2007年4月30日月曜日

070430 目次(07年4月)

【ジュセリーノ予言の真実 0430】
目次(07年04月)



07年03月度へ

070401 サヨナラ! 
070402 お問い合わせ
070403 お問い合わせ2
070404 ジュセリーノとノストラダムス1
070404 ジュセリーノとノストラダムス2
070404 ジュセリーノとノストラダムス3
070405 お願いとお詫び 
070406 これも時代の流れなのか
070408 MJ-12文書のことを思い出す
070409 メールと2ちゃんねる
070409 メールと2ちゃんねる2
070411 ジュセリーノ本人に聞けばいい
070412 韮沢コラム85について
070413 前日の続き・そしてブラジルからのメール
070414 セナの事故死について その4くらい
070415 四月分の訳について
070416 THE EARTHQAEKE IN MARCH
070418 何故ジュセリーノは「教授」なのか
070419 HERE COME THE MAILS FROM BRAZIL
070420 ブラジルからのメール つづき
070427 今日の分から新記事
070427 津波(津浪)に関すること
070427 カルトだよなぁ、やっぱり…
070427 FAQ的なこと
070429 もうひとつブラジルからのメール
070430 テレビ朝日に対する公開質問の手紙
070430 目次(このページ)

07年05月度へ




ライブドアブログ

3月へ

0401 サヨナラ! 
0402 お問い合わせ
0403 お問い合わせ2
0404 ジュセリーノとノストラダムス1
0404 ジュセリーノとノストラダムス2
0404 ジュセリーノとノストラダムス3
0405 お願いとお詫び 
0406 これも時代の流れなのか
0407 目次 その2(3/10~3/31)※重複のために削除
0408 MJ-12文書のことを思い出す
0409 メールと2ちゃんねる
0409 メールと2ちゃんねる2
0411 ジュセリーノ本人に聞けばいい
0412 韮沢潤一郎という人物について 1
0413 前日の続き・そしてブラジルからのメール
0414 セナの事故死について その4くらい
0415 四月分の訳について
0416 THE EARTHQAEKE IN MARCH
0418 肯定派の人は「教授」と呼んであげなよ
0419 HERE COME THE MAILS FROM BRAZIL
0420 ブラジルからのメール つづき
0427 今日の分から新記事
0427 津浪に関すること
0427 カルトだよなぁ、やっぱり…
0427 FAQ的なこと
0429 もうひとつブラジルからのメール
0430 テレビ朝日に対する公開質問の手紙

5月へ

070430 テレビ朝日に対する公開質問の手紙

 
【ジュセリーノ予言の真実 0430】 テレビ朝日に対する公開質問の手紙

テレビ朝日に対してこのようなメールを送ろうと思っている。




私はインターネット上にて「これもまた人生の一日」と名付けたブログを主宰しております「かまたあきよし」というものです。

さて、そのブログにおいては、さまざまな話題に対して批評をするということを主眼としておりまして、そのジャンルは主に「報道を含めたテレビ番組」、「音楽」「映画」「スポーツ」といったものでありますが、それとは別に以前から行なっていたオカルト的なものに対する批判というものも継続して扱っております。

その目的は「オカルト的なもの~つまり超能力・心霊現象(精神的存在も含みます)・UFOといったもの」がカルト宗教(波動というような疑似科学を含みます)・霊感商法へ人を追い込むものとして利用されているという実情を鑑み、それを阻止するため」であります。

さて、12月30日、貴局にて放送した「たけしの超常現象緊急(秘)ファイル2006」なる番組内で取り扱いになった二点につきましては、私の立場から以下ようなことを述べさせていただます。

【第一の問題点】
「外気功(がいきこう)」なるものの存在を確かめるとして行なった「実験」には不備があるにも関わらず、実験が成功して、まるで「外気功」というものが存在しているかのような印象を視聴者に与えたこと。

レインボーブリッジ上からユウ・レイ氏なる気功師が遥か離れた場所(番組内では2000メートルと説明)に立っている被験者(古瀬絵理氏)に向けて手をかざして「気」を送るという動作をして、まるでその影響によって古瀬絵理氏が座り込んでしまったかのような「映像」による印象操作を行なったということ。

しかし、その部分を良く見れば、別撮りにした素材を、ただ単にタイミングを合わせて編集して、まるで同時に起きたかのように見せてしまったのに過ぎないという多くの疑惑があることはいうまでもありません。

私の個人的な私見からしましても、あの「実験」の最大の失敗は、なんといっても超ロングカメラなどを使い「気を送るユウ・レイ氏と古瀬絵理氏を同時に撮影しなかった」という点であると思われます。この点で、その多くの方からのその部分に対する指摘を生じてしまうという欠点があった。故にこの当該部分の実験が「外気功の存在を示すものでもなんでもない」ということは言わなければならないと思います。

【第二点】

ジュセリーノの予言に関わる重大な疑惑について

ブラジル人の(自称)予言者ジュセリーノ氏に関する部分。

当該番組が放映された12月30日の時点において、すでにそのジュセリーノ氏の予言の多くは実現しておらず、尚且つ、ジュセリーノ氏がブラジル本国においてはセクト(=カルト)の宗主(創始者)としての位置付けがなされているのにも関わらずその個所を隠蔽したまま紹介したこと。
また、にもかかわらず「五年後に人類滅亡!?」というテロップを流して、視聴者に根拠のない不安を植え付けるようなことをしたこと。

2006年12月30日の時点においても外れていた予言(主なもの)

○ 2006年5月 日本で大地震
○ 2006年8月 日本で大地震
○ ブラジル大統領選挙の結果
○ サッカーワールドカップの結果

ジュセリーノの予言に関しては、彼の予言者としての実績として持ち出してきた「事実」が、ブラジルにおいてはその真贋の部分で、公証所証明書や各国から送られてきた感謝状の偽造疑惑など数多くの報道がされております。

さて、私はこの番組の内容につきましては、年の明けた1月の下旬に知り、知人よりお借りしたビデオで内容を確認し、1月26日付けのブログにおいてその不備、疑問点などを表明したのでありますが、その後ブログをご覧になったという方方より沢山のメールを頂戴しております。(2月28日その数はついに1,500通を越える数になんらんとしております)

その頂いたメールの内容について簡単にご説明いたしますと、多くの方から「ジュセリーノの予言が贋物であったと知ってほっとした」「番組を見てからずっと暗い気分であったのが救われました」「鬱気味だったのですがまるで嘘みたいに久しぶりに明るい気持ちになれた」などと書かれています。

特に深刻であると思われるのは、若年層幼年層視聴者に対する配慮であるかと思われます。あの番組を見てから子供の元気のなくなったと仰る親御さんからのメールが多かったからであります。

さて、この番組の放送が開始された時間は午後6時半だったと窺っております。この時間帯はたしか放送番組倫理に関する基準では子供の視聴者に対する配慮といったものを重要視する時間ではなかったかと思われます。

ジュセリーノの予言を扱ったコーナーの放映時刻がどのあたりなのかについては明白ではありませんが、コンテンツメモリーからすると午後8時半あたりではないかと思われます。しかし、年末冬休み期間であるという事情、あるいは6時半から始まった番組であるのでそのまま子供が引き続き視聴する可能性が大であったとこは否めないかと思われます。

さらに私が問題視していることは、番組内においても番組終了時においても当該番組がバラエティ番組であり、内容にはフィクションであるということを明示するという最少の義務も果たされていないという点であります。

さて、私はその後、このジュセリーノの予言なるものが決して軽んじて考えるものではなく、数多くの方々に対して深刻な影響を与えているという事実を知るにあたり、ブログの看板(タイトル)を一部変更してこの「ジュセリーノの予言」がまったくのフィクションであるということを啓蒙することに務めてまいりました。

その一環としてこのブログにおいても、あるいは送られてきたメールに対する返信においても、「ジュセリーノの予言」が本物かどうかはまず貴局に直接確認をすることが重要である、ということを強調してまいりました。

一般案内部門にご確認いただければお分かりになるとおもいますが、当該番組に対する問い合わせの電話やメールにも幾つは私のブログのことが、あるいはひょっとして私の名前が出されているかもしれません。


さらに現在、私が懸念している部分について申し上げます。

この番組の内容とはまた別の形のものが「ジュセリーノの予言」と称してインターネット上で流布しているということです。

中には「7月13日に30メートルの津浪が襲う」などというものも含まれております。

残念なことですが、この偽の予言をこうして世の中に広めてしまった最大の原因ですが、やはり貴局の当該番組であるということは否定は出来ない、その責任の回避は不可であるということであります。

改めて申させていただきます。その因果関係については、その関連が皆無であるとは絶対に言えないのだということです。

以上、私の意見を述べさせていただきました。


貴局がどのような対応をなさるのかは貴局のご判断にお任せいたしますが、予めお断りしておきますが、私はお送りしたこのメールをそのままの形でブログ上にで公開いたします。

また、貴局より仮にご返事がいただけた場合にもやはりブログ上にて公開させていただきます。

あるいはご返事がなかった場合にもその事実をブログにて記述いたします。


かまたあきよし

akgoodco1224@blue.livedoor.com

http://blog.livedoor.jp/akgoodco1224/




もしなにかいいアイディアがあればご教示いただきたい。

「ここはこう書くべき」とか「これもいれたほうが」とか

よろしく。




タグ: ジュセリーノ 予言 ジュセリーノの予言 テレビ朝日
akgoodco1224 at 05:00│コメント(0)│ジュセリーノ予言の真実 | 反カルト・非オカルト 0拍手

2007年4月29日日曜日

070429 ブラジルからの手紙

【ジュセリーノの予言の真実 0429】 ブラジルからの手紙

まあそれで、ブラジルからのメール、届いた分は一応全部目を通した。英語のものだけだが。
ブラジル以外でも南米のほかの国や台湾などからもメールが来ている。

やはり肯定派の人のほうが圧倒的に多い。9対1くらいか。判別可能なものだけでいうとだが。

実数でいうと、今での総数は信者・肯定派の120数通に対して、どちらかというと否定というか懐疑的なのも入れてやっとこ20通くらいだ。

とはいえ、ブラジルからのジュセリーノ肯定派からのメールでも、というかブラジルからの方が、素晴らしいものは多いのである。実のところ。それは収穫といえる。

やはり本格的なキリスト教国とそうでない日本との違いか。日本のジュセリーノ肯定派の意見が全体的に子供っぽいのとは対照的ですらある。

最初こういうメールを読んだときには、正直なところ「?」な感じがしたものだが、何度も読み返しているうちにその内容の意味するものにやられてしまった。ぐっとくるものがある。

残念なのは、自分の英語能力だとその微妙なニュアンスをうまく伝えられないというもどかしさの部分だ。

そういう人たちからのメールのうちのひとつである。その判りやすいひとつだけを紹介する。繰り返すが、このメールを自分に送ってきた人は、ジュセリーノが預言者であって超能力者であり、なおかつ宗教家であるということをそのまま受け入れている。


I can not explain my heart in sad.
I don't understand why JNL inform to USA
where the place Saddam Hussene had been hiddin.
it is not peace way making .
Only break this country Iraq in sorrow.
JNL helps USA to own the Iraq .
Too Much Iraqi people bleed and die .
JNL could not see that,though wihtin his ability to ?
And JNL don't say about anyit.


私の悲しみを上手く説明するのは難しいのですが
私にはJNL(ジュセリーノ)が何故アメリカ政府に
協力するような真似をするのか
その理由がわからないのです
サダム・フセインの居場所を教えるということは
イラクをアメリカに支配させて平和を奪い
より沢山のイラク人の血を流すことになるのは
見通せたはずでしょう彼ならば
でもジュセリーノはそのことには答えません


※ 英語では普通Saddam Husseinだが、たまにHusseneと綴られて書かれていることがある。もともとはアラビア文字をアルファベットにあてはめたのだから厳密でなくてもいいのではないかと思い直さなかった。


イラクの情勢というものがこの方のいう通りになっているのかという部分に関しては断言は出来ないであろう。フセインの捕獲と死刑判決と実行がイラクを本当に幸福にするのかしないのか、あるいはしているのかそうはならないのか、そのことについては簡単には断言は出来ないことだと思う。

しかし、ジュセリーノは「自分はアメリカ政府に協力したぞ」ということを自ら表明した人である。ということは、すなわち彼がアメリカ政府がフセイン元大統領を捕獲するということを望んでいたということにはなるだろう。

まあだから、例えジュセリーノが本物の超能力者であろうがそうでなかろうが、どっちにしても「自分の情報でアメリカ政府はフセイン元大統領を捕まえることが出来た」などと名乗りでたことはイラク人を悲しませること以外のなにものでもないということなのだが。

というようなことをジュセリーノはしているということだ。

このようなところまで言及した意見についてははじめて目にした。それとも単なる自分の見落としでしかないのだろうか?

ジュセリーノがフセイン逮捕は望まずにいて尚且つそういう情報をアメリカに流すとしたのなら、その理由はなんだということにもなってしまう。それは誰にとっても不愉快なものであろう。

ゼニかやっぱり(笑)

さて、フセインが(彼のもたらした情報のお陰かどうかはおいておくとしても)捕まれば、おそらくはアメリカ政府主導のイラク新政府によって死刑判決が出ることぐらいは誰にでも予想できたはずだ。

そして現在のイラクの混乱と、アメリカによる政治力の誇示といういう切迫した情勢を考えれば、フセイン元大統領には死刑がすぐに実行されて、そしてイラクの各地で暴動が起きることなどそれも誰にでも予想出来たことだろう。

それでも、ジュセリーノは世界の平和と人類の未来は各人の祈りと行動によって達成できるなどと言っている「宗教家」でもある。

少なくとも、自分の言動(予言)は人類の平和の為にだと言っている人なのである。

それとも、ジュセリーノもイラクでならばどっちみち多くの血が流されるということはしかたのないことだと割り切っているのであろうか?考えたくはないね。

しかし、ジュセリーノはアメリカ政府に協力したよなんてことを言い出したのである。黙っていたってかまわないはずだ。

何故に裁判を起してまで自分のもたらした情報の有用性と正しさを主張する必要があるのかだ。

それらの疑問を全てひっくるめて矛盾せずにまとられる答えはひとつしかないと思うのだが。

やっぱり「金」だろ。(笑)

それくらいしか思い浮かばないのである。日本に住むひとりの人間としては。

少なくともこのころジュセリーノの頭の中には、イラクの平和の為になんて考えはこれっぽっちもなかったはずだ。あったら絶対に名乗り出たりはできません。あなたがもしジュセリーノの立場だったらどうしますかね。なんて無茶振りしてしまったが。

「フセイン元大統領がアメリカの手で捕まる」なんて多くのイラク人にとっては屈辱以外のなにものでもないだろうし。

ジュセリーノは当時すでにもう45才を超えていたいい年こいたおっさんなのである。(まあ自分もだが)そういう分別というものはなかったのであろうか。(まあ自分もだけどさ)

日本にもいるジュセリーノの肯定派の人たち、このことについては真剣に考えたほうがいい。君達の宗主の実体に迫る糸口にはなる。

このことを自分に教えてくれたのは他の誰でもない、ブラジルにいるジュセリーノの予言を信じている人達である。そして彼らは悲しんでいるのである。

彼らのようにはジュセリーノの行動に悲しみを感じないでいるという日本のジュセリーノ肯定派がいる。というかそっちのほうが大多数だろう。

彼らは(キリスト教徒としての慎みなどどこにもなく)ジュセリーノの予言は当る物だという前提だけを頑なに信じている。信じているだけでなく多くの人にそれを吹聴することに喜びを感じている。

それがどれだけ人を苦しめたり悲しませたりしているのかだとか、不安を撒き散らしているのかなどということなどこれっぽっちも考えてもいないようにしか見えない。

「30メートルの津浪」なんて子供みたいな脅し文句を使えば皆が注目してくれると夢想しているたちもいる。

毎日のようにそういう下らないメールを自分のところに送って寄越している人もまだいる。

そういう人たちに言うのだが、人として異常とまでは言わないものの、何か大切なものが欠けてはいまいかね君たちは。

ブラジルにいるジュセリーノの予言を信じているという人たちの方が君等の何倍もジュセリーノの予言については本気で信じている分だけ、悲しんでもいる人も多くいるのである。

そしてもっと良くないのはこういう「予言」であるとか人を不安にするような低級なオカルトで飯を食っているという連中なのであるが。

ブラジルから送られてきたこのメールをすべて紙にプリントしてまとめて束にして「たま出版」に送ろうか?それとも丸めて韮沢氏の口にねじ込んでやったほうがいいのか?

ちょっと今、自分はそういう連中に対して本気で怒りを感じはじめている。
その理由は次の項に回すとする。文体も変えなければならない。

2007年4月27日金曜日

070427 その4 FAQ的なもの  

【ジュセリーノ予言の真実 0427】 その4 FAQ的なもの  

で、帰ってきて(実質12日ぶりとなる)こっちのメーラーを開いてみたらとんでもないことになっていた。こっちのメーラーだと一度に受信できるMAXが100通になっている。なんとも無駄に大きい設定だと思うかもしれないが、迷惑メールの類を全て受け入れにしておくと必ずしもそんなにも無駄な設定というわけでもないのだが。

それでも全て受信(トレイに移)し終わるのに約20分、回数にしてざっと10回近く、メール数でいうのなら800通は超えているはずである。それも、予め迷惑メールの類はアドレス毎に除いてての話である。

アドレスごとに並べ直してみると同じ人物が毎日のように何度もメールしてきている。

そういうのに限って内容が非常に下らないものだったりする。内容を要件ごとに分ける。


その1:ジュセリーノの予言の素晴らしさにはやく気がつけこの馬鹿!

というもの。よくあるパターン。むしろ人として大切なものとは何かということに気がついてないのはこういう人たち。


その2:たま出版から出ている本をちゃんと買って読んでから批判しなさい。

というもの。それについては何度も書いていることだが、その必要は今はあまりないと思っている。今自分にとって必要な本があるとすればそれはまず原書の「O Homem Frente das Profecias 」の方だ。自分がやっているのは、目的としているのはまず「ジュセリーノの予言の批判」である。いくら「たまの本」に書かれていることを批判してみてもそれはつまるところたま出版に対する批判であったり、あるいは韮沢潤一郎氏に対する批判でしかないことになりかねない。その可能性はものすごく高いのだ。であるからして、自分は原書を入手したあとでその不完全な訳本としてその「たまの本」を買うなりなんなりして手に入れようと思っているということだ。地道だがそのためにちょっと入手に苦労はしたが葡日・日葡辞典であるとかポルトガル語の参考書は手許に置いている。

それにもし今自分がそんなたまの本なんて読んだらどうなるか。書くことが滅茶苦茶多くなって収拾がつかなくなるだけだ。しかも(ジュセリーノには直接関係のない)どうでもいいようなことばかりになるであろう。流石にそこまでヒマではない。


その3:ネタ切れで(旅行を口実に)逃げてるんじゃないの?

というもの。アホか。逆だわ。おかげで今この状態なのである。とりあえず今日明日の予定で今まで滞っていたものを書き直ししたり、まとめたりして何個も記事をアップしている状態である。「悔しかったら君も(自分と)同量(毎日原稿用紙で10枚以上換算)のメールをして来たまえ」とでもいいたくなるような程度の低いメールである。


その4:推測だけ人を批判したり物を書いたりしてはいけない。ちゃんと根拠を示してから批判なりなんなりするべき(韮沢氏批判に対して)

その言葉そっくりそのまま韮沢氏にその批判を向けてください。


とまあ、目についたありがちな反論というか批判に対してFAQ的に答えてみた。

さて、それでも個別に答えた方がよくはないかというものもあることはある。しかしそれらはやはり以前ここで書いてきたことであるので、

批判するのならばそれでもいいのだが、もちろんかまわないが、せめてまず順にこのブログ全てに目を通してはくれまいか。

というのも、あとからやってきた人たちに歩みを合わせていたのではいつまで経っても先に進まないのである。自分が書いていない、説明をしていないというのであればそれは自分の説明責任としてここでもちゃんとした説明はするが、過去なんども書いて来たようなことをここでいちいち繰り返していたのでは、逆にいままでこのブログを読んできてきてくれていたという人たちに対してはむしろ邪魔なだけなのである。そのことに対する理解を求めたい。

最近では(おそらくブラジルからの)英語のメールの方が多くなってきてその対応に追われている状態になっている。

はっきりいうが、日本国内での二次的な情報を元にした議論であるとかがいかに空しいものだったかということを今ひしひしと感じているところだ。

それくらい、今日本で喧喧諤諤されているジュセリーノに関する話題と、ブラジル本国での彼の実像には違いがあるかということを知ったからである。

そういう目で見ると、日本の掲示板で「肯定派」の人たちが繰り広げているジュセリーノの予言に対する擁護というものがいかに的外れなものなのか、贔屓の引き倒しになっているのかということについて、かなり高飛車な態度ではあるが、これからはそれについても書いてゆかなければならないと思っているところでもある。

070427 その3 「カルト」だよなぁやっぱり 

【ジュセリーノ予言の真実 0427】その3 「カルト」だよなぁやっぱり 

さらに旅行前にだが、ある評論家の方からも同じようなメール、というかメールに貼り付けた一文を送って頂いていた。

自分は不明にしてこの方を存じ上げなかったのだが、ぐぐってみるといくつも名前が出てきたり、該当するページにぶちあたるのでちゃんとした活動実績のある方のようである。

匿名を条件に(これからの活動に支障をきたさないためにだ)その内容を一部ここで紹介させていただく。

一言でいうならば、ジュセリーノが宗教家であるという側面を日本で伏せたまま紹介してしまったのは、たま出版というよりも最初の段階でテレビ局から釘を差されたからではないだろうかというその方の推測である。この方もジュセリーノの予言はオウムと同じでカルトであると断言している。

やはりジュセリーノの予言というものがひとつの宗教セクト(カルト)からのものであるということが明らかになると、どうしても日本では「オウム真理教」を想起させてしまうので拒絶反応も大きいだろうし、不謹慎であるとのそしりを受けかねない。

以前、ビートたけしはテレビで麻原彰晃(松本智津夫)と対談したり持ち上げるようなことをしてしまい結果的にオウムの犯した犯罪の片棒を担ぐまではいかないまでも、少なくともそれが明らかになるまでの時間を引き伸ばしたひとつの要因にもなってしまっている。

そしてそれは今でも彼(ビートたけし)のトラウマに近いようなものになっている。それでそのことを熟知しているテレビ朝日側がビートたけしの冠番組内でこのままテレビで扱うのには不向きと判断して「予言者ジュセリーノ」像というものの組替えをして「単なる予言者」ということにしまったのではないか。局はそのあたりまでは神経質になっていたのではないかと推測している。

また、他の新聞やテレビ局としてもジュセリーノの実体がカルトであると知っている以上、たとえ面白半分だとしてでも扱い難い。それで無視を決め込むしかないのではないか。(ここだけ、自分は別の理由があってそうしていると思っている)

ということを書かれていた。

(正直、自分は最後の部分には違和感を感じている。他の新聞・テレビがジュセリーノについて触れていないのはもっと別の理由があるのだと自分は思っているからだ)

しかし概ねのところ流石というかこの評論家の方の言うことには非常に理があると思ったのである。

そういう前提というか推測の元にあの番組のあのジュセリーノのコーナーをもう一度見てみたからだ。

たしかにそのとおりのようである。ジュセリーノ自身は「神」という言葉で表現している部分にナレーションでは日本語では「なにものかが~」という言葉を使っていると推測することは難くはないのだ。

なにしろジュセリーノのHPであるとか本(原書だよ)の前書きに書いてあることとそのまま一致する。

まあそうでなくとも、もし本当に彼が純粋な意味でのクリスチャンならば絶対にカルマ(業)なんていう言葉は使わないであろう。ジュセリーノ自身の言葉としてこんなものが発せられていることを見つけた段階で本来ならば警戒すべきだったのである。

オウムがキリスト教的な「終末の予言」というものを取り込んだように、あるいはそれをひっくり返した形で仏教的なものを取り入れたカルト的なキリスト教はいっぱいある。統一教会だってそんなもんだ。あれは儒教だが。

で、「ジュセリーノの予言」にもやはりそういう症状だけは出てしまっているのである。

さてここからは私かまたの一方的な推測になる。ということだけは予め言っておく。

セクト(カルト)が急進化してゆくプロセスにはある一定の法則がある。

そのひとつはヤバくなってくると「期日を区切った予言をしてくる」ということがあるのだ。

わかりやすく言うと「ここまではっきり言い切ったのだからおまえら俺の言うことを信用しろよ!」という教祖の心の叫びである。で、それが過ぎて予言が成就しないとどうなるか?

教祖が自殺したり犯罪に走ったり、あるいは集団自決の道を歩んでしまうのである。

ガイアナの人民寺院、ヘブンズゲートなど、この道を歩んでしまったセクト(カルト)は枚挙にいとまがない。

「アセンション」だとか「2012年の人類滅亡の予言」もそうだと言える。まあ彼らがずるいのは、そのときが来ると平気で引き伸ばし工作にかかるところであるのだが。

1999年に火星人が地球を攻撃してくる、とテレビで断言してしまった韮沢潤一郎もまたカルトの宗主である。なんか火星人の都合で延期になったそうですけど。そうなると「カルトごっこ」か。

「リアル鬼ごっこ」という小説があったが、彼の場合は言ってしまえば「リアルカルトごっこ」だ。

ジュセリーノもまた「今年の12月がある種の期限である」という予言を出している。

果してこの時期がきたときジュセリーノはどうするのであろう?
延期するのか?それとも「スイッチは入ってしまったのだ」という宣言をするのか。

自分が望むのは、だからその前にジュセリーノの予言の嘘というものが満天下に暴露されてしまうことなのであるが。

日本よりもブラジルで先にだ。

まあそれで英語のページにそういうことを書いておいたのだが。

(つづく)




【追記】
「カルト」という言葉を持ち出してきたものだからこのあたりで今までとは違う別の意味での抗議のメールが多く来るようになった。

これはやはり「カルト」というとイコールそのまま「オウム」しか連想しないごく一般的な日本人のヴァージナルな反応といっていいだろう。

SECTとCULTの区別は確かに難しい。国によっても違うし人によっても違う。ただしジュセリーノの本国ブラジルにおいてはSECTを意味するものとCULTを意味するものには殆ど違いはない。だからブラジルからはそのことに対する抗議というかメールはほとんどなかったのだし、実際これはどこまで書いていいことなのか微妙な話なのだが、「統一教会」も「創価学会」でさえブラジル(と南米全般)ではカルトだと見なされているのである。

要は、純粋なカトリックと広義のクリスチャニズムまではともかく、そこからからはみ出て他の宗教にまたがったような教えをひろめているもの全てが「SECTでありCULT」という概念なのではないだろうか。よくはわからんが。消去法的に推理した結果なのだが。

したがってクリスチャニズムにはない「カルマ=業」という言葉で自分の考えを説明しているジュセリーノはいくら自分では「カトリック教徒である」といってもやはり立っている場所は「カルトの領域」なのであろう。そういうことである。つまり自分の説明というのはそういうことを指してのことなのである。

070427 その2 津波(津浪)に関すること

【ジュセリーノ予言の真実 0427】 その2 津波(津浪)に関すること

5月発売の「ムー」6月号にそのジュセリーノの特集記事が載る。おととい書店向けの雑誌の集合広告ポスターを見たら載っていた。

ジュセリーノでなくてジョセリーノになっていたが(笑)

この学研の記事は(自分も前に書いたことだが)韮沢氏が個人として直接学研に持ち込んだ企画である。会社対会社のものではない。テレビ朝日に対するアプローチのときもそうだったが韮沢氏の単独の売り込みの時はもう少し校正とかには気をいれてやってほしい(受け入れ側がだが)。再び日本に「ジュセリーノ」なのか「ジョセリーノ」なのかの混乱を招く元になるからである。っていうか受け入れるなよなぁ。あとで自分達の信用を落とすだけになるのに。(註)

やはり、ジュセリーノ本人の動きだけを追っていたのでは、日本では興味が薄れてきているのを敏に感じ取って「金正日」であるとか核兵器の予言であるとかを持ちだして来ているのだろうが。

相変らず底が浅い。そんなことをして向こうでジュセリーノが語っていることと日本に流布していることとの違いがバレたときにはどう収拾をつけるつもりなのであろう?それすらもジュセリーノの責任として押し付けてバイバイしちゃうのだろうか?たま出版は。というか韮沢氏は。

やはりジュセリーノも組む相手を間違えてしまったようだ。まあそういうことはジュセリーノ本人にもメールは送っているのだが。実は。

「あなたの本を日本で出した『たま出版』の社長のニラサワという人は以前「1999年に火星人が地球に攻めてくる」と真剣にテレビで語っていました、ということを含めて。

本当のことだから別に構わないよな。

さて本題。日本のウィキペディアにも載ってしまったことなのだが、

今年の7月13日(あるいは来年の同月同日)30メートルの津波が起きるという「予言」がある。

このことに関して問い合わせのメールが相当数来ている。今この文章を書くに当って数えなおしてみたのだが17通もあった。数えてはいないがコメントにも相当数あったと思う。

人それぞれだが、中にはウィキペディアにも載った「予言」ということで深刻に捉えているという人もいる。やはり小さな子供を持つお母さんとかの立場の人が多いような気がする。「二児ママ」さんや「ひつじこ」さんという方からはこの件に関してかなり長いメールを頂いた。

罪作りなことをするものだ。ウィキペディアの執筆陣も。

もちろんその「真の狙い」はわかっているつもりだ。この「予言」、すぐに「外れ」の判定が出せるものだからだ。これがもし今年ではなくとも「半分外れ」の判定は出せる。そもそもがその程度の志の低い予言でしかない。そこを点いてきたのであろう。

もっともよく読めば「現在審議中」とのことでいつこの件に関する記述が削除されても不思議ではないのだが。もちろん削除を求めたいのはむしろ肯定側の人たちであろうが。

この予言の凄いところは「津浪」をもたらす原因(地震)に関する予言ではないということだ。ただ単に「30メートルの津波が来る」とだけ予言している。しかも「どこに」という場所の記述すらない。

馬鹿か。これのどこが予言なのだ。「警告」なのだ。ただの脅しというかホラ話をもとにした詐欺だろう。ジュセリーノも詐欺だがこれではジュセリーノに輪をかけたような詐欺行為である。

そもそも、自分はこの「30メートル」という表現を見たときに不謹慎な話だが鼻で笑ったクチである。

おそらくはこの「30メートル」という表現を使った人は津波(津浪)のことをよく知らない。知っていたのなら絶対に「30メートル」なんて言い方はできないからである。

「30メートル級の津波」というものがどんなものなのか自分はその被害地に行って見てきたことがあるのだ。岩手の三陸海岸沿岸に何箇所かある。

行けばすぐにわかることなのだが、いわゆるリアス式海岸というやつで山がすぐに海岸に迫りVの字型に入江が狭くなっているので発生した津波が陸側に迫ると逃げ場のなくなった津波の勢いが増しさらに海面が上昇してこのような記録的な「津波」になってしまうのである。

そもそも「津波」の何センチであるとか「何メートル」という表現は津波の規模であるとか大きさを表現するものではない。どこぞの沿岸や川岸ではこのくらい水面が持ち上がる危険性がありますよという一種の警告でしかない。

もちろん30メートルの津波といってもいきなり30メートルの波頭が襲ってくるとかそういう警告でもなんでもない。

だからこういう表現というものは、たとえていうならば、こどもが(あるいはこどもに向けて)「でっかいおばけ」というのと同じである。
とりあえず「大きい」とだけ言えば怖がるであろうとかの程度の低い脅しなのである。たとえ小さくても「おばけ」であるのならばそれだけで「恐怖の対象」となるはずなのに「でっかい」とか付け加えたためになんとなく漫画っぽくなってしまったとしかいいようがないのである。

だからこんな「予言」は「ただの脅し」にすぎないし、こういうことを「予言」であるとか「警告」であるとか言って書く人はアタマがいかれているか、でなければ本格的な幼児脳の持主でしかないと思う。

それにたとえそれが「10分の1」の3メートルであっても津波は恐ろしいものだということは3年前のインドシナ沖津波の惨状を見て我々は学んだはずではなかったのか。違うのであろうか。

改めていうが、こういう予言を「当たるものである」と肯定的に捉えて言いふらすというのもかなり犯罪的な行為ではある。

しかし、それ以上に問題なのは、こういう「怪しい予言」で飯を食っている連中というものが現実に存在するということだ。それは絶対に許してしいけないことだと思っている。

というか自分にとってはすでにそうだが、全ての人にとっても軽蔑すべき対象でしかないのではないか。職業に貴賎なしとはいうものの、オカルトで飯を食っている連中はやはり賤(いや)しいのである。もしその自覚がないとすれば問題はそっちか。

以前「まちゅーら」という名前でメールを送ってきた女子高生の方が4月から大学生になったということで新しく「うらこまち」という名前でメールを送ってきた。

同じクラスにブラジルからの留学生がいて彼女たちと話をしたときに(日本人の)誰かがジュセリーノの名前を出したらそのブラジル人たちはクスッと笑って「愚かな者にもそれに見合うだけの神はいる」という意味合いの言葉を言ったのだそうである。また、「日本でオウムの事件があったりするように世界のどこにでもこういう困った宗教はある」というようなことも言ったとか。

鋭い。この人のメールにはいつも新しいことを気づかされる。

確かにその通りである。よく考えてみるとジュセリーノの言っていることはノストラダムスの予言のへんてこ解釈を持ち出してみるとよくわかることなのだが、オウムの松本智津夫がかつていっていたことともよく似ているのである。
(つづく)


[註]




 学習研究社という会社の社会的信用のことを憂いているのである。この記事のこの部分を読んで「なにか、オマイさんは『ムー』という雑誌に社会的信用を求めているのかい?」であるとか「『ムー』にはそんなもの最初からありません(笑)」みたいなメールとかを頂いた。
まあ、確かに「ムー」という雑誌はそうだろう。でもやはり「ムー」もやはり学習研究社という歴史と実績のある出版社(最近は単純に出版社とはいえなくなってきているが)から出版されているのは事実なのである。もう代変りも済んで、旧「UFOと宇宙」時代からの生き残り編集者なんていなくなって久しいし、ムーを発行している会社が学研に合併吸収されて、今「ムー」の編集部にいるのは殆どが学研の社員とその契約編集者だけのはずだ。
雑誌「ムー」と不定期刊行誌であった時代の「TAMA」との関係についてはいまさらながらだが、たま出版の人間(しかも代表権のある社長だ)が学研の雑誌に企画を持ち込むというのも、これもひとつの時代の流れなのかもしれない。良い企画がないんだろうなぁ。お互いに。(オカルティズムとは想像の世界であるからして、今こういうオカルト雑誌をやっている人間の想像力そのものが貧困になって、イタズラに人を驚かせたり恐怖を味わせるような幼児向きのホラーとかに片寄るのではないかと愁る部分もあるのだが)




※追記
「津波」と「津浪」がごちゃごちゃしていてこんがらがるので統一すれば?というメールとかが結構あった。自分としては使い分けているつもりであったがこの記事ではその正しい使い分けが出来ていなかった。多分ものすごく怒っていたからだと思う。すいませんでした。訂正しておきます。

誰に対して怒っていたかといえば、もちろんこういう嘘の予言を撒き散らしている連中にだ。

もちろん、正しくは「津波」なのであるが、「30メートル級の津波」などと書いているのでそれは「津波」じゃなくて「津浪」だろうというつっこみということでここでは「津浪」を連呼していた。

「津波」とはなにか? 予言として「津波」という言葉を使っている人にはこの質問に対して正しく答えられる人はあまり、いや殆どいないだろう。だから平気な顔して「30メートルの津波」などと書けるのであろう。そういう人には「30メートル級の津波」などという言葉(たとえ戯言の予言もどきだとしても)は使ってはほしくないものだ。

あなたが言いたいのはそれは「津波」ではなくて「津浪」だろ?ということだ。

津波とは何か? 一言で言えば地震や(海底)火山の噴火など地殻の変動で生じた(噴出した)エネルギー空気中に開放されずに海水であるとか河水に伝わったもの、あるいは伝わる現象のことである。

仮にそのエネルギーが開放される方向が塞がっていなければだが、そのエネルギーは合力となって波紋状に周囲に広がってゆく。仮に真横から見ればそれは半球状に広がってゆくのである。

したがって(という言い方もおかしいのだが)仮に海面が30メートル持ち上がったとしてもそれがそのまま30メートルの高さを保ったまま広がってゆくということではない。位置エネルギーが運動エネルギーに変わるということは高低差が小さくなるということだからだ。

だから「30メートルの津波」という言い方はおかしいのである。どこで30メートルになるかが問題だからだ。もし波頭が地上より30メートルも上になるという意味ならばそれは「津波」ではなくて「30メートルの津浪」でしょ?ということを言いたいのであるが。

だからそういう「30メートルのつなみが~」とか書いていたり言っていたりする人がいたら鼻でせせら笑うのが正しい態度なのである。

問題はどの場所でどのくらいの波となって海岸や河岸、湖岸に届き、どのくらい潮(水)位が上がるかのほうである。

それに、何度も繰り返すようだが、たとえ30メートルでなくても、その10分の1の3メートルの波が押し寄せてきても津波が津波である以上それは恐るべき力を持っている。ただの「波」ではないからだ。

そういう現実というものを観る目を持たずして「30メートルのつなみ」などと言っている連中など、はっきり言うが私に言わせばただの「嘘つき」の亜種である。

そういえば昔ニラサワ氏がテレビで「精神的なエネルギーというか念を送ることで雲(積乱雲というような限定ではなく雲全般)の形を自由自在に変えることが出来る(人がいる)」といってスタジオにいた学者達が大爆笑になったことがあった。

きっとニラサワ氏は何故学者全員が大爆笑になったか今でもわからないのであろう。(最近も同じようなことを言っているからだ)可哀想な人ではある。

(答え:雲にはもともと大きさとか形というものがない。大気中の水蒸気の集まりの濃い部分が光を屈折させてそこにそういう形のものがあるかのように見えているだけである。「雲の形がかわる」ということはそこに流れている風であるとか上からの太陽の光、あるいは地表などで発生した熱などの影響を受けているということであるから、自由自在に操って形を変えることが出来るということはありえないのだ。そう雲が雲としてそういう形に見えるということは太陽の光というものが大きく作用している。でなければ月の出ていない闇夜になると「その雲を透して星の光が見えることもある」ということが説明できなくなるではないか。昼間見える雲というものは様様な要素によってそこにあるように見えているに過ぎないのである。雲の「大きさ」だって、つまるところは周囲との対比でもってなんとなくあるといってもいいくらいのものでしかない。

だから、その雲の形を自由に変えることの出来る人というのは、ふりそそぐ太陽の光さえも自由に操れると言っているのも同じことになる。そんな奴はいないだろ、いくらなんでも。

ニラサワ氏が嘲笑の対象となってしまうのは、こういうどちらかというとただの「お話」として楽しめばいいような事に「精神的なエネルギー」であるとか「検知器で計測された事実である」とか余計なものをくっつけて持ち出して来て、自分の話に「(他の人とは違うのだという)箔」をつけようとしてしまうからだ。いや、素人相手にこのような与太話を披露するのはまだかまわないとしてもだ、いくらなんでも本物の物理学者や気象学の研究者に向かって「いつもと同じ感じ」で語ってしまうからその無謀さと無防備が笑われるのである。

あるいは「物理学の常識を覆すような事実が次々と出て来ている」とやたら挑戦的なことを口走るので「口撃対象にされる」のであり、結果自分が恥をかくような目に遭うのであるが。

まあそれが自分の意志であるのならばそれでもいいとしてだ。問題は「オカルティズム」というものをただ単に自分の商売道具としか考えておらずに、自分の出版社から出た本を売るためだけにこういう浅はかなことを喋りまくるとどうなるか。「仲間」というか「同士」からも疎まれて孤立するだけなのである。

結果自分の首を締めるようなことをしているのである。そのことにこの人はまだ気がついていない。いやもう今さら気づいても遅いのかもしれないが。


タグ: ジュセリーノ 予言 津浪 たま出版 オウム真理教

070427 その1 訂正・その他

 
【ジュセリーノ予言の真実 0427】 その1 訂正・その他

今日の分から新記事になる。

思ったよりも記事の更新がうまくいっておらずに陽の目を見ずにいる原稿が何本かあるのだが、先に片付けなければならないことが山積みの状態なのでそちらから手をつけることにする。

自分はテレビ朝日に対して質問状を送るつもりでいる。

というのも以前「テレビ局には視聴者からの問い合わせに対してならば真面目に対応すべきである」と書いたあとのことなのだが、必ずしもそういう対応をされていないというメールとかがチラホラきているからだ。

しかも問題だなと思う個所もまだ多いようでてそこが気になる。

そのメールの内容はまだここでは公開はしないが場合によっては公開したいと思っている。自分の出したメールもだが、向こうから帰って来たものもだ。


次に訂正である。

0404「ノストラダムスとジュセリーノ」の記事の中でジョセフ・ド・メイツの名前を出したのだが、正しくは「ピエール・ジョゼフ・ド・エツ」もしくは「エーツ」(Pierre-Joseph de Haitze)だとのこと。「メイツ」というのはトゥシャールという人が翻訳したときに生じたHとMの誤植に過ぎないらしい。

しかし自分は何年間もずっとエツのことをメイツと書きつづけていた。自分だけではない。当時自分の周囲にいた人皆がそうだった。こういう恥ずかしい集団でそろっての間違いというものやはりあるのである。ノストラダムスのような有名なものに関しても。


次、4月18日付の記事の中で

ジュセリーノのHPをよく見ると、ジュセリーノは自分が「教授」であることをことさら強調していて、その授かった「名誉教授」の証書の画像をアップしている。

と書いたのだが、これだけだと誤解を招く怖れがあるという指摘が結構あった。言われてみればそのとおりだった。自分のミスである。あれではまるであの賞状のことを教授の証明書だと書いているかのように読めてしまう。「証書」ではなくて「証拠」と書くべきであった。

この部分についてもう少し詳しく説明する。

ジュセリーノは突然という感じで自分の肩書きを「教授」にした。(英語での意味でのPROFESSOR=教授にしたという意味である)その「教授である証拠」としてジュセリーノがマスコミに向けて出したのがのあの賞状(一種の感謝状みたいなものだ)だったのである。実体はそんなものだ。

それ以外にジュセリーノがどこの大学を出てなんの研究をしていたとか、どういう論文を提出したとかどこの大学で教鞭を振るっていたとかの実体のある教授職を証明するものではない。

あくまでも「名誉教授」である。というよりもこの叙勲状(感謝状?)以外にジュセリーノのことを「英語の意味でのprofessor=教授」と明記したものはまったくない。というかそのことのほうが問題なのであるが。

そのことに対する明解な記述がいままでどこにもないことが問題なのである。少なくとも日本にはそれがなかった。それをうかつにも忘れていてすっ飛ばしてああいう書き方をしてしまった自分の失敗であった。

だからその部分は

ジュセリーノのHPをよく見ると、ジュセリーノは自分が「教授」であることをことさら強調していて、その授かった「名誉教授」の証拠だという画像をアップしている。

と書くべきであったのだろう。たまの本にはそういう詳しい経緯など書いていないものだから(あたりまえだが)、たまの本だけを読んで、(たまの本の記述の方が正しいと盲信して)自分の文章のこの部分を「嘘」を書いていると噛み付いていたメールもあった。しかしよく考えてみてほしい。恥ずかしいのはそっちのほうなのだが。

なんにしても誤解を招くような書き方をした自分の責任はある。ここに謹んでお詫び申し上げる。(後で訂正しておきます)

他にも問題にしたいようなメールは山のように来ている。いちいち返事を書くのも面倒なので本文でお答えしたい。

(つづく)




追記

訂正の更に訂正というのもなんかばつが悪いが。

これも翻訳のミスであった。
ジュセリーノがポルトガル語での手紙などに肩書きとして「professor=教師」というのを使うこと自体は誰にも咎められない。事実だからである。

しかしいつのまにかジュセリーノは英語で書いて出した手紙にも肩書きをprofessorにしたり、あるいは文中で自己紹介のところにも「professor」とつけて名乗るようになっていたのがどうも1987年以前の(手紙の)ことだったらしい。これはおかしい。英語の手紙であるのならばちゃんと「TEACHER」にしなければ相手に誤解を招くだけである。

というようなところからいつのまにかブラジル国内でも彼はいつのまにか「教授」という意味でのprofessorを肩書きにしているということだ。というかそのこと書いていたのである。

というよりもどう考えてもこの「1987年に手紙を出した」というジュセリーノの発言そのものがおかしいと疑問を投げかけるのがスジだな。

2007年4月20日金曜日

070420 ブラジルからのメール つづき

 
【ジュセリーノ予言の真実 0420】 ブラジルからのメール つづき

ブラジルからかなり真剣な抗議というか怒りというか反論のメールが来るようになった。さてそのメールの一部を紹介する。

彼らは本気で怒っているようだ。本来ならばその怒りの矛先、ジュセリーノに対して向けられなければならないものなのだが、そんな理屈は彼らには通用もしそうもない。

こちとらの英語力の限界というものもあるし、あるいは当然のことではあるが、メールの内容を公開するという許可を得ているのでもないのでどこまでここで書いていいのかと悩むところなのだが、少なくとも公開することの意義であるとか公共性みたいなものを考慮して幾つかご紹介する。

ただし訳したもののみになる。

アントニオさん

「日本人には信仰がないから(faithless)(そう思う)のではないか?」

エメさん

「ジュセリーノはいい人(specialperson)です。exellent(すばらしい?)考えの持主。予言は全てあたっています、ブラジルでは。日本とは違うかも。」【世界のニュースに差があってたまるか、という突っ込みを入れたくなるが】

名前無
「日本人は地獄に落ちて苦しむ。それでもいいのか?祈る。エーメン。」

名前無2
「日本でも地震(の予言)が当っているではないか。私はそう聞いている。ニュースでも見た。あなたは間違った考えをもっている。教会へ行くこと。」

まあこんな感じのがほとんどです。9対1くらいで、大多数のブラジル人が自分の言っていることに猛烈に反対意見を書いてきている。

もちろん中には割と冷静というかこのブログに書かれていることに賛同を示してくれるという数少ないブラジル人の方もいる。

たとえばリオデジャネイロに住んでいるエマさんという日本語を勉強中の学生の方からは日本語のメールを頂いている。

要約すると、ブラジル人がジュセリーノの予言をやすやすと信じるというのは日本人からすると奇異に見えるであろうが、そこにはキリスト教文化と伝統の根付いているブラジルでの特殊な事情というものがある。予言もまたキリスト教(カトリック)においては重要なものなのだということだ。

それでも多くのブラジル人は半分はジュセリーノの予言は信じていても、こころの奥底では彼を疑う気持ちもある。特に飛行機事故のときのその証明書を出したときのやり方に関してはマスコミでもかなりバッシングされたらしい。(それについてはかって自分もここで書いたことだが、要するに不謹慎だからである。)

彼女自身は学問的な「予言の実現性の有無とその確率」という側面からジュセリーノの予言は信じていないと明言している。また、やはりブラジル人の間でも天災(竜巻・地震・洪水)の予言がちっとも当っていないという事実からジュセリーノのことを「贋物」と断じているという人はいっぱいいるのだということにも言及している。

さらに最近のジュセリーノの活動についても批判をくわえている。どうもジュセリーノ、最近でも講演活動を熱心にやっているらしく(ちょっと前にそのことについて触れたが)けっこう儲けているらしいのである。

そのこと自体は別に自分は批判はしない。講演活動をしてそのギャラならば別にいくら儲けようがかまわないのではないかと思う。

しかし、ジュセリーノはその儲けを貧しい人を救済するためにやっていると言っているのだが、どうもそこが怪しいというのだ。単なる噂なので、ここでまるで鬼の首でも取ったかのように書くべきことではないのだが。ただ、少なくとも、ブラジル人のあいだからも疑いの眼差しで見られているという事実だけはあるようだ。

もちろん、ブラジルにもブログというものがあり、ジュセリーノの講演活動というものを自分のブログで記事にしていたりするのだが、最近のジュセリーノ、服装がやっぱり少しおかしくなっているのだ。

昔はそれこそ普通のシャツとズボンというような恰好だったのが、最近では白っぽい宗教服みたいなのを着て聴衆の前に姿を現したりしているというのだ。

というかそれこそが彼の本性、つまり宗教家としての本分なわけでいまさら驚いたりすることではないのかもしれないが。

さて、この記事がアップされるのは予定通りであるのなら4月の20日か21日になるはずである。残念なことにそのころ自分はこの世にじゃねぇや日本にはいない。

帰国は早くとも23日、仙台に戻れるのも早くとも24日か25日ころの予定になっている。

4月22日、ジュセリーノはブラジルで大洪水や嵐が起きるという予言をしている。もちろんそれが当ろうが外れようがそれはもうすでにジュセリーノの予言者としての軽重を問うべきものではなくなっている。前にも書いたことだが、ジュセリーノ自身以前とは違うことをブラジルで言い出しているからだ。

そのことに対するジュセリーノへの批判は別の形で顕在化しているようだ。

かつて自分が出したその予言というものに今度は彼自身が裁かれる時間が近づいてきていることだけは間違いのないことだ。このことについては、たとえジュセリーノの予言というものを肯定的に書いているひとたちにも理解の出来ることであってほしいと願っている。

まあそんな固い言い回しをしなくても、「ジュセリーノの予言がいい加減なものだということぐらいはもう薄々感じているでしょ?」ということなのだが。

実際、ブラジルの国内の方がそういうジュセリーノへの風当たりは強くなっている。にも関わらず、いまだに日本にはそのジュセリーノの予言にへばりついて彼の予言を絶対的に信じている人たちがいる。それを助長しているマスコミがある。

戦後ブラジルの日系人のあいだには「勝ち組」と「負け組」というものがあって、「勝ち組」の人たちは第二次世界大戦で日本が負けたということを頑なに認めようとはしなかった。名前は「勝ち組」だが実際には負けていたのである。現実の歴史の中では。そういう歴史の裏返しが今この日本で始まりつつあるような、そんな戯画的な光景を見せられているような妙な気分がしている。

さて肯定派の人たち、名前は確かに「肯定派」だが、何か大切な物を否定してはいませんかね?人として。

反カルト・非オカルト - livedoor Blog 共通テーマ

このエマさんという方からのメールの反響は大きかったようである。
今でもときどきメールは頂いているのだがやはり日本語のメールではツーカーなコミュニケーションは取れているとは言い難い。ほとんどが英語でのメールのやり取りになる。
(ハード的に日本語環境とは言い難く、彼女が"学校から送っている'というメールだけはなんとかなっているようだが…)もちろんこのブログも殆ど読めていないようである。

さて、この「ジュセリーノが白っぽい宗教服のようなものを着て聴衆の前に現れている」というのはこのエマさんからのご報告。もちろん彼女がブラジル人であるから日本人の自分に向けてわかりやすいそういう表現をしているのである。
このことに気がつかずにやれ「ジュセリーノをカルトの宗主に仕立てるために嘘をついている」とか書いてくる日本人がやたら多かった。たぶん同じ人間だと思うのだが2ちゃんねるでも同様なことを喚いている人間がいたのには笑えた。当人には失礼だとは思うのだが。

だって、その人間が同じ口で「あれは新年の時などブラジル人が正装として着ているので決して宗教的な意味はない」と書いていたりするからだ。

だからその「正装」にはどんな意味があるのかということを考えてから書けといいたくなるのである。もちろんその「正装」には宗教的な意味が強いから新年などに着るのである。ブラジル人の伝統についてどれだけの正しい認識があってそんなことを書いているのかは知らんが、その新年でないときにその白っぽい服装を着るというのにはどんな意味があるということになるのであろう。もちろん宗教的な意味でである。ということをそのブラジル人のエマさんが書いてきているのである。

「つくづく読解力のない人間だな」と半分諦めつつも笑わせてもらったのであった。
(2007.07.21)

※ご本人の希望により最初の日本語の手紙の部分は削除させていただいた。
(2008.11.20)

2007年4月19日木曜日

070419 HERE COME THE MAILS FROM BRAZIL

【ジュセリーノ予言の真実 0419】 HERE COME THE MAILS FROM BRAZIL

ここに来てやはりブラジルから来るメールの数がぐっと増えた。

どうもこれは単なる推測ということではなく、このブログ、ブラジルにおいても認知度はかなり上がって来たようなのである。

ひょっとすると世界一活発に更新を続けているジュセリーノ関連ブログになってしまったと言ってもいいのかもしれん。いやマジで。

少なくとも、最近ブラジルで頻繁に更新をしているジュセリーノ関連のブログはほとんどなく、最新のものでも一週間前とかそういう感じのものしかないときはかわりに外国のブログが上がっていることが多くなっている。外国ったって結局は日本だけだ。

その中で英語で書かれているものは自分のこのブログだけだから、自然と普通のブラジル人が読むのもこのブログということになってしまうのだと思うが。

っていうかそれが狙いなんですけどね。

回り回ってこのブログの存在がジュセリーノ本人に伝わればいいのだが、どうもジュセリーノという人はインターネットにはあまり興味がないらしい。本当かどうかは知らないが。

で、来るそのブラジルからのメールなのであるが、結構皆真剣である。

というか怖い、はっきり言えば。怒っているということがはっきりと伝わってくるようなものもかなり来ている。

これでも自分は対外経験は少なくはない方なのだが。自分にとっても未知の領域に入ってしまったなという感じはある。そのことに対する恐怖である。

これからどうなってゆくのか。ある程度はシミュレーションはしているのだが。
いい結果を産めばいいのだが。


※ やはり予定投稿記事がうまく更新されていませんでした。順番は逆になってしまいました。それで必要な部分だけを残してあとは別のところで書き直します(2007.04.23) 

2007年4月18日水曜日

070418 何故ジュセリーノは「教授」なのか

【ジュセリーノ予言の真実 0418】 何故ジュセリーノは「教授」なのか


まだ、自分のやっていることが誤解されているなと感じることは少なくはない。

今でもメールやコメントの書き込みで「何故そんなに本気になって、ムキになって予言を否定しているのか?」みたいなものがある。まあそのこと自体、それ自体はかまわないのだが(端からあきらめているというのでもないのだが)、返答に困るのは「何の目的があってやっているのだ?」みたいな質問が結構くることである。

目的もへったくれもない。そのままである。ジュセリーノとその周辺にいる人たちがついた嘘というものを明らかにして、「ジュセリーノの予言」そのものが一種のでっち上げでしかないという「真実」を暴露しようとしている。そのことで、ジュセリーノの予言というものを知って不安を抱えてしまった人たちのその不安を解消させる役に立てばそれでいいのである。

今(日本の)世間に出回っているジュセリーノの情報というものだけでも、「よく読んで、よく考えれば」その欺瞞はいくらでも出て来ている。

でなければこんなに自分も毎日のようにブログに書いたりとかはなかったであろう。その点でいうと、自分はある意味ものすごく楽をさせてもらっているということも出来るのだが。

1月の末に「ついでに」という感じでジュセリーノの予言というもののおかしな部分についてこのブログに書いたところ、予想外の大きな反響があって当の自分が困惑してしまった。

その反応の多くは「目が覚めました。こんな騙しに引っ掛かって本気で心配していた自分が馬鹿馬鹿しく思えてなりません」であるとか、「こういう迷惑な予言をたれ流しにしているテレビ局や出版社に対してものすごく腹を立てています」というようなメールであるとか書き込みである。

自分が軽く考えるよりも実体はやはりジュセリーノの予言に対して不安を感じていたという人は多かったということなのだろう。

そもそもは「ジュセリーノの予言」そのものよりも「ジュセリーノの予言」というものを利用して本を売ったりテレビの視聴率を上げようとしていた日本のメディアであるとかそういう動きに対する批判と暴露しか頭にはなかったし、それで終わりにしようとさえ思っていたくらいである。

それがここまで続いてきたのは、自分以外にはこれといって自分の責任でこのジュセリーノの予言というまやかしを本気で批判したりその嘘に気づいて(それがどれだけ有害かという観点から)ジュセリーノの予言を叩こうという人が出てこなかったということもあるのではないだろうか。

だからなんかそういうものが自分のところにだけ集中してしまったという気がするのである。違うのかな?

そのときに寄せられた多数のメールであるとか書き込みが今こういうこのブログを続けている大きなモチベーションになっているというのは動かしがたい事実である。少なくとも自分の中では。

もともと自分がやっているのは非オカルトであり、反カルトでもある。そういう旗印を掲げている。もしジュセリーノの予言がきっかけであちらへ行ってしまいそうな人がいるのならばそれは絶対に阻止する。あるいはむこうへ行ってしまった人がいるのならばはやいとこ気づかせてこっちへ引きずりもどす。

だからそのためにはこのブログは続ける。それに「ジュセリーノの予言」は直接は関係はない。

そのことだけは理解していただきたい。ジュセリーノの予言の真贋とこのブログの存続はまったくの別物なのである。

どういうことか、もっとわかりやすく言えばだが、「このブログを閉鎖しろ」とか書いてきているメールに対して、「オマエラは馬鹿か、よく読め」と言いたいのである。

(ジュセリーノの予言を本物だと言いふらしている)そういう人たちにこのブログの存在がものすごく目障りなものだということだけはよくわかった。

これもやはりブラジルからのメールに目を通していて気づかされたことなのだが、(ブラジルからメールを寄越してくる人の殆どはジュセリーノのことを本物の予言者だと信じているようである)彼らはジュセリーノのことを「教授」と呼んでいる。英語のメールであってもだ。

ここに大いなる違和感を覚えるのである。たとえばこれがポルトガル語で書かれているメールであって肩書きがprofessor(prof.)になっているだけならばそうでもないのだが、たとえポルトガル語でPROFESSORには教師という意味であると言われても(英語で)自己紹介する文章の中にPROFESSORと書いていたり署名にPRO.と肩書きが打たれていたりすると相手に対して誤解を与えるだけで良い結果は生まないと思うのであるが。違うか?

しかもどうもジュセリーノ、意図的にPROFESSORという言葉を「教授」という意味で使っているっぽいところがある。

英訳されたものも(自分で英語で書いたのだろうが)PROFESSORのままであるし、調べてもらったところブッシュ大統領(父親)へ出したと主張している手紙(英語で書かれている)も肩書きとしても署名としてもPROFESSORになっている。

ジュセリーノの英文の文章をよく見ると、ジュセリーノは自分が「教授」であることをことさら強調していて、「教授」という肩書きのついたものをその証拠の画像をアップしたりしているのである。

ところが日本ではこのことに対する言及はされていないようだ。「先生」とか「師」というような敬称をつけて書いているものはたまに目につくが、ジュセリーノの書いた英語の手紙において、「ジュセリーノ教授」とちゃんと訳して書いているものってあるのだろうか?自分は見たことがないのだが。

ここいらへんも、ブラジルでのジュセリーノという人の活動の実体というものが日本ではあまり伝えられていなかったり理解されていない部分である。知らずに適当にジュセリーノの予言についてだけは「本物!」と声高に叫んでいるようなものだ。

少なくとも、ブラジルでの活動というものからすると、ジュセリーノ自身は自分のことを「教授」と呼ばれたがっている。「教師」ではなくて。

もちろん自分らのような否定派がそんなジュセリーノの希望に沿うようなことはしなくたって別段構わないだろうが、せめて肯定派の人たちはジュセリーノのことをちゃんと「ジュセリーノ教授」と呼んであげたらどうだろう?

繰り返し強調する。ジュセリーノ自身は自分のことを(英語で訳したときの意味での)「教授」と呼ばれたがっているようなのだ。

少なくとも、いまだに「専門学校の英語教師」なんて肩書きだけでジュセリーノのことを紹介している肯定派のブログの人は、ジュセリーノの意思は知っておいたほうがいいかもしれない。

自分としてはジュセリーノのことを「教授」と呼んだりすることはむしろ大賛成である。誤解のないように付け加えておくが、そのほうがわかりやすくなるからである。

信者とそうでない人間を見分けるための一種の目印になるからだ。


※ 2007.06.27 校正
※ 2007.07.07 抜けていた部分を追加しました

※ この記事も注意をうけた個所がいくつもある。このころ、このライブドア・ブログでは有効でないタグが非常に多くて、自分が再編集した原稿を入れ替えた時点で「直った」と思っていたのに、実はIEのような普通のブラウザだと「見えてない」とか「生きていない」「直っていない」という個所が非常に多かったようである。

「無知をさらしてどうすんのよ~」みたいな冷やかしがけっこう多かった。確かに(笑)
いや無知は事実だからいいんだけれど、みたいな。

で、そのジュセリーノが実際本当に肩書きとして(英語での意味での)PROFESSOR(教授)に拘っているのかどうかのほうだがそれはやはり事実のようだ。

たまの本を見るとやはり手書きした英語の手紙の中でも(署名ではなく)自分のことをPROF.JUCELINO NOBREGA DA LUZと書いているのだそうである。

単なる癖のようなものなのかもしれないが、やはりその後の活動の軌跡と見比べると、知らない人には誤解を招きそうな肩書きである。

自分も未だに昔生徒だった人に「先生」と呼ばれることがある。
しかしこそばゆいところがあるので止めてもらうようにお願いしている。
世の中には周囲の人間に自分のことを「先生」と呼ばせていい気になっている人間もいるけれど、その神経は理解できない。

今あえて自分の肩書きをここでつけるとするとあれだ。

「ブロガー」

そんなもんでいいじゃん。

2007年4月16日月曜日

070416 THE BIG EARTHQUAKE IN TOKYO

AT MARCH, THERE WAS NOT THE BIG EARTHQUAKE IN TOKYO,AS THE MATTER OF COURSE ANY PANIC TOO.

【ジュセリーノ予言の真実 0416】 THE BIG EARTHQUAKE IN TOKYO

英語でのメールの数が日に日に増している。多分殆どがブラジルからのものだと思う。たまにポルトガル語だろうなというのもあるが。

それで、重大なことにひとつ気がついたのであるが、「3月に東京で地震はあったのか?パニックだったか?」という質問は結構来ているということである。

決して「日本で大きな地震があったのか?パニックだったか?」という質問ではないところがミソである。

まあ日本で大きな地震があったことくらいはきっと知っているのだろうし、わざわざそんな質問をしてくるはずもないのだろうが、こうして「東京に地震はあった?」という質問であるということは、つまりあの

Terremoto no Japao em Toquio, provocara panico;

という予言の部分は「日本の東京で大地震が起きて ,(そして)パニックになる」と訳す(というか読む、だな)ほうが自然なのではないかという推論が成り立つということなのだが。
もちろんこれはただの自分の推測でしかないが。どうなんだろう?

もちろん自分はそういう質問に対しては

「3月、東京に大地震(terremote)はなかった。パニックにもなってない」と返事を出したし、これからもそうするつもりである。余計な事は書き加える必要もないであろう。

というかやはりこのブログ、英語版を新たに立ち上げたほうがいいということなのか。

誰かいいアイディアありませんかね?


話はかわる。蛇足である。ジュセリーノにはまったく関係がない。

毎日のように各国のYahoo!を見た後で日本のYahoo!に戻ってきてその画面を見ると、なんとなくだが昔よくあった個人が立ち上げたような趣味のHPに見えてしまうのだ。

趣味といってもどちらかと言うとあまり良くない趣味のHPである。

WEB2.0を実地していないのはYahoo!Japanと他にどれだけの国になってしまったのであろう?

googleが世界中どこのを見てもすっきりとしたインターフェイスで統一されていて、たとえその国の言語が理解できなくとも直感ですぐにつかえてしまうのとは雲泥の差があるのだ。特にYahoo!Japanは酷くなっている。相対的にだが。

自分は別のブログで「Yahoo!Japanが来年も日本でのポータルシェア№1になることは間違いないだろう」と書いてしまったのだが、最近では「そうも言えないんじゃないか」と思ってきている。

2007年4月15日日曜日

070415 四月分の訳について

【ジュセリーノ予言の真実 0415】 四月分の訳について

相当後回しになってしまったが、ジュセリーノの公式HPに掲載されている月別予言の四月分の日本語訳に関することになる。

そもそも自分はほとんどポルトガル語が読めない。そんな自分がポルトガル語で書かれたものにいちいちああだこうだといういうことはおこがましいことなのだが、ポルトガル語ができる方が訳して送って頂いたものと原文を付け合せて見てみたりして、この世には随分と酷い日本語訳が出回っているのに腹を立てて、そういうサイトやブログを諌める目的で(笑いものにするために)ここで3月分の日本語の訳を載せた。まあ、その結果はあったんじゃないだろうか。中には逆ギレしてなのか、おかしなこと(このブログ、あるいはこの私に対する中傷・デタラメなことなど)を書き込む掲示板もあったが。

で、4月分の訳であるが、もうここで自分が載せる必要はほとんどないと思っている。flashboxというブログに月別予言を日本語訳したものがあって、少なくとも事実関係だけは間違ってはいない日本語訳があるわけだし、それを見てもらったほうがいい。

ただ、一箇所
H)Atentados contra postos policiais maracarao as lembrancas do ano anterior ...


の訳だけは「訳になっていない、意味が通じていない」と困っているようだ。正直な方である。好感が持てる。

(自分もよくはわかっていないが)送られてきたものを読んだ限りでは、事件というより(おそらくはブラジルの)国内の政治に関する予言のようである。
「postos policiais」は「警察」ではなくて「政党」、あるいは「政治的な立場」ことで、「maracarao」は(楽器の)マラカスではなくて政治結社・政治的主義(=政党)のことのようだ。まあ輪をかけて不完全なことを書いて申し訳ないのだが。

しかし、こんなことを書くと今まで自分が書いてきたことを一部根底からひっくりえすことにもなってしまうのだが、ジュセリーノの四月の予言、あまり深く追求する意味がなくなりそうなのだ。

というのも、ジュセリーノ自身すでに発表していた月別の予言とは違うことを言い出している(ようである)。

驚いてみたり怒ってみてもしかたがない。ジュセリーノは昨年の暮れにも同じようなことを一度やっている。それ以前に自分が発表していた予言の一部を撤回したり改めたりしている。それから3ヶ月が経ったのでまた同じことをしているだけなのである。

このあたりがどうも日本でははっきりと伝わっていない。

以前ジュセリーノの予言を訳して送っていただいたNSさんが「4月から先は今訳しても意味がなくなるよ」と言っていたのはこのことだったし、日本では「たま出版」から本が出る時期なのできっとここいらでその改定版を載せてくる可能性はものすごく高かったと当時から充分に予想出来ていたことだったのである。

じゃあ何故その新しいものが「公式HP」に載らないかというと、ジュセリーノは失敗に懲りたらしくて(そらそうだよな)こういう形で「予言」を発表するのを辞めたのだという。

で、今では雑誌や新聞に対して直近の予言なるものを小出しにしているだけで、まとまった大きな予言(事件・事故)に関してはほとんど口を閉ざしている状態なのだそうである。

ただ、以前よりも温暖化の問題であるとか十数年先に人類に訪れる危機であるとかに関する予言(というか発言)の比重は大きくなっているようである。

まあ、ジュセリーノ自身はそれでいいのかもしれない。困るのは「たま出版」のほうだろう。「的中率90%」であるとか散々煽っておいて、いざ本を出す「直前」に本人に方向転換されたのでは立つ瀬がない。

それで「たまの本」の方では、今後の予言に関してはああいうはっきりしないものを載せるしかなかったのではないかと推測しているのだが。

まあ、あとは雑誌「ムー」との連動で、「金正日」であるとか、日本に直接関わりのありそうな恐怖の予言などで興味を繋いでゆく方針かと思われる。



【追記】
今日15日からちょっと旅行に出かけます。その間も予定投稿しておいたものが自動的に更新されるはずなのですが、ひょっとしたら更新されないこともあるかもしれない。(最近何故か多いんです)そのことに気がついたときは出先からでも更新をするつもりでいるのですが、もしかすると一日・二日遅れてしまうかもしれない。

だから更新が止まったからといって心配したり、あるいは喜んだりしないでください。お願いします。


【追記 その2】
結果的にだが、自分(達)のこの推理は当たりとはいえずとも遠からず、といったところでジュセリーノのブラジルでの方向転換(予言を撤回しはじめたのだ)をうけて日本語版の製作に四苦八苦していたようである。
それに何を思ったのかジュセリーノは日本に関する予言を弱めてみたり、場所を換えたり、延期させたりしはじめた。ある人は「日本で自分の本が出るんでサービスのつもりなんじゃないか」と言っていたが、予言とはそういうものなのか。違うだろう。いくらなんでもそれはない。

2007年4月14日土曜日

070414 セナの事故について 4

【ジュセリーノ予言の真実 0414】 セナの事故について 4

F1マニアという人種は普通の人など思いもよらないところに目がいったり気がついたりする。

これは別のブログに書いたことなのだが、自分が昨年の途中で「今年でマイケル・シューマッハは引退の決心をしたな」と確信したのは、予選後に行なわれるプレスセッションインダューの時などにキャップを被らないでいたり、レーシング・スーツのロゴに対する気配りがなくなってきたのを見たからであった。スポンサーとの契約がなければ一流のチームで走れなくなるF1ドライバーにとってはあるまじき行為であるし、M・シューマッハはそういうところまでも完璧にこなしてきたという意味では一流ドライバーの鑑(かがみ)と言えるような存在であった。その彼の行為はむしろ一種のサインのようなものかもしれない。少なくとも彼のアタマの中に「来年の契約」というものがすでに抜け落ちていたのは感じることが出来たのである。同様のことを感じたF1ファンは多かったようだ。

さて、自分がここでアイルトン・セナの事故死についてかなり熱心に書いたためであろう。やはり昔からF1を見ていたというファンからのメールを貰うこともある。大体は「良く言った!」とか「胸のつかえがおりたような気がした」というお褒めの言葉なのであるが、ここに来てものすごいメールが来た。

いや、自分もうかつであった。というか、やはり今でもセナのことを語る時、考えるときに自分は少し冷静さを欠いたままなのかもしれない。

そのメールの主はセナの事故死もそうだが、同じ1994年行なわれたサンマリノグランプリの予選2日目(4月30日)に事故死したローランド・ラッツェンバーガーについて触れている。

「何故そのジョセリーノという予言者は警告の手紙をラッツェンバーガーに出しておかなかったのだ!先にその警告をラッツェンバーガー・サイドに送っていれば彼の死も免れていたかもしれないし、そういう手紙の存在が明らかになれば決勝レースは中止になって、結果的にセナだって死なずに済んだだろうに!」という怒りで貫かれている。ちなみにこの方はラッツェンバーガーが日本にいたときにレースを何度も見ていて、彼のその頭脳的で適確な走り方というものに感心したとも書いている。

ごもっとも。思わず手で膝を打ってしまった。自分はうかつであった。しかしこのことに気がついたという人は何故今までひとりもいなかったのであろう?

自分は今そのジュセリーノの本を持ってはいない。ひよっとすると「たまの本」には記載されていなくとも原書の方にはラッツェンバーガーのサイドにも警告の手紙を送ったとかの記述はあるのかもしれない。

であるからして、今この段階でジュセリーノ本人に対してこの怒りをぶつけるというのは時期尚早なのかもしれない。

しかし、ジュセリーノが(あくまで仮定として本当にラッツェンバーガーに警告の手紙を出していないのだとすればだが)ラッツェンバーガーに警告の手紙を出さなかったとすれば彼(ジュセリーノ)はふたりのF1ドライバーの命を見殺しにしたことでもある。

酷い予言者である。そのことに対する反省といったものはないのであろうか?自分の「セナに警告の手紙を送る」という方法は端っから愚策以外なにものでもなかったということになるのだ。ジュセリーノは予言者としても失格だがひとりの人間としても、どこか何か人として大切な何かが欠けているような気がしてならないのだが。

まあこんなことを書くと肯定派の誰かからは「事故死ではなくて殺されたのはそのラッツェンバーガーの方だった。」とか言い出すバカが出てくることは確実に予想されるので(残念だったね、そこの君)あらかじめ書いておくけれど、それではジュセリーノの「的中率」はその時点で50%になっていたということでもあるし、では誰が何の目的で、何故ラッツェンバーガー(なんていう新人ドライバー)を事故に見せかけて殺す必要があったのか、そしてどういう方法で、というところまでちゃんと記述できなければ、やはりセナの死を「事故ではなく殺人である」と言ってしまったジュセリーノ同様、すぐにその矛盾に満ちた言い訳は看破されることだけは付け加えておく。

さてどんな超論理を展開してくれるのであろう。メールをお待ちしております。(嘘だよ、念のため)

まあ、2ちゃんねるでもいいんけどさ。F1に関する知識無しにいろいろと書くと恥をかくだけだからやめたほうがいいと思うよ。

反カルト・非オカルト - livedoor Blog 共通テーマ

さらにこの記事が出てからもっとそれを上回るような鋭い指摘があった。

(前略)
本当(にジュセリーノがセナの謀殺を防ぎたいと思っていたの)だったら(セナに送る)警告の手紙にはその1994年までに起きる予言の数々を付記していれば、その警告の手紙を読んだセナは次々に当ってゆく予言を目の当たりにしてジュセリーノの警告通りに決勝レースを放棄していたかもしれませんね。もしローラン・ラット(=ラッツェンバーガー)が前日に事故死することが(予知)出来ててそれ書いてればまず間違いなくセナは出走しなかったはず。
(後略)


ごもっともな指摘である。
もちろん自分はジュセリーノなんてただのニセ予言者だと断定しているのだが、もし仮にジュセリーノのことをいくらかは本物の予言者、超能力者だと信じているという人にはこのことを少しは考えてもらいたいのである。

当時のジュセリーノには本気でセナの事故死を防ごうなどという行動は起してはいなかったのである。そうとしか思えないようなことばかりをしていることになるからだ。

2007年4月13日金曜日

070413 海外からのメール

【ジュセリーノ予言の真実 0413】 海外からのメール

まず、昨日補足の欄にも書いたことだがこちらにも書いておく。

さっそくメールが来ている。昨日書いた件についてだが、
韮沢氏は掲示板で質問に対して

>「最近のやり取りで「(3月に日本で)地震がありましたね」といわれ、
>予知に満足しておられたようですが、なお機会があったら、
>ニュースを見るような予知があるのかどうか聞いてみましょう。」

と答えているのだという。まあ、その部分については自分もうっすらと記憶がある。確かに韮沢氏はそんな感じもことをおっしゃっていました、というか書いていましたね。

というか、自分としてはこの部分がひっかかっていたので昨日のようなものを書いたともいえなくもないである。

これもその不思議な香りが漂ってくる文章だなと気にかかっていた。


>>最近のやり取りで「(3月に日本で)地震がありましたね」といわれ、
>>予知に満足しておられたようですが、


ただの伝言なのか、メールなのか手紙なのか、電話なのか、電話だとしたら間に通訳を挟んでいる状態でなのか、それともネット・ミーティングのようなテレビ電話を使っての会話なのか、その状況をいろいろ推定してみると非常に味わい深いものがあるが。

それよりも自分がむっとしてしまったのは「予知に満足した状態のジュセリーノ」という部分にだ。予知に満足した状態のジュセリーノなんて誰もが想像したくはないものなのではないか。

なにしろジュセリーノは「自分の予知が当らないことを望んでいる」と言っている予言者なのだから。

それ以上の推測は不愉快なことでもあるし、無駄な想像の上にさらに無駄な仮定を重ねることになるのでこれについて書くのはここいらで留めて置く。

ただ、それぞれが自分の中でこのことについては深く考えて頂きたいことだとは思っている。

「(ジュセリーノ氏は)予知に満足しておられたようです」

と韮沢氏が掲示板での質問に答えるような形で書いていたという事実だけは忘れないようにしたい。

さて本題である。
最近になって海外からもメールが来るようになった。まだチラホラといった程度だが。それでもトータルで20通は超えたはずである。もっと来ているのかな?

やはりブラジルからのものが多い。(ドメインだけでは断定は出来ないのが辛いところだ)
「日本でジュセリーノは有名(popular)なのですか?」とか「日本のジュセリーノの反応(reaction)は?」とか「評判(reputation)は?」「bad roumour(=rumor噂=悪評だと思うが)はあるのか?」とか質問責めのような状態である。

というかやはりメールを寄越してくるほとんどのブラジルの人の場合、ジュセリーノのことを本物の予言者だと信じきっているようなのである。ニュアンスからするとだが。

まあやはりそんなもんなんでしょ。日本人の半分以上がまだ細木和子のことをよく当る占い師だとか江原啓之のことを本物の霊能力者だと信じているのと同じ事だ。

まあそれでメールの返答に苦しんでいたりもするのだが。
一応「critical side(批判的な立場)」という表明は出しているのだがなぁ・・・

名前からすると日系かなと感じるような人にはローマ字つづりの日本語文(Konnichiwa Hazimemashite みたいな感じ)も併記して送り返したのだが果してその効果はあるのだろうか。あればいいのだが。

【追加事項】

いまだその部分に関する自分の考えというものが上手く伝わっていないようなので念のためにもう一度書いておく。

「ジュセリーノの予言の本=たま出版から出たジュセリーノの本」
完全にそうだとは言えないと自分は思っているのだ。そう言っているのである。下手をすると、日本の読者はジュセリーノの予言の本を買ったつもりでいて実は「韮沢潤一郎の予言」を読まされている可能性だって考えられるよ、というようなことを言っているのだ。

もちろん翻訳物だから多少の誤差は生じる。それは仕方がない。しかし出版人であるのならば少なくも翻訳物を出すときには原書との追従性というものを念頭に置くべきであろう。ところがこの韮沢潤一郎という人にはそういうモラル・ハザード(=論理の欠如 誤用だけど)というものがまったく通用しない。

かつて「MJ12」という機密文書が世の中を騒がせたときのことだ。この韮沢潤一郎という人はいまそのときと似たようなこと、同じようなことをやっている。

かつて日本では「ノストラダムスの予言といえば五島勉が書いていること=本当のノストラダムスの書いたこと」と長く信じられてきていた。その五島勉の嘘がばれるまでものすごい長い年月がかかってしまったのである。

それと同じようなことが今回のジュセリーノにも言えるような気がしてならないのである。まだジュセリーノの本の日本語版がほかの出版社から出たのであったならば、自分は「買わないほうがいい」とかは言ってはいないだろう。そういうことだ。

もちろんだからといってジュセリーノの予言自体にもものすごい問題はある。
つまり日本の読者は二重のハンディを負わされているようなものなのだ。
それを自覚しないとジュセリーノの予言騒動がたとえ終わったとしても、第二・第三のジュセリーノはやってくるのである。たま出版から。

2007年4月12日木曜日

070412 韮沢コラム85について

【ジュセリーノ予言の真実 0412】 韮沢コラム85について

たま出版のサイトにある「韮沢コラム」は基本的にすべて韮沢氏による実筆ということになっている。

自分はその全てに目を通したというわけではないが、まず間違いなくそうだと思っている。

「文は人為り」という言葉があるが、韮沢氏のコラム全編からは韮沢氏の個性というものが滲み出しているからである。

さてその「韮沢コラム」の文章、どこまで引用していいものなのか悩むところだ。

まあ、引用とわかる程度ならば構わないというネットの常識の線だけは崩さないようにしておかなければなるまい。


その「韮沢コラム」2007.04.10の中で何度も読み返してしまった部分がある。

>上のメモで気がつくのは、「東京で」と「パニックが起きる」の間に、
>妙な「,=カンマ」が入っている事(下の拡大画像を参照)ですが、
>おそらくこの部分には、先月震災とパニックが起きた中心地である、
>「能登地方」という地名が隠れていたと考えられます。

>一般的な日本人にとって、サンパウロとリンドーヤの
>地理的な認識がまったく無きに等しいのと同様、
>一般的なブラジルの人々にとっても、
>東京と能登半島の認識が明確でないことは容易に想像できます。
>また目覚めてメモ書きしようとした際、
>地名に関する記憶が落ちてしまったので、
>ひとまずここに「,=カンマ」を入れておいたという事も考えられます。
何度も繰り返し読んでいると、脳の中のいつも使っている部分とは違う所が疲れてくるような文章である。まるでバロウズの初期の小説みたい。
まず、

>「能登地方」という地名が隠れていた

ということと

>東京と能登半島の認識が明確でないことは容易に想像できます。

というのは違うことだ。場合によってはこのふたつは相反する。

このことに韮沢氏はまったく気がついていない。これではジュセリーノの代弁をしたことにはなっていないだろう。想像だけでものを書くとこうなるという悪い見本である。

>一般的な日本人にとって、サンパウロとリンドーヤの
>地理的な認識がまったく無きに等しいのと同様、
>一般的なブラジルの人々にとっても、
>東京と能登半島の認識が明確でないことは容易に想像できます。
できません。そんな想像なんて。
大体その持ち出して来た二種類の人間を例えに使うことに大きな無理がありすぎる。「一般的な日本人」はたしかにそうかもしれないが、「的中率90%」の予言者で、サダム・フセインの隠れ家の場所さえも予言した人間のことを「一般的なブラジル人」と言うのはいくらなんでも無理があるだろう。

それにジュセリーノは予言を「映像で見る」と言っているのであって、「地図でみる」とは言っていないからだ。

それとも天からの声が
「う~ん、ここは日本の東京に近いどこかかなぁ?よくわかんないや・・・」みたいな感じで囁くとでもいうのだろうか。
だとしたらあまり信用したくない天の声である。

>また目覚めてメモ書きしようとした際、
>地名に関する記憶が落ちてしまったので、
>ひとまずここに「,=カンマ」を入れておいたという事も考えられます。
という「韮沢説その2」だがこれも酷すぎる。
目覚めてすぐのときでなくとも、メモで走り書きするときに、度忘れした単語の変わりに棒線を引いたりするのは自分もよくやることだ。

しかし、画像としてアップされているものは、その手書きのメモではなくて後にタイプ打ちしたものである。

後からタイプで打ち直したときになんでその(コンマで省略した)部分を修正せずにそのままにする必要があるのだろう。なんか言ってることがおかしくはないだろうか。それこそ、その場所にはあとから適当な地名でもなんでも入れられたはずなのだが。

誰かが「夢で見た直後のメモそのままをタイプせよ」とか強制しているわけではないだろうし、ジュセリーノ本人も言っているではないか。「具体的な場所であるとか日時をあとから思い出すことがある」と。

韮沢氏のコラムの中にはこのような矛盾とかおかしな点ばかりが目立つのである。

自分もこのブログなんかだと、「てにをは」の助詞の使い方が変だとか「誤字脱字ぐらいは直してからアップしろ」とかは結構言われたりするのだが、流石に商売用とそうでないものとの区別は出来ているつもりだ。

というか、だから尚の事、そういう自分だからこそ「韮沢コラム」を読むと「事実の香り」というものがまったくせずに、そのかわりにというか独特の臭いしか漂ってこないことを敏感に感じてしまうのだ。

もし自分がライターとしてこのようなものを依頼主に提出したとしたら、そのままゴミ箱行きか、さもなくば、良くてせいぜい全面的な書き直しを命じられるかだろう。そのくらいは覚悟するだろうな。

はじめから「フィクション」を命じられて書いたとかでなければだ。

話を戻す。だから自分は韮沢氏の文章を一回読んだだけでもこれらが「まずまちがいなく韮沢氏はこの文章を取材とかインタビューではなく(相変らず)自分の頭の中で想像しただけで書いているのだろう」と推測してしまうのだ。それは韮沢氏の文章の中には、肝心のジュセリーノ自身の言葉というものがどこにもないからである。

そしてそれが「韮沢潤一郎氏(=たま出版)とジュセリーノの間にはそれほど密接なコミュニケーションはない」と自分が書いた理由(のひとつ)にもなっているということだ。

※リクエスト多数のため、予定していた記事は後回しにしてこちらを先にしました。
※改題しました。旧タイトル「韮沢潤一郎という人物について」

補足

さっそくメールが来ている。昨日書いた件についてだが、
韮沢氏は掲示板で質問に対して

>「最近のやり取りで「(3月に日本で)地震がありましたね」といわれ、
>予知に満足しておられたようですが、なお機会があったら、
>ニュースを見るような予知があるのかどうか聞いてみましょう。」

と答えているのだという。まあ、その部分については自分もうっすらと記憶がある。確かに韮沢氏はそんな感じもことをおっしゃっていました、というか書いていましたね。

というか、自分としてはこの部分がひっかかっていたので昨日のようなものを書いたともいえなくもないである。

これもその不思議な香りが漂ってくる文章だなと気にかかっていた。
>>最近のやり取りで「(3月に日本で)地震がありましたね」といわれ、
>>予知に満足しておられたようですが、
メールなのか手紙なのか、電話なのか、電話だとしたら間に通訳を挟んでいる状態でなのか、それともネット・ミーティングのようなテレビ電話を使っての会話なのか、その状況をいろいろ推定してみると非常に味わい深いものがあるが、それよりも「予知に満足した状態のジュセリーノ」というのはあまり想像したくはないのではないか。

なにしろジュセリーノは「自分の予知が当らないことを望んでいる」と言っている予言者なのだから。

それ以上の推測は不愉快でもあるし、無駄な想像にさらに無駄を重ねることになるのでこれについて書くのはここいらで留めて置くが。

ただ、それぞれが自分の中でこのことについては深く考えて頂きたいことだとは思っている。「(ジュセリーノ氏は)予知に満足しておられたようです」と韮沢氏が掲示板での質問に答えるような形で書いていたという事実だけは忘れないようにしたいものだ。
(07.04.12)

2007年4月11日水曜日

070411 ジュセリーノ本人に聞けばいい

  
【ジュセリーノ予言の真実 0411】 ジュセリーノ本人に聞けばいい

何故なのかはよくはわからないが、たま出版のサイトの韮沢コラムの最新記事が前倒しして掲載されてしまっている。

何故前倒したかとわかるかと言うと、記事の文章を読むとわかるのだ。
本来ならば12日以降に掲載されるものだったはずだ。何かが掲載を急がせたのかもしれない。ひょっとして自分のこのブログだったりしてな。

なわけないか。

しかし、どうやら、たま出版に対して本の内容の正誤についての問い合わせの電話やメールが殺到しているのは間違いないことのようなのだ。

当事者がそう言っているというのだからまず間違いないだろう。それがそのコラムの掲載を急がせたという側面はあるのかもしれない。


で、そこに掲載されている月別予言の訳を読んで感じたことなのだが、どうも「たま出版」とジュセリーノ本人とのコンタクトはさほど密接と言えないようなのである。

4月以降の訳を読むとわかるのだが、ジュセリーノ本人が最新の予言で否定(別の予言にしてしまっているもの)やスルーしてしまっているものが見受けられるからだ。

だから、ここで韮沢氏が能登地方で起きた大地震とジュセリーノの3月の予言「日本で大地震、東京でパニック」を結びつけるようなことを書いているのは、ジュセリーノ本人の意志ではなく、韮沢氏が独断でやっているものだと思ったほうがいい。それは保証する。

なんなら、たま出版に自分が電話でもメールでもして韮沢氏本人に確認をとろうかと思っているところである。

「コラムで披露した部分はあなたの単なる解釈ですね?」と。

この質問にイエスかノーのどちらかで答えるだけでいいのである。

いうまでもないことだが、現代今生きている予言者のした予言というものに「解釈者」はいらないからだ。本人に聞けばいい。

そういえばジュセリーノは英語の教師だっけな。

韮沢氏に訊くよりも直接ジュセリーノに英語で質問のメールをしてみよう。


【追記】

まあ、それでジュセリーノにメールを送ったのだが今のところこれといったリアクションはひとつもない。しいていえばブラジル発の怪しげな広告メールの類が増えたことか。関係ないとは思うのだが。

ただ、ひとつこれは別の事情と併せて考えた場合にのみ成立する推測なのであるが、ジュセリーノ本人ももちろんだが、ジュセリーノの側近というか身近にいる人物にはひとりとして日本語どころかフランス語の読める人間はいなさそうだということは言えそうだ。

少なくとも「50カ国語を理解できる」というのは単なる伝説だということだろう。まあだからといってそれがジュセリーノの予言の欺瞞を暴く材料にはならないのであるが。

もしジュセリーノが自分の予言というものの実在というものを証明したいのであれば何も「公証所」に届けた書面とかを事後にうやうやしく公表する必要なんてこれっぽっちもないのだが。

「NEGATIVE SIDE」を表明しているHPやブログに自分のその予言をメールでいいから大量に送りつければ大体は済んでしまうことであろう。

だからそういうようなことを書いて送ったのだが、流石にうかつに返事は出せないと判断されたか(笑)

あと、やはりジュセリーノのサイドでも日本の「ジュンイチロウ ニラサワ」という人物に対してはある種の疑念というか、少なくとも全面的な信頼を寄せているというような状態ではなさそうである。

確実な情報というのではないが、ジュセリーノの本が「たま出版」以外の日本の出版社(学研かな?)から出るという動きがあるようである。

(2007.07.02)

【追記のまた追記】

学研ではなくてソフトバンクであった。まあこの情報を寄せて来ていただいたのが日本テレビ関連会社の人であるとすれば「知っていても名前までは出せなかった」ということなのだろうが。

当りはあたりである。ジュセリーノの予言以上に正確な記述となっている。
この時点で12月発売の「未来予知ノート」(ソフトバンククリエイティヴ)は企画されていたということまでも明らかになったということだ。
(2007.12.28)

2007年4月9日月曜日

070409 メールと2ちゃんねる 2

【ジュセリーノ予言の真実 0409】 メールと2ちゃんねる 2

さて、2ちゃんねるの「ジュセリーノの予言4」にて
TOMO氏がご自身のメール二通と自分が返したメールを開示してくれた。
そのことには感謝する。

で、こちらにも同じものを載せておく。


>はじめまして。
>いつも楽しみにブログを読ませてもらっています。
>名前は『TOMO』と言います。携帯から失礼します。
>未来からの警告を読みました。
>そして一つ気になる事に気が付きましたので、メールしました。
>それは的中率の低い2007年の予知文書についてです。
>今の所、まともに的中と言えるのは、わずかですが、本を読み、あれっ?と思ったのです。
>この予知文書に書かれている内容ですが、別の年の予言と思われる物が、数多く書かれているのです。
>もちろん今年起こる筈がありません。当然、的中率は大幅に下がります。
>この予知文書を作成したのは間違いなくジュセリーノです。
>的中率の低い予知文書はこの誰もが注目する2007年の予知文書だけの様です。
>では、何故ジュセリーノはこの予知文書を作成し、目立つ様にHPに載せたのでしょうか?
>答えは一つしか無いと思います。
>【あなたの様な人を作る必要がある】からではないかと考えます。
>おそらくこの文書が無ければ、否定派と呼ばれる人の数は今よりはるかに少なかった筈で、この先、予言を信じる人が多くなりすぎると、人のする行動は悪い方へ進む事が多くなると思います。
>仕事をやめてしまう人。犯罪を犯す人。
>ジュセリーノはこの様な予知夢も見たのではないでしょうか?
>つまり2007年の予知文書は予言回避の為、作られた予言文書かもしれません。
>あなたがブログを使ってしている事。
>それがジュセリーノの狙い通りだとしたら…。
>この話はあくまで、私の推測です。全然的外れなのかもしれない。
>だから今まで通りジュセリーノ叩きは続けて下さい。
>長文、失礼しました。

2通目


>朝は早々からのメール失礼しました。
>いい忘れた事がありましたので、少しだけ追加します。
>以前、たま出版掲示板にて、韮沢さんのコメントに次の様な発言がありました。覚えている限りですの>で、本文とは多少違うかもしれませんが…。
>「ジュセリーノから韮沢さん宛てへのメッセージの中に本を出す事により起こる変化の予言がありました。」
>これは本を読んだ人の中に私が感じたのと同じ様に2007年の予知文書に疑問を感じる人が多く出現する事を示していると、思います。
>韮沢さんのコメントは続きます。
>「本の中に月別予言表を載せるのを忘れてしまいましたので、近くコラムに翻訳したものを作成し、載せたいと思います。また4月11日付けの東スポにも載ります。当たり・外れは関係なく紹介する事にします。」
>これは本を読み、疑問を持った人への対策とし、ジュセリーノが韮沢さんに頼んだ事かもしれない。
>韮沢さんが紹介する事によりやはり2007年の予知文書は本物なんだ。と思わせる策に見えます。
>まだ、ジュセリーノを否定する人が多い方が、バランスは保たれる時期である。と、ジュセリーノは考>えているのでしょう。
>最後に一つだけ、あなたが以前、おかしいと言い続けた予言と似た文章を、未来からの警告より紹介します。
>2015年・ポルトガルやイギリスで過去最大の干ばつが始まり、4月までフランスやスペインに広がる。
>
>やはりこれも3月頃の予言ですね。
>ではこれで失礼します。


それに対する私(かまたの)返事である。



前略、メールありがとうございます。実は同じような内容のメールを既に何人かの方から頂戴しております。
私自身はこの「未来からの警告」という本そのものにはまだ目を通してはおりませんが、0403の項で私が触れたのはこの部分のことでもあります。
つまりそれは「単純に誤植、あるいは編集の不手際の可能性が高い」ということです。

その責任は、そもそもブラジルで出版された原書にあったものなのか、あるいは日本語版を翻訳編集した「たま出版」側にあるのかなのですが、「たま出版」側のミスであると思われます。
もしはじめて「たま出版の本」を買われたというのであればショックを受けられるかもしれませんが、「たま出版の出す本」においてこの程度の誤植はごく当たり前のことだったりします。
その「未来からの警告」という本を手に取って実感されたことでしょうが、製本・装丁両面において「たま出版」の出す書刊本の質、ここ数年は劣化の道を辿っています。

その点を踏まえて私は「まだ買うべきではない」と述べたわけなのですが。

また、さらにこの点が明解になるまでは、この後に続く部分の「可能性の有無」に対して答えるというのは時期早々かと認識しております。
あるいは私自身が「その当事者」として答えられる性質の質問ではないとの認識もしております。
もし前段の部分が明解になった場合には「あくまでも一般的な考え方として」という立場でお答えしたいとは思っております。
以上です。これからもブログのご愛顧をお願いいたします。


以上

まず端的に問うとする。


>答えは一つしか無いと思います。
>【あなたの様な人を作る必要がある】からではないかと考えます。


つまりそれは「単純に誤植、あるいは編集の不手際の可能性が高い」ということです。

どちらの可能性がより高いかだ。それをまず考えてもらいたいのであるが。

次に、これは一般論として言わせていただくのだが。こんな不完全な仮説を提示されたって普通ならばなんとも答えようがない。というか(悪く解釈すれば)ただ、かまたを黙らせるためだけに掲示板と連動とさせてこんな内容のメールを送ってよこした、と勘ぐられてもしかたがないんじゃないか。
(もういちど、掲示板の書き込みと自分の書いた文章を順番に読んでみてくれ)

で、訊きたいのはその「返事がくるはず」という確信はどこから来たものなのかだ。それについて答えて頂きたいのである。普通ならば無視するような内容だよ。
ジュセリーノの予言の真実 0403 

というか、つい今しがた知ったことなのだが、やはりというべきか、
たま出版から発売されたジュセリーノの本は内容的にかなりミスが多く、
すでに第二版では校正中だという話である。まあいつものことだが。
(※第二版→第三版 BBSでの韮沢氏の書き込み3.30より)
だからまあ、あの本を(新刊本で)買おうと思っている人がいるのならばだが、
もう少し待ったほうが賢明かもしれない。
(中略)
まあ、一番いいのは買わないことなんですけどね。

自分もいずれはこの本を読むことになるのであろうが、
少なくともミスだらけの初版についてあれこれ考えたりすることが
大いなる徒労に終わることだけは間違いなさそうなので、
もうしばらく様子を見るつもりでいる。


TOMO氏はこの部分を読まずに(あるいは忘れていて?)、かまたにこういう内容のメールを送ったということなのだろう。それはまあよしとする。

で、かまたからの返事を読んで「驚いた」というのであろう。
しかし果して私(かまた)の返事の内容って驚くようなことであろうか?


>私とは考え方が違いすぎます。


そのくらいのことはメールを出す前に気がついてほしいところだ。むしろ自分としてはどこに共通点といえるものがあるのかを聞きたいくらいである(笑)


さて、自分としてはこれで(開示されて)言いたいことが書きやすくなったことなのだが、「ひとりよがりされては困る」というのは


>14
>今日中には何らかの形で、答えをくれる筈です。
>更新が止まる様な事にならなければ、よいのですが…。

と書かれている点である。
何故「今日中」なのだろう。どこにその期限が明示されているのだろう。勝手に決め付けてはいけない。人それぞれである。実際自分が頂いたメールに対して返事をするまでには、内容にもよるが大体1日~2日の間隔があいている。自分がTOMO氏に対して翌日すぐに返事が送れたのはすでに同じような内容(論旨も含めて)のメールを2通ほど頂いていたからだ。悪く言えば免疫が出来ていたからだ。

また、もしなんだかの(別の)理由でメールの返事がこずにブログの更新も止まったとしたらTOMO氏は、かまたが「あなた(のような人)がアンチのブログを立ち上げたりするのもジュセリーノにとっては予想内のこと」という説を受け入れたから更新できなくなったのだとでもいいたかったのだろうか。
というか、そう読めてしまうよ このメールを出しておいてあんな書き込みをしたのなら。そこに腹が立つのだ。こんなひとりよがりはやめてもらいたいと。

そんなわけがないじゃないか(笑)
そんなことでブログの更新を止めるわけがない。
TOMO氏は私のブログを愛読してくれているそうだが、彼はわたしのことをどんな人間だと見ていたのだろう。

もちろん、その本に書かれている内容を丸ごと信じたいというのであればそれはそれで構わない。それは自由だ。が、少なくとも、韮沢氏はBBSで


御購読いただきありがとうございます。
ご指摘の部分は年表の入力ミスで、
3版で訂正になります。申し訳ありません。(中略)
その他、文章上の訂正などが出た場合は、
増版にて訂正になりますので、ご了承ください。
と初版の年表部分にミスが出ていることを認めているわけだし、

「たまの本はミスが多い」と言っている人間(かまた)に対して書いて寄越すのであれば最低限、事前に直接たま出版に電話するとかメールするとかしてその部分は本当に(原書に追随しているのか、あるいはジュセリーノ本人の意思であるのか)正しいのか、その部分が本当にたま出版側のミスでないと確認するくらいのことはして欲しかったところなのである。

というか、世の中には実際に直接たま出版に電話をして言質をとったという人がいるのである。その方からのご報告は受けている。そういう人の書いて寄越したことならば論旨はともかくその人の行動力には敬意を表するのだが。

そういう人からの後にこういうメールを受け取ったなら本当ならば「だから?」の一言で片付けたっておかしくはないはずだ。

で、もし、ジュセリーノが本当に


>この先、予言を信じる人が多くなりすぎると、人のする行動は悪い方へ進む事が多くなると思います。
>仕事をやめてしまう人。犯罪を犯す人。
>ジュセリーノはこの様な予知夢も見たのではないでしょうか?
>つまり2007年の予知文書は予言回避の為、作られた予言文書かもしれません。

などと考えるような人間ならば、つまり予言者であろうがそうでなかろうがだ、一番良いこと、それは怪しげな予言などはじめから口にしないことだ。
「911のテロを予言していた」とか「フセインの居場所を米国に通報した」だの自分の予知能力を誇示するような真似などしないことが一番のはずである。

言葉が人を恐怖させることは良くないことである。形を変えて言うのであればそれは「言葉によるテロ」になるからだ。

そう、デタラメな予言は「決して人を救わない」どころか確実に人を不幸にするのである。

本当にジュセリーノの予言というものを真剣に考えているというのであれば、ジュセリーノの予言というものが本当に日本に住む人々に対して「良いもの」を与えているのかどうかから考え直してもらいたいと思っている。

私のこのブログで「救われた」と書いてきている人はとても多い。もう180人は超えたかもしれない。しかしひょっとするとこれはほんの氷山の一角なのかもしれないのだ。というかむしろその可能性は高いのだろう。

もし自分に出来ることがあるとすれば、それはやはりこうして毎日のように記事を更新し続けることなのである。そしてそれで少しでも何かが動き出すまでは力を抜かないことなのだと確信している。

反カルト・非オカルト - livedoor Blog 共通テーマ

【追記】
自分はなるべく過去記事は何度も見返すようにしている。変な個所で論理的な不一致が出ないように気をつけているということもあるし、翻訳のミスなどがあったことが判明したときにはなるべくすぐに訂正をするように心掛けているということもある。

しかしこの0409の「メールと2ちゃんねる」だけは正直あまり読み返したくはないというのが本音のところである。
後味がよくないからである。やはり論理的に脆弱なものしかもっていない予言肯定論者を公開の場で晒し者のようにしてしまったことに対する一種の後ろめたさのようなものは否めないからである。

実際このあと2ちゃんねるの当該のスレではこの自分に対する罵詈雑言のようなものが激増してしまったようである。しだいに自分も2ちゃんねるは見なくなってしまった。それに重要なことが書かれていたりすると親切に教えてくれている人がいるので実際あまり困るということはないし。

などといっては見たものの、あとになって腹が立ったことがある。

それはそのメールを寄越した「TOMO」氏なのであるが、そのピックアップしたレス(書き込み)の前にもいくつかレスをしているということが判明したからである。これは某氏に教えられて初めて知ったことであるのだが


8 本当にあった怖い名無し 2007/04/05(木) 05:59:10 ID:XbnrJJUiO
必死に否定するブログがたしかあったな。
どこだっけ?

14 本当にあった怖い名無し New! 2007/04/05(木) 13:09:12 ID:XbnrJJUiO
今日、ブログの主宛てに、私の考えをぶつけて見ました。
今日中には何らかの形で、答えをくれる筈です。
更新が止まる様な事にならなければ、よいのですが…。


IDが同じなのでほぼ同一人物の書き込みと断定できる。

8 本当にあった怖い名無し 2007/04/05(木) 05:59:10 ID:XbnrJJUiO
必死に否定するブログがたしかあったな。
どこだっけ?


と書き込んでいる人間がメールでは


>はじめまして。
>いつも楽しみにブログを読ませてもらっています。


である。なんなんだコイツは。
専用ブラウザのIDポップアップ機能であれば自分もすぐに気が付いて
あんな真面目な対応なんかしなかったであろう。ったく腹立だしい限りである。

いまでもこのTOMO氏、懲りずに某掲示板などでもこのコテハン(固定ハンドルネーム)でいろいろと好き勝手なことを書き込んでいるようである。

まあその某氏によるとだが「TOMOのOをAに置き換えると人物像が浮かび上がってきますね」だそうである。なるほどね。

とはいえ思わず自分でも感動するようなことも書いてあるのを見つけてしまった。

言葉が人を恐怖させることは良くないことである。形を変えて言うのであればそれは「言葉によるテロ」になるからだ。

そう、デタラメな予言は「決して人を救わない」どころか確実に人を不幸にするのである


感動した。こんなことを言うとアホみたいだけれども。というかどこからパクってきたのだ4月9日のオレ、教えてくれないか?

そんなへんな気分でございます。
(2007.07.29)

070409 メールと2ちゃんねる

 
【ジュセリーノ予言の真実 0409】 メールと2ちゃんねる

いわゆる、「肯定派」の人たちからくるメールも一時期に較べると随分と減った。
彼らの唱える「超論理」には驚かされる。中には「今の日本(地球)における時間軸がずれたことによって予言の実現(成就)が遅れたり起きていないように見えるだけで、予言はすべて実現している」とか書いてきている人もいたりして、では「何故その時間軸がずれることをジュセリーノは見通せなかったのだろう」とか突っ込みどころが満載なのだが。

彼らはそういうことにはまったく無頓着というか気にしていないようだ。同じ人間が、同じ文章の中で矛盾することを平気で書き連ねてきたりもしている。

このあたりは、波動とかについて延々と語っているブログと同じで、自分のその饒舌というかおしゃべりが自分と、自分だけではなく自分の仲間の首を締めていることになっていることに気がついていないのとものすごく似ている。

「当らない」ことで「当った」のだ、という言い訳も(脳内ゲームとしては)まだよく判る。もちろん単なる言葉のロジックとしてだ。もちろんそれで「論理的」にはまるく収まる。

しかしだったら何も世間に向けて「これは予言です」とか大声で語ったりすることはないだろう。「現実の事象として絶対確実に実現するもの」だけを予め選んで公表すればいいのである。

「このなかのどれかが当りますよ~」というのでははじめから予言失格である。

つまり端から「言葉」だけを100%信じているという仲間同士だけでひっそりと語っていればいいのだ。世間ではそういうのを「宗教」と呼ぶのだが。

宗教の人間が(その宗教を信じていないという意味で)非宗教の人に語る場合には言葉を選ばなければならない。それを間違っているのである。

さて、結局は知らなかった、気がつかなかったという自分の責任でもあるのだが、2ちゃんねるの「ジュセリーノの予言4」というスレッドの頭の方に、(しょっぱなから荒れていた)

「今日、ブログの主宛てに、私の考えをぶつけて見ました。今日中には何らかの形で、答えをくれる筈です。 更新が止まる様な事にならなければ、よいのですが…。」

というレス(書き込み)があったのを見つけた。

その「ブログの主」というのはどうも自分のことらしいのである。もっとはやく気がつくべきであった。というか後まで読んでみてそうだということがはっきりとした。


>>14はブログの人から返事を貰えたのだろうか?
>ブログの方は普通に更新されていた。今日のにはちょっとグッとくるものが
>あった。バーチャル近所のおじさんには少しワロタ。
>14が無言のままの方がキニなる。なんかあったか?

というレスに対して

>返事貰いましたよ。
>正直に言うと驚きの内容でした。
>私とは考え方が違いすぎます。


という答えをしていたからだ。
「バーチャルな近所のおじさん」というのは4月6日の記事で自分が使ったフレーズだ。

この4月5日木曜日の午後1時の時点で来ていたメールで、4月6日金曜午後12時までに返事を返したメールは実は7・8件もあった。

しかしほとんどがお礼であるとかそういうものばかりで、「質問をして来た」のは差出人が同じの2通だけである。

この人物に間違いないだろう。

まあそのこと自体はいい。構わない。いちいちケチをつけるつもりはない。同じ人間が2ちゃんねるでどんなことを書き込みしようが自由である。

しかし、「どうだろう」と思うのは、自分の考えをぶつけてみました、と書くのであれば、その自分の考えというものがどんなことなのかをちゃんとそのスレッドの中で開示すべきではないのか?ということだ。

まして「正直に言うと驚きの内容でした。私とは考え方が違いすぎます。」というのだったら尚更の事そうだろう。

いまさらのことだが、自分はどんな質問に対しても常識的な返答しかしていない。というか出来ない。そんな常識の範囲内での返答に対して「驚く」という人の方が絶対におかしいのである。

そのことを隠したまま「驚きの内容でした」とだけ書かれた日にはこちらの立場がない。

というかこのことを(メールで質問したということを2ちゃんねるにわざわざ書き込むということ)知っていたのなら自分はこの人物に返事(質問に対する返答)なんかはしなかった。

あるいは返事にはかならず「自分のした質問と私の答えもすべて2ちゃんねるに開示して下さい」と付け加えておいたはずだ。結果論でしかないが。

まあ最近のメールの送り主にはたまに「ぶっ殺したろうか!」と言いたくなるようなマナー違反のものもあったりする。

そういうのとは分けて考えなければならないが、こちらだって真剣に返事を出しているのだ。そのことに対しては、否定派だとか肯定派の区別はつけてはいない。

こういうひとりよがりの書き込みをするのであれば、もっと他にすることはあるのではないだろうか?

っていうか自分も2ちゃんねるに書き込みをしたくなった。こんなの久しぶりだよ。しないというか出来ないんだけどね。

そのメールの主が2ちゃんねるで開示しないというのであれば誰かに代行レスを頼もうかと思っている。

2007年4月8日日曜日

070408 MJ-12文書のことを思い出す

【ジュセリーノ予言の真実 0408】 MJ-12文書のことを思い出す

それで、前にも少し書きかけたことなのだが、先週の土曜・日曜と立て続けにいろいろな出来事が身の回り起こった。

ただ漫然とそのことを書いてみたのだが、適当なオチがないままどこに向かってゆく文章になるのか自分でも予測がつかなくなったので途中で投げ出してしまった。それで書き直してみた。


先週、はじめて生の藤本美貴を間近で(手を伸ばせば触れるくらいのところだ)見ることが出来たことだった。彼女たち【註1】が通り過ぎるといい匂いがした。「いい匂い」といっても焼き肉の匂いではない。

やはり実物で見た藤本美貴はとても可愛い。

「可愛い」という言い方も月並みだが、どんなに凶暴で攻撃的な性格の山猫だって見た目はやはり可愛い。そういう意味での「可愛い」である。

やはりミキティといえば藤本美貴のことだ。元祖なんて肩書きはいらない。この世で「ミキティ」といえば藤本美貴ひとりだけでいい。そんなことを強く思ったのである。

安藤美姫だって今や世界ナンバーワンの女子フィギア・スケーターだ。世界の安藤美姫だ。そういう傑出した女性アスリートであることは間違いはない。しかし彼女が「ミキティ」と呼ばれたり、名乗ったりすることは彼女の存在価値を上げることにはならない。それどころか(藤本美貴と較べられるということで)むしろ彼女を芸能界的なものさしで計ることにもなり、なんとなくくすんで見えてしまうのである。ルックスが。

安藤美姫のためにもやはり安藤は「ミキティ」の愛称を封印すべきではないだろうか、そう思ったのである。

同じ事がかつて田村(現姓:谷)亮子【註2】にも言えた。彼女がもし「ヤワラちゃん」と呼ばれなければ彼女に対する女子柔道家としての評価は別のものになっていただろう。浦沢直樹だって心置きなく漫画の続きを書きつづけることが出来ていたかもしれない。田村亮子が原作の熱心なファンから嫌われるということもなかったであろう。

南海ホークスの選手だった香川伸行もそうだ。彼がもし「ドカベン」とか呼ばれなければもうすこしマシなプロ野球選手としての成績が残せたような気がしてならないのだ。もっとはやく捕手としての道を諦めて【註3】一塁なりDHに専念していれば香川はもっと良い成績を残していたはずだった。

「肩書きとか他人がつけたレッテルに縛られる」ということはこういうことなのだ。時として正確かもしれないが、間違ったレッテル貼りはその人間の人生を狂わせてしまう。安藤の行く手にはその大きな二叉路が待っている。どちらを選ぶかだ。選ぶのは自分自身である。運命とはそういうものだ。自分で選ぶことが出来るのが将来であるとか運命なのである。

誰かは知らないが、ジュセリーノ本人なのかは知らないが「的中率90%」とかの肩書きをつけた人物がいる。これが本国ブラジルでも大失敗だったようなのだ。今ジュセリーノを否定的に語るブラジル人がまっさきに上げたのも「90%」という数字の部分にだった。まあそれで2006年初頭に予言を公開させられるハメになったのだそうであるが。

何故失敗だったかというと、ジュセリーノがノストラダムスとは違って今尚生きていて、これからも予言をしつづけなければならないからだ。そもそもノストラダムス以上の予言者だとか喧伝しようとか考えること自体が大失敗だったのである。

現実、ジュセリーノの予言が日本に輸入されたと同時にその「肩書き」に大きな嘘があることがすぐにわかってしまっていた時期であった。韮沢潤一郎(敬称略)も当然このことは知っていたはずである。それでも彼は「的中率90%」という数字を言いつづけた。もちろんビジネスとしてそう言いつづけなければ成立しないということを知っていたからである。立場がそれを彼に言わせたのだ。

たとえばこれが70年代とかののどかな時代だったならば少しの期間だけは通用していたのかもしれない。日本の真裏のブラジルの予言者に関する情報だったら都合の悪い部分は隠し通せたり、いくらでも捻じ曲げることは出来ただろう。それでこういう嘘をついてもばれないとタカを括ったのかもしれない。

まあ確かに70年代には、ユリ・ゲラーであるとか超能力少年であるとか猿と人間の混血オリバー君がけっこう信じられていたような時代ではあったし。オリバー君は違うか(笑)

ノストラダムスの予言関係だってそうだ。ノストラダムスのというか五島勉のついた嘘がばれるのにも15年以上(91年だとすれば18年間、95年だとすると22年間だ)もかかっている。

しかし、今はそんな薄っぺらな嘘がいつまでも通用する時代ではなくなっている。フジテレビの「あるある探検隊」にまつわるデータ捏造にしてもそうだし、TBSの最近の一連のねつ造報道もそのいい例だ。

嘘をついてまでのしあがろうとか金儲けをしようとか視聴率を稼ごうとか考えた人間は必ずやその嘘によって立場を失い、あるいは身を滅ぼしたりするのである。

いくら「たま出版」がジュセリーノに関して嘘の情報で塗り固めたとしても、もうすぐジュセリーノに関する正しい情報はゆっくりとだが確実に日本にまで届くのである。

今でも韮沢潤一郎(敬称略)は(東京スポーツ以外の)スポーツ新聞や週刊誌相手にジュセリーノの予言の怖ろしさを語りつづけている。記者たちは職業上正面切ってそんなそぶりは絶対見せないが内心ではほとんどの人間が彼のことを馬鹿にして、笑い者にしているのだ。もちろん彼らもまた、ジュセリーノの嘘がばれたときにどうやってこの韮沢潤一郎をとっちめてやろうかと待ち構えているのである。

そのとき韮沢潤一郎はどうやってその責任をまっとうするのであろうか、あるいは逃げ回るのであろうか。それとも、またもや被害者づらしてテレビでぼやきまくるのか。

思い出すのはもう20年近く前のことだ。テレビ朝日の深夜番組「プレステージ」に出演していた韮沢氏は、高野誠鮮氏などからも白い目で見られながらも
「いやぁ、MJ-12に関しては偽の情報があまりにも多いんで我々も苦労しているんですよ・・・」とぼやいてみせていた。

嘘をついてはいけない。

MJ-12なんて最初から噴飯物と判りきっていたものをああだこうだと変な「証拠」を次々と持ち出してきては「本物だ」と言いまくっていたのは韮沢氏本人である。

今回のジュセリーノ予言騒動もそのときとまったく臭いが漂っているのであるが。

果して韮沢氏今度はどういう落ちをつけるつもりなのであろう。

同じ手は二度とは通用しないし通用させてはいけない。



蛇足的注釈

【註1】ミキティの相方「あやや」こと松浦亜弥さんには何故か何度も実物にお目にかかっている。去年もこの時期割と間近でお目にかかった。数年前など北千住近辺を友人とふたりで歩いていたときのことだが道端に止めてあったワゴン車のスライドドアがガラッと開いて中からキンピカのアラブ風衣装の松浦さんが飛び出してきたことがあった。あのときは唖然としたなぁ。向こうもびっくりしていたみたいだけど。「プリンセスあやや」のロケだったらしい。

なおその友だちはその後も柔道着姿の松浦さんを家のすぐ近くで見かけたそうだ。「あの子見る度に胸が大きくなってるんだけど」と本気で心配していた。別に心配してもしかたのないことだが。確かに大きいことは大きいんだが、それは隣りに藤本さんがいたせいでそう見えただけかもしれない。

【註2】最近の若い子の中には「YAWARA!」という漫画は田村亮子をモデルにて作られたものだと思っているという人がかなり多いのだそうである。マジかよ!

【註3】「あいつ、めちゃ記憶力ないねん・・・」ある南海ホークスOBの元ピッチャー(背番号20)だった人が語っていたことだが、当時の南海はキャッチャーの出すサインを、打者別あるいはイニング別に複雑に変えるなどしていた。試合途中から出場してマスクを被った香川はマウンドへ行きピッチャーとサインの確認をしてからホームベースのうしろに戻って「よっこらしょ」といいながらしゃがんだのだが、しゃがんだ途端にさっき確認したばかりのサインの区別方法というものががすっかり頭からすっとんでしまったらしく、あわててもう一度マウンドまで駆け寄ってきてその投手にサインの種別の確認をしてきたのだそうである。

こんな人間がドカベンを名乗ったり名乗らせたり、キャッチャーというポジションに拘らせたりすること自体が大きな間違いだったのである。
南海の監督だったドン・ブレイザーはそんな香川をすぐに諦めてキャッチャーとして使おうとはしなかったが、本社サイドからは香川を捕手として使えというプレッシャーがあってしぶしぶ捕手としてだましながら使いつづけたと生前語っていた。早く一塁とかDH転向させていれば打者として開花していたかもしれないと語る評論家もいたのは事実である。実際打撃の成績自体は悪くはなかった。

2007年4月6日金曜日

070406 これも時代の流れなのか

【ジュセリーノ予言の真実 0406】 これも時代の流れなのか

まあそれで、最近(Yahoo!の検索でも表示されるようになったためか)同じようなメールが2通来た。
前にも実は同じ境遇の方から長いメールを何通も頂いたりはしていた。

小さなお子さんを持つ母親の方からのものなのだが

「うちの子供が「ジュセリーノの予言」を知ってから塞ぎこんでいました。いろいろと「あれは嘘なんだよ」と強く言ってみても納得はしてくれなかったのですが、(このブログに)書かれていたことを思い切って実行してみたのです。するとやっと子供も安心したのか以前のように友だちと遊びにいったりするくらいにはなりました。」

というような内容である。

「(このブログに)書かれていたこと」というのは、言うまでもないことだが直接テレビ局(テレビ朝日)に電話をして、テレビ局の人間に、子供に向かって「あれはフィクション=嘘」だということを明言させることだ。

その、テレビでやっていた「予言」のことが頭から離れなくなって塞ぎこんだりする子供の姿というのは、(恥をさらすようだが)かつての子供時分の自分の姿にどうしてもダブってしまう。

昔、子供がそういう状態になったときなどは、むしろ父親がなんとかするのが役目だったものだ。父親が果たす数少ない役割のひとつだったものだが。

実際そういう塞ぎこんでいた子供の自分を救ってくれたのは父親だったし、周囲にいた大人たちだったのである。

まあ時代の趨勢なのだからそのことをああだこうだここで言ってみてもしかたがないことなのだが、やはり痛切に感じたのは「母子家庭です」という母親からのメールが目立つことだ。

昔だって母子家庭ぐらいは珍しくもなんともなかったが、やはり昔と今とで一番違うのは、そういう家庭の子供を包んで守って育ててくれた周囲というものがあったのに今ではそれがなくなりつつあるということだろう。

要は、昔は、近所にはこういうときなど頼りになるおじさんというのがいていろいろな面で父親代わりになってくれていたものだった。

今じゃ「近所のおじさん」なんて言葉は危ない人間の代名詞としてしか使われないし。

まあなんにしても、そういう子供達が予言の呪縛から解放されて生き生きとしたというのならそれは自分にとって喜ばしいことである。

だから、自分の役割はそういう「バーチャルな近所のおじさん」でもあるのだということをあらためて感じたということだ。


話は変わる。メールで「かまたさんの目的は金儲けだと某掲示板で批判していた書き込みがありましたよ」と教えてくれた方がいた。

「某掲示板」なんていわなくとも構わないだろう、2ちゃんねるだ。

見てみたらあった。荒らされたスレッドの中にポツンという感じで。
なんか「ジュセリーノを叩くことで有名になってそれで金儲けを企んでいる」とか。

自分の中のまちゃまちゃ(っていうか魔邪コング)な部分が、そいつに向かって特大の「ハァ?」を何度も浴びせ掛けたい気分になった。

前にも書いたが、自分がこんな一時的にしか盛り上がらないようなジュセリーノの予言なんか利用して有名になったり金もうけを企むってか?

そこまで頭は悪くはないよ、いくらなんでも。「金儲け」というのであれば、自分の場合一番お金が儲かる近道はジュセリーノに関する文章なんて書かないで、その時間と手間を他のことに向けることなのである。

一銭の得にもならないこのブログなんて銭勘定が頭にあったらとっくにやめているか、そもそもここまで延々とは続けてはいないであろう。

それに「ジュセリーノを利用して金儲け」を実際にやっているのは、自分ではなくてたま出版であり、テレビ朝日であり、東京スポーツであるとかのメディアの方だ。どうせそういう批判をするのであればそっちにむけてやってくれ。

「某雑誌から問い合わせがあってコメントをした」という部分に反応してこんなアホ推理を繰り広げたのなら、それは、悪いが、単に素人のやっかみというものだ。

こういう雑誌へのコメントをしたからといって(有名になったり)原稿料とかか発生するものではない。基本、ボランティアに近い。せいぜい図書券とかクオカードが送られてくる程度だろう。

というか自分がライターとして仕事をして原稿料が発生したときも協力してくれた人への謝礼はその程度が限界なのである。

それに単にお金儲けのことを考えていたら、このブログでアフィリエイトとかもっと大々的にやってるって。それどころか、そのお金儲けのことを考えている人たちの障害になっていたと判断されていたから今までYahoo!でこのブログが弾かれていたんじゃないか。もっとよく読めよなぁ。腹が立つなぁ。
自分の中のさとう珠緒も怒ってますよ。全然迫力ないけど。

2007年4月5日木曜日

070405 お願いと御詫び

【ジュセリーノ予言の真実 0405】 お願いと御詫び

原因は不明なのだが、予定投稿で準備していた記事がすべて(残り2件くらいか)ふっとんでどこかに消えてしまっていたようだ。

つい数日前には、これもまた原因は不明なのだが多重投稿になっていたこともあった。関連があるのだろうか?

何者かの陰謀だろうか? なんてな。なわけないな。
要はライブドアのメインテナンスの問題だとは思うのだが。
もちろん記事の下書き原稿は残っているので、大きな目でみた場合にはさほどの損害ではないのだが。

多重投稿になってしまったことに関しては関係各位に多大なご迷惑をおかけしたしたことを御詫び申し上げたい。

っていうかそんなに誰もこのブログなんかには注目はしてはいないだろうけど。(笑)
ブロガーで「ジュセリーノの予言」について熱心に書いているという人には迷惑は掛けただろうと思う。その点に関しては深く御詫び申し上げる。本当にすみませんでした。


さて、次にお願いなのだが・・・、
最近いろいろなメールが来るようになった。これは、まああくまでも自分の推測なのであるが、やはりYahoo!Japan の検索でこのブログが上位に顔を出したのと大いに関係があるのだと思っている。

特にお子様を持つ親御さん、特にお母さんの立場にある方からのメールが急激に増えてきた。

それはそれで喜ばしいことだと思っている。自分のしていることが決して無駄ではないのだという確信になっているからである。長いメールのものも歓迎である。遠慮はいらない。
もちろん短くても構わない。みんなの気持ちがそのまま自分のモチベーションになる。

まあ、わかりやすく言えばドラゴンボールZの悟空みたいなものである。

ただ、判断が困るのが、返事を求められること自体は構わないのだが、質問の内容がよくわからないものがあるということだ。そういう場合、返信しないでいるものもあるので、もし「返事が欲しくてメールしたのに来ない」という方がいらしたなら、お手数でしょうがもう一度メールをお送りください。メアドが同じである限りはちゃんとご返事はいたします。

また、あまりにもデリケートな内容だったり、あるいはプライバシーに関わるような記述は避けられたほうが賢明かと思う。ご自身のプライバシーと同様、他者のプライバシーに対しても慮っていただきたいと思うのである。こう書けば大体の方にはご理解いただけるとは思うが。

また、もしメールを送っていただく場合、このブログを知ったきっかけなど(誰某のブログからリンクで飛んで来たとか、Googleの検索か、Yahoo!か、あるいは他社なのか、2ちゃんねるで見たとか、他の掲示板であるとか大体で構わないのだが )付記していただくと非常に助かる。(ピュアなブロガーが考えている常識と、掲示板を見たり書き込みしているという人との感覚とはかなり違うものだからだ)

以上、よろしくお願いいたします。

2007年4月4日水曜日

070404 ジュセリーノとノストラダムス 3

 
【ジュセリーノ予言の真実 0404】 ジュセリーノとノストラダムス 3

前々から気になっていたことある。それは、ジュセリーノの予言について肯定的に語る人たちの間で、「ジュセリーノが予言を獲得するプロセスはノストラダムスのそれと似ている(あるいは同じだ)、ということが半ば常識として語られていることだ。

この「定説」の原点というか出所自体は自分も知っていた。例の年末に放映されたテレビ番組の中で出演者のひとりである作家の荒俣宏が、ジュセリーノが口にした「夢の中で映像という形で予言を授かる」という発言部分について「ノストラダムスの予言の方法に似ています」と語り、その荒俣宏の発言に韮沢潤一郎が付け加えるような形で解説を加えたためだ。そのために日本ではそうだと思いこんでいるという人が多いみたいなのだ。

ここではジュセリーノの予言の方法については触れずにおく。話がややこしくなるからだ。純粋にノストラダムスの予言とその方法についてのみ説明する。

端的に、ノストラダムスは果して映像で予言を得たのかどうかであるが、それについてははっきりとはわからない。しかし、そんな「映像として予言を得ている」というノストラダムス自身による言葉は彼の書物の中には一切残ってはいない。前の二項で説明した通りである。

あるとすればそれはすべてピエール・ジョセフ・ド・メイツ[註]というスイス人が後世にでっち上げたノストラダムスに関する逸話から発生したものか、研究家による仮説であるとか、でなければやはり一種の誤訳のために生じたためのものではないかと思う。

実際、(まともな)ノストラダムス研究家の本がフランス語→英語訳→日本語訳されたときとか、英米のノストラダムス研究家の本が日本語訳されたときにも原語との追随性の問題でこういう誤訳は数多いと聞く。たとえば、エドガー・レオニ(レオーニ)など(正統的な)研究家の本が日本語に翻訳されたときにもそういう相当酷い日本語訳が見受けられるのだそうだ。

では、その荒俣宏が何故「ノストラダムスは映像という形で予言を得ていた」などと確信に満ちた断言をしたかなのかだが、それはおそらくはそういった「誤訳」のせいか、でなければ1994年に製作された映画「ノストラダムス」にあったシーンを事実だと思い込んだためではないだろうかと思うのだ。

実際に自分の身近にもいたのである。あの映画を見て中で描かれていることが全て事実だと思い込んじゃっていた人間が。何人も。

この映画の中でノストラダムスは、三脚の水を張った皿のような容器の表面をじっと眺めているとトランス状態になって、まるでその場所に実際にいるかのような疑似体験をする。そういうシーンが何度も出て来た。

まあ確かに予備知識なしにこの映画を見たら「そうだったのかなぁ」とか思ってしまいそうだ。

しかし、少なくともノストラダムス自身による予言の方法についての記述と、この映画の中で描かれたノストラダムスの予言の方法にはなんの事実の裏づけはない。映画自体がただのフィクションでしかないし、元にしたものがあるのだとしてもそれはただの伝承でしかない。断言する。

だから、ノストラダムスとジュセリーノの予言の関連であるとか相似について語っている人たちに言いたいのは、「ジュセリーノの予言について語るときにノストラダムスの名前を出してジュセリーノの信憑性を喧伝したいというのであればそれはまったくの逆効果だよ」という事である。

というかノストラダムスと関連づけられて一番困惑しているのは案外ジュセリーノ本人じゃないかという気もするのだが。深読みのし過ぎか。
でも、ジュセリーノ「なんだこのニラサワという日本人の男は 余計なことばかり言いやがって!」とか思っていそうだ。

(この項おわり 全部読んだという方、お疲れさまでした)

※このブログではこういう難解というかぐちゃぐちゃしてて長い文章はあえて避けてきたが、ちよっと訳があって試しに書いてみた。


[註]正しくは Heitzで エーツ、エツ (ヘイツ)と読むということを教えていただいた。
メイツというのは誤植から発生した日本での誤読らしい。

070404 ジュセリーノとノストラダムス 2

 
【ジュセリーノ予言の真実 0404】 ジュセリーノとノストラダムス 2

ノストラダムスが自分の予言の方法について語っている文章、記述はほかにもある。

いわゆる「序文」というものである。
形として残存しているノストラダムスの予言集の「序文」はふたつある。

ひとつは「セザールへの手紙」と呼ばれているものである。初版(第一巻から第四巻まで)が出版されたときにつけられていたものである(と言われている)。

セザールとはノストラダムスの息子のこと。この最初の予言集が世に出たときセザールはまだ1歳にも満たない幼児でしかなかった。ノストラダムスはこのセザールが成人したときに、自分の出した予言集がどんなものなのであるかということを伝えるためにこの序文を「手紙」という形で添梓した(といわれる)。

その中でノストラダムスは自分の予言の方法について少しばかり述べている。


「神そのものが星辰の運行で私に知らせて下さった事ども」

「特定の地域で実際に起きたことを、私はずっと以前に万事を徳の力と神からの啓示によるものとして長い間繰り返し予言してきた。」

「それは、創造主たる神が占星術にもとづいて、未来の秘密を過去の秘密同様に、印象に鮮やかな姿でもって啓示しようとした人物である。」

「予言者は天の火の精緻な精神によってそれを受け容れるのであり、火の精緻な精神は、夜を徹して天体の最高点を凝視するときに、理解力を掻き立てるものである。」

「強力な癲癇状の興奮でこの不可分の永遠を手にすることで、諸原因は天体の運行とともに解明されるのだ。」

「小さな炎-そこで未来の出来事の一部は明らかになるのだが-を手に入れ、黄道帯の助けを借りて発せられる声でならいざ知らず、知性から作られる理解力では神秘的にものを見通すことはできない。」

「ただし、占星術の判断は例外で、排斥されることはない。占星術と神からの霊感と啓示のおかげで、夜なべ続きの予測によって、私は予言を文書にしてまとめあげたのである。」

「しかし、週にときどきは狂気につかれたようになり、夜中の研究に快い香気をもたらす長い予測で、私はそれぞれ百篇の天体に関する四行詩を収める予言書数巻を書きあげた。」


以上、ノストラダムスサロン「セザールへの手紙」より引用した。
http://www.ne.jp/asahi/mm/asakura/nostra/proph_text/Preface.htm



全文を読んでもらえるとわかるのだが、ノストラダムスは「神からの啓示」と星々の運行(占星術)の有用性について強調して書いている。

また、この序文(の日本語訳)に散見する「火=flamme、輝き=flambeau」を「星々」と訳すると非常にスッキリとするよという前項で私が言ったこともここを読めばご理解いただけると思う。

が、夢の中で映像を見るだとか、まるで現場にいるかのような状態になる、だとかは一切書いてはいない。これが重要な点である。

もうひとつ、やはりノストラダムスが自分の予言の方法について述べている「序文」がある。

それは「国王アンリ二世への手紙」というものである。一応、形式的には1558年に出された第八巻以降の部分に対する「序文」ということになっているが、その出所・真贋についてはいろいろと言われてもいる。

ではノストラダムスがこの「手紙」の中で自分の予言についてどんなことを言っているかというと・・・



「(私の著作は)わが天文学的計算やその他の知識が及ぶ限りの綿密なる算定によって、7000年期の始めにはイエス・キリストおよび教会の敵対者たちが急激に勢力を伸ばすだろうというようなことにまで触れるものなのです。」

「私には祖先から自然な直感が与えられているとはいえ、その直感を統一のとれた長い推算にうまく結びつけ、魂と精神と心を休息や落ち着きによってあらゆる気がかりや不快感から無の境地にしてやらねばならぬというのも事実であります。予言の一部は真鍮の三脚台上で成されました。」

「私がこの書簡に記すことはわが知識に従って天文学的計算に照合したものであり、そこには真のカトリック信仰にそむく意図などまったくないのです。」

「私の算定はすべて天体の運行や、わが先祖から祈りにふれてもたらされる感情の組み合わせに基づいて計算したものであり・・・」

「わが予言の大半は天体の運行と密接な関係にあるので・・・」

「聖書を参考にしたこの天文学的計算によれば・・・」


ノストラダムスサロン「国王アンリ二世への手紙」より引用
http://www.ne.jp/asahi/mm/asakura/nostra/proph_text/Epistre.htm


と、セザールへの手紙よりも「直感=instinct」を強調してはいるものの、やはり「映像として見ている」であるとか、「夢で予言を得ている」などという記述はどこにもないのである。

もしかすると、他のノストラダムスの著作の中にもどんな形で予言を得ているかというノストラダムス自身による記述があるのかもしれない。

しかし、自分で実際に全てのノストラダムスによる予言以外のものを含めた全著作に目を通したというのではないが、例えくまなく調べてもそんな「映像として予言を得ている」とか「夢の中で」などという記述はないと思う。もしそんな記述があれば別の意味で問題になっいたはずだからである。

それで結論。

ノストラダムスの予言方法、それは占星術に基づくものである。また、神から啓示(それを彼は直感と言うばあいがあるが)がそれを支えている。
決して夢だとか(映像という意味での)ビジョンという形で得たりしたものではない。

070404 ジュセリーノとノストラダムス1

【ジュセリーノ予言の真実 0404】 ジュセリーノとノストラダムス1

先にノストラダムスの予言詩を載せておく。こういう学術論文モドキの堅苦しい文章が苦手だという人は中身を斜め読みするとかすっ飛ばすとかして、とりあえず最後の部分だけを読んで下さい。



01-001(第一集の第一章)

Estant assis de nuict secret estude
Seul repose^ sus la selle d'aerain
Flambe exigue sortant de solitude,
Fait proferer qui n'est a^ croire vain.


(アクサンを入れられないので「^」を母音の後ろに置いて代用した)

闇夜に密かに書斎におりて
青銅の机にひとり静かに座れば
孤独より立ちのぼる細い明かりは
信じることが無駄ではないことを語る

高田勇・伊藤進訳
『ノストラダムス 予言集/ブランダムール著』日本語版(岩波書店刊)

(預言者が)夜中に書斎で
ひとりで青銅の椅子にじっと座っていると、
孤独から生まれた細い小さな炎が、
信じるに値する事柄を(預言者に)教えてくれる

(福島かつゆき氏による平易訳文1994)


我れひとり闇夜の書斎に座り
青銅机に向かいてこころ静かに
月と星ぼしのかすかな明かりは
信じるべきことを我に与える

(かまたによる意訳)

assis 座っている.基礎の安定した, 確立した.
nuict → 《羅・古仏》nuit 夜 深夜
flambe → flambeau :松明.燭台.《文》 (理性などの)光.
flambeaux de la nuit: 《詩》月と星
exigue → exigu 〈形〉 狭い; 少ない
sortant 当りの 任期の切れた.出て行く者.
de (英 of, from) 〈前〉 1. の.2. から; へ.
solitude孤独 さびしさ, 静けさ
fait 事実, 現象; 出来事. (a) 行為.
prosperer 繁栄する, 盛んになる.(幸運・健康に)恵まれる.
qui n'est ・・・? であろう(同意を求める)
croire 信じる, 信用〔信頼〕する
vain むだな, 効果のない, むなしい

「クラウン仏和辞典(CDROM版)」・「コンサイス仏和辞典」による解説。
※ひょっとして「ラ・ルース仏仏辞書」による解説も混じっているかもしれない。



01-002 第一集の第二章

La verge en main mise au milieu de BRANCHES,
De l'onde il moulle & le limbe & le pied:
Vapeur & voix fremissent par les manches:
Splendeur divine.Le divin pre^s s'assied.


ブランシュの中央にて棒をもちて、
水もて縁と足を濡らしむ。
蒸気と声が袖より震えきたる。
神の輝きなり。神は傍らに座す。

高田勇・伊藤進訳
『ノストラダムス 予言集/ブランダムール著』日本語版(岩波書店刊)


ブランシュの真ん中で、手に小枝を持ち、
予言者は聖水でもって己の衣服の袖と足を濡らす。
袖口から湯気がたち、震える声が立ちのぼる。
神の輝き<が立ち現れる>。神が近づきすぐそばに座る。
(出典不明)

初期の版では、冒頭が「La verge」ではなくて「La vierge(処女=処女宮)」になっているものがある。そのことを踏まえた訳  

処女宮が古き神殿の中央を手にする
波をもって辺土とそのふもとを濡らしめる
恐怖と怒涛の声が海峡より聞こえたる。
神の輝きなり。神は傍らに座す。
(出典不明)

春の頃古い神託殿の天空の真上に処女宮が来たとき
波が押し寄せて、その辺境の地に建つ聖所まで来る
海峡から波と恐怖に震える声が立ちのぼる
これこそ神の業である。神はいつも我々そばにいる
(福島氏による平易訳文)

verge《文》 (叩くための)棒, 笞むち
vierge 処女 手付かずの 未開拓の
La Vierge おとめ座 聖母マリア 
BRANCHE  (木の)枝; 分枝. 枝状のもの.(系図の)枝, (学問などの)部門, 分野, 分科. 《故事》巫女の持つ棒(ディディモイの故事に拠る)《希》(地方などに分祀された)小さな神殿 その一部.

en main 手中に.
mise 動詞 mettre の名詞形 ~の状態にする
au milieu de の真ん中に〔で〕; の最中に.
onde 波
mouille〈形〉湿った, 濡れた.
l'imbe → limbes 《カトリック》 地獄の辺土, 古聖所(キリスト以前の正しい人の霊の住む所), 孩所(洗礼を受けていない幼児の霊の住む所); 冥府 混沌とした状態.
pied  足 脚(a) (柱・建物などの)下部; (山の)ふもと. (b) (木などの)根元. (c) (草の)1株, (木の)1本.
vn → un 
peur 恐怖 不安
voix 声
fremissent  震えている.ざわめく,
manches 袖 袖口 《古》海峡
splendeur 栄光, 繁栄.壮麗さ 光輝.
diuine →(古仏・羅) divinit 神



なぜここでいまさらノストラダムスの予言詩を持ち出すかというと、ノストラダムスの予言の方法というものについて確認したいからである。

第一章は余りにも有名で、ほとんどの(まともな)解説では、ノストラダムスが予言の詩を書くときのスタイルについて自ら描写しているのだと述べられている。

「夜暗くなった頃、ひとりで書斎篭って、青銅の卓(椅子になっているものもある)占台の前でじっとしていると小さな炎(Flambe)が生まれて(インスピレーションのことか)未来を告げるのだ、と言っていると言われている。

自分はこの「Flambe」は「flambeaux de la nuit~夜の灯」つまり月や星々のことでもあると思っている。

というかそう読むとスッキリする詩になりますよ、と言っているのだ。
つまりノストラダムスの予言方法の根幹を成すものが(神からの)インスピレーションであるのと同時に占星術という方法論なのだよという表明と合致するからである。

第二章についても、ノストラダムスの予言=神からの啓示であるということを描写したものだと言われている。そういう解釈をしているものが多い。

ただし、上記のとおり、初期の版によっては「La Vierge」になっているものがかなり残っており、どっちが本当のノストラダムスによる意図が反映されているかについては、実はあまりはっきりとしていない。(こんなことを書くと反論してくる研究者が多いのだが)

結論
で、ここで確認しておきたいこと、それはこのふたつのどちらにも「ノストラダムスが夢の中で予言を得ている」であるとか、「ヴィジョン=映像という形で災害の現場の様子を見た」とかは述べられてはいないということである。
このことは頭に入れておいていただきたい。
(つづく)


2007年4月3日火曜日

070403 お問い合わせ2

  
【ジュセリーノ予言の真実 0403】 お問い合わせ2

そのもうひとつなのだが、メールでだが「たま出版から出たジュセリーノの本、要りませんか?」というのが来ているのだ。何通もだ。全部で4・5通かな?

そのうち一通には
「内容的にはたいしたことなかった。でもせっかくなんで、かまたさんならばこの本の中にあるおかしなところとかを見つけ出せるんじゃないかと思います。もっと沢山ジュセリーノ批判をして下さい。」
と書かれてあった。(笑)

また、別の一通には
「手違いで2冊注文してしまいました。安く売りますから買ってください。お願いします。」
と書かれていた。まあ、ブックオフなんかに持っていっても、一カ月もたたないうちに二割くらい(300円?)になるだろうからなぁ。今が売り時といえばそうなのだ。

しかし、せっかくの申し出だが全てお断りした。

やはり形式的にも実質的にも自分の住所とか勤務先・連絡先を簡単に教えたりするものではないであろうと判断したからだ。この場合は。残念だが。

で、このふたりにはいろいろと考えてから代案として、「最寄のネットカフェに持っていけば喜ばれますよ、たぶん。」と返事を送ったのだが。

もし自分が行きつけのネットカフェにこの本が置いてあったのならきっと手に取ってしまうに違いないとふと思ったからだ。

が、しかしこんなことをしていいのだろうか?こんなことをそそのかしたりして、とちょっと不安になっているところである。

反社会的な内容の本を世間に広めてしまうことにもなるからだ。どうせなら表紙の裏側にはでっかくこのブログのURLとかタイトルを記入してから、とか付け加えておくべきだったかもしれない。ネットカフェでならというのがミソだ。

というか、つい今しがた知ったことなのだが、やはりというべきか、たま出版から発売されたジュセリーノの本は内容的にかなりミスが多く、すでに第二版では校正中だという話である。まあいつものことだが。

だからまあ、あの本を(新刊本で)買おうと思っている人がいるのならばだが、もう少し待ったほうが賢明かもしれない。

本屋で注文するとこういう場合(最新刷版のつもりが古い版が来たとか)は返品とか交換は(原則的には)きかないものだからだ。

買うのであれば、大型書店に行って実物を手に取って、奥付(発行日とかが書かれているところ)を確かめてからにしたほうがいいのではないか。

まあ、一番いいのは買わないことなんですけどね。

自分もいずれはこの本を読むことになるのであろうが、少なくともミスだらけの初版についてあれこれ考えたりすることが大いなる徒労に終わることだけは間違いなさそうなので、もうしばらく様子を見るつもりでいる。

あとの残りは別の項目でまたにする。

2007年4月2日月曜日

070402  お問い合わせ

【ジュセリーノ予言の真実 0402】  お問い合わせ

誰が「否定派おやじ」やねん!

いいのか、合ってるのか。自分は否定派おやじか。

2ちゃんねるの「ジュセリーノ」関連のスレッドが皆荒れている。他人事ではない。もし自分がコメント欄をずっと開放にしていたならば似たような状態になってしまっていたかもしれないからだ。というか多少まだそんな感じの部分が残っていたりするのだが。

なんにしても、こういうのを見るとどうしても自分は肯定派、というよりも広い意味での「予言依存症の人たち」の断末魔にしか見えてこないのだが。

さて、ずっと更新を怠っているうちに(嘘)いろいろなことがあった。
ひとつは、ある有名出版社の雑誌編集部から問い合わせのメールが来たことだ。

一応コメントは出しておいたが実際に載るかどうかはわからない。そういう経験は何度もしている。それどころか自分も雑誌の編集はに関わったことがあるので、どうしてそうなるのかという内情ぐらいはわかっているつもりだ。

それになにしろその雑誌の発売が5月なのだそうである。果してそのころまでジュセリーノの予言なんてものがみんなの興味を惹くような話題でありつづけているとは到底思えないのだが。

東スポとか新聞の方はこういう場合ものすごく楽でいいなと素で思ってしまう。先を読んだりする必要なんてまったくなくて、その時点で話題になっていることをすぐに記事にすればいいからだ。まあ、物事をじっくりと考えて結論を出したりとかは絶対に出来ないだろうけれどもさ。


まあだから東スポに限らず、スポーツ新聞は、こういう「ジュセリーノの予言が当った!」みたいな脊髄反射的な内容の記事ばかりで埋め尽くされるのだろうけれど。

もし、「ジュセリーノの予言なんて贋物」とか堂々と主張しているスポーツ新聞があったら、そっちのほうがよっぽど怖いわ。(続く)

2007年4月1日日曜日

070401 サヨナラ!

【ジュセリーノの予言の真実 0401】 サヨナラ!

あるいはすでにお気づきのかたもいらっしゃるかと思うが、Yahoo!Japanの検索で「ジュセリーノ」という検索ワードだけでも11位~15位ぐらいにこのブログが出てくるようになった。しかも「ジュセリーノ 予言」だと4位か5位になる。

いつものことだが、このことを友人からのメールで知ったのだが。

自分のこの目でそれを確かめたときは久々にガッツポーズであった。
なにやってんだか、だが。

やはり「NOBU」さんから頂いたアイディアを実行したのが効果覿面のようだった。さすがのYahoo!Japanも無視できなくなったということか。

本来ならばここでその手口を公表すべきなのかもしれないが、向こうが対策を練ってきたときのためにまだ黙っておくとする。二の手三の手としてまだまだ使えそうだし。

ていうか、これはものすごいビジネスアイディアでもあるわけで「NOBU」さん
に黙って勝手に公開などしてはいけない類のものなのだろう。

「NOBU」さん、本当にありがとうございました。

というわけで、自分が目指した目標はやっと達成することが出来たわけで、これからはこのブログの頻繁な更新はやめようと思っている。

その必要もなくなったということだ。
掲示板などを見て回ってみても、いままでのように予言肯定派の人たちの勢いはなくなりつつある。

そして、肯定派(といってもいいような)ブログもその記事を書き改めたり、「やっぱ、ジュセリーノの予言なんて当らなかったジャン!」みたいなものが急激に増えてきたというのをこの目で確認して感じた実感からの決意である。

とにかく、そもそも自分としてはこのブログがポータルの検索で「ジュセリーノ」というワードだけで常に上位にあって、誰でもがすぐにジュセリーノの予言というものの実像を知ることが出来る状態にあればそれでいいのである。

「ジュセリーノの予言」が本物なのかそうでないのかを判断するのは、やはりあくまでも受け取る側その人の責任だと思うからだ。

今やっとやってきたこの状況というものは、その最低限の条件だけは満たされたしているわけで、それ以上のことをここでやってみてもあまり意味はないのだと予感している。いや、予感というよりも確実に根拠に基づく「予想」と言うべきだろうな、ここは。(笑)

Yahoo!Japan の検索ででも、このブログに辿りつくことがものすごく簡単になったということは、これからそのシナジー効果みたいなものは確実にやってくるということだ。このブログの存在が、相対的に「予言肯定派」にとっては大きな障害として立ちはだかる直前のところまできてるんだなという確信も得ている。それもいろいろなところに現れている。

まあ、というわけでここは肯定派の皆さんにも、あるいは否定派の皆さんどちらの立場でもいいがずっとこのブログを毎日のようにチェックしていたという皆さん全てに感謝の意というものを表しておきたい。

「ありがとう皆様」と

それではみなさん、さようなら。また明日の朝まで~