がメーンになる番組の問題は視聴率がいいだとから悪いだとか、深夜番組だから許されるとかゴールデンでは許されないという基準で判断されるものではないだろうという気がする。

この手の番組に出ていたり作っている当人たちがどこまで実体(赤い部分)というものを理解してやっているのかは知らないが(当事者の発言を信用するしかないということだが)やはりオカルトをテレビで扱うということはものすごくリスキーなことであるし、なにかしら事件があったときには絶対に自分には責任はないなどと申し開きはしてはいけないものだと思っている。

そこまでまっとうできないというのであれば最初から扱わないことだ。

ジュセリーノの予言なんていうのも当然ここにはいって来る「オカルト」である。そういうものをなんの断わり書きもなくまるで本当のことのように、事実であるかのようにしてテレビで流していいわけがない。「バラエティだから」なんて言い訳は通用しないし通用させてはいけないのである。本当ならば。

特に最近では局の使う「製作会社が…」という言い訳がこの事態を複雑化させているように見える。

実際に作るのはたしかに下請けの製作会社かもしれないが彼らだって一種の受注産業である。発注主が望まないものをつくったりするはずがないのである。

じゃぁその受注主がやはり勝手にそういうものを受注しているかというと決してそうではなくて、末端のユーザーである視聴者にそれを望んでいる人たちというものがいて実際に視聴率が良かったりするという実績があるからなのであるが。本質の問題はそこなのだが。

しかし世の中にはこのような流れがあって、一方それに対しては頑としてそれを認めてはいけないという頭の固い連中もいる。まあ自分もそうだけど。

それでも「たま出版」のようなところは一生懸命になってその自分のところの商品である「超能力」であるとか「予言」であるとか「UFO・地球外生命体」の本であるとかを売るためにとテレビを利用しようして躍起になっているが、彼らはやはり同じようにして自分等の商品を売るためのツールとして重要視しているのはブログでありネットという媒体なのである。

さて、自分がこの記事のソースをライブドアに選んだのはこのブログの大家だからという理由ではない。このライブドアのポータルを批判するためである。

この記事の下の部分をもう一度見ていただきたいのである。

スポンサーへのリンクを。

なんだねこの「占い」へのリンクは。ギャグのつもりなのか。というかこのブログの記事を携帯でご覧になっているというかたはすでにお気づきであろうがこのブログにも占いへのリンクが張られていることがあるのである。まあここからそういう占いの宣伝サイトへ飛ぼうという勇者がいるとは思えないが。

というかこれがいわゆるネットビジネスというかITビジネスの欠点というか未だにどうしようもない弱点のひとつだ。

こうなってしまうことを誰にも止められないのである。

そしてこういう部分が自分達の首を締めることに繋がっているという危機感をもって携わっている人間なんておそらくはいないであろう。いたら即刻クビにされるのかもしれない。

テレビという既存のメディアを批判していい気になっていると次にそのお鉢が回ってくるのは火を見るよりも明らかなことなのだが。

070710 「ハチソン効果」のときと同じなのか?

すでに気がついたという方やご存知の方もおいでのようだが今このブログはちょっとばかし大変なことになっている。
その対策に時間と手間を取られているので正直ジュセリーノの予言どころではなくなっている。本末転倒にもほどがあるというやつだが。

さて、3月にも同じようなメールが来ていて、最近またもや似たようなメールが来るようになった。同じ人間なのかどうなのかは判断がつかない。

曰く「もし7月13日に本当に地震(と津波)が来たならどう責任をとるのだ?」というようなメールである。「オマエの言うことを信じたために助かるはずの命も助からなかったとしたらどうする。ごめんなさいと頭を下げるとかだけでは済まないことになるのだぞ」とまで書いていたりするのだな。無茶苦茶な論理である。脅しにもなっていない。

まあこういうことが言える神経をしている人間なのだからこそ人に向かって「予言は当る」とかも語れるのだろうけれども。

どうもこうもない。どんな事態になっても自分はジュセリーノの予言なんてニセモノであると言い続けるだけである。

たとえ(不謹慎な事は重々承知の上で書くのだが)7月13日に日本に大地震が起きて犠牲者が出たとしてもそれは単なる偶然でしかないし、確率上極めてゼロに近いことだけれどもそれがたまたまその日に起きてしまっただけのはなしでしかない。

それにその質問はまず第一に「7月13日に日本で大地震が起きるという予言がある」などと言っている人間に向けてすべきものであろう。

それこそ「来なかったんだからいいじゃないか」で済むような話ではないのだ。
自分が「危険である」と前からずっと言っていて、このブログでも書いているのはこのような日付を区切った「予言」についてである。

日本という国で暮らしていたのなら長く生きていれば一度や二度は大地震に遭遇するのはある意味必然でもある。

かくいう自分も震度6レベルの大地震には過去一度遭遇している。大きな地震の恐怖ならば誰に言われることもなく知っているつもりだ。

だから自分がしつこく食い下がるのは「その大地震が何故7月13日に起きる」と言い切れるのか。その根拠はなんなんだということだ。

でそれがブラジル人の男が夢で見たという根拠だとしたらそんなものは犬のクソ以下である。

しかもその「予言」では、この日本のどこに地震が起きるのか、それすらも明確でない。

そのような言葉を信じろという方がアタマがおかしいのである。

いやアタマがいかれているというだけならばまだいいのかもしれない。

もっと問題にしなければならないのは、そういう根拠のない「予言」が不安ビジネスを横行させている原因になっているということである。

だから「もしその予言が外れたらどう責任を取るつもりなのだ?ごめんなさいとアタマを下げて済む話ではないぞ」と、そのニセ予言を言い広めている人間に向かって言いたいのはむしろこちらサイド側なのである。

反射的に自分は「ハチソン効果」を巡る騒ぎのことを思い出した。

かつて「ハチソン効果」なるものが話題になったことがあった。その「ハチソン効果」を巡っての詐欺事件がこの日本(日本人の身の上)でも起きている。

その「ハチソン効果」について肯定的に、「実在する可能性は高い」とテレビに出演して語っていた人物がいる。

同じ人間がいまでもテレビに出て同じ種類のウソを吐きまくっている。果してこれは許されることなのか。社会的・道義的に。

2007年7月9日月曜日

070709 来ない

どちらから先に書けばいいのであろうか。

まず、内定していたというジュセリーノの来日が「延期」になったそうである。彼の来日を待っていたという人には気の毒な話であるが、まあたぶんこのまま無期延期で結局は来ないことになるのではないかと思う。
それでも秋にはまた懲りもせずにテレビの特番がありジュセリーノ予言について取り上げることになるのだというが。

というか今度は日テレだそうである。その話を聞いたとき、自分ははっきりいうが「バカじゃねぇの」と呟いた。

自分もいろいろと伝え聞いてはいるが、この韮沢氏の営業の努力というものは評価せねばならないのだろう。でも喰い付かれた日テレにはお気の毒としか言いようがないなぁ。

まあ昨年末のテレ朝の番組のような恐怖を煽ったりする内容にはならないことだけはまず良いことなのではないかと評価はするのだけれども。

でもこれは老婆心ながらの忠告なのであるが、あんなもの扱わないで済むのならばそれに越したことはない。

で、次にそれに関することになるのだが、0705の記事の中で自分が「来るのならば来ればいい」とか「テレビがあるのならば自分は見ることになるであろう」と書いたところ結構な反響があった。

「そういう投槍な態度でいいのか?」とか「今まで書いて来たことと矛盾してはいないか?」みたいな論旨のものもあった。

あ、そう読むのか、あの部分を。

自分としてはなんの矛盾も姿勢の変更というものもなく素直に書いたつもりであるが。

だって日本に来たいという外国人の入国を阻止するような権限は自分にはないということですよ。

そういう権限があるのは税関であるとか大臣である。ジュセリーノが従来的な意味での犯罪者とでもいうんでもなければ阻止は出来ないだろう。そういうことだ。

それにジュセリーノ本人の来日とテレビ番組の出演とそしてテレビ番組の製作・放送は別のものだ。

もしテレビ局がその気になれば別にジュセリーノが日本に来ようが来まいがテレビ番組は作られてオンエアされるであろう。実際に昨年末に放送された番組がそうだったわけだし。

そして一番重要なことは、そのオンエアされる番組の内容である。もし昨年末の番組のように、ジュセリーノが放送以前にすでに大きな予言をいくつも外して自国ブラジルでは嘲笑の対象にまでなっているという大きな事実を伏せたまま「五年後人類滅亡」などというインチキ予言をメインにするような番組になるのであればそれは阻止しなければならないと思うし、もし仮にそんな番組が流されたときには今以上にその欺瞞を暴くような活動をすることになるのであろう。だから「今からそれを考えると頭が痛い」と書いたのであるが。(註)

まあ自分でも親切な書き方をしているとは思ってはいないが、ストンという感じで「ジュセリーノがテレビに出ていいのか!」みたいに受け取ったという人がいたのであれば、それはそれで申し訳なくは思うがそういう簡単なことではないと思うのだ。

要は日本にこのジュセリーノの予言というものを使って人を驚かせたり不安に陥れたりしようと企んでいる精神の捻じ曲がった人たちがいる限り、ジュセリーノが来ようが来こまいが事態はまったく変わらない。そういうことです。

註 「頭が痛い」とは書いてなかった。「ため息がでてしまう」と書いていた。謹んで訂正とお詫び申し上げます。

※最終校正 2007.07.31

追記:
これはただの噂とは言い切れない傍証がいくつも出てきたのでここであえて書くのだが、
やはり当初「たま」というかニラサワ氏はジュセリーノの来日と番組制作をテレビ朝日に持ちかけていたようである。というかそういう噂が流れているようである。(註1)

間に入った某人物から提示されたジュセリーノご一行様の滞在費用を日本円に換算すると約2000万円近い金額だったそうである。しかも前払いで。

今ゴールデン・プライムタイムぶち抜きの特枠3時間以上の番組の制作予算はどの(民放)局でも約7500~10000(万円)といわれている。ただしこの制作費はあくまでも公表されている数字だが。この金額で視聴率を平均で20%とれれば合格点ということだ。

それからすると値切れない原価が2000万円も発生するというのは局からするとものすごくイタい。しかもそれで視聴率が平均15を切ったら局内の誰かの責任ということになる。

テレ朝が飲まなかったとすればここいらに理由がありそうである。

さて、で日テレならこれを飲めるかというとそうでもなかったようだ。まあ当然だわな。
むしろ日テレとして数字を取るための「保険」は「みのもんた」である。となるとジュセリーノのほうはどうでも良くなったということではないだろうか。それこそマクモニールとかほか「超能力者」と同列に扱うほうがいろんな意味で日テレにとっては得策だということだ。
(2007.07.31)

註1 たま出版のBBS上での「ニラサワ発言」というものをよく読むと、そのことをニラサワ氏自身が暗に認めるようなことを書いていた。

追記 その2

うかつであった。ひとのことはいえない。この記事の内容について疑問を指摘するメールが数通届いた。

まるで、日本テレビでジュセリーノの番組を作るときは昨年暮れの30日のテレビ朝日みたいな番組にならないと確信したような書き方をしていますね。なにかその根拠はあったのですか?


たまBBSでニラサワが書いていたこと(註)を見て、かまたさんが7月9日の記事で書いていたことがピタリとそのまま実現していたのでとても疑問を感じています。もしかしてなにか日テレ側の情報をつかんでてあの記事を書いたとか?


鋭いな。確かにそうだ。自分はあたりまえのようにして「まあ昨年末のテレ朝の番組のような恐怖を煽ったりする内容にはならないことだけはまず良いことなのではないかと評価はするのだけれども。」と書いてしまっていた。

この個所をなかったこととして削除して、だんまりを決め込むことも考えたのだが、それではたま出版や韮沢潤一郎社長やジュセリーノの予言について肯定的にあれこれ書き散らしている面々とやっていることはかわりなくなる。

今だから言うけれども自分は実はあの時点で日テレ側がどういう対応をするのか、についてはある程度の情報は得ていた。

このブログの読者に日本テレビの関連会社の方がいてその人からある程度の情報提供は受けていた。そのことは認めておく。

だからといってその情報の提供だけをもとにしてこのようなことを書いたというのでは決してない。断じてそれはないと明言はしておく。

また、自分が0705とこの記事で書いたこととニラサワ氏のBBSでの発言が妙にシンクロしていると感じている人もいたようだが、それは単なる偶然でしかない。

残念なことに、たま出版の内部であるとか関係者からの情報提供のようなものは受けてはいない。

「残念なこと」ってなんだよ。
(2007.08.20)

註2 やはり「たま出版」のBBS上で、ニラサワ発言として、「テレビでは予言というものを扱うと風評被害が出る怖れがあるのでジュセリーノの予言に関する部分は取り上げられない」というようなことが書かれていた。それはそれでニラサワ氏のものすごい思い違いなのだが。

070709 オカルト芸人「ニラサワさん」 その2

(つづき)そしてこの番組はニラサワさん以外にももうひとりの「オカルト芸人」を産み出している。
この番組内で、オカルト研究家のO氏(故人)が「この次の放送のときには本物の超能力者を連れてきてスタジオで超能力の実験をします」と大見得を切ってつれて来た「本物の超能力者」である。

で、次の回(11月7日)にその本物の超能力者が紹介されるのである。その名前は伊東万寿夫氏。

その伊東氏はスタジオで超能力の実在を証明する実験を行なうのである。すべて大失敗だったが。

というかその伊東氏というのはこの方である。



そう、現在も芸人として活動中のエスパー伊東である。韮沢氏とそのO氏が「正真正銘、本物の超能力者」という触れ込みで連れてきたのが芸人のエスパー伊東だったのではない。当時エスパー伊東は「本物の超能力者伊東万寿夫」として活動していて、それがきっかけがあって芸人宣言をしたのである。そのきっかけがやはり韮沢氏との接点だったというのは非常に興味深い。今となっては。

「眼力でハンダの棒を曲げる」という芸じゃなくて実験は大槻教授によってその無意味さを暴かれ(ハンダの棒なんて手で持っているだけで曲がるものだ)、箱に入ったものをテレパシーで視聴者に伝えるという実験も(もちろんそんなものたとえ当ったとしても実在を証明することにはならない)大失敗だった。

しかも、Vとして事前に撮影されていた実験もその杜撰さを徹底的に突かれて担当のディレクター(新村広之)がオロオロするくらいのものだったのである。

自分もこの番組を当時生で見ていた記憶があるし、日記にもいろいろと書いていた。

とにかくその伊東万寿夫氏の言うことやることがすべて脱力というか苦笑モノであったということだ。

しかし今その録画したVTRを見返してみるともう苦笑すら浮かばない。

その後のエスパー伊東の活動というものを知っているからである。この番組に出演直後から伊東万寿夫(敬称略)は「エスパー伊東」を名乗りフジの深夜番組などで活躍しはじめた、これが事実なのである。

自分が当時苦笑できたのは「エスパー伊東」が芸人としてでなく大真面目に「本物の超能力者の伊東万寿夫氏」として数々の実験に挑んで(ことごとく失敗して)いたからなのだ。そういうことだ。

というか、自分が思ったのは韮沢氏が自分がテレビに出るための方法論として参考にしたのは韮沢氏自身が発掘した(笑)この芸人「エスパー伊東」の活躍?ではないかということだった。

それがあのニラサワ氏の葬式パフォーマンス、棺おけに入ってスタジオに登場というのに繋がっているのではないか、そういうことを思ったのである。

というようなことをその「いちかわ・ひろし」氏に伝えたのだ。

これが現在韮沢潤一郎氏がオカルト芸人「ニラサワさん」として活動している原点ではないかと。

それに対する「いちかわ・ひろし」氏の見解である。

韮沢さんは「ニラサワさん」という芸人の仮面を被ることでテレビに出演したり活動の場を確保して自分の主張というか商業活動をしやすくするという手段を選んだのかもしれませんね。だとしたら恐るべしニラサワというところでしょうか。


鋭いなぁ。この「いちかわ・ひろし」氏からのメールを読んで自分もその可能性の高いことに気がつかされたのである。

というか二十年近くも馬鹿にされながらもテレビに出続けている韮沢潤一郎氏のモチベーションというものを説明するのにこの「いちかわ・ひろし」氏の推理以上のものは今のところない。




一度書いたものを引っ込めてそのままにしてほったらかしにしてしまったようで心苦しく思っていました。申し訳ありなせんでした。

問題だったのはそのO氏という方がすでに故人だったということを忘れていたことだった。知らなかったとシラを切ることも出来るのだが、たぶん自分は知っていた。ただ忘れていたのである。

故人となられた方を一方的に攻撃すしたり論って笑いものにするのは気がひける。流石に。もっと有名な方ならばそうでもないが本を二・三冊出しただけのほぼ無名に近いオカルト研究家の方である。

それでその部分を省略したところ、自分で読んでもなんの為の文章なのかわけがわからないようなそんなバランスを欠いたものにしかならなかったので、しかたなく引っ込めたのだが、それを是正するために0707の記事も改めて書き直すとか方法もあることはあるのだが、今度はそれでは「いちかわ・ひろし」さんの言われる「記事にする意味」がなくなりそうで、それもしにくかったのである。



改題した。
『ジュセリーノ予言の真実 0709 90年10月4日放送テレビ朝日の深夜番組「プレステージ」より』その2

2007年7月7日土曜日

070707 オカルト芸人ニラサワさん誕生 その1

自分はジュセリーノの予言を取り上げた昨年末放送のテレ朝の番組を「いちかわ・ひろし」氏という方から、録画したDVDディスクを借りて見ることができた。その「いちかわ・ひろし」氏からは05年に放送された「たけしの年末超常現象スペシャル」を録画したものもお借りしている。

自分はこの番組は放送時に見ている。その感想を確かこのブログにも書いているはずだ。

ノストラダムスの預言詩を無理矢理な訳をつけて「オリンピックの年に」とした部分について「ノストラダムスの時代にはオリンピック(あくまでも古代オリンピックの方である)なんて大会(いまの感覚でいえばギリシャとその近隣国だけで行なわれている『国体』みたいなものだ)はやってないのでこの訳はおかしい」と文句を垂れている。

この部分は素直に「オリンポス」と訳すしかないのだと。そしてオリンポスの都市(オランピア)のことか、山(火山)のことなのか、その神殿のことなのか、それともここであった戦いのことなのかそれについて考えるのを、そういうのを「解釈」という。

それを「オリンピックの年に」とか訳するのはもはや訳ではなくて「解釈」でもない。何故かといえば、どう考えても「都市=年」と引っ掛けた日本語のダジャレでしかないからだ。

「いちかわ・ひろし」氏はそう書いた自分の記事を読んで「感心した」と言ってきて下さった。

この「いちかわ・ひろし」氏の協力がなければ今自分はこうして丸々「ジュセリーノの予言」のためのブログなどはやってはいないであろう。

その「いちかわ・ひろし」氏から「1997年以前たま出版の韮沢潤一郎氏がテレビ出演の際の発言について詳しく教えて欲しい」という要望があったのでそれについて調べていた。

以前「いちかわ・ひろし」氏から「韮沢潤一郎氏が『ニラサワさん』として、つまり今のような形でテレビに出演するようになったのはいつごろなのか、あるいはその経緯とかを知りたいのでもしご存知であれば教えて頂きたい」というようなリクエストがあって、それについて自分の記憶だけを頼りにそのまま伝えたのがそのきっかけであった。

自分はそのターニングポイントはやはりプレステージかその後継番組の「M10」でやった
ニラサワ氏の「葬式パフォーマンス」だったと思っている。

オカルト番組に出る度にその一致していない発言内容を逆に突っ込まれつづけて、否定派からは嘲笑の対象として真面目な議論の相手としては見なされなくなり、そればかりか(本来同士であるべき)肯定派からも番組前に「あの人と席を同じくされたくはない」と拒否されて、それでめっきりと出番の少なくなった「たま出版」編集長韮沢潤一郎氏が「ニラサワさん」というオカルト芸人として再出発したきっかけがその「葬式パフォーマンス」だったと思うのである。

そのことを「いちかわ・ひろし」氏に伝えたところ「非常に象徴的ですね」という返事が来た。しかしそのいちかわ氏の分析のほうが一枚も二枚も上手であった。そのことは後で書かせていただく。

さて、自分がビデオに録画したものを実際に持っている当該の番組は1989年から1993年くらいまでのものになる。(誤解を招かないように付け加えておくが、もちろん韮沢氏がテレビ出演したもの全てを持っているということではない。)

93年に五反田で仕事をしていたときに知り合いになった某氏からまとめて借り受けてダビングさせていただいた。

ダビングまでした目的はもちろん韮沢氏個人の発言であるとか言動ではない。その「プレステージ」という番組内で扱っていた「心霊現象」に関する部分に当時から問題を指摘する声が多かったので検証のためにと録画したものを借りている(と日記には書いてある)。しかしその問題のそばにはかならずといっていいほど韮沢氏がいたというのも事実なのだが。

それでその調べものの結果はっきりとしたことがあったのでここにも書いておく。ジュセリーノの予言にも関係なくはないからだ。いちかわ氏も「せっかくなのでこの事実はブログに書かれたほうがよいかもしれませんね」と言ってきて下さった。

特に自分が意外だったと感じたところがあった。まずそれについて書いておく。

1990年10月4日放送のテレ朝系深夜番組「プレステージ」に出演した韮沢氏は「超能力」に関する一連の議論の中で、予知というものに関して発言している。

韮沢氏の主張では、「超能力」とひとまとめにされているものは全て「精神的エネルギー」というものが作用して起きる現象である、となる。

韮沢氏はフリップを出して「否定派」相手に論陣を張っている。

曰く、その精神的エネルギーとは、「電磁波」・「熱」・「光」・という具合にウェーヴの波長が上がっていってその上位に来るものであると。

そしてそのウェーヴの波長(?)は「感情」、「思考」、そして「意識」と上がってゆき、この「意識」レベルになるとそういった「超常現象」というものが起こすことが出来ると。

まあなんのことはない。今現在ときどき問題になっている(自分もこのブログでいつも叩いている)「波動」の概念そのものなのである。韮沢氏はこの超常現象というものを「波(=ウェーブ)」という概念で説明しているのだ。

この「精神的エネルギー」を操ることで「物体の移動」、「透視」といった超能力を実現できると語っているのだ。そして予知もまたそうだと言っている。

「時空間の歪みや隙間をぬって届いた何者からか送られてきたヴィジョン(やメッセージ)を受け取る」ことが「いわゆる予知というもの」であると熱弁している。

更に韮沢氏は「アメリカでは盛んに研究されていて、それが今日本にやって来ているんですよ」とも付け加えていた。(これは事実関係からすると非常に興味深くもある。)これは1990年放送の番組内での発言である。しかしそれは日本で「波動汚染」が本格的になった時期とは若干どころか相当にずれているからだ。

そのシーンを見ると、この「説」は韮沢氏のオリジナルということではないようだ。

しかしもしかすると韮沢潤一郎氏こそが日本で一番最初にテレビ番組内で「波動」という概念について肯定的に語った人間なのかもしれない。

意外だったな。当時自分はそのことにはまったく気がつかずにいた。もちろんそれは韮沢氏が「波動」という言葉は使わなかったからなのだが。波(=ウェーヴ)という言葉を使って説明していた。

そしてこの番組内で、今や年末の風物詩、テレ朝の超常現象特番の名物コーナーとなった「韮沢氏と大槻教授による激論」のプロトタイプ(原型)のようなものがテレビ初登場している。

それは、韮沢氏の口から頻繁に出てくる「精神的なエネルギー」という言葉に物理学者の大槻教授がまともに反論をしはじめたのがそのきっかけであった。

両者の顔合わせは実はこのときがはじめてではない。同じ年の3月1日深夜放送になった「プレステージ」内において両者は肯定派・否定派というサイドに立って議論を交わしている。まあ「議論」というようなものでもないのだが。

しかし、当初この番組内で韮沢氏の持ってくる「UFOが実在するという決定的な証拠」に対して激しく噛み付いていたのは同じく否定派の席に座っていた吉村作治早稲田大学人間科学部助教授(当時)と、(地元葛飾では)アマチュア天文家・オペラ歌手としても有名で、当時ニュースキャスターとしても活動していた僧侶の春日了(かすが・りょう)の両氏であって、むしろ大槻教授は韮沢氏の出して来る証拠には冷淡であったといっていい。(発言席にもほとんど立たず、韮沢氏と直接に対決したのはほんの三・四回にとどまっている)

特に春日氏は「MJ-12文書には宇宙人による人体実験が行なわれていると書かれている」という韮沢氏の発言に対して徹底的に反論している。

春日氏の鋭い口調での徹底的な質問責めに韮沢氏は最後には絶句して涙目になっていた。(否定派サイドにいた加納典明に助け舟を出してもらい、一種の弁護をされていたくらいだ)

今その部分を見返してみると、というか今になってやっと春日氏の韮沢氏への激しい怒りにも見える質問責めも理解が出来るようになったが、当時はなんか一種の「弱い者いじめ」にしか見えなかったというのが自分の率直な印象であったのだが。

で、その今見返してみての感想なのだが、やはり一番よくないのは、その原因を作っていたのは韮沢氏にあったと言わざろう得ないのだやはり。

韮沢氏は、自分の発言の同じ文脈の中に相反する二種類の答えを織り交ぜて相手の質問をはぐらかすようなことばかりしていたからである。

一種の「いい逃げ」である。

たとえば、韮沢氏は最初「人体実験が行なわれているのは事実である」と言い切る。それが反論に遭うと、次には「事実であると聞いている」に変化し、最後には語尾を「事実であるらしいです」「事実のようですよ」にして発言の主体を変えて相手の追求の質問から逃れようとしていた。

しかもその態度がニヤニヤしていて不真面目に見えてしまうのだ。

韮沢氏はニヤニヤ笑いながら「宇宙人による人体実験が行なわれている」を「行なわれていると聞いている」に言い直し、さらには「~事実のようですよ」と相手をはぐらかしすような発言をしていたのである。

今度は春日氏はその韮沢氏の態度にブチ切れたのだ。

「あなた、人間が人体実験されて生体解剖されているなんてそんな恐ろしい話をなんで楽しそうに笑顔で言えるの?!」と

春日氏は更に「そんなことを平気で口にして言えるのは、自分で口にしていることが本当に事実かどうかについて自分でも自信がないからじゃないのか。もし本当にそんな恐ろしいことが行なわれているという情報があったのならば、まず自分の足でどこまでも追求するほうが先だろう」というようなことを言う。

そういう春日氏の追求に対しても韮沢氏は「確かめましたよ」と反論し、更に「あなた自身が確かめたの?」と再反論されると「確かめようとした人がいた」と答え、更に「誰が?」と突っ込まれると「そういう人がいたと聞いています」と答えているのだ。

このように最初は威勢良くショッキングな内容の宇宙人情報というものを繰り出していたもの反対派のついぞの反撃を食らい韮沢氏の発言はトーンダウンしてしまい、最後には発言席で固まったまま何も言えなくなったのである。

そのとき韮沢氏のうしろにいた漫画家のつのだじろう氏の憮然とした表情が全てを物語っていたといっていい。最後にはつのだじろう氏は立ち上がり発言席でそれまでの韮沢発言とは確実に一線を画す、自分の一種の懐疑論的な立場というものを表明してしまったのである。

ひとことで言えば仲間割れである。

しかし、この春日氏の突っ込みは今見ると寄り道というか逆効果だったような気がする。結果論ではあるが。

これで韮沢氏は春日氏の剣幕にビビったらしく絶句してしまったからだ。

そういう経緯があっての第二弾(註)として行なわれたのが10月4日放送のこの番組であったのである。

冒頭、吉村助教授(当時)に「よくあなた懲りもせずに出て来れるね」と嫌味を言われた韮沢氏はめげもせずに前回と同じ論旨でまたもや同じようにしてただの伝えぎきでしかないようなことをまるで自分がその場で体験したかのように超能力の実在を証明したという実験について語りだす。

そしてこの韮沢氏、前回の人間サンドバッグ状態に懲りもせずにまたもや問題になりそうな発言をしている。テレパシーというものの実在を証明するための実験として「子ウサギを遠く離れた場所で一匹ずつ殺してゆくと母ウサギに反応が出た」というようなことを(やはり楽しそうに、手振り身振りを交えながら)語りだすのである。

韮沢氏「一匹ずつ」といいながら両手で子ウサギの首を締めるような手つき(註)をするのである。でまたもや春日氏から「深夜とはいえテレビ番組なんだからもっとそのことを配慮した発言を心掛けてもらわないと困る。そんなかわいそうなことをしなくても別の実験方法があるだろう。(そんなかわいそうなことをしなくても他にいくらでも方法はあるし、この場で語るような内容じゃないだろう、というニュアンス)」と注意を受けているのだが。

この回を見ると、韮沢氏が現在もテレビに出る度に言い続けている「宇宙人=地球外知的生命体=エイリアン」の実在、「超能力」、「心霊的なものの実在」といった基本的な論旨はもうこのとき既に確立されていたといってもいいかもしれない。

というか殆ど変化していないのである。いや論旨が変化していないというと誤解を招くか。

それらがあるとかないとかではなくて「言い訳」、「言い逃げ」の方法論だけは変わっていないということでしかない。(つづく)

(番組から 韮沢氏と、対決する吉村教授と大槻教授)






※ 註1;厳密に言うと「第二弾」というのは正確ではない。その後3月25日にも「UFO」に関してのこのような肯定派・否定派に二手に分かれての討論の番組をやっているからである。「第二弾」というのは「UFO・超能力・心霊現象」という三本立スタイルの議論の第二弾ということである。吉村助教授(当時)の韮沢氏に向けての「あなたよくここへ出てこれるね」という皮肉はその3月25日の番組での韮沢氏の発言が第一回よりもひどかったからだ。まあその回は「UFO」のみの議論なのでここではその内容については省略する。

※ 註2;この点についておかしなクレームが来た「首を締める、ではなくてナイフで突き刺すような手つきだろう。よく見て書け!ねつ造するんじゃない。」というようなクレームである。確かに言われて見返してみたのだが「首を締める」というよりも「ナイフで刺すような」と書いたほうが事実に即していて正確であった。その点についてはここで訂正してお詫びを申し上げます。   しかしそれでは韮沢氏の立場を弁護することにもなんにも全然なってないのだが。これでいいのか。「なにをいいたいのだろう?」と首を捻ってしまった自分であった。(ちびまるこちゃんか)

【追記】

この記事とジェームス・ランディの番組についての記事を見比べていて気がついたことなのだが、韮沢氏が出している『超能力実験の写真』はまったく同じものであった。
しかし20年近くも経っているのにかかわらずまったく同じものを「証拠の写真」として持ち出してくるところはいかにもこの人らしい。というか誰も止めたりはしないのか?
(08.08.20)

改題した。『90年10月4日放送テレビ朝日の深夜番組「プレステージ」より』その1・その2

2007年7月5日木曜日

070705 予定は未定

またもやメールからである。
たまのBBSを見たら、ジョセリーノの来日が決定したとかテレビ番組があるとか書かれています。ニラサワとなってます。どうなんでしょうね。
>韮沢氏はユリ・ゲラー来日のときの
>あのブームを巻き起こしたいんでしょうかね?
というようなメールが来ている。他にも似たようなメールを2・3通頂いておりますが。

しかもよく聞くと決定ではなく「内定」であったが。秋口のテレビ番組に合わせた来日を目論んでいるようである。

まあ「内定」ではなぁ。

「内定」というだけではほとんど書きようがない。だからこれから書くのは「決定」したらという仮定での意見になる。

というか来るのなら来ればいい。それだけだ。自分にはそれを阻止したりする権限もないし立場でもない。

というか「少し遅くはないかね」というような、いらぬお節介を感じたりする部分もある。

それにジュセリーノ本人が日本に来たからといってどうにかなるものでもあるまい。そういうものである。

しかし、「ユリ・ゲラー来日(註)」といってピンとくるのは相当上の世代(三十代後半より上)だろう。メールで書いて来た人のいいたいことがすぐにわかってしまう自分も相当の年だということがバレてしまうのだが。というか隠してもしかたがないことなのだが。

ユリ・ゲラーが最初に来日したのが1974年のことで今からもう33年の前のことになる。そのときは日本を挙げての「超能力ブーム」になってしまった。そのときのことを言っているのだと思うのだが。 

まあでもいくらなんでも「韮沢氏が大ブームを狙って」ということはありえないだろう。本気でそんなことをもし目論んでいたらそれはどちらかというとピンクフロンドの『ダークサイド・オブ・ザ・ムーン』である。世の中はそんなに甘くはない。

たとえジュセリーノが日本に来たとしても「大ブーム」はありえない。騒ぎにもならないだろう。そのくらいは普通の人ならばわかりそうなものだ。

まあもしジュセリーノがテレビに出て、その番組がオンエアされるのであれば、自分はこのようなブログをやっている関係上、ある種の義務みたいなものからきっとその番組を見るのであろうけれど。

また、おどろおどろしいBGMと効果音にのせて、タイアップした映画会社から流用したSF映画のシーンなどを使い、低音の男性のナレーションで「…なのだろうか?」とか「…といわれている」という語尾を多用したVで恐怖を盛り上げようと必死になるんだろうけれども。(Vの製作はやはりテイク・システムになるのか)

想像するだけで今からなんかため息が出てきそうになるけれどもさ(笑)

自分としては、メールを読んでの連想なのだが、「ユリ・ゲラー来日」というよりも「オリバー君来日」の方を思い出してしまったのだ。

いや別にチンパンジー扱いするつもりはないのだが、ブームの質のことを考えるとユリ・ゲラーよりもオリバー君に近くはないかと。

日本に来た時点でその正体がバレてしまっているという点でだ。

実際、テレビ朝日のあの番組以外でジュセリーノの予言についてまともに口にしたり扱っているものはひとつもない。知られていないからではない。あまりにも知られているからである。

一昨年、アメリカ政府に対して裁判を起したブラジル人の予言者、昨年日本に地震があると予言して二度も外した実績のある予言者。こういうことはむしろ今年になってから大いに知られることとなった。

なんかそういう顛末になるのではないだろうか。

マスコミから、過去の外した予言に関する質問ばかりぶつけられて機嫌を悪くするジュセリーノとその隣りでオロオロする韮沢氏、なんかそういう図しか想像できないのだが。そんなんでいいんだろうか。



註:というか知っている人も多いとは思うのだが、ユリ・ゲラー、実は最近でもちょくちょく日本にやって来ている。たいがいが「極秘来日」ということになっているが、要するに誰ももう騒がなくなっているだけではないかとも思うのだが。

今は何をしに日本に来ているのかはよくは知らないが、一時期(15年ほど前に)頻繁に日本に来ていたその理由はよく知られている。要するにトリックのネタを探しに、あるいは発注しに来ていたのである。

ミスター・マリックが「ユリ・ゲラーからマジックのネタを教えてくれと頼まれた」といっていたのもたぶんそのころになるだろう。

というかこれはあまり知られていないことだが、このようなマジックのトリックとなるネタの小道具を作る技術に関してならば日本は世界でもトップクラスで、それもあまり知られていない蒲田とか葛飾の小さな町工場で受注生産のような形で製造されている。いつのことだったか、この自分も葛飾の白鳥あたりを歩いていたときにユリ・ゲラーを見かけている。

その工場に務めている人が自分の店の客だったので、あとでいろいろと話を聞くことができた。ユリ・ゲラーは目の前でスプーン曲げとか「超能力」の実演もやってくれたそうである。こういう話を聞くと悪い人ではなさそうだなという気もするのだが。

(最終校正日2007.08.19)

追記

結局杞憂に過ぎずジュセリーノの来日はなくなった。よく考えると別に憂えることではないのだけれど。(笑)
「延期」だというし。

うかつにもここで自分はジュセリーノのテレビ番組が「テレビ朝日」で放送されるという前提でこの文章を書いてしまっている。

結果からいえばそれ自体大外れなことであった。
しかし、今だから言うのだけれど、韮沢氏は最初やはりテレビ朝日に対してジュセリーノの来日と番組を打診していたというのはあった話のようである。実際、たま出版の掲示板にもそのことを匂わせる発言は実際にあったのである。年末の番組を予定しているが、それでは新しい単行本の発売の時期と噛みあわないとかなんとかと。

しかしだ、たま出版にしても韮沢氏にしてもそうなのだが、だったら何故自腹で(自己資金で)ジュセリーノを来日させないのか、というような疑問は誰もが抱くと思うのだが。

はじめから無理だった、ということではなくて「内定」が「延期」になるというのはよく考えると非常に興味深い話なのである。何がジュセリーノの来日を「中止」させたかについて考えると非常に面白いからだ。不謹慎なことだけれどもさ。

なにしろジュセリーノはお金のことなど考えないで人のために奉仕活動をすることの重要さを表明し、訴えている「清廉清貧」の人のはずだ。では資金以外のなにかの障害があって内定が延期になったのか、とかね。

このへんに至る経緯を韮沢氏自身がつまびらかにしないことには、あらぬ疑いが自身にもかけられるだけだと思うのだが。

そのほんの数日後、「たま出版」の掲示板に、ニラサワ氏自身の発言としてジュセリーノの来日の「延期」と、テレビ番組が「日本テレビ」で放送されることが「決定」したことが書き込まれた。

面白かった。
まるでニラサワ氏がこのブログを見て、あわてて(その時点での)決定事項を発表したかのように見えてしまったからである。

もちろんそんなわけはない。単なる偶然だろう。

このように、関連のないふたつ以上の出来事を、まるでなにか目に見えない不可視の法則というか原因でもって関連づけて語るのが、いわゆる「オカルト」というやつなのだが。
(2007.08.20)

2007年7月4日水曜日

070704 7月13日の地震と津浪

最近増えてきたのが「7月13日に来るという地震と津浪」の予言に関するメールである。中には「当日の13日はどうすればいいのでしょうか?」と真剣に書いてきてくる人もいる。

まあそういうメールに対しても「13日は普通に生活していて別に構わないというのが自分の立場です」としか答えられないのだが。

正確に言うのならば「13日も」になるのだろうが。

当たり前の話だが、ジュセリーノがどんな予言をしようと「たま出版の本」にどんなことが書かれていようがこの世の中に起きる出来事というものとそんな予言とは一切関わりはない。それを意識してしまうことがまず彼等のワナにはまってしまっているというレトリック(文脈)になってしまうということにもなりかねない。

しかしそういう不安を抱えているという人もまだいるのであろう。だが考えてほしいことがあって、それは昨年の8月のことなのである。

ジュセリーノは昨年の8月「日本に大地震が来る」と予言していてそれが外れている。しかしそんな予言のことをほとんどの日本人が知らずに過ごしていたというだけの話なのである。

きっとあなたもそうだったはずだ。そんな予言があることなど知らずに過ごしていたはずだ。そのときと同じことが繰り返されるだけなのである。世の中には、こんな偽の予言よりも大切にしなければならないものがごまんとある。そういうことなのである。

まあそれでこれもひとつの蛇足になってしまうのだが、たま出版のHPにあるこの7月13日の地震と津浪の予言から「津波」の文言がいつのまにか削除されてしまっている。

つまりこれで7月13日、日本の(あるいは世界の)どこかで地震があったとしてもたま出版としてはあるいは韮沢潤一郎社長としても「予言は当った」と言うことが出来るように改良してきたわけだ。つまり「3月の東京の地震」に関する予言のときと同じである。

携帯用のほうには追記として書いておいたことだけれども、かつて韮沢氏は自社のBBSに「ジュセリーノの予言に関しては正確ではないものが出回っているようです」と書き込んでいた。

まったくもってそれは事実である。しかしもっと重要なこと、それはそのような「正確でない予言」というものを広めているのが他ならない韮沢氏だということだ。そのことに対する反省というものはないのであろう。

いまさらだが、今でも自分のところにはこのような予言に怯えているという人からのメールがあとを絶たない。皆真剣に悩んでいるのである。

彼らにこのような不安を落とすような無碍な振る舞いというものが誰に許されるのであろうか。きっかけは単なるついでだったが、こうして始まったらにはとことん続けたいと思っている。今のところ辞めるつもりはまったくないよ。

2007年7月2日月曜日

070702 確率というものがある 

またもやメールからの話題になる。

イギリスでテロの事件がありました。ジュセリーノの月別の予言にもこのことが予言してあります。当ったということでいいでしょうか?

おそらくはこのメールでの指摘はグラスゴーの空港で起きた爆破テロのことを指していると思われる。(その数日前にロンドンで未遂のまま発覚した計画があったのである)

7月の月別の予言に「イギリスで高温、また新たなテロが計画される」というのがあってそれと合致しているというわけだ。

まあこれに関しては「当った」に入れていいのじゃないかと思う。しかしあくまでも「当ったかのように見える」という意味での「当った」であるが。

実際に事件が起きたのは6月の30日(現地時間)のことなのでこれをして「ハズレ」にする考えもあるのかもしれないが、(いわゆる普通の否定派のひとならそれでいいと思う)自分は別にこれを「当り」に入れたとしてもかまわないと思っている立場の人間である。

もちろんそれは一種の確率というものの考え方からである。

以前なんかの占い師のときにも書いたことだが、そりゃ50とか80とかの予言をすればそのうちの4・5個くらいは「当った」かのようには見えるであろう。それだけの話だ。

このあいだここで書いたテレビ番組でも、事前にジェームス・ランディが「普通の人ならば20枚の内の一枚が当る程度」といって、実際にその挑戦してきた自称超能力者の当てた枚数が一枚になってしまったのと同じである。

ジュセリーノは2006年の予言にしてもそうだが過去の出来事をヒントにしてこの2007年の月別の予言をモデファイしてきた。つまり「当てよう」としてきて改良したわけで、逆にそれが全て外れてきたとしたら別の意味でものすごいことになってしまう。

それにどっちにしてもそれでは「的中率90%」、「事件の起きる日付までもピタリと当てている」というジュセリーノの前評判と実情が大いに違っているというこの事実だけは覆らないし、そもそも最近のジュセリーノはこの月別の予言とは違う別の予言をいくつもしていて、その中にはこの月別の予言と矛盾するものがある【ジョアン・ヒグチ・ナシメント(Joao Higuchi Nascimento)氏からの情報】ということも言われているのだ。

だとすれば当ろうが外れようがどっちにしてもジュセリーノは「予言通りである」と言い出すことはまちがいないわけで、だからひとつひとつの予言に対して当ったとか外れたとか一喜一憂すること自体が酷く空しいことなのであるが。

それこそ「みち☆まり」さんではないが

>外れた過去予言の数を淡々とカウントしているだけで「もう充分です」という気分

ということになるのではないか。

ジュセリーノはこのテロの予言のことを(従来的な意味で)「当てたのだ」と思う人はそう思えばいい。掲示板にでも自分のブログにでもなんにでもにそう書けばいい。

しかしそれは「当った」という事実ともうひとつその陰には外れた予言の死骸が累々としていることをも引き受けなければならないということだ。「当った」予言にだけに嬉々と出来るのだとすればやはり心の構造がちょっとおかしくなった人だ。私に言わせれば。

重要なのは今までどれだけのどんな予言というものをジュセリーノはしてきたのかということを前提にすることだろう。

そうしなければ、ジュセリーノの予言というものを何故に他の予言者とは別扱いしてエスタブリッシュな存在にするのかという前提としての大きな条件すら成立しなくなる。

どっちにしてもこのようなジュセリーノの予言が「チョボ」っという感じで当ってしまうことの方が「的中率90%」と持ち上げられた予言者の正体というものを正しく見るためのいい材料になっているのではないか。

※追記

前に触れたことだが、ジュセリーノは前アメリカ副大統領アル・ゴア氏がノーベル平和賞を受賞するという内容の予言文書を発表した。

しかし考えてみてくれ、先行する2007年の月別の予言にはそのことに関する記述などこれっぽっちもないんだぞ。

今この時期に「今年のノーベル賞の受賞者」と言ってみても、ほぼ既定の事実について言ったのとどれだけの違いというものがあるのだろうか。

どうせするのなら来年の2008年の受賞者の予言文書を発表すればいいのに。
(2007.07.09)

2007年7月1日日曜日

070701 二種類の人間

そういえば前々からときどき「たま出版から警告のメールみたいなのは来てるのですか?」みたいな質問が来ていた。

そのたびに同じような答えをしてきたのだが、ここに来てまたそういう質問が増えてきた。まあだからここでまとめてお答えするのだが、

来ていないのだ。残念なことに。

自分はそういうものが来るのを待っている。もちろん来たらここで皆さんに公開するつもりである。そしてこれは別に違法行為とかそういうことにはならない。もらった側の裁量の問題だからだ。

というかまずもってこないだろうと踏んでいる。まず第一に、もちろんそんなものを私に対して送れば自分らがかえって不利になるということくらいは計算済みだろう。知り合いがたまのBBSにこのブログのことを書いたところ没になったそうである。しかも何度もだ。だから彼らがこのブログのことを知らないということはありえない。

さて、警告があろうとなかろうとなのだが、問題は何が事実であり、何が事実でないのかという一点でのみ争われることになるであろう。そうすると絶対的な不利なのは「あやしげな予言を世間に対して振りまいている側」のほうだ。

さて、ではそのたま出版の出したジュセリーノの本の中にはどれだけの真実というものが書かれているのであろう。そして彼らはそれを証明することはできるのであろうか。

象徴的な一文がある。韮沢潤一郎氏その人の手によるこの本の前書きの一部である。(これはネットにあったものを流用したものだ)
このような正確な未来の告知は、これまでは、“光球”の出現日が伝えられたファティマの奇跡と、未来の天気図が印されたミステリーサークル現象がある(巻末資料参照)。これらの場合には、いずれも地球外知的生命体の干渉があったと私は考えている。
地球に危機が迫った現在、見るにみかねた宇宙からの警告がジュセリーノ氏を通じてなされているのだろうか。高度に進化した宇宙人であれば、正確なSRVの手法が可能であろう。

まあジュセリーノ氏に聞くなりなんなりしてその部分については確認するのが手っ取り早いはずなのだが。

なんにしてもだ、このようなことを大真面目に考えている人が社長を務めている出版社から出された本なのである。

もしこの本の内容について、その中に「真実」を見出すという作業をするとするのならば読む側はこのような仮定を頭に入れてから読んだほうがよい。それがこの本(を出している出版社)の基本理念となる部分だからだ。決して抜かしてはならない部分なのだ。もうだから単純に予言が当ったとか外れたとかいう問題ではないのである。

もし自分が「真実とはなにか」ということを問われるような場所に担ぎ出されて、この韮沢氏と一対一で議論しなければならないという立場になったならば自分はもちろんよろこんでその場所に出てゆくであろう。そこでこのブログで書いていることをそのまま述べればいいのだ。それだけである。もちろん人間としてのオモシロさや詭弁の技術について競うのではない。どちらが真実なのかを証明する対決である。

不謹慎な話になるのだが、もしこれが一種のギャンブルとしてあってどちらが勝ちかに金を賭けねばならないとする。もちろんたとえばの話であるが。

もし私が第三の人間で、この対決に金を賭けるとしたのならばどちらに金を賭けるか。もちろん「かまた側に全財産」である。

で、これを読んでいるあなた、あなたはどちら側の言葉に「真実」というものがあると思いますか?「ニラサワ氏」か「かまた」か。もしどちらかに全財産を賭けなければならないとすればどちらに賭けます?

まあだから韮沢氏個人でもたま出版でもいい、もっといいのはジュセリーノ本人からその警告のメールでもなんでも来ることなのである。

しかし残念なことに来てないのですよ。

もちろんジュセリーノの公式のHPにあるアドレスにこのブログの存在を知らせるメールはとっくに出している。英語だけどね。まあ英語の教師だからかまわないでしょう。