【ジュセリーノ予言の真実 0516】ジュセリーノの精神を理解していない人
某スポーツカフェで日本ハム対楽天戦を観た。球団初の5連勝である。
同点で迎えた延長12回の表、無死一・三塁でウィットの打席になったとき、その場に居合わせた全員がほぼ同時に「勝った」「勝ち越した」と声を挙げた。いっておくがウィットがフライを打ち上げる前にである。
低めに落ちる球をウィットが見逃したからだ。
もう全員が頭の中でウィットが大きな犠牲フライを打ち上げて三塁ランナーが生還するというちょい先の未来を見てしまったのである。たぶん。
もちろん自分もだ。
こういうのも下手すれば一種の「宗教」だよなぁ、とつくづく思ってしまう。何が犠飛を打ち上げる前に「勝った」だ。馬鹿じゃねぇの、まったく。
ウチの抑えは福盛だぞ。
被打率.328、被出塁率.359なのにまだ負けがつかないことがすでに奇跡だっていうの。(よく考えてみると、それこそが福盛の天性のもの凄さでもあるのだが。)
などと偶然隣り合わせた一団と自嘲気味に笑いながらも、最後は楽天の勝利をしみじみと喜んだ。
まあ楽天ファンというのはなんかどこかのどかで、チームが負けがこんでても「だからどうした」と鷹揚な感じの連中が多い。悪い意味での負け慣れである。逆に下手に同一カード3連勝なんかでもした日には興奮して眠れなかったりするくらいだ。
特に自分の周囲には、近鉄から流れてきた自分のように暗黒時代に慣らされたようなファンばかりで、ファン精神というものが曲がり曲がってる奴ばかりだから、チームが出来て楽天のファンになったという若い層とはやはりどこか超えられない一本の大きな断層を感じることのほうが多いかもしれない。
普通に勝てるチームを作るのには長い道程というものが必要なのである。その長い「耐える年月」というものを嫌い、すぐにでも「楽天の黄金時代」はやってくるものだと勘違いしている連中も、やはりいることはいる。大体が20代から30前半の、野球未経験の「ゲームでしか野球をやったことがない」という世代である。
そういう若い楽天のファンの中には、本気で今年は優勝と信じている人たちがいる。まあ、信じるの自由だ。それが「宗教」というものだからだ。なんてな。
ただし、それが実現するためには何が必要かということを考えたときにその人たちが持ち出してくる話がちと怖い。
田中将大の13勝、まあこのあたりはまだアリかなとは思う。でも続いて永井も13勝、青山13勝、岩隈12勝、一場も10勝・・・とか勝ち星を計算しだしたりする。
無理だっちゅうの。
しかも、その架空の話(楽天優勝)が進んでゆき、パの相手チームの主力の怪我による長期離脱を本気で願ったり喜ぶ連中もいたりで、そういう話になると、というかそういうことを嬉々として語る若い連中を観たりすると、正直「こいつらとは付き合えねえな」と思ってしまう。
正直「家帰ってテレビでゲームでもしてろ」とか言いたくなるのを堪えていたりするのだ。
地元の若いアナウンサーなんかにも、平気でこういう具合に相手チームの主力の怪我による離脱を喜んで語る「馬鹿」もいる。仙台のマスコミのこういう民度の低さだけはなんとかして欲しいと思うことは結構多い。誰か注意してやれよ。
何故馬鹿か。それは、残り四チームにとっても条件はまだまだ同じだからだ。楽天にだけ有利になったということではない。そのことがすっぽりと頭から抜けて、うれしそうに「楽天には有利だ」とか語っているから「馬鹿」と言いたくなるのである。
まあ「宗教」であるとか「カルト」について語るときには「たとえ話」というのは禁物で、このような話をジュセリーノの予言のブログの前置きとすると別の誤解を招きそうなのでここらへんでやめておく。
で、本題に移る
「ジュセリーノさんは決してお金もうけのために予言をしているのではない」
と書かれているブログだとか掲示板の書き込みを目にする。
それが偉いことなのかどうかは自分にはよくはわからない。
というか自分は「予言で金儲けをしても別にかまわないんじゃないか」とさえ思っている。もちろんその「予言」が正しいというか当る「予想」であればだ。
前にも書いたことだが、世の中にはそういう「予言」とまではいかなくても、「予想」を飯の種にしている人達はいる。「競馬評論家」とか「国際情勢アナリスト」なんかがそうだ。彼らには「将来を予想する」ということが求められているのだ。
そういう需要がある以上、それを生業とすること自体には別に問題はないであろう、ということだ。占い師だってそうだ。需要がある以上そこに金銭が絡んできたからといってそのことを指弾してもしょうがないのである。
以前、林葉直子の「タロット占い」について書いたときに「何故あんな怪しげな占いのことを褒めたりするのか?」みたいなメールがわんさかと来たことがあった。
別に林葉直子の占いのことを褒めたり勧めたりしたのではない。
自分が「優れている」と言ったのは林葉直子の文章の能力であり、その明解な文章力を褒めただけだ。林葉直子のその占いについても「別に(タロットの教科書からはずれたような)おかしなことを言ったりはしてないし、料金もリーズナブルな設定になっている」と書いただけで勧めたりはしてはいない。もし彼女の占いを糾弾するのならば、先にもっと糾弾されるべき占い師はごまんといるだろうということだ。
職業占い師も当然プロであるから、自分の発言に対しては責任というものが生じる。予想が外れれば自分の評価は下がる。仕事の依頼も減る。世の中そういうものだろう。
で、ジュセリーノの予言というものはそういう職業的な占い師とは分けて考えるべきだという意見を寄せてくる人がいた。
そうかと思う。もしそれを当人が望んでいるのであればだ。
まあ、予言者と名乗る人たち、職業的占い師と一緒くたにされると大概は嫌な顔をするものだが。
困るのが、そういうこと(ジュセリーノが金儲けのことを考えていない)を書いている人たちのブログを「見た」ときである。そのままストレートに笑っていいものかどうかを悩んでしまうのである。
大概が、そのブログにはアフィリエイトとか怪しげなサイトへのリンクがベタベタ並べられているからだ。
「携帯サイトで月収4715万円稼いだ 」とか「株の初心者でも勝ち組投資家に!」とか「楽して株で100万円儲かる」とか。
「これじゃギャグだろうが」そう思われてもしかたがあるまいって。
もしこんなブログを見たら誰もがまず思うのが「まずてめえがそのジュセリーノの精神を見習えや」だろう。
まあ一歩譲って、アフィリエイトそのものが悪いとは言わない。しかし「自分で選べるものくらいはまず吟味して、内容に相応しいものにしたほうがいいんじゃないの?」くらいは言わせてもらう。
でなければ、(アフィリエイトで儲けたいと気持ちがあるのらばという意味だが)だったらジュセリーノの予言なんて自分のブログで扱わないことだ。
ていうか、「ジュセリーノの予言」って自分のブログで、本をアフィリエイトで引っ張るだけ人に堂々と勧められるようなものなのだろうか?それだけの価値のあるものなのだろうか?
この際一度真剣に考えて欲しいものである。
【追記】
記事の中で、楽天イーグルスの福盛投手の今季成績の部分について「被打率.328」と書いてしまったが
「いつの時点での成績かはわからないけれど、そんなに悪くはないはず」というご指摘があった。
確かにもう一度計算し直してみると、5月の14日の時点でも.288、15日試合終了時だと.266であった。
どうやら計算方法を間違ったようです。
福盛投手に対しては、お詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。
しかし、被出塁率も計算しなおしてみたのだが、なんと「.371」であった!
これではつまり打者を二人出すのも当たり前という数字である。(二回に一回は背中に二塁ランナーを背負っていたという数字ともいえる)
これでいてまだ福盛投手には負け星がひとつもついていないのだからもう「奇跡のリリーファー」と呼ぶに等しいのではないか。盛田とは別の意味で。
そのメールで指摘してくれた人も「九回に白い風船を持つ手が疲れるし風船は萎んで小さくなるし試合は緊迫するしで、フクモリ君には困ったものですね」と嘆いていた(笑)
まあそれもマニア的楽天ファンの密かな楽しみのひとつだから今はいいけどさ。