【ジュセリーノ予言の真実 0531】
目次(07年05月)
07年04月度へ
0501 「たまBBS」に文句を言う1
0501 「たまBBS」に文句を言う2
0502 「予言というオナラ」
0504 カマダさんからメールが届きました
0505 宮沢賢治が夢見ていた地球の温暖化
0507 またまたセナの死亡事故について(その5か?)
0508 拾遺録
0511 疑問 911の予言について
0511 カルトの定義とか
0513 自分の目に写るもの
0515 始まりのその始まりかな
0516 ジュセリーノの精神を理解していない人
0517 コメントのこと
0517 こんなメールがきました
0518 「デマ」というもの
0519 そのデマの2日後(オリハルという人物からのクレーム)
0520 一月の台風
0523 手紙偽造のトリック
0524 ご報告とライブドアブログについて
0524 決定的な証拠画像
0525 超論理的反論
0526 次々と明らかになる事実
0527 ジュセリーノの予言の嘘2 携帯用
0529 思わず笑っちやったこと
0530 笑えない間違いの部分
0531 ジュセリーノと表記する根拠
0531 目次 07年5月 このベージです
07年06月度
ライブドアブログ
4月へ
0501 「たまBBS」に文句を言う1
0501 「たまBBS」に文句を言う2
0502 「予言というオナラ」
0503 目次 その3(4/01~4/15)削除済
0504 カマダさんからメールが届きました
0504 目次(4/16~4/30)削除済
0505 宮沢賢治が夢見ていた地球の温暖化
0507 またまたセナの死亡事故について(その5か?)
0508 拾遺録
0511 疑問 911の予言について
0511 カルトの定義とか
0513 自分の目に写るもの
0515 始まりのその始まりかな
0516 ジュセリーノの精神を理解していない人
0517 コメントのこと
0517 こんなメールがきました
0518 「デマ」というもの
0519 そのデマの2日後(オリハルという人物からのクレーム)
0520 一月の台風
0523 手紙偽造のトリック
0524 ご報告とライブドアブログについて
0524 決定的な証拠画像
0525 超論理的反論
0526 次々と明らかになる事実
0527 ジュセリーノの予言の嘘2 携帯用
0527 目次5(5/01~5/15)※削除済
0529 思わず笑っちやったこと
0530 笑えない間違いの部分
0531 ジュセリーノと表記する根拠
0531 目次 07年5月 このベージです
07年06月へ
2007年5月31日木曜日
070531 ジュセリーノと表記するその根拠
【ジュセリーノ予言の真実 0531】 ジュセリーノと表記するその根拠
我々はなんとなくこの「Jucelino nobrega da luz」という人物のことを「ジュセリーノ」と表記して、そう発音しているが実際ブラジルでこの「Jucelino」をどう発音しているかというと「ジッセリーノ」かあるいは「ジュッセリーノ」のほうが近い。
少し前にウルトラボックスの第二期のリーダーだった「ミッジ・ユーロ(midge Ure)」のことを例に出して、海外の有名人の場合、日本語での人名表記には根拠のないものが慣例としてはびこっている場合が多いので注意しなければならないと書いたことがあった。
あるいは映画監督「スタンリー・クブリック(クーブリック)」のように、日本の映画会社の思惑でまったく根拠のない発音を充ててしまうことがあるので、このような間違いはどうせならばこの際思い切って是正したほうが良いと書いたこともあった。
同じようなことをこのジュセリーノについても考えてしまうのである。まあ一種の職業病みたいなものですが。
ではこのジュセリーノの場合どうしたもんだろうかと考えたときに引っ掛かってしまうのが同名の有名人はどうなっているかである。
ひとりいる。いうまでもないブラジルの大統領だったJuscelino Kubitschek de Oliveiraである。名前をよくみるとJucelino ではなくJuscelinoである(sが入っている)。彼の場合名前の「Juscelino」 は「ジュセリーノ」と表記されるのが一番多い。次が「ジュッセリーノ」である。
Jucelino nobrega da luzのJucelino が「ジュセリーノ」ではなく「ジュッセリーノ」と発音されてしまう根拠がこのあたりにあるような気がするのである。あるいは逆なのではないのかなどと思ってしまうのである。
ジュセリーノ・クビチェック(Juscelino Kubitschek de Oliveira)
まあでもどちらかに統一しなければならないとしたのならば、自分は「ジュセリーノ」でいいのではないかと思っている。少なくともそう表記するだけの根拠はあるわけだし。
しかしこの「ジュセリーノ騒動」(まあコップの中の嵐みたいな小さなものだけれども)においてもやはりいろいろな日本語表記がされているというのも事実である。
これも「みち☆まり」さんから頂いたメールに貼り付けてあった「Jucelino nobrega da luzの日本語表記の分布」である。使用した検索エンジンはもちろんgoogleである。「ブラジル 予言」のキーワードで引っかかってきたものを多い順に並べなおした。
明らかなタイプミスは除くとしても、「ジェセリーノ」という表記にこだわっている人が何人かいることには呆れる。
これは意図的なものであろう。何を目指しているのかはわからないが。
しかし問題なのは、この「ジェセリーノ」という表記に拘って続けていると、馬鹿に見えてしまいかねないということでもあるのだが。
大きなお世話ではあるが。
Jucelino nobrega da luzのJucelinoの部分の日本語表記をどうするか、何にするかは書く人の勝手ではある。
あるが何故そう表記するのかという問い掛けに対する答えだけは明解なものを持っているべきであろう。
自分は「ジュセリーノ」に統一した。その理由は、第一義的には検索の際の利便性を考えてである。しかし「ジュセリーノ」であって「ジュッセリーノ」ではないというその根拠はアルファベットでは「Jucelino」であって「Juscelino」ではないということである、となる。
我々はなんとなくこの「Jucelino nobrega da luz」という人物のことを「ジュセリーノ」と表記して、そう発音しているが実際ブラジルでこの「Jucelino」をどう発音しているかというと「ジッセリーノ」かあるいは「ジュッセリーノ」のほうが近い。
少し前にウルトラボックスの第二期のリーダーだった「ミッジ・ユーロ(midge Ure)」のことを例に出して、海外の有名人の場合、日本語での人名表記には根拠のないものが慣例としてはびこっている場合が多いので注意しなければならないと書いたことがあった。
あるいは映画監督「スタンリー・クブリック(クーブリック)」のように、日本の映画会社の思惑でまったく根拠のない発音を充ててしまうことがあるので、このような間違いはどうせならばこの際思い切って是正したほうが良いと書いたこともあった。
同じようなことをこのジュセリーノについても考えてしまうのである。まあ一種の職業病みたいなものですが。
ではこのジュセリーノの場合どうしたもんだろうかと考えたときに引っ掛かってしまうのが同名の有名人はどうなっているかである。
ひとりいる。いうまでもないブラジルの大統領だったJuscelino Kubitschek de Oliveiraである。名前をよくみるとJucelino ではなくJuscelinoである(sが入っている)。彼の場合名前の「Juscelino」 は「ジュセリーノ」と表記されるのが一番多い。次が「ジュッセリーノ」である。
Jucelino nobrega da luzのJucelino が「ジュセリーノ」ではなく「ジュッセリーノ」と発音されてしまう根拠がこのあたりにあるような気がするのである。あるいは逆なのではないのかなどと思ってしまうのである。
ジュセリーノ・クビチェック(Juscelino Kubitschek de Oliveira)
まあでもどちらかに統一しなければならないとしたのならば、自分は「ジュセリーノ」でいいのではないかと思っている。少なくともそう表記するだけの根拠はあるわけだし。
しかしこの「ジュセリーノ騒動」(まあコップの中の嵐みたいな小さなものだけれども)においてもやはりいろいろな日本語表記がされているというのも事実である。
これも「みち☆まり」さんから頂いたメールに貼り付けてあった「Jucelino nobrega da luzの日本語表記の分布」である。使用した検索エンジンはもちろんgoogleである。「ブラジル 予言」のキーワードで引っかかってきたものを多い順に並べなおした。
ジュセリーノ の検索結果 約 27,500 件
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8E&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
ジュッセリーノ の検索結果 約 920 件
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8E&lr=
ジョセリーノ の検索結果 約 710 件
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8E&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
ジェセリーノ の検索結果 約 195 件
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8E&lr=
ジュゼリーノ の検索結果 約 95 件
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8E&lr=
ジュセリノの検索結果 60 件
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%8E&hl=ja&lr=&start=60&sa=N
ジョゼリーノ の検索結果 約 55 件
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8E&lr=
ジユセリーノの検索結果 10 件中
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%82%B8%E3%83%A6%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8E&lr=
明らかなタイプミスは除くとしても、「ジェセリーノ」という表記にこだわっている人が何人かいることには呆れる。
これは意図的なものであろう。何を目指しているのかはわからないが。
しかし問題なのは、この「ジェセリーノ」という表記に拘って続けていると、馬鹿に見えてしまいかねないということでもあるのだが。
大きなお世話ではあるが。
Jucelino nobrega da luzのJucelinoの部分の日本語表記をどうするか、何にするかは書く人の勝手ではある。
あるが何故そう表記するのかという問い掛けに対する答えだけは明解なものを持っているべきであろう。
自分は「ジュセリーノ」に統一した。その理由は、第一義的には検索の際の利便性を考えてである。しかし「ジュセリーノ」であって「ジュッセリーノ」ではないというその根拠はアルファベットでは「Jucelino」であって「Juscelino」ではないということである、となる。
Well, Jucelino said that he got the predicting the accident of the Chernobyli nuclear plant in 1989.
If it is not such as for the the prediction of at that tragic accident, I were laughed it.
Well it makes postponement concerning the contents. So there is the part, which I bited first time.
What is that?
The anser is...
As for that, Jucelino, he sent the letter of the prediction to the President of Ukrainia with air it was in 1980 he said that.
You do not have to laugh it. Jucelino said it by mouth himself.
It is not the mistaking of translation,
You can see the pict of memo notepaper in that he wrote it by hand`TO PREDIDENT OF UCRANIA KIEV 1980" in his book.
Once, I write it (or for the young people) to make sure, Ukraine appointing the Presidential System in 1991 after the Soviet collapsing.
In 1980, at that time the there was not PRESIDENT in Ukraine. The fact that it is the `general secretary" (SECRETARY CHIEF-GENERAL). Of course this is inscription with English. As for being problem, Jucelino wrote"PRESIDENT" it written with English,
Knowing the Somekind of danger ,to that concerning the accident of Chernobyli, it is to inform to Soviet federal general secretary.
As such country becomes independent the authority which was not in Ukraine around 1980 of that time. Therefore very the nuclear accident which occurred with Ukrainian Chernobyli, it is call 'the political tragedy".
So, you say that only the human who does not think it is the "Jucelino's group" is to be useless organization, as the union which the puttig out at least , or the human of the top has become a kind of `crazy system", it is my one view.
2007年5月30日水曜日
070530 笑えない間違いの部分
【ジュセリーノ予言の真実 0530】 笑えない間違いの部分
小ネタである。こういうのは後でまとめて書いたほうがいいと思っていたのだがリクエストが結構多かったので先に小出しにしておきます。
さて、ジュセリーノはチェルノブイリの原発の事故を予知したと言っている。
その内容はあまりに荒唐無稽でぶっ飛んでいて、もしこれがあの事故の予言でなければ自分は思いっきり笑い飛ばしていただろう。
まあその内容については後回しにしておく。それよりもなによりも真っ先に食いついてしまった部分がある。
なんとジュセリーノはその予知の手紙を(1980年に)ウクライナ国の大統領宛てに航空便で出したと書いているのである。
笑ってはいけない。これはジュセリーノ自身がそう言っているのだ。
たま出版の人間がそう言っている(書いている)のであればそれは単なる無知として片付けることもできる。そうでなくても昔読んだ(読まされた)たまの本にはこういう突っ込みどころが満載でそれだけで本が一冊かけそうなくらいであった。きっと、たまから出たジュセリーノの本も本一冊分は書けなくてもこういう部分がいっぱいなことぐらいは想像に難くない。
一応念のために書いておくが、ウクライナという国が大統領制度を登用したのはソビエト崩壊後の1991年。初代大統領はいうまでもなくレオニード・クラフチュクである。二代目がレオニード・クチマ。親ロシア路線に方向転換して総スカンを食った大統領である。現在の大統領(暗殺されそうになったといわれている人だ)が三代目大統領のユーシェンコだ。
1980年当時ウクライナには大統領(PRESIDENT)はいない。いるのは書記長(SECRETARY CHIEF-GENERAL)である。もちろんこれは英語での表記である。問題なのはジュセリーノが英語で「PRESIDENT」と書いていることであって、ロシア語でもウクライナ語でも「大統領」と「書記長」は別のものだ。だから日本でもこのふたつを呼び分けている。そのくらいはわかることだろう。
それにチェルノブイリの事故についてもしなにかしらの危険を知って通報するのならばソビエト連邦書記長に対してだろう。いくらなんでも。当時の(1980年ころの)ウクライナにはそういう国として独立した権限はなかったのだ。だからこそウクライナのチェルノブイリで起きた原発事故は政治的な悲劇でもあるのだ。
そんなことぐらい常識であろう。
少なくとも「1980年にウクライナ国の大統領(ジュセリーノがPRESIDENTと書いている時点)宛てに・・・」などと書いていたらば、日本で編集に携わる人間の誰かが「その原稿ちょっと待て!」ぐらいは思うはずなのだ。
まともな出版社のまともな編集部の人間ならばだが。
そう思わなかった人間しかいない「たま出版」の編集部は、少なくとも本一冊出す会社としてはダメ組織だということだし、あるいはトップの人間が一種の癌細胞になってしまっているという私のひとつの所見でもある。
【追記】
VAN」さん、その他大勢の方からこの部分に関して詳しい報告を頂いた。
たまの本「未未からの警告」第三版の103ベージの末4行から始まる部分だそうです。
「もしさらに図にのったジュセリーノが、ウクライナの大統領からの返事をもらった、みたいなことを書いてその手紙を証拠として示してれば完璧だったのに…」だそうである。
確かに、笑っている場合ではないよな。
小ネタである。こういうのは後でまとめて書いたほうがいいと思っていたのだがリクエストが結構多かったので先に小出しにしておきます。
さて、ジュセリーノはチェルノブイリの原発の事故を予知したと言っている。
その内容はあまりに荒唐無稽でぶっ飛んでいて、もしこれがあの事故の予言でなければ自分は思いっきり笑い飛ばしていただろう。
まあその内容については後回しにしておく。それよりもなによりも真っ先に食いついてしまった部分がある。
なんとジュセリーノはその予知の手紙を(1980年に)ウクライナ国の大統領宛てに航空便で出したと書いているのである。
笑ってはいけない。これはジュセリーノ自身がそう言っているのだ。
たま出版の人間がそう言っている(書いている)のであればそれは単なる無知として片付けることもできる。そうでなくても昔読んだ(読まされた)たまの本にはこういう突っ込みどころが満載でそれだけで本が一冊かけそうなくらいであった。きっと、たまから出たジュセリーノの本も本一冊分は書けなくてもこういう部分がいっぱいなことぐらいは想像に難くない。
一応念のために書いておくが、ウクライナという国が大統領制度を登用したのはソビエト崩壊後の1991年。初代大統領はいうまでもなくレオニード・クラフチュクである。二代目がレオニード・クチマ。親ロシア路線に方向転換して総スカンを食った大統領である。現在の大統領(暗殺されそうになったといわれている人だ)が三代目大統領のユーシェンコだ。
1980年当時ウクライナには大統領(PRESIDENT)はいない。いるのは書記長(SECRETARY CHIEF-GENERAL)である。もちろんこれは英語での表記である。問題なのはジュセリーノが英語で「PRESIDENT」と書いていることであって、ロシア語でもウクライナ語でも「大統領」と「書記長」は別のものだ。だから日本でもこのふたつを呼び分けている。そのくらいはわかることだろう。
それにチェルノブイリの事故についてもしなにかしらの危険を知って通報するのならばソビエト連邦書記長に対してだろう。いくらなんでも。当時の(1980年ころの)ウクライナにはそういう国として独立した権限はなかったのだ。だからこそウクライナのチェルノブイリで起きた原発事故は政治的な悲劇でもあるのだ。
そんなことぐらい常識であろう。
少なくとも「1980年にウクライナ国の大統領(ジュセリーノがPRESIDENTと書いている時点)宛てに・・・」などと書いていたらば、日本で編集に携わる人間の誰かが「その原稿ちょっと待て!」ぐらいは思うはずなのだ。
まともな出版社のまともな編集部の人間ならばだが。
そう思わなかった人間しかいない「たま出版」の編集部は、少なくとも本一冊出す会社としてはダメ組織だということだし、あるいはトップの人間が一種の癌細胞になってしまっているという私のひとつの所見でもある。
【追記】
VAN」さん、その他大勢の方からこの部分に関して詳しい報告を頂いた。
たまの本「未未からの警告」第三版の103ベージの末4行から始まる部分だそうです。
「もしさらに図にのったジュセリーノが、ウクライナの大統領からの返事をもらった、みたいなことを書いてその手紙を証拠として示してれば完璧だったのに…」だそうである。
確かに、笑っている場合ではないよな。
2007年5月29日火曜日
070529 思わず笑っちゃったこと
【ジュセリーノ予言の真実 0529】 思わず笑っちゃったこと
前に、ジュセリーノの予言に関して、「有名人の死を予言していた」などというとリスキー過ぎてボロを出すだけだと書いたことがあった。
いろいろと聞いてみたり調べた結果なのだがまさしくその通りのようである。
ダイアナ妃に関するものとビートルズのメンバー関するものについてはブラジルでも既にいろいろなところでそのおかしな部分については書かれているらしい。特に、イギリスの新聞社(どこだ?)に送ったといわれている手紙には、ジュセリーノが常々「大切である」と言っているはずの公証所の証明もなにもないものらしい。そんなものを堂々と発表してなんになるというのであろう。
それ以外にも、有名人の死に関する予言部分もビックリすぎるくらい間抜けな記述が目立つ。
ここではふたつだけ挙げておく。話をきいただけで自分はそのおかしな部分にすぐに気がついたということであるからだ。
それはロックバンド、クイーンのフレディ・マーキュリーの死とそしてビージーズについての予言である。
なんとジュセリーノはこの最初の予言を1975年に手紙で送ったと言っているのだ。
1975年というとだ、クイーンが「オペラ座の夜」を発表した年である。
クイーンはこのアルバムと、シングル曲「ボヘミアン・ラプソティ」を発表してやっとイギリス本国でも認められるような存在になった。しかしとてもではないがまだ「スーパースター」とは呼べるような存在ではなかった。
同じようなこと、似たようなこともビージーズに関してもいえる。1975年というのは、ビージーズがRSOというレコード会社から「メイン・コース」というアルバムを発表した年でもある。
それまでビージーズというバンドは、どちらかというとフォークロック調のポップスバンドで、69年以降ははっきりいって一種の低迷期で売れていたとは正直言えないし、とてもではないが「スーパースター」とは程遠いような存在でしかなかった。しかしそのRSOに移籍すると一転ブラコン=ディスコ・サウンド・テイストに方向転換したというその記念すべき年なのである。
しかし、これは繰り返しいうのだが、とてもではないが75年当時「スーパースター」と呼べるような存在ではなかった。ビージーズが世界的な大ヒット曲「スティン・アライヴ」「ユー・シュド・ビー・ダンス」「愛はきらめきの中に」を立て続けに出したのは翌年の76年である。
つまり、ジュセリーノという人は、75年当時まだまだパッとした存在でなかったクイーンのメンバーのフレディ・マーキュリーと、やっと低迷期を脱したばかり(かどうかも怪しいころ)のビージーズのメンバーに関する予言の手紙というものを書いて送ったといっているのである。
なんでそんな「予言」をしたのか(笑)
問題なのは、その「予言の手紙」というものを「有名人に関する予言」だとか言って誇らしげに見せてしまうその時間経過無視の間抜けっぷりのほうだろうけれど。
むしろそれよりも「クイーンとビージーズは来年に大ブレイクするでしょう」とか書いておいたほうがよっぽど「予言」っぽく見えるのだが。
そこまで調べる余裕はなかったのか。
しかも、よりによってその「手紙」、最近メールで教えてもらったことなのだが、なんと「エルビス・プレスリーへの手紙」の中に書かれているのだという。なにそれ(笑)全然意味ないじゃん。というか送る相手というものを完全に間違ってる。
ここまでくるとジュセリーノの予言というものもまるで韮沢氏のテレビで披露しているギャグ(本人は大真面目らしいが)並の間抜けっぷりである。
「なにそれ、突っ込み待ちなの?」といいたくなるのである。
というか最初自分はこれもまた「たま出版」による一種のねつ造ではないかと思ったくらいだ。
(違うらしい。原書にもちゃんとある記述なのだ。それがはっきりしたのでここで取り上げることにした。こういう回りくどい手順を踏まざろう得ないのがつらいところである)
というか、そういう似たもの同士だからこそこうやって手を結んでしまったということなのかもしれないが。
追加
「予言者ジュセリーノの疑惑」P199 予言ワイドショー03の元となった記事がこれである。更新直後からこの記事に対する反応にはすさまじいものがあったのは事実。やはりこういう世界的有名人の死に関するもののほうが食いつきはいいようだ。これは今だから言えるが、実はこの記事を書いた直後に扶桑社と講談社webの担当だという人間から連絡があって、この記事で書かれていることを是非取り上げさせてくれと言われた。しかし、公表するべき媒体名やはなしを聞いただけではどんな記事になるのかもよくわからない状態だったのでいわゆる「名前だし」は断っている。結果から言うとこの自分の判断は正しかったということか。その後の扶桑社の「SPA!」と講談社の「週刊現代」がジュセリーノについてどう扱ったを見ればということだが。むしろ自分が情けなく感じたのこととは、こういう大手マスコミでさえジュセリーノのことを不真面目な興味本位なスタンスでしか扱えないという事実のほうだった。
それがあったためなのか自分のマスコミに対するスタンスは敵愾心を隠さないむき出し状態のものが増えてゆくきっかけにもなった。「てめえら絶対に許さねぇ」というまるで敗れ傘刀舟と同じような気持ちであったのだこのころは。
前に、ジュセリーノの予言に関して、「有名人の死を予言していた」などというとリスキー過ぎてボロを出すだけだと書いたことがあった。
いろいろと聞いてみたり調べた結果なのだがまさしくその通りのようである。
ダイアナ妃に関するものとビートルズのメンバー関するものについてはブラジルでも既にいろいろなところでそのおかしな部分については書かれているらしい。特に、イギリスの新聞社(どこだ?)に送ったといわれている手紙には、ジュセリーノが常々「大切である」と言っているはずの公証所の証明もなにもないものらしい。そんなものを堂々と発表してなんになるというのであろう。
それ以外にも、有名人の死に関する予言部分もビックリすぎるくらい間抜けな記述が目立つ。
ここではふたつだけ挙げておく。話をきいただけで自分はそのおかしな部分にすぐに気がついたということであるからだ。
それはロックバンド、クイーンのフレディ・マーキュリーの死とそしてビージーズについての予言である。
なんとジュセリーノはこの最初の予言を1975年に手紙で送ったと言っているのだ。
1975年というとだ、クイーンが「オペラ座の夜」を発表した年である。
クイーンはこのアルバムと、シングル曲「ボヘミアン・ラプソティ」を発表してやっとイギリス本国でも認められるような存在になった。しかしとてもではないがまだ「スーパースター」とは呼べるような存在ではなかった。
同じようなこと、似たようなこともビージーズに関してもいえる。1975年というのは、ビージーズがRSOというレコード会社から「メイン・コース」というアルバムを発表した年でもある。
それまでビージーズというバンドは、どちらかというとフォークロック調のポップスバンドで、69年以降ははっきりいって一種の低迷期で売れていたとは正直言えないし、とてもではないが「スーパースター」とは程遠いような存在でしかなかった。しかしそのRSOに移籍すると一転ブラコン=ディスコ・サウンド・テイストに方向転換したというその記念すべき年なのである。
しかし、これは繰り返しいうのだが、とてもではないが75年当時「スーパースター」と呼べるような存在ではなかった。ビージーズが世界的な大ヒット曲「スティン・アライヴ」「ユー・シュド・ビー・ダンス」「愛はきらめきの中に」を立て続けに出したのは翌年の76年である。
つまり、ジュセリーノという人は、75年当時まだまだパッとした存在でなかったクイーンのメンバーのフレディ・マーキュリーと、やっと低迷期を脱したばかり(かどうかも怪しいころ)のビージーズのメンバーに関する予言の手紙というものを書いて送ったといっているのである。
なんでそんな「予言」をしたのか(笑)
問題なのは、その「予言の手紙」というものを「有名人に関する予言」だとか言って誇らしげに見せてしまうその時間経過無視の間抜けっぷりのほうだろうけれど。
むしろそれよりも「クイーンとビージーズは来年に大ブレイクするでしょう」とか書いておいたほうがよっぽど「予言」っぽく見えるのだが。
そこまで調べる余裕はなかったのか。
しかも、よりによってその「手紙」、最近メールで教えてもらったことなのだが、なんと「エルビス・プレスリーへの手紙」の中に書かれているのだという。なにそれ(笑)全然意味ないじゃん。というか送る相手というものを完全に間違ってる。
ここまでくるとジュセリーノの予言というものもまるで韮沢氏のテレビで披露しているギャグ(本人は大真面目らしいが)並の間抜けっぷりである。
「なにそれ、突っ込み待ちなの?」といいたくなるのである。
というか最初自分はこれもまた「たま出版」による一種のねつ造ではないかと思ったくらいだ。
(違うらしい。原書にもちゃんとある記述なのだ。それがはっきりしたのでここで取り上げることにした。こういう回りくどい手順を踏まざろう得ないのがつらいところである)
というか、そういう似たもの同士だからこそこうやって手を結んでしまったということなのかもしれないが。
追加
「予言者ジュセリーノの疑惑」P199 予言ワイドショー03の元となった記事がこれである。更新直後からこの記事に対する反応にはすさまじいものがあったのは事実。やはりこういう世界的有名人の死に関するもののほうが食いつきはいいようだ。これは今だから言えるが、実はこの記事を書いた直後に扶桑社と講談社webの担当だという人間から連絡があって、この記事で書かれていることを是非取り上げさせてくれと言われた。しかし、公表するべき媒体名やはなしを聞いただけではどんな記事になるのかもよくわからない状態だったのでいわゆる「名前だし」は断っている。結果から言うとこの自分の判断は正しかったということか。その後の扶桑社の「SPA!」と講談社の「週刊現代」がジュセリーノについてどう扱ったを見ればということだが。むしろ自分が情けなく感じたのこととは、こういう大手マスコミでさえジュセリーノのことを不真面目な興味本位なスタンスでしか扱えないという事実のほうだった。
それがあったためなのか自分のマスコミに対するスタンスは敵愾心を隠さないむき出し状態のものが増えてゆくきっかけにもなった。「てめえら絶対に許さねぇ」というまるで敗れ傘刀舟と同じような気持ちであったのだこのころは。
2007年5月27日日曜日
070527 ジュセリーノの予言の嘘2(携帯用)
ジュセリーノの予言の嘘2(携帯用)
携帯用1 携帯用2 ジュセリーノ予言ここが変!(携帯用) 2006年の月別の予言一覧表-結果判定入り-(携帯用)
【携帯端末でも見やすくしたページです】
■ブラジル人の自称予言者「ジュセリーノ」という人が、「7月13日に大きな地震が起こり日本に津波が押し寄せる」という予言をしていることが話題になっています。■この予言は本物なのでしょうか?本当に今年の7月に大地震と津波は来るのだろうかとまたもや心配をしている人は多いと思います。■この予言についてもう少し詳しく書きますと、もともとは「今年あるいは来年の7月13日にアジアのどこかの国に地震と津浪が来る」という非常にいい加減な内容でした。■それがいつのまにか「アジアの国」の部分が「日本」に変えられて、しかも津浪が起きるの部分があるのかどうかさえも怪しい状況になってしまったのです。果してジュセリーノは本当にその後この予言を「日本に」と変えたのでしょうか?「津波が起きる」の部分を訂正してしまったのでしょうか?■是非とも「たま出版」にはジュセリーノの口から出たものであるという証拠(ジュセリーノ自身の直筆の文章であるとか肉声)を提出していただきたいところです。■ジュセリーノという人は自分の予言でも大切なものは必ず事前に公証所に書類を届け出を出していると言っている人です。ですからこの予言にも必ず公証所に届けたという書類ぐらいはあるはず。■もしそのようなものでもないと「たま出版」がジュセリーノの予言を勝手にねつ造したという疑惑も生じてくると思われますでしょう。
■それにもまして問題にしなければならないのは、この予言の「今年、あるいは来年の7月13日」という部分でしょう。■これでは(不謹慎な話ではありますが)もしどちらかの日に本当に地震があっても(津波が起きたとしても)完全に当ったということにはなりません。存在自体がはじめから半分しか当らないというものでしかないのです。■もちろん、「今年の7月13日から来年の7月13日の間に地震(と津波)があった」としてもこの予言が当ったということにはなりません。■元々、ジュセリーノは「911テロ」であるとか「インドシナ津波」の日付までも正確に予言したと主張していた予言者です。■そんな予言者がこのようなあいまいな予言をしたのですから、これでは今までのジュセリーノの主張全てが「嘘」だと思われてもしかたがないのではないでしょうか。■実際、ブラジルでは、その予言を事前に書いて届けたという「公証所届けの書類」や各国の大使館などから受け取ったとジュセリーノが言っている「手紙」に対する疑惑や「ねつ造の証拠」の報道がされております。(このことはこのブログの他のページで書いております)
■「3月に東京に大地震があり、パニックになる」という予言がありました。しかしその予言は見事にはずれてしまいました。■私は多くのブラジルの人とメールを交換して、あの予言は「東京の大地震」のことであり、「日本に大地震」という予言ではないのだということを確認したところです。■しかし、韮沢氏はあれは「日本のどこかで大地震があり、東京がパニックになる」ということだと言っているのです。つまり、あれは能登地方を襲った大地震のことであり予言は当ったというようなことを言っているのです。■これは外れたジュセリーノの予言を勝手に解釈して予言が当ったかのように言っているだけでしかありません。■その3月の予言は、ジュセリーノがブラジル人相手にポルトガル語で書いたものですから、ジュセリーノが「あれは日本のどこかで起きる地震のことだ」などと言うはずがないのです。■しかも韮沢氏は勝手に解釈しただけではなく、さらに「ジュセリーノとの会話(やりとりと表現)」というようなものをねつ造して、まるでジュセリーノが「日本で地震があったこと、予知が当ったということを満足していた」などと嘘までついて私たちを騙そうとしています。■私は、このことは非常に許し難い行為であると思っています。■その韮沢氏がまたもや懲りずに「7月13日に大地震がある」などと書いてもそれは信用することではない。それが私の見解です。
■機会があればパソコンでこのブログの残りのページを一度じっくりと読んでいただければ幸いです。(かまたあきよし)
■追記 7月に入ってからなのですが、たま出版のHPから7月に起きる地震についての記述の部分から「津波」という文言が削除されました。本の中では第三版からはこの「津波」という記述はすでに削除されており、これで7月13日に起きる災害に関しては「地震」のみというのが「たま出版」側の主張ということになったのだと断言して差し支えないでしょう。■これではまたもや3月の地震と同じで、どこで地震がおきても「予言は当ったのだ」というための下準備をしたのと同じことです。■以前韮沢氏は自社のBBSで「ジュセリーノの予言に関しては正確ではないものが出回っているようです」と書いていました。これに関してはまったくそのとおりだと思います。問題なのはその正確でないものを出回らせている張本人がその「たま出版」と自分自身だということなのですが、その反省というものはあるのでしょうか。いつまでこういう人騒がせなニセの予言というものを世間に流行らせるつもりなのでしょう。
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携帯用1 携帯用2 ジュセリーノ予言ここが変!(携帯用) 2006年の月別の予言一覧表-結果判定入り-(携帯用)
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■ブラジル人の自称予言者「ジュセリーノ」という人が、「7月13日に大きな地震が起こり日本に津波が押し寄せる」という予言をしていることが話題になっています。■この予言は本物なのでしょうか?本当に今年の7月に大地震と津波は来るのだろうかとまたもや心配をしている人は多いと思います。■この予言についてもう少し詳しく書きますと、もともとは「今年あるいは来年の7月13日にアジアのどこかの国に地震と津浪が来る」という非常にいい加減な内容でした。■それがいつのまにか「アジアの国」の部分が「日本」に変えられて、しかも津浪が起きるの部分があるのかどうかさえも怪しい状況になってしまったのです。果してジュセリーノは本当にその後この予言を「日本に」と変えたのでしょうか?「津波が起きる」の部分を訂正してしまったのでしょうか?■是非とも「たま出版」にはジュセリーノの口から出たものであるという証拠(ジュセリーノ自身の直筆の文章であるとか肉声)を提出していただきたいところです。■ジュセリーノという人は自分の予言でも大切なものは必ず事前に公証所に書類を届け出を出していると言っている人です。ですからこの予言にも必ず公証所に届けたという書類ぐらいはあるはず。■もしそのようなものでもないと「たま出版」がジュセリーノの予言を勝手にねつ造したという疑惑も生じてくると思われますでしょう。
■それにもまして問題にしなければならないのは、この予言の「今年、あるいは来年の7月13日」という部分でしょう。■これでは(不謹慎な話ではありますが)もしどちらかの日に本当に地震があっても(津波が起きたとしても)完全に当ったということにはなりません。存在自体がはじめから半分しか当らないというものでしかないのです。■もちろん、「今年の7月13日から来年の7月13日の間に地震(と津波)があった」としてもこの予言が当ったということにはなりません。■元々、ジュセリーノは「911テロ」であるとか「インドシナ津波」の日付までも正確に予言したと主張していた予言者です。■そんな予言者がこのようなあいまいな予言をしたのですから、これでは今までのジュセリーノの主張全てが「嘘」だと思われてもしかたがないのではないでしょうか。■実際、ブラジルでは、その予言を事前に書いて届けたという「公証所届けの書類」や各国の大使館などから受け取ったとジュセリーノが言っている「手紙」に対する疑惑や「ねつ造の証拠」の報道がされております。(このことはこのブログの他のページで書いております)
■「3月に東京に大地震があり、パニックになる」という予言がありました。しかしその予言は見事にはずれてしまいました。■私は多くのブラジルの人とメールを交換して、あの予言は「東京の大地震」のことであり、「日本に大地震」という予言ではないのだということを確認したところです。■しかし、韮沢氏はあれは「日本のどこかで大地震があり、東京がパニックになる」ということだと言っているのです。つまり、あれは能登地方を襲った大地震のことであり予言は当ったというようなことを言っているのです。■これは外れたジュセリーノの予言を勝手に解釈して予言が当ったかのように言っているだけでしかありません。■その3月の予言は、ジュセリーノがブラジル人相手にポルトガル語で書いたものですから、ジュセリーノが「あれは日本のどこかで起きる地震のことだ」などと言うはずがないのです。■しかも韮沢氏は勝手に解釈しただけではなく、さらに「ジュセリーノとの会話(やりとりと表現)」というようなものをねつ造して、まるでジュセリーノが「日本で地震があったこと、予知が当ったということを満足していた」などと嘘までついて私たちを騙そうとしています。■私は、このことは非常に許し難い行為であると思っています。■その韮沢氏がまたもや懲りずに「7月13日に大地震がある」などと書いてもそれは信用することではない。それが私の見解です。
■機会があればパソコンでこのブログの残りのページを一度じっくりと読んでいただければ幸いです。(かまたあきよし)
■追記 7月に入ってからなのですが、たま出版のHPから7月に起きる地震についての記述の部分から「津波」という文言が削除されました。本の中では第三版からはこの「津波」という記述はすでに削除されており、これで7月13日に起きる災害に関しては「地震」のみというのが「たま出版」側の主張ということになったのだと断言して差し支えないでしょう。■これではまたもや3月の地震と同じで、どこで地震がおきても「予言は当ったのだ」というための下準備をしたのと同じことです。■以前韮沢氏は自社のBBSで「ジュセリーノの予言に関しては正確ではないものが出回っているようです」と書いていました。これに関してはまったくそのとおりだと思います。問題なのはその正確でないものを出回らせている張本人がその「たま出版」と自分自身だということなのですが、その反省というものはあるのでしょうか。いつまでこういう人騒がせなニセの予言というものを世間に流行らせるつもりなのでしょう。
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2007年5月26日土曜日
070526 次々と明らかになる事実
【ジュセリーノ予言の真実 0526】 次々と明らかになる事実
「2ちゃんねるで某キリスト教系カルトの信者呼ばわりされているけど放っといていいのか?」みたいな心配をしてくれるメールが来る。
かまわないと思う。自分は別に迷惑を蒙っているわけではない。それどころか逆に以前から自分がこのブログなどで書いていたことを実際に証明してくれているようなものになっているのでありがたいくらいだ。要は費用対効果の問題である。被害者であるとか犠牲者の数は少ないに越したことはないということか。
皆にも暖かく見守ってほしいところなのだが。
まあ2ちゃんねるの人たちにこんなことを言ってみても無駄だろうけど。(笑)
本題です。
現在、ジュセリーノの過去の予言に関してきっちりとした検証を行なっている最中である。それでハッキリとしたことを今ここで書いておく。
月別の予言の3月の予言、C)の部分
Terremoto no Japao em Toquio, provocara panico
であるが、これはやはり
「日本の東京で地震が起こり、(東京は)パニックになる。
としか訳してはいけないものだという結論である。それ以外のものは「解釈」でしかない、いうことだ。
というのも、ブラジルからのメールでその3月の地震のことに触れると「東京で地震はあったのか?」
- Was there the Grand earthquake in Tokyo?
いうような英語のメールであるとか
- Havia o terremoto em Toquio?
のようなポルトガル語のものしか来ていないからである。
一応念のためにそのブラジルの人に返事のメールをしたときに確認をしたのであるが、現在のところ全員から「東京で地震(the earthquake in Tokyo)だよ」との答えを得ている。
日系の人で日本語である程度通じる人からは
「新聞や教科書(のような正確なもの)ではないですが、会話の中でならやはり`東京の地震"ですね」
と書いてきて下さった方がいた。
やはり、最初に思った通り、
もし「日本に地震があって、東京がパニックになる」であるのならば
- Terremoto no (em)Japao ,e Toquio provocara panico
でなければおかしいということだ。
もしジュセリーノ本人が「いや、あれは日本で地震が~という意味で使った」というのであれば、それではジュセリーノはポルトガル語が得意ではない、正しい使い方・文法というものを知らないということになってしまう。それはありえないことだろう。あれはジュセリーノ自身がブラジル人に向けてポルトガル語で書いたものだ。
残る可能性はやはり、たま出版なのか韮沢氏かが(あるいは山川栄一氏か)そのことを知りつつもあえて「日本で地震が~」などという無理矢理な訳(というか解釈)をつけたことであろう。
と自分は今確信を得たところである。
ついでにいうのだが、そうなるとやはり「韮沢コラム」に書いていた
「(ジュセリーノ氏は)最近のやり取りで「(3月に日本で)地震がありましたね」といわれ、予知に満足しておられたようですが、」というのはやはり韮沢氏の想像(つくり話)でしかないということにもなる。
でなければ(最大限好意的な推測をしたとしても)ただの伝聞の際の聞き間違えであろう。あいだに入った人間が誤訳をしたとか、あるいは伝言ゲームよろしく韮沢氏が脳内変換したものだということだ。
結論から言えばやはりジュセリーノの3月の地震の予言は外れたということだ。
「2ちゃんねるで某キリスト教系カルトの信者呼ばわりされているけど放っといていいのか?」みたいな心配をしてくれるメールが来る。
かまわないと思う。自分は別に迷惑を蒙っているわけではない。それどころか逆に以前から自分がこのブログなどで書いていたことを実際に証明してくれているようなものになっているのでありがたいくらいだ。要は費用対効果の問題である。被害者であるとか犠牲者の数は少ないに越したことはないということか。
皆にも暖かく見守ってほしいところなのだが。
まあ2ちゃんねるの人たちにこんなことを言ってみても無駄だろうけど。(笑)
本題です。
現在、ジュセリーノの過去の予言に関してきっちりとした検証を行なっている最中である。それでハッキリとしたことを今ここで書いておく。
月別の予言の3月の予言、C)の部分
Terremoto no Japao em Toquio, provocara panico
であるが、これはやはり
「日本の東京で地震が起こり、(東京は)パニックになる。
としか訳してはいけないものだという結論である。それ以外のものは「解釈」でしかない、いうことだ。
というのも、ブラジルからのメールでその3月の地震のことに触れると「東京で地震はあったのか?」
- Was there the Grand earthquake in Tokyo?
いうような英語のメールであるとか
- Havia o terremoto em Toquio?
のようなポルトガル語のものしか来ていないからである。
一応念のためにそのブラジルの人に返事のメールをしたときに確認をしたのであるが、現在のところ全員から「東京で地震(the earthquake in Tokyo)だよ」との答えを得ている。
日系の人で日本語である程度通じる人からは
「新聞や教科書(のような正確なもの)ではないですが、会話の中でならやはり`東京の地震"ですね」
と書いてきて下さった方がいた。
やはり、最初に思った通り、
もし「日本に地震があって、東京がパニックになる」であるのならば
- Terremoto no (em)Japao ,e Toquio provocara panico
でなければおかしいということだ。
もしジュセリーノ本人が「いや、あれは日本で地震が~という意味で使った」というのであれば、それではジュセリーノはポルトガル語が得意ではない、正しい使い方・文法というものを知らないということになってしまう。それはありえないことだろう。あれはジュセリーノ自身がブラジル人に向けてポルトガル語で書いたものだ。
残る可能性はやはり、たま出版なのか韮沢氏かが(あるいは山川栄一氏か)そのことを知りつつもあえて「日本で地震が~」などという無理矢理な訳(というか解釈)をつけたことであろう。
と自分は今確信を得たところである。
ついでにいうのだが、そうなるとやはり「韮沢コラム」に書いていた
「(ジュセリーノ氏は)最近のやり取りで「(3月に日本で)地震がありましたね」といわれ、予知に満足しておられたようですが、」というのはやはり韮沢氏の想像(つくり話)でしかないということにもなる。
でなければ(最大限好意的な推測をしたとしても)ただの伝聞の際の聞き間違えであろう。あいだに入った人間が誤訳をしたとか、あるいは伝言ゲームよろしく韮沢氏が脳内変換したものだということだ。
結論から言えばやはりジュセリーノの3月の地震の予言は外れたということだ。
2007年5月25日金曜日
070525 超論理的反論
0523と0524の「手紙の偽造」についてはかなりの反響のメールとかコメントを頂いている。
中には
(略)と書いてきてくれた人もいた。否定の人でもたまの本は買って読むのか。
実はワタシ「未来からの警告」は持っています。
'`,、(∀`) '`,、
その手紙についての部分や(画像のある?)133ページも
何度も繰りかえして見てたのに
肝心のそのことにちっとも気つきませんでした!
衝撃でしたよ。正直「やられた」という気持ちでいっぱいです。
(略)
えらいなあ。自分にはそういうことができないのである。
金の問題ではない。
なにしろ自分はこのことのために「ポ日・日ポ辞典」を買ったり、「ポルトガル語入門」なんて本までも買うような人間である。ともに古本屋からだが。
それでも辞典の方は3000円以上もしたのである。
そんな本を読むだけの強い動機付けがないからである。
もしこれが原書のほうだったらそうでもないのだろうが。
(あくまでも読めればの話だが)
また、これは最近気がついたことなのだが、以前あれほど来ていた「ジュセリーノの本を読みもしないで批判をするな!」みたいな、予言肯定派の人からのメールはぷっつりとこなくなってしまった。
自分のような人間にあの本が渡ったらそれこそ「間違い探しのパズル本」状態(笑)になるということに気がついたからなのだろうけれど。
だからか、かわりにこのブログの主旨に対して好意的な(いわゆる懐疑派を含む)ジュセリーノ予言否定の人からの「早くあの本を読んでこのブログでどんどん叩きまくってください。期待してます!」みたいな励ましというか期待を込めたものが目立つようになった。
変な期待のされかただが。そんなものだろう。
だってそのほうが刺激的で面白いに決っている。
だからといって、うかれる気分に浸ってはいけないのだけれども。
中には「ライブドアのポイントをやるからそれで本を注文すれば?」みたいな申し出をされてきた人もいた。
なるほど、そういう方法もあるのだなと勉強させていただいた。
しかしやはりそういうものは受け取りにくいのでご遠慮申し上げたが。
一応、古本屋の知り合いには、たまの本の動向だけはお願いはしようかとは心積もりだけはしている。そんなところだ。
さて、やはり思ったとおりのことではあるが、あの「マイアミヘラルドからの手紙」についての超論理を展開してきた人もいた。
そういうのを待っていたのである。ご希望どおりにここで公開させていただく。
前略、まあそうね、「ご苦労サマ~」くらいの言葉は掛けてあげる。
あの手紙のサインことで偽造の証拠だとうれしそうに書いているあなた
さまには大変申し訳ないんだが、そんなのは証拠にもなんにもなんない
んだよ。残念だけど。
あれはマイアミのヘラルドがあとでシラを切るために最初からそういう
罠を仕掛けておいたのさ。だからあなたもその罠に引っ掛かった愚者の
雄たけびのひとりでしかないわけ。わかるかな?この世界の陰謀はそう
やって深く侵攻しているという、まぎれもない証とみるな。私のような
上級者くらいになると。多分君はまだそこまでのレベルではないね。
ジュセリーノ師はたぶんそのことを知っていながらもやつら(いうまで
もないがヘラルド=グループはユダヤの世界制服の手先機関)の罠に引
っ掛かってみせただけ。
流石である。
そういえば、前にも似たような「超論理」を展開してくれた方がいたな(笑)
まあ、いちいち反論してゆくと無駄に疲れるので、ここでまとめてさせていただくが、こういうジュセリーノが受け取ったといわれている手紙の「異常性」が言われているのは別に「マイアミヘラルド国際編集部」からのものだけではない。
あまりにもおかしなものが多過ぎるのである。
中にはジュセリーノが送られてきたと言っているバチカン国外務次官ガブリエル・カッシア自身がその存在を否定している感謝の礼状なども含まれているのである。(ブラジルでの報道)
この事実をもってこの人はさらにどういう超論理を展開してくれるのだろうか。楽しみである。
っていうか楽しむなよな自分。(自戒)
【追記】
最初に紹介したメールは「VAN」さんのものである。このころはまだ匿名として紹介させていただいたが、送っていただくメールが妙に面白いのでお願いして「引用フリー」みたいな形で随時紹介紹介したいと申し出たところ快く受けていただいた。そのたまの本の入手の経緯だが「ある夜酔った勢いでアマゾンでネット注文した」のだそうである。
次の「超論理的反論」の主だがかなり以前からこのような内容のコメントを書いてくれている常連さんである。名無しなのだがIPと内容で同一人物とわかるのである。
更にときどき見せるそのユニークな造語感覚には、まあなんていうのか、笑わせていただいていた。
このコメントでも「手先機関」というのには思わず手を打った。
「それをいうなら出先機関だろ!」という突っ込みは不要だろう。
「手先機関」、なんというのか「言いえて妙」というやつではなかろうか。
思わず自分も「では、名古屋につくれば手羽先機関か」とか浮かんでしまった。
最近コメントがないのが残念である。
2007年5月24日木曜日
070524 決定的な証拠画像(笑)
【ジュセリーノ予言の真実 0524】 決定的な証拠画像(笑)
これがその「偽造の疑いが強い」ジュセリーノがマイアミヘラルド新聞社国際版編集部から受け取ったといっている手紙の「画像」である。
この画像を送ってくれた方はこのブログで公開することを望んでいる。
そういう前提で送っていただいたものであった。
ただ、自分はあくまでもひとつの例としてこのことが指摘できれば良いと思っていた。なので記事の中で触れただけでその画像そのものをここに載せることには余り積極的ではなかった。
細かなことだが、やはり「著作権」であるとか、そういう世俗的な縛りごとのことを考えてしまっていたからである。
その「画像」を送っていただいた方と今日(23日の夜)メールをやりとりしていて気がついたことなのであるが、その画像をこのブログで発表したって別にどってことはないんだった。
なにしろ、ジュセリーノが「自分が出した911の予言の手紙の返事をマイアミヘラルドから受け取った。これが証拠だ」とマスコミに向けて公開してしまったもの(この時点で私信ではなくなる)であるし、そもそも、この手紙を書いたのは(ジュセリーノの主張に従えば)マイアミヘラルドの人間である。しかし、マイアミヘラルド側はこの手紙を書いて送ったことは否定している。
つまりこの手紙、「差出人不明の怪文書」ということだ。
もうその時点で著作権もへったくれもなかったのである。
その方もブラジルあたりのネットで公開されていたものを見つけて保管したものだと言っている。
まあそういうことで(一日延びてしまったが)その画像をここで公開することにした。
聞けば、同じような物(同じ手紙)がたまの本にも掲載されているという。その方によると、細かな部分(サイズであるとかインクのかすれ具合とか小さな汚れ)に違いはあるものの元となるものは同じであろうとのことだ。
この画像のほうがたまの本に載っている画像よりもオリジナルからの複製回数は少ない可能性は高いし、両者を見比べてみると鮮明度も高いとのこと。
(その方は、原著あるいは雑誌などから直接スキャニングかコピーをしたからではないかなと推測されている。つまりたまの本に載っている画像は・・・)
名前と住所の間に明らかに細工をした個所があることがわかるが、それは住所の地番の行を切り取るかマスキングしたためであってこの件の偽造とは関係はないと思われる。
これを見れば、前日の記事内で「この手紙は一気に打ち出されたものではない」「切り貼りの疑惑は当然浮かび上がってくる」と自分が書いたその理由はわかっていただけることかと思う。
あきらかに署名に被っている個所のフォントだけが違うというのは見て取れるし、欧米でのこういう手紙の形式に対して詳しいという人ならば特にこのことの「異常性」については一発で見てとれることだと思う。
あと、この画像をこのブログで掲載したことに対して「たま出版」がどんな反応を示してくるか、ちょっとだけ楽しみでもある。無視するかやっぱり(笑)
【追記】
この画像を公開したところけっこう反響が多かった。
中にはその画像を送ってきたという人を紹介してくれというおかしなメールもあったが。
そんなことをしなくてもブラジルのアンチジュセリーノのHPやブログを丹念に探してゆけば今でもいくらでも出てくる画像らしい。
その送って来てくれた方によるともっと鮮明に問題の部分を拡大しているものもあるのだそうである。
この方からは別の、ネットに流れているその決定的ともいえる画像を数枚ほど送ってきていただいた。
その一枚はここでも紹介した。
でも、「決定的」なんて言葉を乱用すると馬鹿に見えてしまうので慎んだほうがいいのだろうが。
これがその「偽造の疑いが強い」ジュセリーノがマイアミヘラルド新聞社国際版編集部から受け取ったといっている手紙の「画像」である。
この画像を送ってくれた方はこのブログで公開することを望んでいる。
そういう前提で送っていただいたものであった。
ただ、自分はあくまでもひとつの例としてこのことが指摘できれば良いと思っていた。なので記事の中で触れただけでその画像そのものをここに載せることには余り積極的ではなかった。
細かなことだが、やはり「著作権」であるとか、そういう世俗的な縛りごとのことを考えてしまっていたからである。
その「画像」を送っていただいた方と今日(23日の夜)メールをやりとりしていて気がついたことなのであるが、その画像をこのブログで発表したって別にどってことはないんだった。
なにしろ、ジュセリーノが「自分が出した911の予言の手紙の返事をマイアミヘラルドから受け取った。これが証拠だ」とマスコミに向けて公開してしまったもの(この時点で私信ではなくなる)であるし、そもそも、この手紙を書いたのは(ジュセリーノの主張に従えば)マイアミヘラルドの人間である。しかし、マイアミヘラルド側はこの手紙を書いて送ったことは否定している。
つまりこの手紙、「差出人不明の怪文書」ということだ。
もうその時点で著作権もへったくれもなかったのである。
その方もブラジルあたりのネットで公開されていたものを見つけて保管したものだと言っている。
まあそういうことで(一日延びてしまったが)その画像をここで公開することにした。
聞けば、同じような物(同じ手紙)がたまの本にも掲載されているという。その方によると、細かな部分(サイズであるとかインクのかすれ具合とか小さな汚れ)に違いはあるものの元となるものは同じであろうとのことだ。
この画像のほうがたまの本に載っている画像よりもオリジナルからの複製回数は少ない可能性は高いし、両者を見比べてみると鮮明度も高いとのこと。
(その方は、原著あるいは雑誌などから直接スキャニングかコピーをしたからではないかなと推測されている。つまりたまの本に載っている画像は・・・)
名前と住所の間に明らかに細工をした個所があることがわかるが、それは住所の地番の行を切り取るかマスキングしたためであってこの件の偽造とは関係はないと思われる。
これを見れば、前日の記事内で「この手紙は一気に打ち出されたものではない」「切り貼りの疑惑は当然浮かび上がってくる」と自分が書いたその理由はわかっていただけることかと思う。
あきらかに署名に被っている個所のフォントだけが違うというのは見て取れるし、欧米でのこういう手紙の形式に対して詳しいという人ならば特にこのことの「異常性」については一発で見てとれることだと思う。
あと、この画像をこのブログで掲載したことに対して「たま出版」がどんな反応を示してくるか、ちょっとだけ楽しみでもある。無視するかやっぱり(笑)
【追記】
この画像を公開したところけっこう反響が多かった。
中にはその画像を送ってきたという人を紹介してくれというおかしなメールもあったが。
そんなことをしなくてもブラジルのアンチジュセリーノのHPやブログを丹念に探してゆけば今でもいくらでも出てくる画像らしい。
その送って来てくれた方によるともっと鮮明に問題の部分を拡大しているものもあるのだそうである。
この方からは別の、ネットに流れているその決定的ともいえる画像を数枚ほど送ってきていただいた。
その一枚はここでも紹介した。
でも、「決定的」なんて言葉を乱用すると馬鹿に見えてしまうので慎んだほうがいいのだろうが。
070524 ご報告とライブドアブログについて
【ジュセリーノ予言の真実 0524】 ご報告とライブドアブログについて
まずはご報告から。
相談の結果なのだが、自分は総務省に対して「テレビ朝日」の番組を告発する書状を送るという名簿からは外れることにした。
その理由であるが、自分はあの番組(自分が見たのは録画したものだが)を見て「鬱になった」とか「眠れなくなった」などの精神的・肉体的な被害は一切蒙ってはいないからだ。自分はあの番組の被害者ではないということだ。
であるからして、総務省への告発は、その精神的な被害や実害があった(家族がいる)方々がされる。自分はその方たちをフォローする側に回るとする。
ただし、それ以外の形で「テレビ朝日」のあの番組に対する批判は別の形で継続させていただくとする。というよりもテレビ朝日そのものに対する批判という枠の中で継続することにする。6月30日の時効を過ぎてもだ。
次にだが、今でもこのジュセリーノの予言というものを肯定的に捉えて「当るものである」などと書いているブログが次々と出て来ている。
まあそれ自体を止める権限は自分にはない。あたりまえの話であるがそのことだけは強調しておくが。
でも、せめてこのライブドアのブログの人にはあまり恥ずかしいことはしてはほしくないという気持ちは持っているのである。
中立的なスタンスでジュセリーノの予言というものを取り上げたりするくらいならば、まあ黙っても置くけれど。
ただ、ここに来てライブドアブログにもへんなもの(へんな形でジュセリーノのことを書いているもの)が出て来た。
もうね、悪いけど笑ったよ。失礼なことなのだろうけれど。
どのブログとはいわないけれど、いきなりトップにジュセリーノの肖像画として掲げている画像が「ジュセリーノ・クビチェック元大統領」のものだったからだ。
ふざけてんのか、たんなる無知なのかは知らないけれど。
もし笑わせるつもりでこんなことをしているのでなければだが悪いことは言わない。ジュセリーノの予言というものについて、「こういう予言があって結構的中しています」であるとか、「これからこういうことが起きます」みたいなことは、ここライブドアのブログで書くのだけはやめたほうがいい。それがせめてものアドバイスというものである。
だからこれを読んだ皆さんも、ライブドアのポータルから関連ブログからそういうブログにリンクで行って確かめるのだけはもう一週間ぐらいは待ってほしい。きっとそのころには直っているか削除されていると思うからだ。
というか心にもないことをいうと疲れるものだな(笑)
まずはご報告から。
相談の結果なのだが、自分は総務省に対して「テレビ朝日」の番組を告発する書状を送るという名簿からは外れることにした。
その理由であるが、自分はあの番組(自分が見たのは録画したものだが)を見て「鬱になった」とか「眠れなくなった」などの精神的・肉体的な被害は一切蒙ってはいないからだ。自分はあの番組の被害者ではないということだ。
であるからして、総務省への告発は、その精神的な被害や実害があった(家族がいる)方々がされる。自分はその方たちをフォローする側に回るとする。
ただし、それ以外の形で「テレビ朝日」のあの番組に対する批判は別の形で継続させていただくとする。というよりもテレビ朝日そのものに対する批判という枠の中で継続することにする。6月30日の時効を過ぎてもだ。
次にだが、今でもこのジュセリーノの予言というものを肯定的に捉えて「当るものである」などと書いているブログが次々と出て来ている。
まあそれ自体を止める権限は自分にはない。あたりまえの話であるがそのことだけは強調しておくが。
でも、せめてこのライブドアのブログの人にはあまり恥ずかしいことはしてはほしくないという気持ちは持っているのである。
中立的なスタンスでジュセリーノの予言というものを取り上げたりするくらいならば、まあ黙っても置くけれど。
ただ、ここに来てライブドアブログにもへんなもの(へんな形でジュセリーノのことを書いているもの)が出て来た。
もうね、悪いけど笑ったよ。失礼なことなのだろうけれど。
どのブログとはいわないけれど、いきなりトップにジュセリーノの肖像画として掲げている画像が「ジュセリーノ・クビチェック元大統領」のものだったからだ。
ふざけてんのか、たんなる無知なのかは知らないけれど。
もし笑わせるつもりでこんなことをしているのでなければだが悪いことは言わない。ジュセリーノの予言というものについて、「こういう予言があって結構的中しています」であるとか、「これからこういうことが起きます」みたいなことは、ここライブドアのブログで書くのだけはやめたほうがいい。それがせめてものアドバイスというものである。
だからこれを読んだ皆さんも、ライブドアのポータルから関連ブログからそういうブログにリンクで行って確かめるのだけはもう一週間ぐらいは待ってほしい。きっとそのころには直っているか削除されていると思うからだ。
というか心にもないことをいうと疲れるものだな(笑)
2007年5月23日水曜日
070523 手紙偽造のトリック
【ジュセリーノ予言の真実 0523】 手紙偽造のトリック
「みち☆まり」さんという方からメールで送っていただいたものをもとに、過去の記事の不完全な部分であるとかの修正作業を行なった。
文章を追加した個所もある。
「みち☆まり」さんという方、何度かこの本文内でも取り上げさせていただいたが、地道だが綿密な調査の作業をされているらしく、頂いたものはいつも非常に役に立つものばかりである。
その「みち☆まり」さんからのメールの一部を紹介する。
ジュセリーノがいくら「事前に手紙を送った」と言ってその証拠としてその手紙のコピーであるとか、日付の入った配達証明を提示しても本当の意味での「事前に送った」という証明にはならない、という推測である。
そういえばそうだった。
どういうことなのかを一例を出して説明している。
言われて自分も気がついたというか思い出したことなのだが、そもそもこのトリック、ディクスン・カーだったか、カーター・ディクスンの古典的推理小説にも登場する有名なトリックであった。
問題になるのは、送られた側がこの2通の手紙というものを完全な形で保管していたりしてそれが提出されたりするとバレてしまうことだろう。
しかし、そのような人間が名乗り出てこなければ、ジュセリーノの手許ではいくらでも組替えは出来るのでこのような「予言の手紙」は作り放題ということになるし、最低限「配達証明を取った」封書と一緒にしたというだけでは、予言をしたということの「決定的な証明」にはならないという反証は成立するということなのだ。
それと、これは前にも書いたことだけれど、この、ジュセリーノが各方面から送られてきたと言っている感謝の手紙の異常性についてはすでにブラジルでも大々的に報じられてきたことらしいが、自分も非常に「クサい」と思っている。
自分は、マイアミヘラルド新聞社国際編集部(MHIE)から送られてきたという手紙の画像(テレビ番組でも取り上げられていた)しか目にしていないのだが、一目でこの手紙の異常について感じた。(ある方からこの手紙の画像をファイル形式にしたものを別のメーラー宛に送ってもらいじっくりと観察することが出来た)
そのMHIEから送られてきたという手紙の異常性であるが、まず自分がおかしいと感じたこと、それは、ご丁寧にも手紙にはレターヘッド(会社のロゴマーク)が入っているのだが、それが何故か「マイアミ・ヘラルド国際編集部」のものではなく、「MHPC(マイアミヘラルド出版)」のものだということだった。
新聞の編集部宛に手紙を出したら、普通はその編集部からのものが帰ってくるだろう、いくらなんでも。
グループ内会社ではあるが、編集部からの返信としてこのようなレターヘッドを使うというのはどう考えても普通のことではない。
これでは朝日新聞の編集部に手紙を出したら「朝日新聞出版局」から返事がかえってきたようなものだ。
どうしてもこの部分に「MJ-12」の時と同じように「本文の部分を差し替えて作った偽造の文書」の疑いを感じてしまうのである。
しかも、拡大してよく見ると最下段から二行目の「SINCARELY(手紙に使われる儀礼的なフレーズ)」と最下段の署名の部分のフォントだけが別物になっている。(何故か旧式のタイプライターのフォント)
どういうことか。つまりはこの「手紙」が、もとから一気に打ち出されたものではないということだ。
言うまでもないことだが、この最後の二行の部分は手書きの署名の部分に被さっている。
これでは「この個所は切り貼りした」という疑いが持ち上がってきても当然のことだろう。
このことがブラジルでもすでに問題にされていたのである。
(当のマイアミヘラルド国際編集部もこんな手紙を出したことは否定している)
当然の如くこのニュースのことは「たま出版」の人間の耳にも(おそらくは日本語訳をした人間の耳にも)届いていたはずだ。
20年前日本でも「MJ-12」という偽の公式文書のことが話題になり、その偽造が明らかになったあとのことなのだが、テレビに出演して「我々も騙されました」と情けない顔で語っていたのが他の誰でもない韮沢潤一郎氏その人なのだが。
こんな「手紙」だったら幾らあってもジュセリーノが事件を事前に予知して手紙で知らせたという証拠にはならない。
それだけは確かなことだろう。
「みち☆まり」さんという方からメールで送っていただいたものをもとに、過去の記事の不完全な部分であるとかの修正作業を行なった。
文章を追加した個所もある。
「みち☆まり」さんという方、何度かこの本文内でも取り上げさせていただいたが、地道だが綿密な調査の作業をされているらしく、頂いたものはいつも非常に役に立つものばかりである。
その「みち☆まり」さんからのメールの一部を紹介する。
ジュセリーノがいくら「事前に手紙を送った」と言ってその証拠としてその手紙のコピーであるとか、日付の入った配達証明を提示しても本当の意味での「事前に送った」という証明にはならない、という推測である。
>同じ住所に何通も同じ封筒を使って手紙を送り
>レターの中身と配達証明の組み合わせを変えれば
>あんなのいくらでも出来ちゃうんですよね。
そういえばそうだった。
どういうことなのかを一例を出して説明している。
>たとえば9月10日と10月10日の二回と
>同じ便箋をつかって手紙を出す。
>その配達証明を取って残しておく。
>レターの文面の9月の方はどうでもいい。
>10月のレターには9月11日に起きた出来事を書く。
>それぞれのコピーを取って、中身を入れ替えると
>あら不思議不思議
>9月11日に起きる未来の出来事が書かれた
>9月10日付け配達証明のある手紙の出来上がり♪
>あとはレターの公証所届けを偽造できれば完璧ですかね!
言われて自分も気がついたというか思い出したことなのだが、そもそもこのトリック、ディクスン・カーだったか、カーター・ディクスンの古典的推理小説にも登場する有名なトリックであった。
問題になるのは、送られた側がこの2通の手紙というものを完全な形で保管していたりしてそれが提出されたりするとバレてしまうことだろう。
しかし、そのような人間が名乗り出てこなければ、ジュセリーノの手許ではいくらでも組替えは出来るのでこのような「予言の手紙」は作り放題ということになるし、最低限「配達証明を取った」封書と一緒にしたというだけでは、予言をしたということの「決定的な証明」にはならないという反証は成立するということなのだ。
それと、これは前にも書いたことだけれど、この、ジュセリーノが各方面から送られてきたと言っている感謝の手紙の異常性についてはすでにブラジルでも大々的に報じられてきたことらしいが、自分も非常に「クサい」と思っている。
自分は、マイアミヘラルド新聞社国際編集部(MHIE)から送られてきたという手紙の画像(テレビ番組でも取り上げられていた)しか目にしていないのだが、一目でこの手紙の異常について感じた。(ある方からこの手紙の画像をファイル形式にしたものを別のメーラー宛に送ってもらいじっくりと観察することが出来た)
そのMHIEから送られてきたという手紙の異常性であるが、まず自分がおかしいと感じたこと、それは、ご丁寧にも手紙にはレターヘッド(会社のロゴマーク)が入っているのだが、それが何故か「マイアミ・ヘラルド国際編集部」のものではなく、「MHPC(マイアミヘラルド出版)」のものだということだった。
新聞の編集部宛に手紙を出したら、普通はその編集部からのものが帰ってくるだろう、いくらなんでも。
(ヘラルドインターナショナル新聞も使用している共通ロゴ、二段目左端の青丸で囲まれたHのマーク)
グループ内会社ではあるが、編集部からの返信としてこのようなレターヘッドを使うというのはどう考えても普通のことではない。
これでは朝日新聞の編集部に手紙を出したら「朝日新聞出版局」から返事がかえってきたようなものだ。
どうしてもこの部分に「MJ-12」の時と同じように「本文の部分を差し替えて作った偽造の文書」の疑いを感じてしまうのである。
しかも、拡大してよく見ると最下段から二行目の「SINCARELY(手紙に使われる儀礼的なフレーズ)」と最下段の署名の部分のフォントだけが別物になっている。(何故か旧式のタイプライターのフォント)
どういうことか。つまりはこの「手紙」が、もとから一気に打ち出されたものではないということだ。
言うまでもないことだが、この最後の二行の部分は手書きの署名の部分に被さっている。
これでは「この個所は切り貼りした」という疑いが持ち上がってきても当然のことだろう。
このことがブラジルでもすでに問題にされていたのである。
(当のマイアミヘラルド国際編集部もこんな手紙を出したことは否定している)
当然の如くこのニュースのことは「たま出版」の人間の耳にも(おそらくは日本語訳をした人間の耳にも)届いていたはずだ。
20年前日本でも「MJ-12」という偽の公式文書のことが話題になり、その偽造が明らかになったあとのことなのだが、テレビに出演して「我々も騙されました」と情けない顔で語っていたのが他の誰でもない韮沢潤一郎氏その人なのだが。
こんな「手紙」だったら幾らあってもジュセリーノが事件を事前に予知して手紙で知らせたという証拠にはならない。
それだけは確かなことだろう。
2007年5月20日日曜日
070520 一月の台風
【ジュセリーノ予言の真実 0520】 一月の台風
小ネタである。
今年の「台風2号」が発生した。
http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/
このニュースを耳にしてピンと来た方も多いかもしれない。
そろそろ大勢の人たちも皆気がつく時期かもしれないので先んじてここで書いておく。
実は自分も相当前に知り合いから「ジュセリーノの予言の一月の部分に何故突っ込みを入れないの?」みたいな感じの電話をもらっていたのだ。
彼女は半分笑いながら電話して来たような記憶がある。
今年の台風1号の発生は4月の頭(3日ごろかな?)なのである。
それ以前に大きな暴風雨があってもそれは(日本だけではなく、世界的にも)「台風」とは呼ばないということだ。
したがって「インドネシアに大きな嵐が起きる」という一月の予言(Tempestades fortes na Indonesia trara muitos desabrigados e mortos;)の「大きな嵐 Tempestades fortes」を「台風」と訳すのは間違いだということなのである。
まあ、間違い自体はそんなに責めてもしかたがない。訂正すればそれでいいだけのことだし。
ただし、それはあくまでもこの日本語訳が今年の2月以前(厳密には台風1号の発生したその4月3日が期限ということかもしれないが)に発表された(日本語訳の)ものであればである。
もし、二月以降に「ジュセリーノの一月の予言」として「インドネシアに台風が・・・」と訳したものを堂々と発表したとしたら、それはあまりにも間抜けすぎて「お笑い」以外のなにものでもないということになってしまう。
つまり、「(発生もしていなかった)台風がインドネシアを襲う」という日本語訳を発表したということになるからである。誰かそのことに気が付いたら教えてあげればいいのにと思った次第である。
自分は、メールとかコメントでそういう指摘があったり教えられたならば追記をするとかすぐに訂正をするようにしている。だからコメントの受け付け自体は止めたくはないと思っているのだ。
というか、今からでもいいから直したほうがよくないか?もしそういう間抜けな「日本語訳」を今でも堂々と掲載しているサイトがあったとしたらだが。
ちょっと複雑すぎて理解できない人もいるかもしれないが。
小ネタである。
今年の「台風2号」が発生した。
http://agora.ex.nii.ac.jp/digital-typhoon/
このニュースを耳にしてピンと来た方も多いかもしれない。
そろそろ大勢の人たちも皆気がつく時期かもしれないので先んじてここで書いておく。
実は自分も相当前に知り合いから「ジュセリーノの予言の一月の部分に何故突っ込みを入れないの?」みたいな感じの電話をもらっていたのだ。
彼女は半分笑いながら電話して来たような記憶がある。
今年の台風1号の発生は4月の頭(3日ごろかな?)なのである。
それ以前に大きな暴風雨があってもそれは(日本だけではなく、世界的にも)「台風」とは呼ばないということだ。
したがって「インドネシアに大きな嵐が起きる」という一月の予言(Tempestades fortes na Indonesia trara muitos desabrigados e mortos;)の「大きな嵐 Tempestades fortes」を「台風」と訳すのは間違いだということなのである。
まあ、間違い自体はそんなに責めてもしかたがない。訂正すればそれでいいだけのことだし。
ただし、それはあくまでもこの日本語訳が今年の2月以前(厳密には台風1号の発生したその4月3日が期限ということかもしれないが)に発表された(日本語訳の)ものであればである。
もし、二月以降に「ジュセリーノの一月の予言」として「インドネシアに台風が・・・」と訳したものを堂々と発表したとしたら、それはあまりにも間抜けすぎて「お笑い」以外のなにものでもないということになってしまう。
つまり、「(発生もしていなかった)台風がインドネシアを襲う」という日本語訳を発表したということになるからである。誰かそのことに気が付いたら教えてあげればいいのにと思った次第である。
自分は、メールとかコメントでそういう指摘があったり教えられたならば追記をするとかすぐに訂正をするようにしている。だからコメントの受け付け自体は止めたくはないと思っているのだ。
というか、今からでもいいから直したほうがよくないか?もしそういう間抜けな「日本語訳」を今でも堂々と掲載しているサイトがあったとしたらだが。
ちょっと複雑すぎて理解できない人もいるかもしれないが。
2007年5月19日土曜日
070519 そのデマの2日後
【ジュセリーノ予言の真実 0519】 そのデマの2日後
その、「17日に日本でM12の地震が起きる」というデマ情報についてだが、あれからも随分とメールだとかコメントを寄せていただいている。18日23時現在でメールが12通、コメントが、まあその多分80以上だとは思うのだが、人数だと15人くらいになる(笑)。
そもそも「コメント」は、読むほうにとってもだけれど、それ以上に書く自分にとってもものすごく必要なものでで、中には「(アドレスのこととかがあって)メールはちょっと・・・」という人もいるであろうから、公開を前提にして受け付けなければならないものの、やはりそうでないという人、公開を望まないという人にも優しくありたい、そんな気持ちで公開は止めても「受付」だけは続けている。
まあ、だからなんていうのか連続的な無意味な書き込みをする人間がいくらいても受け付けを止めるつもりは今のところまったくありませんが。
ただ、なんていうのか、本文で取り上げたほうがいいのか、そうしないで置くべきかを悩むような微妙なものも増えてきた。それで保留にしているコメントがもう20以上になってしまっている。
そこでお願いしますけれど、コメントに書き込む方で、もし公開を希望しないという方、その旨を簡略に付記していただけないだろうか。「非公開希望」と書くだけでいい。
それ以外のものは「(本文での)公開を前提とする」ということで処理させていただく。
さて、で、そんな公開希望の勇者のコメントをひとつご紹介する。
無記名の人である。せめて何かネームのようなものでも使っていただきたいところだが。
で、それに対する自分の反論である。
あたりまえである。ウィキペディアは偏りのない正確で中立的な立場が保証されていたからこそ自分は「検索エンジンで(自分のこのブログの)上にあってもいい」であるとか「(順位で)抜き去るべき対象とは思っていない」とか「是非ご覧下さい」と書いてきたのである。
そうでなければ推薦する理由のかけらも残ってはいない。それだけである。
その、「オリハルネット」についての文句であるが、自分はそのウィキペディアからリンクされている「ジュセリーノの予言の一覧表」としては問題がある、と書いた。
>まず、ゴチャゴチャしすぎ。あれでは何が正しい情報なのかがちっともわからない。
>次に過去の当り外れの「成就」だが、今年の1月と2月の分の検証をすっぽかしているのである。
>非常に汚いやり口である。なぜなら、1月・2月の分をみるとすぐにわかることなのだが、ほとんど外れまくった「予言」ばかりなのを塗布して誤魔化していることがわかるからである。
要するに、「ジュセリーノの予言」というものをもっと詳しく知りたいという人にはあまりにも不親切なレイアウトになってしまっている。ウィキペディアからリンクするのに相応しいものではないだろうということだ。
だいたい、なんでいきなり頭の部分にジュセリーノとは関係のない地震に関する予言を置いているのだろう。その心性というものを少し考えればこのHPが「ジュセリーノの予言の一覧表」として相応しいものなのか、そうでないのかぐらいはわかりそうなものだが。
それに、その「オリハルネット」なのであるが、「オリハル」と名乗る人からのコメントが来ている。
ただし、IP(と書いている内容)から判断するに、本人でないという可能性もある。
本当ならばここでそのコメントを公開したいところなのだが、そういう事情でもあるのでコメントそのものの公開は控える。
そのコメントに対する自分の反論というか見解だけをここで書くとする。
したがってこれから述べるのは、そのHPの主である「オリハル」氏に対する批判ではない。あくまでもコメントを書いて来た「オリハル」氏に対する反論である。
まず、私は「デマを元にしている」という言及や批判はしておりません。したがって「デマ等には基づいていない」という抗弁自体が私に対する反論としては無意味です。
>それどころか、自分がいままで巡回して見てきた「ジュセリーノの予言の一覧表」にもそんな項目はなかった。
と自分は書いているくらいだ。よくお読みください。
「全てジュセリーノ氏の発言に立脚している」とのことだが、果してそうであろうか。ではジュセリーノの予言の欄の中に何故ジュセリーノでない人間の発言(MASUろぐ表現だとか不動明王氏の表現だとか)を織り交ぜているのであろう。
3月の欄にだがこんなことが書かれている。
これのどこが「ジュセリーノの予言」なのであろう。「立脚する」の言葉の使い方間違っていない?普通、無理矢理のこじつけは立脚とは言わない。
それにこれでは、「デマには基づいていない」どころか、逆にデマを誘発するような内容になっていると言われてもしかたがないのではないか?という反論をさせていただく。
私に対する再反論であるとか、批判をされるのであればコメントではなく、メールであるとか、でなければ自身のHP上でしていただきたい。それを望んでいる。
もちろん、本物の「オリハル」氏であるのならば、ということだが。(ニセモノだったとしたらなんか空しいけどな~)
さて一番最後になってしまったが、メールにしろ(まともな)コメントにしろ一番多くかかれていたこと、それはこの17日のデマの「震源地」についてであった。
それは「ゲリー・ボーネルという人による地震の予言が元になっているのではないか?」という推測である。(そのオリハルネットにも書かれているじゃないか!)
自分はそれが原因の全てだとは確定は出来ないと思っている。デマなんてそんなものなのだ。
重要なことは、これからもしこのような「デマ」が起きたとしてもそんなものには一切惑わされたりしないことだろうし、そもそもが「ジュセリーノの予言」そのものが「デマ」であるという事実に、もっと多くの人が一刻も早く気がつくことだと思っている。
違う?
※追記
結局、その「オリハル」を名乗る人間からの再反論はなかった。人騒がせな人間である。
このコメントを書き込んだ人間がそのまま「オリハルネット」のオリハル氏であるとは断定するものではないものの、このIPがベッコウアメの持っているIPと非常に近しいグループにあるということと、その前後にやはり似たような論旨でコメントを大量に書き込んだ人物のものとやはりほとんど同じであったという事実だけは記しておく。
で、そのコメントも書いておこう。
その、「17日に日本でM12の地震が起きる」というデマ情報についてだが、あれからも随分とメールだとかコメントを寄せていただいている。18日23時現在でメールが12通、コメントが、まあその多分80以上だとは思うのだが、人数だと15人くらいになる(笑)。
そもそも「コメント」は、読むほうにとってもだけれど、それ以上に書く自分にとってもものすごく必要なものでで、中には「(アドレスのこととかがあって)メールはちょっと・・・」という人もいるであろうから、公開を前提にして受け付けなければならないものの、やはりそうでないという人、公開を望まないという人にも優しくありたい、そんな気持ちで公開は止めても「受付」だけは続けている。
まあ、だからなんていうのか連続的な無意味な書き込みをする人間がいくらいても受け付けを止めるつもりは今のところまったくありませんが。
ただ、なんていうのか、本文で取り上げたほうがいいのか、そうしないで置くべきかを悩むような微妙なものも増えてきた。それで保留にしているコメントがもう20以上になってしまっている。
そこでお願いしますけれど、コメントに書き込む方で、もし公開を希望しないという方、その旨を簡略に付記していただけないだろうか。「非公開希望」と書くだけでいい。
それ以外のものは「(本文での)公開を前提とする」ということで処理させていただく。
さて、で、そんな公開希望の勇者のコメントをひとつご紹介する。
あなたは今までウィキペディアのことを賞賛するようなことを書いて来て、ここに来て急に貶しはじめるのですか。随分と都合のいい方向転換ですね。
それにオリハルネットに文句をいうのって筋違いというものですよ。自分にとって都合のいいのや簡単に(論破?)できそうなものばかり選んでないでこのコメントもちゃんと公開しなさいよ!
無記名の人である。せめて何かネームのようなものでも使っていただきたいところだが。
で、それに対する自分の反論である。
あたりまえである。ウィキペディアは偏りのない正確で中立的な立場が保証されていたからこそ自分は「検索エンジンで(自分のこのブログの)上にあってもいい」であるとか「(順位で)抜き去るべき対象とは思っていない」とか「是非ご覧下さい」と書いてきたのである。
そうでなければ推薦する理由のかけらも残ってはいない。それだけである。
その、「オリハルネット」についての文句であるが、自分はそのウィキペディアからリンクされている「ジュセリーノの予言の一覧表」としては問題がある、と書いた。
>まず、ゴチャゴチャしすぎ。あれでは何が正しい情報なのかがちっともわからない。
>次に過去の当り外れの「成就」だが、今年の1月と2月の分の検証をすっぽかしているのである。
>非常に汚いやり口である。なぜなら、1月・2月の分をみるとすぐにわかることなのだが、ほとんど外れまくった「予言」ばかりなのを塗布して誤魔化していることがわかるからである。
要するに、「ジュセリーノの予言」というものをもっと詳しく知りたいという人にはあまりにも不親切なレイアウトになってしまっている。ウィキペディアからリンクするのに相応しいものではないだろうということだ。
だいたい、なんでいきなり頭の部分にジュセリーノとは関係のない地震に関する予言を置いているのだろう。その心性というものを少し考えればこのHPが「ジュセリーノの予言の一覧表」として相応しいものなのか、そうでないのかぐらいはわかりそうなものだが。
それに、その「オリハルネット」なのであるが、「オリハル」と名乗る人からのコメントが来ている。
ただし、IP(と書いている内容)から判断するに、本人でないという可能性もある。
本当ならばここでそのコメントを公開したいところなのだが、そういう事情でもあるのでコメントそのものの公開は控える。
そのコメントに対する自分の反論というか見解だけをここで書くとする。
したがってこれから述べるのは、そのHPの主である「オリハル」氏に対する批判ではない。あくまでもコメントを書いて来た「オリハル」氏に対する反論である。
まず、私は「デマを元にしている」という言及や批判はしておりません。したがって「デマ等には基づいていない」という抗弁自体が私に対する反論としては無意味です。
>それどころか、自分がいままで巡回して見てきた「ジュセリーノの予言の一覧表」にもそんな項目はなかった。
と自分は書いているくらいだ。よくお読みください。
「全てジュセリーノ氏の発言に立脚している」とのことだが、果してそうであろうか。ではジュセリーノの予言の欄の中に何故ジュセリーノでない人間の発言(MASUろぐ表現だとか不動明王氏の表現だとか)を織り交ぜているのであろう。
3月の欄にだがこんなことが書かれている。
(3/1) ★世界金融恐慌が発生。*NESARA発表/ブッシュ政権崩壊/国連緊急声明/国家負債の免除/難民救済。⇒
(3/5) ★日本で強風の被害 (⇒たまBBS LOG)
(3/13) ★カリフォルニアで大地震と津波が発生し、西海岸のいくつかの都市が壊滅。⇒
これのどこが「ジュセリーノの予言」なのであろう。「立脚する」の言葉の使い方間違っていない?普通、無理矢理のこじつけは立脚とは言わない。
それにこれでは、「デマには基づいていない」どころか、逆にデマを誘発するような内容になっていると言われてもしかたがないのではないか?という反論をさせていただく。
私に対する再反論であるとか、批判をされるのであればコメントではなく、メールであるとか、でなければ自身のHP上でしていただきたい。それを望んでいる。
もちろん、本物の「オリハル」氏であるのならば、ということだが。(ニセモノだったとしたらなんか空しいけどな~)
さて一番最後になってしまったが、メールにしろ(まともな)コメントにしろ一番多くかかれていたこと、それはこの17日のデマの「震源地」についてであった。
それは「ゲリー・ボーネルという人による地震の予言が元になっているのではないか?」という推測である。(そのオリハルネットにも書かれているじゃないか!)
自分はそれが原因の全てだとは確定は出来ないと思っている。デマなんてそんなものなのだ。
重要なことは、これからもしこのような「デマ」が起きたとしてもそんなものには一切惑わされたりしないことだろうし、そもそもが「ジュセリーノの予言」そのものが「デマ」であるという事実に、もっと多くの人が一刻も早く気がつくことだと思っている。
違う?
※追記
結局、その「オリハル」を名乗る人間からの再反論はなかった。人騒がせな人間である。
このコメントを書き込んだ人間がそのまま「オリハルネット」のオリハル氏であるとは断定するものではないものの、このIPがベッコウアメの持っているIPと非常に近しいグループにあるということと、その前後にやはり似たような論旨でコメントを大量に書き込んだ人物のものとやはりほとんど同じであったという事実だけは記しておく。
で、そのコメントも書いておこう。
こちらの「ジュセリーノ予言一覧表」については全てジュセリーノ氏の言葉に立脚しており、デマ等に基づいてはおりませんので。HPのURLも記名であった。
2007年5月18日金曜日
070518 「デマ」というもの
【ジュセリーノ予言の真実 0518】 「デマ」というもの
実は自分は知らなかったことなのだが「5月17日、日本をM12の地震が襲う」という「ジュセリーノの予言」がネット上で飛び交っていたらしい。
今さっきメールとかコメントの書き込みを見て知ったのだが。
しかし、そんな「ジュセリーノの予言」など聞いた事はない。おそらくは「たま出版」のHPにだって載っていないはずだ。
それどころか、自分がいままで巡回して見てきた「ジュセリーノの予言の一覧表」にもそんな項目はなかった。
メールには「ウィキペディアに載っていたのですが・・・」と書かれているものもあったのでウィキペディアのジュセリーノ(ジョセリーノだが)の項目を見てみると、いつのまにかその「5月17日、日本でM12クラスの地震が起きる」というのが、(繰り返すが)いつのまにか書き加えられていたのである。
迷惑な話だなぁ。まったく。一種の政争状態でついに半保護状態になっているけれど、だったらもう全部削除したほうがいいのではないのか?
こういう根も葉もない噂が飛び交う原因になるのであれば、最初からない方がまだましというものだろう。
それと、前から気になっていたことなのだが、ウィキペディアから「一覧表」としてリンクされているのがオリハルなんとかというサイトで、そこを見るとわかることなのだが非常に汚いのである。
いろいろな意味で。
まずゴチャゴチャしすぎ。あれでは何が正しい情報なのかがちっともわからない。
次に過去の当り外れの「成就」の検証だが、今年の1月と2月の分の検証をすっぽかしている。
非常に汚いやり口である。なぜなら、1月・2月の分を検証すればすぐにわかることなのだが、ほとんど外れまくった「予言」ばかりなのを塗布して誤魔化しているからだ。
なんのかんの言ってみてもこれが「予言肯定派」の実態というものだろう。
汚らしい連中による汚らしいやり口であるともいえる。
しかし、否定派の中にも問題あると思った。
メールで、「これでジュセリーノの予言がニセモノだということが広まったのでいいのではないか」などという人もいたからだ。
あるいは掲示板で、この5月17日の予言が外れたことをもちだしてきて、「ジュセリーノの予言は贋物」と強調する人もいた。
そういうものではないだろう。それがデマの怖いところだ。
「もともとジュセリーノの予言でないものが外れたとしても、それはジュセリーノの予言に対する反証にも否定する材料にもはじめからなり得ないからである。
しかもだ、逆にジュセリーノの予言を肯定する人たちの別の主張の部分を延命させてしまうことにもなりかねないのである。
それが一番嫌だ。
自分はノストラダムスの預言詩の馬鹿解釈騒ぎのときにも似たようなこと、同じことがあったのを思い出した。
そして一番困るのは、こういうことがあったとき、当の本人(ジュセリーノ)も、たま出版も、そしてテレビ朝日も、たぶん学研の「ムー」も、こんなデマが広まったことに対して何の責任なども微塵に感じていないのであろうということをだ。
きっと「迷惑な話です」とか被害者面をするのだと思う。
違う。繰り返し強調することだけれど、こういうデマが広がったことに関してもやはり彼らは加害者なのである。
改めて強調するが「ジュセリーノの予言」そのものがフィクションである。
そのフィクションの部分を隠したまま日本に広めようとしたことでやはり彼らには責任というものはある。
このようなデマが広がったという事実に対してもその責任というものはあるし、その「責任」は当事者が考えるよりもずっとずっと重いのである。
おそらくは、これからもこれと似たようなデマ騒ぎは一度ならずも起きるのだと思われる。
その度に自分は同じようなことを書かねばならないだと思うとなんだか気が重くなるが、改めてここで言っておくけれど
やはりこういうデマ騒ぎの責任はジュセリーノの予言というものを肯定している人たち全てにもあるのだということだけは自覚してほしいのである。
君等も決して被害者ではなく、加害者側の席に座っているのだよ。
※ 追記部分は重複のためにここでは削除しました。070516をご覧下さい
実は自分は知らなかったことなのだが「5月17日、日本をM12の地震が襲う」という「ジュセリーノの予言」がネット上で飛び交っていたらしい。
今さっきメールとかコメントの書き込みを見て知ったのだが。
しかし、そんな「ジュセリーノの予言」など聞いた事はない。おそらくは「たま出版」のHPにだって載っていないはずだ。
それどころか、自分がいままで巡回して見てきた「ジュセリーノの予言の一覧表」にもそんな項目はなかった。
メールには「ウィキペディアに載っていたのですが・・・」と書かれているものもあったのでウィキペディアのジュセリーノ(ジョセリーノだが)の項目を見てみると、いつのまにかその「5月17日、日本でM12クラスの地震が起きる」というのが、(繰り返すが)いつのまにか書き加えられていたのである。
迷惑な話だなぁ。まったく。一種の政争状態でついに半保護状態になっているけれど、だったらもう全部削除したほうがいいのではないのか?
こういう根も葉もない噂が飛び交う原因になるのであれば、最初からない方がまだましというものだろう。
それと、前から気になっていたことなのだが、ウィキペディアから「一覧表」としてリンクされているのがオリハルなんとかというサイトで、そこを見るとわかることなのだが非常に汚いのである。
いろいろな意味で。
まずゴチャゴチャしすぎ。あれでは何が正しい情報なのかがちっともわからない。
次に過去の当り外れの「成就」の検証だが、今年の1月と2月の分の検証をすっぽかしている。
非常に汚いやり口である。なぜなら、1月・2月の分を検証すればすぐにわかることなのだが、ほとんど外れまくった「予言」ばかりなのを塗布して誤魔化しているからだ。
なんのかんの言ってみてもこれが「予言肯定派」の実態というものだろう。
汚らしい連中による汚らしいやり口であるともいえる。
しかし、否定派の中にも問題あると思った。
メールで、「これでジュセリーノの予言がニセモノだということが広まったのでいいのではないか」などという人もいたからだ。
あるいは掲示板で、この5月17日の予言が外れたことをもちだしてきて、「ジュセリーノの予言は贋物」と強調する人もいた。
そういうものではないだろう。それがデマの怖いところだ。
「もともとジュセリーノの予言でないものが外れたとしても、それはジュセリーノの予言に対する反証にも否定する材料にもはじめからなり得ないからである。
しかもだ、逆にジュセリーノの予言を肯定する人たちの別の主張の部分を延命させてしまうことにもなりかねないのである。
それが一番嫌だ。
自分はノストラダムスの預言詩の馬鹿解釈騒ぎのときにも似たようなこと、同じことがあったのを思い出した。
そして一番困るのは、こういうことがあったとき、当の本人(ジュセリーノ)も、たま出版も、そしてテレビ朝日も、たぶん学研の「ムー」も、こんなデマが広まったことに対して何の責任なども微塵に感じていないのであろうということをだ。
きっと「迷惑な話です」とか被害者面をするのだと思う。
違う。繰り返し強調することだけれど、こういうデマが広がったことに関してもやはり彼らは加害者なのである。
改めて強調するが「ジュセリーノの予言」そのものがフィクションである。
そのフィクションの部分を隠したまま日本に広めようとしたことでやはり彼らには責任というものはある。
このようなデマが広がったという事実に対してもその責任というものはあるし、その「責任」は当事者が考えるよりもずっとずっと重いのである。
おそらくは、これからもこれと似たようなデマ騒ぎは一度ならずも起きるのだと思われる。
その度に自分は同じようなことを書かねばならないだと思うとなんだか気が重くなるが、改めてここで言っておくけれど
やはりこういうデマ騒ぎの責任はジュセリーノの予言というものを肯定している人たち全てにもあるのだということだけは自覚してほしいのである。
君等も決して被害者ではなく、加害者側の席に座っているのだよ。
※ 追記部分は重複のためにここでは削除しました。070516をご覧下さい
2007年5月17日木曜日
070517 こんなメールがきました
【ジュセリーノ予言の真実 0517】 こんなメールがきました
こんなメールが来ました。
ある方の代理ということでメールが届いた。
今確認したばかりである。
内容を読んだ限りでは、神学(キリスト教学)に対する造詣の深い方であることはなんとなく伝わってくる。届いたメールをそのまま貼り付けるとかしてご紹介したいくらいなのだが、もちろん転載の許可をもらっているというわけではないのでここではその要旨だけを書かせていただくとする。
自分が「ジュセリーノの予言」は職業占い師によるものと区別しなければならないだろう、と書いたことに対するご注意である。ありがたいことである。
どういう論旨かというと
神学の立場からすると「ジュセリーノ氏の予言」は「予言」とは呼ばない。
(予言扱いしてはならないということ)
なぜならばジュセリーノ氏は「成就する日付」というものを明らかにしているからである。
「予言」というものは暦上の日付は重要視しないものである。
神の言葉には日付は入らない。「成就」の日の暦の日付を入れてしまうのは人間の仕業でしかない。
(神は人間が勝手に決めた暦というものに合わせたような予言を口にするはずがないということらしい)
何故なれば、その日付が来た後にその予言は意味をなさなくなるからである。
日付までをも含めての予言であるのであれば、それは「予知」であるとか「予告」というべきであろう。
このようなものを場合によっては「予言」ではなく「余言」と言い分けることがある。(もちろん日本語での話である)
余計なもの(日付)が混じりこんでしまった予言であるからである。
という重みのある言葉である。
また、この方はこのようなことも書いておられる。
「7月13日に津浪が来襲する」という「予言」があるらしいが、それが「予言」ではなく「余言」であることは以下の部分を考慮すれば明白である。
「7月13日という日に津浪が来る」という予言は「そのほかの(暦上の)日には津浪はこない」という予言でもある。というかそうでなければならない。
そうでないのならば、その「予言」は予知でもなく予告とも違う。
どういうことかというと
7月13日に津波が来る確率と、他の日に津波のくる確率どちらがより高いかを考えれば、この「7月13日に津浪がやって来る」という日付の入った「余言」はものすごく愚かなものなのである。
ということをも述べておられる。
早い話、「7月13日に津浪が来る」という予言をする人間は、「ほかの日には絶対に津波は来ない」ということも保証しなければならないというようなことである。
でなければ軽々しく「予言」など口にするなと戒められておられるのである。
まあこの方はあくまでも「神学」の立場からこのようなことを述べられておられるようだが、特に後段の部分に関しては全ての人間が耳を傾ける必要があるのではないだろうか?
そう思い、取り急ぎここで別の記事として取り上げてみた。
こんなメールが来ました。
ある方の代理ということでメールが届いた。
今確認したばかりである。
内容を読んだ限りでは、神学(キリスト教学)に対する造詣の深い方であることはなんとなく伝わってくる。届いたメールをそのまま貼り付けるとかしてご紹介したいくらいなのだが、もちろん転載の許可をもらっているというわけではないのでここではその要旨だけを書かせていただくとする。
自分が「ジュセリーノの予言」は職業占い師によるものと区別しなければならないだろう、と書いたことに対するご注意である。ありがたいことである。
どういう論旨かというと
神学の立場からすると「ジュセリーノ氏の予言」は「予言」とは呼ばない。
(予言扱いしてはならないということ)
なぜならばジュセリーノ氏は「成就する日付」というものを明らかにしているからである。
「予言」というものは暦上の日付は重要視しないものである。
神の言葉には日付は入らない。「成就」の日の暦の日付を入れてしまうのは人間の仕業でしかない。
(神は人間が勝手に決めた暦というものに合わせたような予言を口にするはずがないということらしい)
何故なれば、その日付が来た後にその予言は意味をなさなくなるからである。
日付までをも含めての予言であるのであれば、それは「予知」であるとか「予告」というべきであろう。
このようなものを場合によっては「予言」ではなく「余言」と言い分けることがある。(もちろん日本語での話である)
余計なもの(日付)が混じりこんでしまった予言であるからである。
という重みのある言葉である。
また、この方はこのようなことも書いておられる。
「7月13日に津浪が来襲する」という「予言」があるらしいが、それが「予言」ではなく「余言」であることは以下の部分を考慮すれば明白である。
「7月13日という日に津浪が来る」という予言は「そのほかの(暦上の)日には津浪はこない」という予言でもある。というかそうでなければならない。
そうでないのならば、その「予言」は予知でもなく予告とも違う。
どういうことかというと
7月13日に津波が来る確率と、他の日に津波のくる確率どちらがより高いかを考えれば、この「7月13日に津浪がやって来る」という日付の入った「余言」はものすごく愚かなものなのである。
ということをも述べておられる。
早い話、「7月13日に津浪が来る」という予言をする人間は、「ほかの日には絶対に津波は来ない」ということも保証しなければならないというようなことである。
でなければ軽々しく「予言」など口にするなと戒められておられるのである。
まあこの方はあくまでも「神学」の立場からこのようなことを述べられておられるようだが、特に後段の部分に関しては全ての人間が耳を傾ける必要があるのではないだろうか?
そう思い、取り急ぎここで別の記事として取り上げてみた。
070517 コメントのこと
【ジュセリーノ予言の真実 0517】 コメントのこと
あいかわらずコメントがとんでもないことになったままである。
「川口喜三郎」なんだそりゃ。よくこの名前は目にはするのだが、コイツと「ジュセリーノの予言」にはどういう関係があるんだろう。誰かちゃんとした説明してくれよ、どうせ意味不明なコメントを残すのなら。
どうやら、そういう意味不明なコメントを連続で書き込んでくる人たちはIPアドレスというものの意味を知らないでいるようだ。
あまりにも間抜けな状態になっているものがあるからだ。
IPを表わす数字を並べかえたりグループ毎にまとめたりすると、大体だがサーバーの場所(バーチャルな意味で)とそれを管理しているプロバイダーやブログ(を持っているポータルサイト)が(もちろん推測だけではあるが)ある程度は特定できてしまうのであるのだが。
まあそれで、3・4名による仕業だということはなんとなくだが掴んだところである。
0515で取り上げたコメントの主からの再再反論はまだ来ていない。
やはり日本人で「ジュセリーノの予言」を「予言」であるとか言ったり、信じているとかいう人たちのレベルなんてそんなもんでしかないのか。
もう一度言うが、自分は「再再反論して来なさいよ」と言っているのだ、わざわざ。メールでもいいんだが。
最近になって噂を聞いてか、ブラジルからたまにクールな感じのメールが来るようになった。こういうのがもっと早く来ていてくれれば助かったんだが。
いや、そんなことを言えるような立場ではないな。
ある人からのメールを訳すると、こういうことになる。
ジュセリーノの予言を信じている日本人がいるだなんて信じられない。
もし、ジュセリーノのいうことを100%信じてるというのならばその人間には、まずブラジルに来てみろよと伝えてほしいんだ。
ジュセリーノは我が国でその実像を自分の目で見て確かめてほしいんだ。
それでも、ジュセリーノの言っている未来を信じるっていうのなら
そのまま日本なんかに戻らずにブラジルの山奥に住めばいい。
そこで生きのびる方法を考えるのが一番だろ?
こうして、ブラジルから来るメールを何通も読ませて頂いて(理解可能なものだけではあるが)、同じような視線で日本のジュセリーノの予言を信じているという人たちからのものを較べて見てしまうと、どうしようもなくその「小さ過ぎる動機」であるとか精神の幼稚性ばかりが目に付いてしまうのだが。
それは、掲示板だとかの書き込みにも言えると思う。
言っていること書いていることに一貫性がなさすぎるのである。もっといけないのは自分でそのことには気がついていないことか。
そもそも何故「予言」なんてものを信じてしまうのか、信じなければいけないのか、その動機の部分がものすごくいい加減というか自分でぼかしてしまっている。言えないようなものだからなのか。
当たり前の話だが、ジュセリーノの予言も、ノストラダムスの予言にも、マクモなんとかさんとか、なんとかテイラー全てがそうなのだが「予言」なんてものに、はじめから万人を納得させる科学的に正しい根拠とかはありはしない。
なんとなく「そういうものはあるかもしれないなぁ」という淡い期待を抱く人たちに合わせた「仕組まれた報道」のせいで、まるで「予言が当った」と見えているだけである。
特に、ジュセリーノの場合は日本に紹介されたときすでにブラジルではその数々の欺瞞が暴かれており、ほとんど相手にされなくなっていたころでもあった。
ただ、その部分だけが意図的に隠されたまま「娯楽」いう名目でテレビで紹介されただけに過ぎない。その「娯楽」のために迷惑を蒙っているいう人は少なくはないのである。自分はそれをずっと訴えつづけている。
そう、ほんと、それだけなのである。やっぱり「娯楽」なのである。日本においては。なんのかんの言ってみても。
でなければ自分の商売であるとか金儲けであるとか宗教とかに利用しようとしている人間だと思う。「たま出版」も当然ここに入る。
あいかわらずコメントがとんでもないことになったままである。
「川口喜三郎」なんだそりゃ。よくこの名前は目にはするのだが、コイツと「ジュセリーノの予言」にはどういう関係があるんだろう。誰かちゃんとした説明してくれよ、どうせ意味不明なコメントを残すのなら。
どうやら、そういう意味不明なコメントを連続で書き込んでくる人たちはIPアドレスというものの意味を知らないでいるようだ。
あまりにも間抜けな状態になっているものがあるからだ。
IPを表わす数字を並べかえたりグループ毎にまとめたりすると、大体だがサーバーの場所(バーチャルな意味で)とそれを管理しているプロバイダーやブログ(を持っているポータルサイト)が(もちろん推測だけではあるが)ある程度は特定できてしまうのであるのだが。
まあそれで、3・4名による仕業だということはなんとなくだが掴んだところである。
0515で取り上げたコメントの主からの再再反論はまだ来ていない。
やはり日本人で「ジュセリーノの予言」を「予言」であるとか言ったり、信じているとかいう人たちのレベルなんてそんなもんでしかないのか。
もう一度言うが、自分は「再再反論して来なさいよ」と言っているのだ、わざわざ。メールでもいいんだが。
最近になって噂を聞いてか、ブラジルからたまにクールな感じのメールが来るようになった。こういうのがもっと早く来ていてくれれば助かったんだが。
いや、そんなことを言えるような立場ではないな。
ある人からのメールを訳すると、こういうことになる。
ジュセリーノの予言を信じている日本人がいるだなんて信じられない。
もし、ジュセリーノのいうことを100%信じてるというのならばその人間には、まずブラジルに来てみろよと伝えてほしいんだ。
ジュセリーノは我が国でその実像を自分の目で見て確かめてほしいんだ。
それでも、ジュセリーノの言っている未来を信じるっていうのなら
そのまま日本なんかに戻らずにブラジルの山奥に住めばいい。
そこで生きのびる方法を考えるのが一番だろ?
こうして、ブラジルから来るメールを何通も読ませて頂いて(理解可能なものだけではあるが)、同じような視線で日本のジュセリーノの予言を信じているという人たちからのものを較べて見てしまうと、どうしようもなくその「小さ過ぎる動機」であるとか精神の幼稚性ばかりが目に付いてしまうのだが。
それは、掲示板だとかの書き込みにも言えると思う。
言っていること書いていることに一貫性がなさすぎるのである。もっといけないのは自分でそのことには気がついていないことか。
そもそも何故「予言」なんてものを信じてしまうのか、信じなければいけないのか、その動機の部分がものすごくいい加減というか自分でぼかしてしまっている。言えないようなものだからなのか。
当たり前の話だが、ジュセリーノの予言も、ノストラダムスの予言にも、マクモなんとかさんとか、なんとかテイラー全てがそうなのだが「予言」なんてものに、はじめから万人を納得させる科学的に正しい根拠とかはありはしない。
なんとなく「そういうものはあるかもしれないなぁ」という淡い期待を抱く人たちに合わせた「仕組まれた報道」のせいで、まるで「予言が当った」と見えているだけである。
特に、ジュセリーノの場合は日本に紹介されたときすでにブラジルではその数々の欺瞞が暴かれており、ほとんど相手にされなくなっていたころでもあった。
ただ、その部分だけが意図的に隠されたまま「娯楽」いう名目でテレビで紹介されただけに過ぎない。その「娯楽」のために迷惑を蒙っているいう人は少なくはないのである。自分はそれをずっと訴えつづけている。
そう、ほんと、それだけなのである。やっぱり「娯楽」なのである。日本においては。なんのかんの言ってみても。
でなければ自分の商売であるとか金儲けであるとか宗教とかに利用しようとしている人間だと思う。「たま出版」も当然ここに入る。
2007年5月16日水曜日
070516 ジュセリーノの精神を理解していない人
【ジュセリーノ予言の真実 0516】ジュセリーノの精神を理解していない人
某スポーツカフェで日本ハム対楽天戦を観た。球団初の5連勝である。
同点で迎えた延長12回の表、無死一・三塁でウィットの打席になったとき、その場に居合わせた全員がほぼ同時に「勝った」「勝ち越した」と声を挙げた。いっておくがウィットがフライを打ち上げる前にである。
低めに落ちる球をウィットが見逃したからだ。
もう全員が頭の中でウィットが大きな犠牲フライを打ち上げて三塁ランナーが生還するというちょい先の未来を見てしまったのである。たぶん。
もちろん自分もだ。
こういうのも下手すれば一種の「宗教」だよなぁ、とつくづく思ってしまう。何が犠飛を打ち上げる前に「勝った」だ。馬鹿じゃねぇの、まったく。
ウチの抑えは福盛だぞ。
被打率.328、被出塁率.359なのにまだ負けがつかないことがすでに奇跡だっていうの。(よく考えてみると、それこそが福盛の天性のもの凄さでもあるのだが。)
などと偶然隣り合わせた一団と自嘲気味に笑いながらも、最後は楽天の勝利をしみじみと喜んだ。
まあ楽天ファンというのはなんかどこかのどかで、チームが負けがこんでても「だからどうした」と鷹揚な感じの連中が多い。悪い意味での負け慣れである。逆に下手に同一カード3連勝なんかでもした日には興奮して眠れなかったりするくらいだ。
特に自分の周囲には、近鉄から流れてきた自分のように暗黒時代に慣らされたようなファンばかりで、ファン精神というものが曲がり曲がってる奴ばかりだから、チームが出来て楽天のファンになったという若い層とはやはりどこか超えられない一本の大きな断層を感じることのほうが多いかもしれない。
普通に勝てるチームを作るのには長い道程というものが必要なのである。その長い「耐える年月」というものを嫌い、すぐにでも「楽天の黄金時代」はやってくるものだと勘違いしている連中も、やはりいることはいる。大体が20代から30前半の、野球未経験の「ゲームでしか野球をやったことがない」という世代である。
そういう若い楽天のファンの中には、本気で今年は優勝と信じている人たちがいる。まあ、信じるの自由だ。それが「宗教」というものだからだ。なんてな。
ただし、それが実現するためには何が必要かということを考えたときにその人たちが持ち出してくる話がちと怖い。
田中将大の13勝、まあこのあたりはまだアリかなとは思う。でも続いて永井も13勝、青山13勝、岩隈12勝、一場も10勝・・・とか勝ち星を計算しだしたりする。
無理だっちゅうの。
しかも、その架空の話(楽天優勝)が進んでゆき、パの相手チームの主力の怪我による長期離脱を本気で願ったり喜ぶ連中もいたりで、そういう話になると、というかそういうことを嬉々として語る若い連中を観たりすると、正直「こいつらとは付き合えねえな」と思ってしまう。
正直「家帰ってテレビでゲームでもしてろ」とか言いたくなるのを堪えていたりするのだ。
地元の若いアナウンサーなんかにも、平気でこういう具合に相手チームの主力の怪我による離脱を喜んで語る「馬鹿」もいる。仙台のマスコミのこういう民度の低さだけはなんとかして欲しいと思うことは結構多い。誰か注意してやれよ。
何故馬鹿か。それは、残り四チームにとっても条件はまだまだ同じだからだ。楽天にだけ有利になったということではない。そのことがすっぽりと頭から抜けて、うれしそうに「楽天には有利だ」とか語っているから「馬鹿」と言いたくなるのである。
まあ「宗教」であるとか「カルト」について語るときには「たとえ話」というのは禁物で、このような話をジュセリーノの予言のブログの前置きとすると別の誤解を招きそうなのでここらへんでやめておく。
で、本題に移る
「ジュセリーノさんは決してお金もうけのために予言をしているのではない」
と書かれているブログだとか掲示板の書き込みを目にする。
それが偉いことなのかどうかは自分にはよくはわからない。
というか自分は「予言で金儲けをしても別にかまわないんじゃないか」とさえ思っている。もちろんその「予言」が正しいというか当る「予想」であればだ。
前にも書いたことだが、世の中にはそういう「予言」とまではいかなくても、「予想」を飯の種にしている人達はいる。「競馬評論家」とか「国際情勢アナリスト」なんかがそうだ。彼らには「将来を予想する」ということが求められているのだ。
そういう需要がある以上、それを生業とすること自体には別に問題はないであろう、ということだ。占い師だってそうだ。需要がある以上そこに金銭が絡んできたからといってそのことを指弾してもしょうがないのである。
以前、林葉直子の「タロット占い」について書いたときに「何故あんな怪しげな占いのことを褒めたりするのか?」みたいなメールがわんさかと来たことがあった。
別に林葉直子の占いのことを褒めたり勧めたりしたのではない。
自分が「優れている」と言ったのは林葉直子の文章の能力であり、その明解な文章力を褒めただけだ。林葉直子のその占いについても「別に(タロットの教科書からはずれたような)おかしなことを言ったりはしてないし、料金もリーズナブルな設定になっている」と書いただけで勧めたりはしてはいない。もし彼女の占いを糾弾するのならば、先にもっと糾弾されるべき占い師はごまんといるだろうということだ。
職業占い師も当然プロであるから、自分の発言に対しては責任というものが生じる。予想が外れれば自分の評価は下がる。仕事の依頼も減る。世の中そういうものだろう。
で、ジュセリーノの予言というものはそういう職業的な占い師とは分けて考えるべきだという意見を寄せてくる人がいた。
そうかと思う。もしそれを当人が望んでいるのであればだ。
まあ、予言者と名乗る人たち、職業的占い師と一緒くたにされると大概は嫌な顔をするものだが。
困るのが、そういうこと(ジュセリーノが金儲けのことを考えていない)を書いている人たちのブログを「見た」ときである。そのままストレートに笑っていいものかどうかを悩んでしまうのである。
大概が、そのブログにはアフィリエイトとか怪しげなサイトへのリンクがベタベタ並べられているからだ。
「携帯サイトで月収4715万円稼いだ 」とか「株の初心者でも勝ち組投資家に!」とか「楽して株で100万円儲かる」とか。
「これじゃギャグだろうが」そう思われてもしかたがあるまいって。
もしこんなブログを見たら誰もがまず思うのが「まずてめえがそのジュセリーノの精神を見習えや」だろう。
まあ一歩譲って、アフィリエイトそのものが悪いとは言わない。しかし「自分で選べるものくらいはまず吟味して、内容に相応しいものにしたほうがいいんじゃないの?」くらいは言わせてもらう。
でなければ、(アフィリエイトで儲けたいと気持ちがあるのらばという意味だが)だったらジュセリーノの予言なんて自分のブログで扱わないことだ。
ていうか、「ジュセリーノの予言」って自分のブログで、本をアフィリエイトで引っ張るだけ人に堂々と勧められるようなものなのだろうか?それだけの価値のあるものなのだろうか?
この際一度真剣に考えて欲しいものである。
【追記】
記事の中で、楽天イーグルスの福盛投手の今季成績の部分について「被打率.328」と書いてしまったが
「いつの時点での成績かはわからないけれど、そんなに悪くはないはず」というご指摘があった。
確かにもう一度計算し直してみると、5月の14日の時点でも.288、15日試合終了時だと.266であった。
どうやら計算方法を間違ったようです。
福盛投手に対しては、お詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。
しかし、被出塁率も計算しなおしてみたのだが、なんと「.371」であった!
これではつまり打者を二人出すのも当たり前という数字である。(二回に一回は背中に二塁ランナーを背負っていたという数字ともいえる)
これでいてまだ福盛投手には負け星がひとつもついていないのだからもう「奇跡のリリーファー」と呼ぶに等しいのではないか。盛田とは別の意味で。
そのメールで指摘してくれた人も「九回に白い風船を持つ手が疲れるし風船は萎んで小さくなるし試合は緊迫するしで、フクモリ君には困ったものですね」と嘆いていた(笑)
まあそれもマニア的楽天ファンの密かな楽しみのひとつだから今はいいけどさ。
某スポーツカフェで日本ハム対楽天戦を観た。球団初の5連勝である。
同点で迎えた延長12回の表、無死一・三塁でウィットの打席になったとき、その場に居合わせた全員がほぼ同時に「勝った」「勝ち越した」と声を挙げた。いっておくがウィットがフライを打ち上げる前にである。
低めに落ちる球をウィットが見逃したからだ。
もう全員が頭の中でウィットが大きな犠牲フライを打ち上げて三塁ランナーが生還するというちょい先の未来を見てしまったのである。たぶん。
もちろん自分もだ。
こういうのも下手すれば一種の「宗教」だよなぁ、とつくづく思ってしまう。何が犠飛を打ち上げる前に「勝った」だ。馬鹿じゃねぇの、まったく。
ウチの抑えは福盛だぞ。
被打率.328、被出塁率.359なのにまだ負けがつかないことがすでに奇跡だっていうの。(よく考えてみると、それこそが福盛の天性のもの凄さでもあるのだが。)
などと偶然隣り合わせた一団と自嘲気味に笑いながらも、最後は楽天の勝利をしみじみと喜んだ。
まあ楽天ファンというのはなんかどこかのどかで、チームが負けがこんでても「だからどうした」と鷹揚な感じの連中が多い。悪い意味での負け慣れである。逆に下手に同一カード3連勝なんかでもした日には興奮して眠れなかったりするくらいだ。
特に自分の周囲には、近鉄から流れてきた自分のように暗黒時代に慣らされたようなファンばかりで、ファン精神というものが曲がり曲がってる奴ばかりだから、チームが出来て楽天のファンになったという若い層とはやはりどこか超えられない一本の大きな断層を感じることのほうが多いかもしれない。
普通に勝てるチームを作るのには長い道程というものが必要なのである。その長い「耐える年月」というものを嫌い、すぐにでも「楽天の黄金時代」はやってくるものだと勘違いしている連中も、やはりいることはいる。大体が20代から30前半の、野球未経験の「ゲームでしか野球をやったことがない」という世代である。
そういう若い楽天のファンの中には、本気で今年は優勝と信じている人たちがいる。まあ、信じるの自由だ。それが「宗教」というものだからだ。なんてな。
ただし、それが実現するためには何が必要かということを考えたときにその人たちが持ち出してくる話がちと怖い。
田中将大の13勝、まあこのあたりはまだアリかなとは思う。でも続いて永井も13勝、青山13勝、岩隈12勝、一場も10勝・・・とか勝ち星を計算しだしたりする。
無理だっちゅうの。
しかも、その架空の話(楽天優勝)が進んでゆき、パの相手チームの主力の怪我による長期離脱を本気で願ったり喜ぶ連中もいたりで、そういう話になると、というかそういうことを嬉々として語る若い連中を観たりすると、正直「こいつらとは付き合えねえな」と思ってしまう。
正直「家帰ってテレビでゲームでもしてろ」とか言いたくなるのを堪えていたりするのだ。
地元の若いアナウンサーなんかにも、平気でこういう具合に相手チームの主力の怪我による離脱を喜んで語る「馬鹿」もいる。仙台のマスコミのこういう民度の低さだけはなんとかして欲しいと思うことは結構多い。誰か注意してやれよ。
何故馬鹿か。それは、残り四チームにとっても条件はまだまだ同じだからだ。楽天にだけ有利になったということではない。そのことがすっぽりと頭から抜けて、うれしそうに「楽天には有利だ」とか語っているから「馬鹿」と言いたくなるのである。
まあ「宗教」であるとか「カルト」について語るときには「たとえ話」というのは禁物で、このような話をジュセリーノの予言のブログの前置きとすると別の誤解を招きそうなのでここらへんでやめておく。
で、本題に移る
「ジュセリーノさんは決してお金もうけのために予言をしているのではない」
と書かれているブログだとか掲示板の書き込みを目にする。
それが偉いことなのかどうかは自分にはよくはわからない。
というか自分は「予言で金儲けをしても別にかまわないんじゃないか」とさえ思っている。もちろんその「予言」が正しいというか当る「予想」であればだ。
前にも書いたことだが、世の中にはそういう「予言」とまではいかなくても、「予想」を飯の種にしている人達はいる。「競馬評論家」とか「国際情勢アナリスト」なんかがそうだ。彼らには「将来を予想する」ということが求められているのだ。
そういう需要がある以上、それを生業とすること自体には別に問題はないであろう、ということだ。占い師だってそうだ。需要がある以上そこに金銭が絡んできたからといってそのことを指弾してもしょうがないのである。
以前、林葉直子の「タロット占い」について書いたときに「何故あんな怪しげな占いのことを褒めたりするのか?」みたいなメールがわんさかと来たことがあった。
別に林葉直子の占いのことを褒めたり勧めたりしたのではない。
自分が「優れている」と言ったのは林葉直子の文章の能力であり、その明解な文章力を褒めただけだ。林葉直子のその占いについても「別に(タロットの教科書からはずれたような)おかしなことを言ったりはしてないし、料金もリーズナブルな設定になっている」と書いただけで勧めたりはしてはいない。もし彼女の占いを糾弾するのならば、先にもっと糾弾されるべき占い師はごまんといるだろうということだ。
職業占い師も当然プロであるから、自分の発言に対しては責任というものが生じる。予想が外れれば自分の評価は下がる。仕事の依頼も減る。世の中そういうものだろう。
で、ジュセリーノの予言というものはそういう職業的な占い師とは分けて考えるべきだという意見を寄せてくる人がいた。
そうかと思う。もしそれを当人が望んでいるのであればだ。
まあ、予言者と名乗る人たち、職業的占い師と一緒くたにされると大概は嫌な顔をするものだが。
困るのが、そういうこと(ジュセリーノが金儲けのことを考えていない)を書いている人たちのブログを「見た」ときである。そのままストレートに笑っていいものかどうかを悩んでしまうのである。
大概が、そのブログにはアフィリエイトとか怪しげなサイトへのリンクがベタベタ並べられているからだ。
「携帯サイトで月収4715万円稼いだ 」とか「株の初心者でも勝ち組投資家に!」とか「楽して株で100万円儲かる」とか。
「これじゃギャグだろうが」そう思われてもしかたがあるまいって。
もしこんなブログを見たら誰もがまず思うのが「まずてめえがそのジュセリーノの精神を見習えや」だろう。
まあ一歩譲って、アフィリエイトそのものが悪いとは言わない。しかし「自分で選べるものくらいはまず吟味して、内容に相応しいものにしたほうがいいんじゃないの?」くらいは言わせてもらう。
でなければ、(アフィリエイトで儲けたいと気持ちがあるのらばという意味だが)だったらジュセリーノの予言なんて自分のブログで扱わないことだ。
ていうか、「ジュセリーノの予言」って自分のブログで、本をアフィリエイトで引っ張るだけ人に堂々と勧められるようなものなのだろうか?それだけの価値のあるものなのだろうか?
この際一度真剣に考えて欲しいものである。
【追記】
記事の中で、楽天イーグルスの福盛投手の今季成績の部分について「被打率.328」と書いてしまったが
「いつの時点での成績かはわからないけれど、そんなに悪くはないはず」というご指摘があった。
確かにもう一度計算し直してみると、5月の14日の時点でも.288、15日試合終了時だと.266であった。
どうやら計算方法を間違ったようです。
福盛投手に対しては、お詫び申し上げます。申し訳ありませんでした。
しかし、被出塁率も計算しなおしてみたのだが、なんと「.371」であった!
これではつまり打者を二人出すのも当たり前という数字である。(二回に一回は背中に二塁ランナーを背負っていたという数字ともいえる)
これでいてまだ福盛投手には負け星がひとつもついていないのだからもう「奇跡のリリーファー」と呼ぶに等しいのではないか。盛田とは別の意味で。
そのメールで指摘してくれた人も「九回に白い風船を持つ手が疲れるし風船は萎んで小さくなるし試合は緊迫するしで、フクモリ君には困ったものですね」と嘆いていた(笑)
まあそれもマニア的楽天ファンの密かな楽しみのひとつだから今はいいけどさ。
2007年5月15日火曜日
070515 始まりのその始まり
【ジュセリーノ予言の真実 0515】 始まりのその始まり
日系ブラジル人の方からのメールをふたつご紹介する。
「タカハシ」さんという方から
漢字の使い方もしっかりとしていて文面だけ見るとブラジル人から来たメールとは思えない。
>JUCELINO が我々に嫌われだした大きな理由 それは預言がまったく当らないという以外にありません。
>予定された期日広げて大きくしたり 当たるようにしたのが 落胆されたことでした。
>アメリカのその事件の日を当てた予言者というのは 大きな間違いだと思われております。
(中略)
>それでJUCELINO はTVの番組で逃げることをしました。
>それからJUCELINO はTVに出ない。
>BRAZILの夜のTVは 全土に流れます。
>だから これでJUCELINO は正しい予言者であることをBRAZIL 全部で うたがわられる。(疑われる)
以前どこか誰からかの情報でうっすらと耳にはしていたことだが、ブラジルのテレビ番組に登場したジュセリーノがテレビ局の仕組んだ罠に引っ掛かり、それからテレビには出なくなったというはなしのことを書かれている。
もう少しこの部分の詳しい事情を知りたいものだ。
少なくとも、ジュセリーノがそういう形で、とうの昔から(もう一年も前のことらしい)まともな予言者扱いはされていないことだけはわかったが。
なんだこりゃ、だな。
そんなもので「予言的中率90%」であるとか「五年後人類滅亡!」とか騒ぎたてていることが馬鹿々々しくなるような話である。
次に「A・ナカタ」さんという方からのメール。こちらは要約したものを載せる。
この方の義理の妹さんがサンパウロ市内にあるホテルのレストランで働いていて、やはり一年ほど前、その店にジュセリーノ氏が数人と連れ立ってやって来たことがあったのだそうだ。ジュセリーノの印象について、一言でいうと「落ち着きのない人」だと(義妹さんが)言っていたとのこと。
常に周囲をキョロキョロと見回したり、椅子から立ち上がったりすぐに座ったりの繰り返しだったそうです。それ以外にもいろいろと書いてきてくださったがその部分には未確認のことが多過ぎるので割愛させていただく。
さて、自分は、このメールで書かれた「落ち着きのないそぶりのジュセリーノ」に対しては、だからといってジュセリーノを揶揄する気にはなれないでいる。それどころか、割とそういう部分丸出しのジュセリーノには同情的である。それは、挙動不審とか落ち着きがないとかではなく、単に何かに怯えていただけではないだろうか。そう思うからだ。考えてみれば、たった一年前はただの地方に住む高校教師だった中年男である。
それが短期間のあいだにブラジルでは知らない人はいないのではないかというくらいの有名人になってしまったのである。とまどう事は多かったのではないだろうか。そう推測するからだ。
さて、次の話題に移るとする。
友人から「ネット上で挑発的なようなことをすると痛いしっぺ返しを喰らうことがあるから注意しろよ」というありがたいアドバイスを受けた。
当りである。というかもちろんそんなことは承知の上ではある。が、実は、(わざわざばらすことじゃないが 笑)コメント欄がものすごいことになっている。こっちのブログでは、久しぶりに「まとめて削除」というのをやったくらいであった。
しかし、特に支障がない限り(サーバー管理者あたりから文句とかが出ない限りは)コメント欄の完全閉鎖はしませんけどね。
書いて来ているのは大体同じようなこと。このブログに対する批判なのだが、はっきり言ってあまりまともなものはない。(だからIPで判断してまとめて削除させていただいたのだ)
ひとつ、少しだけまともなものだけをご紹介する。(あくまでも程度の差だよ)
名前は伏せる。せめてもの情けである。せっかくコメントしてくれたのだし。
>したがって、(中略)その場所に関する情報がいくら正しいとしても、その情報それだけでは身柄確保のための有用な情報とはいえない。
という私の一文に対して
これは予言という超常現象と、一般の情報提供とを比較している時点で論理的に矛盾している。
予言なら、サダムはそこで発見されるだろう=発見されたで十分なはずではないか?
聖書にある奇跡の記述もそんなもんだ。
もしジュセリーノの指摘の場所でサダムが発見されたのが確かな現実なら、予言は成就したのではないのか?
と反論している。反論というか矛盾を突いたつもりなのか。さらに
>何故かというと彼らが持ち出してくるジュセリーノの情報というもの、出所がつきつめればたま出版からのものでしかなく、その論理の脆さは至るところで看破されたものばかりだからだ。
という個所も持ち出して来て
とも書いて来ている。最後の一行で笑ったけど。
当然のことだが、「だったらなんでこのブログなんて読みに来たのだろう?」という疑問が浮かんでしまうからである。何でだろう?(笑)。
昔、中学校の社会科の教師をしている女性がまったく同じような論調で批判してきたことを思い出してしまった。
えっとですね、真面目にお答えしましょう。まずは。
と書いているけれどさ、よく考えてみてくれ。
それでは、そういう「予言」を「情報」としてアメリカ政府に提供したと語り「自分のもたらした予言でフセインを捕獲できたのだから報奨金を払え」と名乗り出たジュセリーノが一番の馬鹿者ということになるぞ。
もっと簡単に言い換えれば、「一般の情報提供と予言を同一機軸にしたのはジュセリーノ自身である」ということだ。
矛盾したことをしているのはジュセリーノなのである。
わかっててこんなことを書いてるのかなぁ?
で、
の部分であるが、
誰がそんなことを書いているのだ、よく読みたまえ。
自分が「脆い論理」と揶揄したのはジュセリーノの予言のことではない。
「ジュセリーノの予言を成就するもの、正しいものと言いふらしている人の持ち出してきた情報であり、その論理」である。
ジュセリーノ=ジュセリーノ肯定派ではない。
ジュセリーノ肯定派の持ち出してくる論理を脆いと言っているのである。
どう脆いのか?
もういうまでもないことだけどね。このコメントがそのいい見本なんだけどね。
今までもこのようなことをメールで書いて批判してきたり反論をして来た人は何人もいた。そういう人たちにはやはりメールで再反論のメールを送って来た。
しかしその自分の再反論に対して再再反論をしてくる人、いままでひとりもいないのである。残念なことに。すぐに別の話題に切り替えたがる。韮沢式というやつで。
強調するが、これが日本にいるジュセリーノ肯定派の人たちの不真面目な部分である。ブラジルのジュセリーノ肯定派の人たちとは雲泥の差がある。
何故自分の口にした言葉に責任をもてないのであろう。そんな人間の言い分が信用されるとでも思っているのか?それとも君等にとってジュセリーノの予言というものはやはり使い捨ての、「予言というこけおどし」のひとつでしかないということなのかやはり?
だから、せめてこのコメントの主には、すぐに別の事柄を持ち出してくるという韮沢式の戦法ではなく、上記の自分のした再反論の部分に対して再再反論をしてくることを希望する。
あ、それといっこ付け加えておくが、自分がジュセリーノの予言肯定派のブログに対して「まず読め」とコメントを残したのは、まだたったひとつしかないのだ。あらら。
日系ブラジル人の方からのメールをふたつご紹介する。
「タカハシ」さんという方から
漢字の使い方もしっかりとしていて文面だけ見るとブラジル人から来たメールとは思えない。
>JUCELINO が我々に嫌われだした大きな理由 それは預言がまったく当らないという以外にありません。
>予定された期日広げて大きくしたり 当たるようにしたのが 落胆されたことでした。
>アメリカのその事件の日を当てた予言者というのは 大きな間違いだと思われております。
(中略)
>それでJUCELINO はTVの番組で逃げることをしました。
>それからJUCELINO はTVに出ない。
>BRAZILの夜のTVは 全土に流れます。
>だから これでJUCELINO は正しい予言者であることをBRAZIL 全部で うたがわられる。(疑われる)
以前どこか誰からかの情報でうっすらと耳にはしていたことだが、ブラジルのテレビ番組に登場したジュセリーノがテレビ局の仕組んだ罠に引っ掛かり、それからテレビには出なくなったというはなしのことを書かれている。
もう少しこの部分の詳しい事情を知りたいものだ。
少なくとも、ジュセリーノがそういう形で、とうの昔から(もう一年も前のことらしい)まともな予言者扱いはされていないことだけはわかったが。
なんだこりゃ、だな。
そんなもので「予言的中率90%」であるとか「五年後人類滅亡!」とか騒ぎたてていることが馬鹿々々しくなるような話である。
次に「A・ナカタ」さんという方からのメール。こちらは要約したものを載せる。
この方の義理の妹さんがサンパウロ市内にあるホテルのレストランで働いていて、やはり一年ほど前、その店にジュセリーノ氏が数人と連れ立ってやって来たことがあったのだそうだ。ジュセリーノの印象について、一言でいうと「落ち着きのない人」だと(義妹さんが)言っていたとのこと。
常に周囲をキョロキョロと見回したり、椅子から立ち上がったりすぐに座ったりの繰り返しだったそうです。それ以外にもいろいろと書いてきてくださったがその部分には未確認のことが多過ぎるので割愛させていただく。
さて、自分は、このメールで書かれた「落ち着きのないそぶりのジュセリーノ」に対しては、だからといってジュセリーノを揶揄する気にはなれないでいる。それどころか、割とそういう部分丸出しのジュセリーノには同情的である。それは、挙動不審とか落ち着きがないとかではなく、単に何かに怯えていただけではないだろうか。そう思うからだ。考えてみれば、たった一年前はただの地方に住む高校教師だった中年男である。
それが短期間のあいだにブラジルでは知らない人はいないのではないかというくらいの有名人になってしまったのである。とまどう事は多かったのではないだろうか。そう推測するからだ。
さて、次の話題に移るとする。
友人から「ネット上で挑発的なようなことをすると痛いしっぺ返しを喰らうことがあるから注意しろよ」というありがたいアドバイスを受けた。
当りである。というかもちろんそんなことは承知の上ではある。が、実は、(わざわざばらすことじゃないが 笑)コメント欄がものすごいことになっている。こっちのブログでは、久しぶりに「まとめて削除」というのをやったくらいであった。
しかし、特に支障がない限り(サーバー管理者あたりから文句とかが出ない限りは)コメント欄の完全閉鎖はしませんけどね。
書いて来ているのは大体同じようなこと。このブログに対する批判なのだが、はっきり言ってあまりまともなものはない。(だからIPで判断してまとめて削除させていただいたのだ)
ひとつ、少しだけまともなものだけをご紹介する。(あくまでも程度の差だよ)
名前は伏せる。せめてもの情けである。せっかくコメントしてくれたのだし。
>したがって、(中略)その場所に関する情報がいくら正しいとしても、その情報それだけでは身柄確保のための有用な情報とはいえない。
という私の一文に対して
これは予言という超常現象と、一般の情報提供とを比較している時点で論理的に矛盾している。
予言なら、サダムはそこで発見されるだろう=発見されたで十分なはずではないか?
聖書にある奇跡の記述もそんなもんだ。
もしジュセリーノの指摘の場所でサダムが発見されたのが確かな現実なら、予言は成就したのではないのか?
と反論している。反論というか矛盾を突いたつもりなのか。さらに
>何故かというと彼らが持ち出してくるジュセリーノの情報というもの、出所がつきつめればたま出版からのものでしかなく、その論理の脆さは至るところで看破されたものばかりだからだ。
という個所も持ち出して来て
予言とは論理であったのかね?へぇ~へぇ~へぇ~
あなたが取られる揚げ足についてはあなた自身、反省が無いようですね!
相手を批判するということは、実は対極である自分自身の姿を見ることなのですよ。
私にとってジュセリーノなんてどうでもいいんですが・・・
とも書いて来ている。最後の一行で笑ったけど。
当然のことだが、「だったらなんでこのブログなんて読みに来たのだろう?」という疑問が浮かんでしまうからである。何でだろう?(笑)。
昔、中学校の社会科の教師をしている女性がまったく同じような論調で批判してきたことを思い出してしまった。
えっとですね、真面目にお答えしましょう。まずは。
>これは予言という超常現象と、
>一般の情報提供とを比較している時点で論理的に矛盾している。
と書いているけれどさ、よく考えてみてくれ。
それでは、そういう「予言」を「情報」としてアメリカ政府に提供したと語り「自分のもたらした予言でフセインを捕獲できたのだから報奨金を払え」と名乗り出たジュセリーノが一番の馬鹿者ということになるぞ。
もっと簡単に言い換えれば、「一般の情報提供と予言を同一機軸にしたのはジュセリーノ自身である」ということだ。
矛盾したことをしているのはジュセリーノなのである。
わかっててこんなことを書いてるのかなぁ?
で、
>予言とは論理であったのかね?へぇ~へぇ~へぇ~
の部分であるが、
誰がそんなことを書いているのだ、よく読みたまえ。
自分が「脆い論理」と揶揄したのはジュセリーノの予言のことではない。
「ジュセリーノの予言を成就するもの、正しいものと言いふらしている人の持ち出してきた情報であり、その論理」である。
ジュセリーノ=ジュセリーノ肯定派ではない。
ジュセリーノ肯定派の持ち出してくる論理を脆いと言っているのである。
どう脆いのか?
もういうまでもないことだけどね。このコメントがそのいい見本なんだけどね。
今までもこのようなことをメールで書いて批判してきたり反論をして来た人は何人もいた。そういう人たちにはやはりメールで再反論のメールを送って来た。
しかしその自分の再反論に対して再再反論をしてくる人、いままでひとりもいないのである。残念なことに。すぐに別の話題に切り替えたがる。韮沢式というやつで。
強調するが、これが日本にいるジュセリーノ肯定派の人たちの不真面目な部分である。ブラジルのジュセリーノ肯定派の人たちとは雲泥の差がある。
何故自分の口にした言葉に責任をもてないのであろう。そんな人間の言い分が信用されるとでも思っているのか?それとも君等にとってジュセリーノの予言というものはやはり使い捨ての、「予言というこけおどし」のひとつでしかないということなのかやはり?
だから、せめてこのコメントの主には、すぐに別の事柄を持ち出してくるという韮沢式の戦法ではなく、上記の自分のした再反論の部分に対して再再反論をしてくることを希望する。
あ、それといっこ付け加えておくが、自分がジュセリーノの予言肯定派のブログに対して「まず読め」とコメントを残したのは、まだたったひとつしかないのだ。あらら。
2007年5月13日日曜日
070513 自分の目に映るもの
【ジュセリーノ予言の真実 0513】 自分の目に映るもの
まずは報告から。
テレビ朝日に出したメールに対しての返事はまだこない。
まあ、たぶんこないのだと思う。それはそれでかまわない。来たからといってどうなるものでもないし。
数日前、0508の記事を読んだ人から「焦ってるのではないか」というようなメールが来た。
確かに自分は焦っている。
それは事実だと思う。
というかスケジュール的なことを考えるとあまり余裕はないのだ。
で、当初は二週間くらいは待とうかと思っていたのだが、予定を早めることにした。
14日にはまずBPOに対してはメールを送れるよう準備だけは出来ている。
やはり総務省に対して文書に送るのもひとつの方法なのだが、それをだけを頼りにするのもどうかという気持ちも出て来ている。
それとは別に他のメディアに対しても、あのテレビ朝日の番組がいかにいい加減でデタラメで、それなのに精神的な被害を受けたという人がいかに多いのかということを改めて訴えてみるのも方法として視野に入れている。
というのも、もうひとつ(ふたつか)怒りを通り越して、気分の悪くなる出来事が起きているのだ。
メールが来た。以前もこの本文で取り上げたことのある、小学生の子供を持つ母親のかたからのものである。そのお子さんが入院したのだという。これ以上はここでは書けないが、
なんていうのか、
自分でもこんなことを書くのは避けたかったことなのだが正直涙が出てきた。
自分の無力さと読みの甘さと失敗に対しての怒りもある。
以前、心療内科医の方から「津浪で日本が目茶目茶になるというようなジュセリーノの予言みたいなものを真に受けた小さな子供たちがたまに来ることがある」というコメントがあったが、最近あらたにそういうことを書いて来てくださった方が二人ほどいる。
本来は、それとこれとは切り離すべきことなのだが、ブログにはジュセリーノの7月13日の津浪の予言を改竄して「7月13日、日本に津波が押し寄せる」と書いているものが出始めている。
「窮すれば貧す」の例えどおりで、人間追い詰められると愚かな手段でも使ってくるということなのだろう。
中には「ジュセリーノさんは決して人を不安にするためにこのようなことを言っているのではなく、警告として述べられています」などと抜け抜けと書いているものがあった。
ジュセリーノのことは知らないが、人を不安にするためにデタラメな予言を書き散らしているのは他ならないそのブログの主だ。
以前、自分はこういうジュセリーノの予言といったものを「成就するもの」「正しい」と書いているような「肯定派」のブログに対して直接批判したりはするつもりはないと書いた。そしてそのスタンスは保ってきたつもりだ。
しかしそれも方向転換の必要をひしひしと感じ始めている。
やはり人間としてダメな奴はダメなのだ、放っといては。
残念なことではあるが、ここでひとつひとつそのブログの名前を挙げて俎上に上げて晒し者にするとかしないとだめなのかもな。
でないと、下手を打てばただの無意味な時間の消耗になる危険が出て来たということを感じているのだ。
まずは向こうに書き込みをするとかして予告ぐらいはして置くけれどさ。
それと、もうだいぶ以前からなのだが「たま出版」から出たジュセリーノの本の批判をして下さいというようなお願い、今でも相変らず後を絶たない。
しかし、いくらたまの本をここで批判してみても、それはジュセリーノの予言に対する反証にはあまりならない、その可能性(危険性)も高いということは書いた。
たまの本がジュセリーノの本の訳本としてはあまりにも不完全だし、尚且つ予言の部分に関してはかなりいい加減に翻訳されているということを知っていたからである。
「ジュセリーノの予言の批判」ではなく「たまの予言に対する批判」をしてもしかたがないではないか。
しかし、こうまであの本に対する批判の需要が高いというのはやっぱり無視は出来ないのではないか。
ただし自分の中にそれに対する強いモチベーションいうものは、はっきり言えば今はそんなにはない。
やらずに済むのならばそれに越したことはないとさえ思っている。
だとしてもあのたまの本はそういう事情を鑑みたとしてもやはり批判はされるべきなのであろうし、誰もしないというのであれば(まあ、本来ならばそれが一番正しい態度なのであるが)自分がやるしかないんじゃないかということだ。
ただし、だからそれは六月に予定している、総務省に対する文章の送付などが終わったあとということになると思う。もちろんやるのならば徹底的にやるつもりですが。
場合によってだが、そのときには「本」とともに、この出版社の方針についても批判はしなければならないだろうし、そうすると社長である韮沢潤一郎氏に対する批判もしなければならなくなるのであろう。
そういうことだ。
今までは、直接的には「ジュセリーノの予言」とは関係なかったので触れなかったが、例の韮沢氏の「テレビでの葬式パフォーマンス、棺おけで登場」みたいな部分についても書かざるを得ないだろう。
なんだか今日のは宣戦布告みたいな感じの文章になってしまったな。
正直気分はよくない。
反カルト・非オカルト - livedoor Blog 共通テーマ
タグ: ジュセリーノ 予言 ジュセリーノ予言 テレビ朝日 たま出版
akgoodco1224 at │コメント(0)│ジュセリーノ予言の真実 | 反カルト・非オカルト 0
まずは報告から。
テレビ朝日に出したメールに対しての返事はまだこない。
まあ、たぶんこないのだと思う。それはそれでかまわない。来たからといってどうなるものでもないし。
数日前、0508の記事を読んだ人から「焦ってるのではないか」というようなメールが来た。
確かに自分は焦っている。
それは事実だと思う。
というかスケジュール的なことを考えるとあまり余裕はないのだ。
で、当初は二週間くらいは待とうかと思っていたのだが、予定を早めることにした。
14日にはまずBPOに対してはメールを送れるよう準備だけは出来ている。
やはり総務省に対して文書に送るのもひとつの方法なのだが、それをだけを頼りにするのもどうかという気持ちも出て来ている。
それとは別に他のメディアに対しても、あのテレビ朝日の番組がいかにいい加減でデタラメで、それなのに精神的な被害を受けたという人がいかに多いのかということを改めて訴えてみるのも方法として視野に入れている。
というのも、もうひとつ(ふたつか)怒りを通り越して、気分の悪くなる出来事が起きているのだ。
メールが来た。以前もこの本文で取り上げたことのある、小学生の子供を持つ母親のかたからのものである。そのお子さんが入院したのだという。これ以上はここでは書けないが、
なんていうのか、
自分でもこんなことを書くのは避けたかったことなのだが正直涙が出てきた。
自分の無力さと読みの甘さと失敗に対しての怒りもある。
以前、心療内科医の方から「津浪で日本が目茶目茶になるというようなジュセリーノの予言みたいなものを真に受けた小さな子供たちがたまに来ることがある」というコメントがあったが、最近あらたにそういうことを書いて来てくださった方が二人ほどいる。
本来は、それとこれとは切り離すべきことなのだが、ブログにはジュセリーノの7月13日の津浪の予言を改竄して「7月13日、日本に津波が押し寄せる」と書いているものが出始めている。
「窮すれば貧す」の例えどおりで、人間追い詰められると愚かな手段でも使ってくるということなのだろう。
中には「ジュセリーノさんは決して人を不安にするためにこのようなことを言っているのではなく、警告として述べられています」などと抜け抜けと書いているものがあった。
ジュセリーノのことは知らないが、人を不安にするためにデタラメな予言を書き散らしているのは他ならないそのブログの主だ。
以前、自分はこういうジュセリーノの予言といったものを「成就するもの」「正しい」と書いているような「肯定派」のブログに対して直接批判したりはするつもりはないと書いた。そしてそのスタンスは保ってきたつもりだ。
しかしそれも方向転換の必要をひしひしと感じ始めている。
やはり人間としてダメな奴はダメなのだ、放っといては。
残念なことではあるが、ここでひとつひとつそのブログの名前を挙げて俎上に上げて晒し者にするとかしないとだめなのかもな。
でないと、下手を打てばただの無意味な時間の消耗になる危険が出て来たということを感じているのだ。
まずは向こうに書き込みをするとかして予告ぐらいはして置くけれどさ。
それと、もうだいぶ以前からなのだが「たま出版」から出たジュセリーノの本の批判をして下さいというようなお願い、今でも相変らず後を絶たない。
しかし、いくらたまの本をここで批判してみても、それはジュセリーノの予言に対する反証にはあまりならない、その可能性(危険性)も高いということは書いた。
たまの本がジュセリーノの本の訳本としてはあまりにも不完全だし、尚且つ予言の部分に関してはかなりいい加減に翻訳されているということを知っていたからである。
「ジュセリーノの予言の批判」ではなく「たまの予言に対する批判」をしてもしかたがないではないか。
しかし、こうまであの本に対する批判の需要が高いというのはやっぱり無視は出来ないのではないか。
ただし自分の中にそれに対する強いモチベーションいうものは、はっきり言えば今はそんなにはない。
やらずに済むのならばそれに越したことはないとさえ思っている。
だとしてもあのたまの本はそういう事情を鑑みたとしてもやはり批判はされるべきなのであろうし、誰もしないというのであれば(まあ、本来ならばそれが一番正しい態度なのであるが)自分がやるしかないんじゃないかということだ。
ただし、だからそれは六月に予定している、総務省に対する文章の送付などが終わったあとということになると思う。もちろんやるのならば徹底的にやるつもりですが。
場合によってだが、そのときには「本」とともに、この出版社の方針についても批判はしなければならないだろうし、そうすると社長である韮沢潤一郎氏に対する批判もしなければならなくなるのであろう。
そういうことだ。
今までは、直接的には「ジュセリーノの予言」とは関係なかったので触れなかったが、例の韮沢氏の「テレビでの葬式パフォーマンス、棺おけで登場」みたいな部分についても書かざるを得ないだろう。
なんだか今日のは宣戦布告みたいな感じの文章になってしまったな。
正直気分はよくない。
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2007年5月11日金曜日
070511 カルトの定義とか
【ジュセリーノ予言の真実 0511】 カルトの定義とか (カルトとはなんぞや)
ジュセリーノ(の予言)のことをカルト呼ばわりするのはけしからんというメールが数通来ている。
そういうことをメールで書いて来た人にはこういう返事をしている。
ではあなたのカルトの定義をまず教えて下さい、と。
まだ返事は一通もかえってこないが。
自分がジュセリーノの予言のことを「カルト」であると言い切るのには踏ん切りが必要であった。
そもそも、「カルト」の定義自体がものすごく難しいからだ。特に日本においては。
しかし海外、特に欧州や南米でSECTの定義自体はものすごく簡単なようだ。単にキリスト教の分派(教会)をそう呼んでいるという解釈もある。教義自体がさほどキリスト教から離れたおかしなものでなければSECTと呼ばれてもどうとも思われていない国もある。
しかしそれ以外のCULTとなるとキリスト教以外のものすべてを含めて考えたりしているという定義もある。国毎に対策をしているところもあるしそうでないところもある。フランスやドイツなんかはCULTに厳しいらしい。特に最近では南米各国ではそういうSECTやCULTの活動が活発化して問題になっている。最近、統一教会の日本人幹部が誘拐されるという事件があったが、そういう社会背景がある。
ジュセリーノのことを「THE FOUNDER OF SECT」と書いたことに反論してくるブラジル人はいるのかというと実はほとんどいない。SECTという言葉に対して実際にさほどの抵抗感はないのかもしれない。しかし、
JUST LIKE AS "AUM" JAPANESE BUDDHISM CULTという表現には「それとは違うぞ」とかなりメールで文句を言われているような状態である。
いずれジュセリーノ本人にも訴えられるかもしれない。(さすがにそれはないか 笑 )
しかし、キリスト教の「終末思想」というものを取り入れ、ノストラダムスの人類滅亡の予言というものを真に受けて世界中を奔走してその資料をあつめたり、グルへの帰依こそが唯一の救いであると説いた「オウム」と、カルマ(業)という言葉で人類の行く末というものを説明して自分の予言(当れば正しい、外れればそれは喜ばしいことと)を正当化しているカトリック教徒を自称しているジュセリーノはまるで鏡で写したかのように「対」になるような存在ではあるまいか。
そういうことを言っているのである。
オウムはカルトであり、それが故に尚且つ犯罪集団になってしまった。
しかし、ジュセリーノはセクトの教祖ではあるが彼を取り囲むのはオウムのような「犯罪集団」ではない。
その違いは歴然としてある。
しかし、ジュセリーノの予言というものを利用して金儲けをしようしたりする人間の影はチラつくのである。ブラジルでも日本でも。
「アセンション」とか「フォトンベルト」とかそういう言葉で信者を集めようとしている人間もそうだ。
自分はその中に「たま出版」も「テレビ朝日」も含めてもいいんじゃないかと思っている。
というかそう思われたくないのならちゃんとした対応をしろよとテレビ朝日に対して迫っているのである。
そういうメールを送ったりしたのだ。そういう意味で、自分はまだテレビ朝日の味方でもあるのだ、まだ。
しかし、先に挙げた評論家の方の言葉ではないが、カルト(=セクト)は必ず急進化するものなのである。
自分も、期日を区切った予言をするカルト(=セクト)はまず間違いなく急進化するものだと思っている。
そういう意味で「今年2007年がリミットである」と明言したジュセリーノの予言はセクトの末期と同じ症状だけは出ていると見ている。
それで自分は逆算するような形であるがジュセリーノの予言のことをセクト(=カルト)であると言い切ることにしたのだ。
果してジュセリーノの予言なんてそんな価値のあるものなのだろうか。
よく見てよく読んでよく考えればチグハグだらけの世迷い事でしかないじゃない。
それでも、ブラジルとか日本にいるジュセリーノの予言肯定派の人たちや信者は、そんなジュセリーノの予言というものから逃れられないのだから可哀想といえば可哀想なのだが。
※これも4月21日以降にアップする予定だった記事が元になっている。少し書き改めて0511の記事にした。
ジュセリーノ(の予言)のことをカルト呼ばわりするのはけしからんというメールが数通来ている。
そういうことをメールで書いて来た人にはこういう返事をしている。
ではあなたのカルトの定義をまず教えて下さい、と。
まだ返事は一通もかえってこないが。
自分がジュセリーノの予言のことを「カルト」であると言い切るのには踏ん切りが必要であった。
そもそも、「カルト」の定義自体がものすごく難しいからだ。特に日本においては。
しかし海外、特に欧州や南米でSECTの定義自体はものすごく簡単なようだ。単にキリスト教の分派(教会)をそう呼んでいるという解釈もある。教義自体がさほどキリスト教から離れたおかしなものでなければSECTと呼ばれてもどうとも思われていない国もある。
しかしそれ以外のCULTとなるとキリスト教以外のものすべてを含めて考えたりしているという定義もある。国毎に対策をしているところもあるしそうでないところもある。フランスやドイツなんかはCULTに厳しいらしい。特に最近では南米各国ではそういうSECTやCULTの活動が活発化して問題になっている。最近、統一教会の日本人幹部が誘拐されるという事件があったが、そういう社会背景がある。
ジュセリーノのことを「THE FOUNDER OF SECT」と書いたことに反論してくるブラジル人はいるのかというと実はほとんどいない。SECTという言葉に対して実際にさほどの抵抗感はないのかもしれない。しかし、
JUST LIKE AS "AUM" JAPANESE BUDDHISM CULTという表現には「それとは違うぞ」とかなりメールで文句を言われているような状態である。
いずれジュセリーノ本人にも訴えられるかもしれない。(さすがにそれはないか 笑 )
しかし、キリスト教の「終末思想」というものを取り入れ、ノストラダムスの人類滅亡の予言というものを真に受けて世界中を奔走してその資料をあつめたり、グルへの帰依こそが唯一の救いであると説いた「オウム」と、カルマ(業)という言葉で人類の行く末というものを説明して自分の予言(当れば正しい、外れればそれは喜ばしいことと)を正当化しているカトリック教徒を自称しているジュセリーノはまるで鏡で写したかのように「対」になるような存在ではあるまいか。
そういうことを言っているのである。
オウムはカルトであり、それが故に尚且つ犯罪集団になってしまった。
しかし、ジュセリーノはセクトの教祖ではあるが彼を取り囲むのはオウムのような「犯罪集団」ではない。
その違いは歴然としてある。
しかし、ジュセリーノの予言というものを利用して金儲けをしようしたりする人間の影はチラつくのである。ブラジルでも日本でも。
「アセンション」とか「フォトンベルト」とかそういう言葉で信者を集めようとしている人間もそうだ。
自分はその中に「たま出版」も「テレビ朝日」も含めてもいいんじゃないかと思っている。
というかそう思われたくないのならちゃんとした対応をしろよとテレビ朝日に対して迫っているのである。
そういうメールを送ったりしたのだ。そういう意味で、自分はまだテレビ朝日の味方でもあるのだ、まだ。
しかし、先に挙げた評論家の方の言葉ではないが、カルト(=セクト)は必ず急進化するものなのである。
自分も、期日を区切った予言をするカルト(=セクト)はまず間違いなく急進化するものだと思っている。
そういう意味で「今年2007年がリミットである」と明言したジュセリーノの予言はセクトの末期と同じ症状だけは出ていると見ている。
それで自分は逆算するような形であるがジュセリーノの予言のことをセクト(=カルト)であると言い切ることにしたのだ。
果してジュセリーノの予言なんてそんな価値のあるものなのだろうか。
よく見てよく読んでよく考えればチグハグだらけの世迷い事でしかないじゃない。
それでも、ブラジルとか日本にいるジュセリーノの予言肯定派の人たちや信者は、そんなジュセリーノの予言というものから逃れられないのだから可哀想といえば可哀想なのだが。
※これも4月21日以降にアップする予定だった記事が元になっている。少し書き改めて0511の記事にした。
070511 疑問 911の予言について
【ジュセリーノ予言の真実 0511】 疑問 911の予言について
多くのブラジルからのメールを読ませて頂いて感じたことなのであるが
ブラジル人にとって「ジュセリーノの予言」というものは必ずしもカタストロフィー的な人類の滅亡の予言という訳ではないので、皆割とイージーな感覚で受け入れているのだということだと思う。
ジュセリーノ自身の言葉として、ブラジルは安全な場所として各地の名前を出していることもあるであろう。
なんかエイズの特効薬もブラジルで発見される、みたいなことを言っているらしいし。
ぶっちゃけ「世界は滅びてもブラジルだけは残る」みたいに読める部分もあるようだ。(訳によっては多少ニュアンスが異なるがそんな感じだろう)
まあ実は日本にもこれとよく似た新興宗教はいくつもあった。というか今でもある。
世界は滅びるが日本だけは栄華が続く~みたいなことを主張している宗教である。どことは言わないけれどね。
一方、どう考えても、日本人にとってはジュセリーノの予言は破滅の予言である。だからこそ「嘘」の部分であるとか、まやかしの部分が明らかにしやすいともいえるである。
んなものなんの批評も批判もなく受け入れてしまうほうがおかしいのだ。
で、さてそのブラジルの人からのメールでこういうことを書いてくる人、結構多いのである。
「ブラジルは安全です。あなたもブラジルにおいでなさい」
うーむ、ご好意はありがたいのだが、だからといってホイホイと行く気にはなれない。
なにかが間違っているとしかいいようがないからだ。
ここで、今までずっとスルーして来た911のジュセリーノ予言について考えてみる。
というか今まで自分もそのことについては深く考えてはいなかったのだが、ある方から頂いたメールに書かれていたことに深いショックを受けたのでここでご紹介したい。
「私は長年様様な精神症の患者さんたちと話し相手になるボランテイアの仕事をしていたものです。(中略)あの2001年9月11日のニューヨークで起きた同時多発テロ事件の直後のことのことなのです、話し相手になる患者さん達の中にはあの事件を夢の中で見たと真面目に真剣に喋る方が何人かいました。(中略)二機の飛行機がビルに突っ込んでゆく光景を見たのだ、というものです、しかし、先生にどの場所から見上げていたの?であるとか、近く?それとも離れた場所?と聞かれるとそのたびに患者さんの発言はころころとかわります。(中略)どういうことなのかをその担当の先生にお聞きしたところ、こんな感じのご返答をいただきました。「事故現場で二機の飛行機が突っ込んでゆくことが出来た場所なんて実際にはないんだよ。××さん(患者の名前と思われる)がそう思い込むのはただ単にそういうニュース映像を見て、それが意識下に刷り込まれて自分は前もって見たのだと偽の記憶になってしまっているんだ。」とのことです。(中略)・・・ジュセリーノの予言に接したときに私が感じたのはやっぱりそういう患者さんたちの言っていたことと非常に似ているなということです。」
確かに、二機の飛行機がビルに突っ込んでゆく光景を実際に目の当たりにできそうな場所(ジュセリーノは『見上げると』と言っている)なんてなさそうな感じがする。一般的にだが、一機がビルに突っ込む場所であるのならば、もう一機が飛び込むところはその陰になってしまうからだ。
果してジュセリーノが夢の中で見たという光景はどの地点に立ってのものだったのだろう?
多くのブラジルからのメールを読ませて頂いて感じたことなのであるが
ブラジル人にとって「ジュセリーノの予言」というものは必ずしもカタストロフィー的な人類の滅亡の予言という訳ではないので、皆割とイージーな感覚で受け入れているのだということだと思う。
ジュセリーノ自身の言葉として、ブラジルは安全な場所として各地の名前を出していることもあるであろう。
なんかエイズの特効薬もブラジルで発見される、みたいなことを言っているらしいし。
ぶっちゃけ「世界は滅びてもブラジルだけは残る」みたいに読める部分もあるようだ。(訳によっては多少ニュアンスが異なるがそんな感じだろう)
まあ実は日本にもこれとよく似た新興宗教はいくつもあった。というか今でもある。
世界は滅びるが日本だけは栄華が続く~みたいなことを主張している宗教である。どことは言わないけれどね。
一方、どう考えても、日本人にとってはジュセリーノの予言は破滅の予言である。だからこそ「嘘」の部分であるとか、まやかしの部分が明らかにしやすいともいえるである。
んなものなんの批評も批判もなく受け入れてしまうほうがおかしいのだ。
で、さてそのブラジルの人からのメールでこういうことを書いてくる人、結構多いのである。
「ブラジルは安全です。あなたもブラジルにおいでなさい」
うーむ、ご好意はありがたいのだが、だからといってホイホイと行く気にはなれない。
なにかが間違っているとしかいいようがないからだ。
ここで、今までずっとスルーして来た911のジュセリーノ予言について考えてみる。
というか今まで自分もそのことについては深く考えてはいなかったのだが、ある方から頂いたメールに書かれていたことに深いショックを受けたのでここでご紹介したい。
「私は長年様様な精神症の患者さんたちと話し相手になるボランテイアの仕事をしていたものです。(中略)あの2001年9月11日のニューヨークで起きた同時多発テロ事件の直後のことのことなのです、話し相手になる患者さん達の中にはあの事件を夢の中で見たと真面目に真剣に喋る方が何人かいました。(中略)二機の飛行機がビルに突っ込んでゆく光景を見たのだ、というものです、しかし、先生にどの場所から見上げていたの?であるとか、近く?それとも離れた場所?と聞かれるとそのたびに患者さんの発言はころころとかわります。(中略)どういうことなのかをその担当の先生にお聞きしたところ、こんな感じのご返答をいただきました。「事故現場で二機の飛行機が突っ込んでゆくことが出来た場所なんて実際にはないんだよ。××さん(患者の名前と思われる)がそう思い込むのはただ単にそういうニュース映像を見て、それが意識下に刷り込まれて自分は前もって見たのだと偽の記憶になってしまっているんだ。」とのことです。(中略)・・・ジュセリーノの予言に接したときに私が感じたのはやっぱりそういう患者さんたちの言っていたことと非常に似ているなということです。」
確かに、二機の飛行機がビルに突っ込んでゆく光景を実際に目の当たりにできそうな場所(ジュセリーノは『見上げると』と言っている)なんてなさそうな感じがする。一般的にだが、一機がビルに突っ込む場所であるのならば、もう一機が飛び込むところはその陰になってしまうからだ。
果してジュセリーノが夢の中で見たという光景はどの地点に立ってのものだったのだろう?
2007年5月8日火曜日
070508 拾遺録
【ジュセリーノ予言の真実 0508】 拾遺録
まず、ご報告から。
5月7日付でテレビ朝日に対してメールを送った。内容は0430で公開したものとほとんど同じである。ただ、指摘のあった個所は直した。ひとつは数字というか期日の部分に関してだが、「今までブログ上で書いてきたのと違ってはいまいか」という指摘があった。
確かにそのとおりであった。「2月28日付け」では間違いというか下手をすれば誇張になるところであった。あの部分は「4月28日付け」でなければおかしい。そこでもういちど数えなおして3月末時点でのメールとコメントの実数を分けて書きなおした。
もうひとつ、「超望遠カメラ」というよりも「超望遠・超高解像度カメラ」だろうという指摘があった。まあ確かに厳密を期するのであれば確かにそうなのだろう。そのくらいである。
というかこのことも予めここで書いておいたほうがいいのかもしれないが、自分はテレビ朝日からちゃんとした対応をされるとはほとんど期待はしていない。
なぜならば今まで同じようなケースで質問のメールは何度かしているのだがまともに対応されたことが一度たりともなかったからだ。
来るとしたら形式的なものが一週間後ぐらいに来るだけである。
「内容をよく理解しまして、参考させていただきスタッフ一同これからの番組作りに生かさせていただきます。」というようなものが。
もちろんそれでも構わないのである。こっちとしては単に(向こうに対して)段階的にステップを踏んで上げているだけだからである。
もちろん次は(そんな感じのメールが届いたとしたのならばだが)同じ内容のものをBPOであるとか総務省に対しても送るのである。
もし総務省に送るのであれば、そのときには以前からご協力を約束いただいている複数名との方たちとの連名になる(予定である)。あの番組を見て精神的にショックを受けたということをメールで書いてきて、「テレビ朝日を訴えたい」と言っておられた人たちである。「どうせ訴え出るのであればこっちのほうが効果的ですよ」というようなことを言ったら「是非にでも協力したい」と申し出ていただいていた方々である。
もちろんそのことが社会的にも大きな意義があるからである。
テレビという媒体で、不安を与えるような「予言」を撒き散らしておいてそのままで終わり、という前例を残してはならないからである。
まあだから、自分はどちらかというと(無責任というか意地悪な言い方に聞こえるかもしれないが)メールの返事がこなかったり、こういう形式的なメールだけが帰ってくるほうを期待していたりするのだが。
【補足事項】
※これは4月21日以降にアップする予定だった記事の一部をもとにしています。
「なんであなたのところにそんなにブラジルからメールがくるの?」という質問が結構来ている。
答え、記事によっては英語に翻訳(ものすごく初歩的な英語である)したものを修正したときに付記しており、その部分のおかげでブラジルの検索エンジンでも引っ掛かり、英語の読めるブラジル人からもメールがくるようになったからである。
さすがに一般的なWEB検索だとまだまだ上には出てはこないものの限定的にブログ検索だとかだと結構上の方にでてくるのである。このブログ。
ちなみにこれはグーグルのブラジルのものだが
「jucelino」だけでも20以内にはつけ出している。
ブラジルの人からすれば日本人でジュセリーノの予言のブログをやっていること自体が珍しく感じるであろうが、少なくとも「英語で読める」日本語のブログはいまのところこのブログだけであるのでついメールを送りたくなるようだ。実際そんな感じのものが多い。ただし送ってくるのはジュセリーノの予言を信じているという人が殆どになる。
何故かというと「NEGATIVE SIDE」と表明しているからだ。[註1 → 追記]
その、英語で書かれたページの頭にはなんて書いているのですか?という質問。
機械訳を掛けてもそんなに意味は変わらない。
「ジュセリーノの予言に対する、日本(語)の最も詳細でかつ分析的な批判的立場のブログ」である。
また、その上(下)には「google、Yahooなどの各種検索エンジンで選ばれている 」とも 書かれている。
嘘。書かれているではない、書いたのはこの自分だ。(笑)
まあ多少誇張には違いないが事実ではある。
Yahooのブログ検索(評判検索)をみれば一発でわかることだが、自分のこのブログしか上位を埋めていないことがあった時期のことである。
GOOGLEのブログ検索でもこのブログはお陰様でずっと一位をキープしている。
だから「CHOICED BY GOOGLE, YAHOO!,AND ALL SEACH-ENGINES」という部分は決して嘘ではない、ということだ。
(最近ではこのブログの読者の多くの方には知れ渡ったことでもあるので今では一応念のためという感じになってしまった)
【補足事項】
前に書いた「たまBBS」に対する文句であるが、それ以外にも「この部分はおかしい」であるとか、「この部分は不謹慎ですよねぇ」といった質問が来ている。読ませていただくと確かにその通りなのだが、だからといってもうこれ以上ここで「たまBBS」の批判をするつもりはいまのところはない。(ネタ切れの時はするかも、でもまあこないだろうなぁ、たぶんあと3ヶ月は・・・)
議題にしたいというのであればまず真っ先に「たま出版」にあるいは「BBS」に直接持ち込んだほうがいいのではないであろうか。それで無視されたりしたのであれば、次には「他の掲示板?」で議論されることをお奨めする。(とはいえ、自分が指摘した部分はいまだにそのままである。不謹慎な集団である。あれをなんとも思わないというのであればパナ・ウェーヴと変わらんぞ)
【補足事項】
最近またもや不思議なメールが来た。「なんでそんなにたま出版の内部事情に詳しいの?」という質問である。詳しいも詳しくないもたま出版に電話をしたりメールをしたという人から聞いて書いているだけだ。もちろん(複数の証言などがあって、それ以外にも)確からしいと言えるものだけをここに書いている。たとえばそれ以外にもたまで出したジュセリーノの本の実売数(取次ぎ店レベルでの、出荷-返本=実売+書店在庫数というものがもう出始めている)であるとかをクチってきた方もいたが確証がないのでここでは書いてはいない。(※直接取引き店・ネット通販の実売があるので、厳密に正確な実売数ではないもののランキングの数字を出すときなどにはもっとも重要視される実売数である)
別にたま出版の内部(周辺)にディープスロート的な密告者がいるわけではない。あたりまえの話だ。
というような感じで軽~く流そうと思っていた話題なのだが、最近某テレビドラマを見ていてあることに気がついたのだ。
「そのメールの主、なんで自分の書いたことがたま出版の内部事情と相反してない」ということを知っているのであろうかということだ。すなわちそのメールの主こそたま出版の内部事情に詳しくなければそんなメールを寄越せるはずがないのである。それともただ書いてみただけなのか、はったりか。カマをかけて見ただけなのか。想像は膨らむ(笑)。
そういえばちょい前に2ちゃんねるに「かまた氏こそ、たま出版のスパイである」みたいな書き込みがあった。そのときは苦笑するしかなかったが考えてみると、そういう事実を知っている人物という前提で考えると、そう書きたくなるのもあながちおかしなことではないのだよなぁ、と思ったのであった。
※うかつにも()ではなく半角のカギカッコを使ってしまい見えなくなっていた部分がありました。その部分の修正とついでに校正をしました。(2007.05.10)
[註1]追加事項
今となっては「なんでそんなに…?」の説明は要らないだろう。
なにしろジュセリーノ本人が自分のHP上でこのブログのこの英語の記事に噛み付いてきたからだ。
(09.12.03)
まず、ご報告から。
5月7日付でテレビ朝日に対してメールを送った。内容は0430で公開したものとほとんど同じである。ただ、指摘のあった個所は直した。ひとつは数字というか期日の部分に関してだが、「今までブログ上で書いてきたのと違ってはいまいか」という指摘があった。
確かにそのとおりであった。「2月28日付け」では間違いというか下手をすれば誇張になるところであった。あの部分は「4月28日付け」でなければおかしい。そこでもういちど数えなおして3月末時点でのメールとコメントの実数を分けて書きなおした。
もうひとつ、「超望遠カメラ」というよりも「超望遠・超高解像度カメラ」だろうという指摘があった。まあ確かに厳密を期するのであれば確かにそうなのだろう。そのくらいである。
というかこのことも予めここで書いておいたほうがいいのかもしれないが、自分はテレビ朝日からちゃんとした対応をされるとはほとんど期待はしていない。
なぜならば今まで同じようなケースで質問のメールは何度かしているのだがまともに対応されたことが一度たりともなかったからだ。
来るとしたら形式的なものが一週間後ぐらいに来るだけである。
「内容をよく理解しまして、参考させていただきスタッフ一同これからの番組作りに生かさせていただきます。」というようなものが。
もちろんそれでも構わないのである。こっちとしては単に(向こうに対して)段階的にステップを踏んで上げているだけだからである。
もちろん次は(そんな感じのメールが届いたとしたのならばだが)同じ内容のものをBPOであるとか総務省に対しても送るのである。
もし総務省に送るのであれば、そのときには以前からご協力を約束いただいている複数名との方たちとの連名になる(予定である)。あの番組を見て精神的にショックを受けたということをメールで書いてきて、「テレビ朝日を訴えたい」と言っておられた人たちである。「どうせ訴え出るのであればこっちのほうが効果的ですよ」というようなことを言ったら「是非にでも協力したい」と申し出ていただいていた方々である。
もちろんそのことが社会的にも大きな意義があるからである。
テレビという媒体で、不安を与えるような「予言」を撒き散らしておいてそのままで終わり、という前例を残してはならないからである。
まあだから、自分はどちらかというと(無責任というか意地悪な言い方に聞こえるかもしれないが)メールの返事がこなかったり、こういう形式的なメールだけが帰ってくるほうを期待していたりするのだが。
【補足事項】
※これは4月21日以降にアップする予定だった記事の一部をもとにしています。
「なんであなたのところにそんなにブラジルからメールがくるの?」という質問が結構来ている。
答え、記事によっては英語に翻訳(ものすごく初歩的な英語である)したものを修正したときに付記しており、その部分のおかげでブラジルの検索エンジンでも引っ掛かり、英語の読めるブラジル人からもメールがくるようになったからである。
さすがに一般的なWEB検索だとまだまだ上には出てはこないものの限定的にブログ検索だとかだと結構上の方にでてくるのである。このブログ。
ちなみにこれはグーグルのブラジルのものだが
「jucelino nobrega da Luz」だと常に五位以内。
jucelino nobrega da Luz
「jucelino」だけでも20以内にはつけ出している。
jucelino
ブラジルの人からすれば日本人でジュセリーノの予言のブログをやっていること自体が珍しく感じるであろうが、少なくとも「英語で読める」日本語のブログはいまのところこのブログだけであるのでついメールを送りたくなるようだ。実際そんな感じのものが多い。ただし送ってくるのはジュセリーノの予言を信じているという人が殆どになる。
何故かというと「NEGATIVE SIDE」と表明しているからだ。[註1 → 追記]
その、英語で書かれたページの頭にはなんて書いているのですか?という質問。
機械訳を掛けてもそんなに意味は変わらない。
「ジュセリーノの予言に対する、日本(語)の最も詳細でかつ分析的な批判的立場のブログ」である。
また、その上(下)には「google、Yahooなどの各種検索エンジンで選ばれている 」とも 書かれている。
嘘。書かれているではない、書いたのはこの自分だ。(笑)
まあ多少誇張には違いないが事実ではある。
Yahooのブログ検索(評判検索)をみれば一発でわかることだが、自分のこのブログしか上位を埋めていないことがあった時期のことである。
GOOGLEのブログ検索でもこのブログはお陰様でずっと一位をキープしている。
だから「CHOICED BY GOOGLE, YAHOO!,AND ALL SEACH-ENGINES」という部分は決して嘘ではない、ということだ。
(最近ではこのブログの読者の多くの方には知れ渡ったことでもあるので今では一応念のためという感じになってしまった)
【補足事項】
前に書いた「たまBBS」に対する文句であるが、それ以外にも「この部分はおかしい」であるとか、「この部分は不謹慎ですよねぇ」といった質問が来ている。読ませていただくと確かにその通りなのだが、だからといってもうこれ以上ここで「たまBBS」の批判をするつもりはいまのところはない。(ネタ切れの時はするかも、でもまあこないだろうなぁ、たぶんあと3ヶ月は・・・)
議題にしたいというのであればまず真っ先に「たま出版」にあるいは「BBS」に直接持ち込んだほうがいいのではないであろうか。それで無視されたりしたのであれば、次には「他の掲示板?」で議論されることをお奨めする。(とはいえ、自分が指摘した部分はいまだにそのままである。不謹慎な集団である。あれをなんとも思わないというのであればパナ・ウェーヴと変わらんぞ)
【補足事項】
最近またもや不思議なメールが来た。「なんでそんなにたま出版の内部事情に詳しいの?」という質問である。詳しいも詳しくないもたま出版に電話をしたりメールをしたという人から聞いて書いているだけだ。もちろん(複数の証言などがあって、それ以外にも)確からしいと言えるものだけをここに書いている。たとえばそれ以外にもたまで出したジュセリーノの本の実売数(取次ぎ店レベルでの、出荷-返本=実売+書店在庫数というものがもう出始めている)であるとかをクチってきた方もいたが確証がないのでここでは書いてはいない。(※直接取引き店・ネット通販の実売があるので、厳密に正確な実売数ではないもののランキングの数字を出すときなどにはもっとも重要視される実売数である)
別にたま出版の内部(周辺)にディープスロート的な密告者がいるわけではない。あたりまえの話だ。
というような感じで軽~く流そうと思っていた話題なのだが、最近某テレビドラマを見ていてあることに気がついたのだ。
「そのメールの主、なんで自分の書いたことがたま出版の内部事情と相反してない」ということを知っているのであろうかということだ。すなわちそのメールの主こそたま出版の内部事情に詳しくなければそんなメールを寄越せるはずがないのである。それともただ書いてみただけなのか、はったりか。カマをかけて見ただけなのか。想像は膨らむ(笑)。
そういえばちょい前に2ちゃんねるに「かまた氏こそ、たま出版のスパイである」みたいな書き込みがあった。そのときは苦笑するしかなかったが考えてみると、そういう事実を知っている人物という前提で考えると、そう書きたくなるのもあながちおかしなことではないのだよなぁ、と思ったのであった。
※うかつにも()ではなく半角のカギカッコを使ってしまい見えなくなっていた部分がありました。その部分の修正とついでに校正をしました。(2007.05.10)
[註1]追加事項
今となっては「なんでそんなに…?」の説明は要らないだろう。
なにしろジュセリーノ本人が自分のHP上でこのブログのこの英語の記事に噛み付いてきたからだ。
(09.12.03)
2007年5月7日月曜日
070507 セナの死亡事故について(その5?)
【ジュセリーノ予言の真実 0507】
セナの死亡事故について(その5?)
最近では、ブラジルの人とメールのやりとりをするのに時間を取られっ放しである。
それでは本末転倒なのだが。
それでもやはり、日本のジュセリーノの信者とメールでやりとりをするよりはまだ実のあるものにはなっているのが救いといえば救いなのであるが。
こうしてこのブログで公開してもそれなりに意味のあるものになるからだ。
日本人のジュセリーノ擁護の人(信者)とのメールのやりとりは、- やりとりいうよりも、批判のメールを送ってきて、それに答えてやるとそのことに対する再反論はしないで、別の事象をもちだして来て「だからジュセリーノは正しい」みたいなことの繰り返しばかりなのでもしそんな戦法に真面目に付き合っていたら意味なく疲れるだけだ。
自分はそういう戦法にはピンとくるものがある。
こういう戦法のことを「韮沢式」と呼べばわかっていただけるであろう(笑)
というか、この作戦、最初は相手の度肝を抜くようなことを持ち出しておき、反論に会うとあっさり引っ込めて別のコネタを次々と持ち出してくるという一種の「消耗戦」なのだが、逆に「実体」の位置を見定められやすく反論に会うとぐうの音がでないくらいに自分(の論陣)が崩壊してしまうという弱点がある。
自分のところにジュセリーノ擁護のメールを送って来るような人はそれで失敗して退散している。
こんな戦法、少なくともこの自分には通用はしない。一応忠告だけはしておくが。
何故かというと、彼らが持ち出してくるジュセリーノ情報というもの、出所がつきつめれば「たま出版」からのものでしかなくて、その論理の脆さは至るところで看破されたものばかりだからだ。
たとえて言うのならば、でっかいガソリンタンクのすぐそばで銃撃戦をやっているようなものだ。
たとえ自分に弾はヒットしなくとも、大きなそのガソリンタンクのほうを狙われたら引火して大爆発するようなものなのだ。
で、そのガソリンタンクには大きく「ニラサワ」と書かれているよということなのだが(笑)
本題に移る。そのブラジルからのメール、ほとんどがジュセリーノの予言というものを予言として信じているというひとからのものが多い。
それでも彼ら皆ほとんど反論してこないところがある。
自分がずっと言いつづけている「セナの死は殺人ではない」という部分である。
えーっとですね、あれだけ(100通以上)のメールコメントがあって、自分の主張する「セナの死は殺人ではない」というところに反論して来た人はふたりしかいないのである。[註1]
「セナの死は殺人ではない。殺人だと言ってしまったジュセリーノは間違いである。だからそれが理由でジュセリーノの予言者としての能力には疑問がある」という個所にはあまり触れたがらない。
それどころか
「セナの死は事故死は殺人ではないかもしれない。ジュセリーノの予言は正しくはないかもしれない。でもジュセリーノは予言者である。」という具合に主張してくるものが多い。
わかりやすくいうと「そうだよ、キミの言うとおりだ、セナは殺されたんじゃないかもしれない。でもそれとジュセリーノの予言者としての能力は別物じゃないか」と、悪く言えば開き直っているのだ。
さて、この「セナの死は殺人ではない」という個所に必死になって反論してきていたブラジル人がふたりいる。
うちひとりとはもう何回もメールのやりとりをしているような状態だった。
はじめこの人は「自分にはF1ドライバーだった知り合いがいて、彼はセナとも親しく『セナは殺された』と言っていたので間違いがない。セナは殺されたのだ」と書いて来た。
それで
「その元F1ドライバーとはマウリシオ・グージェルミンのことか。もしグージェルミンが『セナは殺された』と言っているのならば意味が違うぞ。」
と返事のメールを送ると、
「そうだ、M・グージェルミンのことを知っているのか?」というメールが帰って来た。
知らないわけがない、マウリシオ・グージェルミンのことを。
彼はレイトンハウス(マーチ)というF1のチームで長い期間(5シーズンくらいか)イワン・カペリとコンビを組んでいた。
レイトンハウスはもちろん日本の会社なので、オフ期間にもよくその関係で日本にもちょくちょく来ていた。
グージェルミンとセナはF1の下のカテゴリー(セナはF3)でイギリスでエントリーしていたときにはルームメイトでもあった。
F1の世界に友人の少ないセナにとっては数少ない同国人の友だちといえるドライバーでもあったのだ。
だから、ブラジル人の口から「知り合いにセナと親しい元F1ドライバー」なんていう言い方をされたのならば、まず「グージェルミン」の名前しか出てこない。
確かに事故直後(アメリカだったかブラジルにいた)グージェルミンは「セナは殺された」とインタビューに答えていた。ただしその「殺された」の意味はジュセリーノが言った「陰謀で殺される」とはまったく意味が違う。
グージェルミンは「予選で死亡者が出ているのにもかかわらず決勝レースを強行したFIAに殺されたようなものだ」というようなことを言っていたのである。
同様のコメントはグージェルミンだけではない。他の元ドライバーの口からも聞く事が出来た。
現役ドライバーでそういうFIA批判をした人間もいた。ただひとりレース初日に事故で顔面を強打したルーベンス・バリチェロ(当時ジョーダン・ハート)のコメントだけが少しニュアンスというか毛色が違っていたという記憶がある。
で、さてそのメールの人はさらにこのようなことも書いてくるようになった。
「ジュセリーノは事故の何年も前からセナに手紙を送りつづけている。これはセナの周囲には、そういうブラジル人である彼がトップを走りつづけていることを快く思わないヨーロッパのレース関係者の陰謀が以前から準備されていたということそのまま(の予言?)であり、ジュセリーノ(の予言?)はそういうところとも結びついているので(だから現実の事故との多少の違いはあっても概ねのところではジュセリーノの予言は当ったといえるという論理か)「殺された」という表現は決して間違いではないというような意味のことをである。
このへんになると、自分の英語能力の壁みたいなものがあって上手くは訳せないのだが。
まあもう少し残酷なことを言えば「お互い様」なのだが。
どうもこの人もジュセリーノがどんなことを言っていたのかまでは詳しくは知らなかったようだ。
ジュセリーノは「チーム関係者によって殺される(暗殺計画がもちあがる)」と予言していたのである。
今でもその主旨自体は変えてはいないようだ。
だからこそ、ジュセリーノのこの予言はおかしいところだらけだといえるのだし、ジュセリーノの予言が外れていると断言出来のである。
そのことをメールで伝えると、今度はその人は
「ヨーロッパのレース関係者ならばどこのチームでも同じ!」
みたいなことを書いてきた。
ところがその「どこでも同じ」という言い方こそが、このジュセリーノの外れ予言同様、当時のセナを囲む状況というものを勘違いしたままであることを吐露してしまっているのだ。
94年シーズン、アイルトン・セナは2年越しの念願が叶い、晴れてウィリアムズ・ルノーに移籍した。
一方、ジュセリーノはそんなセナに対して「暗殺計画があるのでチームを変えろ」という内容の手紙をセナに対して送りつづけたと当初は言っていたのである。
ところが、いつのまにか途中からジュセリーノは「94年の事故の直前に」と自分の発言を修正してきた。
流石に誰かが見かねてジュセリーノに当時のセナの状況を教えたらしい。
「未来から警告」の原本の著者であるマリオ・エンジオだろうか。
たまの本にはそういうジュセリーノの発言が途中で若干チェンジしたということが書かれていない。
(意図的に隠したのではないか?)
しかし、ブラジルにはジュセリーノが最初に口にしてしまった「予言」というものだけが耳に入っていて、その後にジュセリーノが自分の「予言」の内容を変更したということを知らずにいるという人がいるだ。この自分にメールを寄越してきた人が実際にそうなのだ。
この人はセナが94年にチームを移籍したということなど頭になかったようでいて(年幾つなんだろ?)何年も前(2・3年前らしい)からセナに対して「チームを移りなさい」という手紙を送りつづけていたのだからジュセリーノの言っていることは大きな部分では当っていたなどと書いて寄越して来ているようなのだ。
チームを移ったばかりのセナに対して相も変わらず「チームを移れ」と手紙を送りつづけたジュセリーノ。
間抜けすぎる。
他の誰でもない。ジュセリーノが自分の口でそういってしまったのである。
それにヨーロッパ籍以外のどこのチームで走ればセナの満足の出来る戦闘力のあるクルマが期待できると言うのであろうか?
セナは自分の意志でイギリスとフランスの合同チームである「ウィリアムス・ルノー」というチームで走るということを選んだのである。
だったらそんなセナに忠告をするのならばたった一言
「(F1)レースには出るな」の方が数段正しい。
これも誰も疑問をはさまないでいるのであえてここで書いておくのだが、
ジュセリーノはセナに警告の手紙を送ったとは言っている。
送るのはいいのだが、ジュセリーノは実際、具体的にはどこに送ったのであろうか?
そのことに対する明言を避けているのが気にかかるのである。
シーズン中のF1ドライバーに対して確実に早く手紙を送ろうとした場合、最も一般的な方法は「所属するチーム気付」で送ることだ。
この方法だと世界中を転戦しているチームとドライバーがどこにいようとも、レースウィークにはドライバー(マネージャーを経由するだろうが)には確実に届く。
しかしそうでない「自宅」に送ったというのであればだが、その住所をジュセリーノはどのような方法で知ることが出来たのか。それも謎なのである。
というかどっちにしてもこの方法ではセナに対して、身の危険を知らせる方法としてはほとんど役には立たない。少し考えれば誰でもわかることだ。それでも、ジュセリーノは「セナに警告の手紙を送りつづけた」と主張しているのである。それでは一種の迷惑メールというか脅迫の手紙と変わらないではないか。
まあ、こういうようなことをメールで送ったところで、そのブラジル人の方もやっと自分が「ジュセリーノがセナの死を予言していた」という部分の欺瞞に関してはやっと理解してもらえたようだった。
というか、ジュセリーノの最新の言い訳をブログ記事か何かで読むなどして知ってやっとジュセリーノの発言の矛盾点を知ったのかもしれないが。
しかし、それでもこの方は「ジュセリーノが予言者である」ということは信じつづけているようなのである。ブラジル人恐るべし。
※同様のことは0318のまとめのページ(問題点)ですでに書いている。もしまだご覧になっていないという方がいるのならば是非この機会にご覧下さい。
[註1]ブラジルのグーグルのブログ検索を使い「jucelino nobrega da luz」という単語でブログ検索をするとこのブログ、頭に(1位)になることがけっこう多い。低くても5位以内には必ず出てくる。
そしてそれで見た人(ブラジル人)は「jucelino nobrega da luz はブラジルと日本でだけ有名である」という主張と「セナの死は殺人ではない」などいう自分の主張の個所を(英語で)読むことになる。
(ちなみにブラジル人全体の英語識字率は五割強、6割弱程度だが、ネット利用者層に絞ると九割に迫るのだという。すごい数字だ)したがって、一番反論を受けやすいのは「セナの死」についてなのである。
【追記】
たま出版から出た「未来からの警告」を読んだという方などから沢山のメールを頂いた。
本の中にはジュセリーノが「何処に」メールしたかが克明に書かれているのだそうである。
「何言ってんだ、ちゃんと書いているぞ!オマエこそ本を読め!」というものから
「笑ってはいけません、ジュセリーノは本気で言っているみたいです」という、割とF1に対して詳しいと見える方まで幅広くの方から反響があった。
なんと(本によれば)ジュセリーノはセナに対する警告の手紙をインテルラゴス・サーキット宛てに送っていたのだそうだ。
これじゃまるで最初から手紙がセナに届かないということを見越して送りつづけたのと同じではないか。
メールでこれについて一番詳しく書いてきて下さったのは「VAN」さんという方なのだが、その「VAN」さんによると、
ジュセリーノが最初に警告の手紙を送ったのは89年の8月。手紙の送り先はインテルラゴスサーキット。
一応、送り側の郵便局の発送証明のようなものはあるのだけれど何故か署名がprof.Jucelino nobrega da luz になっている。その公証所の証明を取ったのはなんと2002年になってからだという。
これじゃなんにもならんわな。
というかジュセリーノが声高に「何処にか」を書けないのも無理はない。
インテルラゴス・サーキットのことを知らないでいると、まるで日本の鈴鹿であるとか富士と同列にして民営の会社が経営している会社かのような印象を持つひとが多いかもしれない。しかし、欧米にある(F1が開催されるくらいの規模の)サーキットの多くは公営である。
このサンパウロ郊外にあるインテルラゴスサーキットも例外ではない。87年にリオのカルロスパーチェからこのインテルラゴスにF1ブラジルGPの開催が移行して三年目の90年、サンパウロ州は莫大な予算をかけてこのサーキットを大改装をした。そのときのドキュメントをテレビで見たのであるが、あたりまえのことだが、サーキットで働いている人間のトップは公務員である。で、届けられる郵便物はどうなるかというとまず間違いなく一旦は州当局に預けられるはずである。なぜならその郵便物は「州」に送られたものだからだ。
例えとしては適切ではないかもしれないが、織田裕二へのファンレターを東京の水上署やありもしないお台場署に送るのと同じようなものである。
運がよければ織田裕二の元に届くかもしれないが、たとえ届いたとしてもたぶんそれは多大な幸運と時間に恵まれた結果である。
もしこれがブラジルでも遠くはなれた場所に住んでいる人間ならばジュセリーノのやったこともまだ理解が出来なくはない。しかしジュセリーノはサンパウロ近郊に長年住居している人間のはずである。そんなサーキットに送ったってセナの元には届かないことぐらい気がつきそうなものだが。
これのどこが「適切な場所」なのであろう。
というか、ジュセリーノがこの件に関してはもう語りたがらないということが、この本に書かれている彼の供述がいかに疑わしいかを逆に物語っているともいえるのである。
「VAN」さん曰く
「若き日の過ちというものは認めたくないものだ」
だそうである。
同意である。ジュセリーノも早いうちにこの馬鹿げた作り話については「事実じゃありませんでした」と言ってしまえば良かったのに、こんなところが逆に自分の首を締めることになろうとは思いもよらなかったに違いない。
※というかよく考えれば、ジュセリーノの本の著者であるマリオ・エンジオもこのジュセリーノの行なった証拠偽造工作に一枚も二枚も関与しているということにほかならないではないか。
※一時期ブラジルからのメールの数は減ったのだが最近再び増え始めている。どうやらセナの遺族側からジュセリーノに対して損害請求があった(というかその発言をひっこめろという要求がなされたことが明らかになった)かららしい。
最終校正日2007.08.28
セナの死亡事故について(その5?)
最近では、ブラジルの人とメールのやりとりをするのに時間を取られっ放しである。
それでは本末転倒なのだが。
それでもやはり、日本のジュセリーノの信者とメールでやりとりをするよりはまだ実のあるものにはなっているのが救いといえば救いなのであるが。
こうしてこのブログで公開してもそれなりに意味のあるものになるからだ。
日本人のジュセリーノ擁護の人(信者)とのメールのやりとりは、- やりとりいうよりも、批判のメールを送ってきて、それに答えてやるとそのことに対する再反論はしないで、別の事象をもちだして来て「だからジュセリーノは正しい」みたいなことの繰り返しばかりなのでもしそんな戦法に真面目に付き合っていたら意味なく疲れるだけだ。
自分はそういう戦法にはピンとくるものがある。
こういう戦法のことを「韮沢式」と呼べばわかっていただけるであろう(笑)
というか、この作戦、最初は相手の度肝を抜くようなことを持ち出しておき、反論に会うとあっさり引っ込めて別のコネタを次々と持ち出してくるという一種の「消耗戦」なのだが、逆に「実体」の位置を見定められやすく反論に会うとぐうの音がでないくらいに自分(の論陣)が崩壊してしまうという弱点がある。
自分のところにジュセリーノ擁護のメールを送って来るような人はそれで失敗して退散している。
こんな戦法、少なくともこの自分には通用はしない。一応忠告だけはしておくが。
何故かというと、彼らが持ち出してくるジュセリーノ情報というもの、出所がつきつめれば「たま出版」からのものでしかなくて、その論理の脆さは至るところで看破されたものばかりだからだ。
たとえて言うのならば、でっかいガソリンタンクのすぐそばで銃撃戦をやっているようなものだ。
たとえ自分に弾はヒットしなくとも、大きなそのガソリンタンクのほうを狙われたら引火して大爆発するようなものなのだ。
で、そのガソリンタンクには大きく「ニラサワ」と書かれているよということなのだが(笑)
本題に移る。そのブラジルからのメール、ほとんどがジュセリーノの予言というものを予言として信じているというひとからのものが多い。
それでも彼ら皆ほとんど反論してこないところがある。
自分がずっと言いつづけている「セナの死は殺人ではない」という部分である。
えーっとですね、あれだけ(100通以上)のメールコメントがあって、自分の主張する「セナの死は殺人ではない」というところに反論して来た人はふたりしかいないのである。[註1]
「セナの死は殺人ではない。殺人だと言ってしまったジュセリーノは間違いである。だからそれが理由でジュセリーノの予言者としての能力には疑問がある」という個所にはあまり触れたがらない。
それどころか
「セナの死は事故死は殺人ではないかもしれない。ジュセリーノの予言は正しくはないかもしれない。でもジュセリーノは予言者である。」という具合に主張してくるものが多い。
わかりやすくいうと「そうだよ、キミの言うとおりだ、セナは殺されたんじゃないかもしれない。でもそれとジュセリーノの予言者としての能力は別物じゃないか」と、悪く言えば開き直っているのだ。
さて、この「セナの死は殺人ではない」という個所に必死になって反論してきていたブラジル人がふたりいる。
うちひとりとはもう何回もメールのやりとりをしているような状態だった。
はじめこの人は「自分にはF1ドライバーだった知り合いがいて、彼はセナとも親しく『セナは殺された』と言っていたので間違いがない。セナは殺されたのだ」と書いて来た。
それで
「その元F1ドライバーとはマウリシオ・グージェルミンのことか。もしグージェルミンが『セナは殺された』と言っているのならば意味が違うぞ。」
と返事のメールを送ると、
「そうだ、M・グージェルミンのことを知っているのか?」というメールが帰って来た。
知らないわけがない、マウリシオ・グージェルミンのことを。
彼はレイトンハウス(マーチ)というF1のチームで長い期間(5シーズンくらいか)イワン・カペリとコンビを組んでいた。
レイトンハウスはもちろん日本の会社なので、オフ期間にもよくその関係で日本にもちょくちょく来ていた。
グージェルミンとセナはF1の下のカテゴリー(セナはF3)でイギリスでエントリーしていたときにはルームメイトでもあった。
F1の世界に友人の少ないセナにとっては数少ない同国人の友だちといえるドライバーでもあったのだ。
だから、ブラジル人の口から「知り合いにセナと親しい元F1ドライバー」なんていう言い方をされたのならば、まず「グージェルミン」の名前しか出てこない。
確かに事故直後(アメリカだったかブラジルにいた)グージェルミンは「セナは殺された」とインタビューに答えていた。ただしその「殺された」の意味はジュセリーノが言った「陰謀で殺される」とはまったく意味が違う。
グージェルミンは「予選で死亡者が出ているのにもかかわらず決勝レースを強行したFIAに殺されたようなものだ」というようなことを言っていたのである。
同様のコメントはグージェルミンだけではない。他の元ドライバーの口からも聞く事が出来た。
現役ドライバーでそういうFIA批判をした人間もいた。ただひとりレース初日に事故で顔面を強打したルーベンス・バリチェロ(当時ジョーダン・ハート)のコメントだけが少しニュアンスというか毛色が違っていたという記憶がある。
で、さてそのメールの人はさらにこのようなことも書いてくるようになった。
「ジュセリーノは事故の何年も前からセナに手紙を送りつづけている。これはセナの周囲には、そういうブラジル人である彼がトップを走りつづけていることを快く思わないヨーロッパのレース関係者の陰謀が以前から準備されていたということそのまま(の予言?)であり、ジュセリーノ(の予言?)はそういうところとも結びついているので(だから現実の事故との多少の違いはあっても概ねのところではジュセリーノの予言は当ったといえるという論理か)「殺された」という表現は決して間違いではないというような意味のことをである。
このへんになると、自分の英語能力の壁みたいなものがあって上手くは訳せないのだが。
まあもう少し残酷なことを言えば「お互い様」なのだが。
どうもこの人もジュセリーノがどんなことを言っていたのかまでは詳しくは知らなかったようだ。
ジュセリーノは「チーム関係者によって殺される(暗殺計画がもちあがる)」と予言していたのである。
今でもその主旨自体は変えてはいないようだ。
だからこそ、ジュセリーノのこの予言はおかしいところだらけだといえるのだし、ジュセリーノの予言が外れていると断言出来のである。
そのことをメールで伝えると、今度はその人は
「ヨーロッパのレース関係者ならばどこのチームでも同じ!」
みたいなことを書いてきた。
ところがその「どこでも同じ」という言い方こそが、このジュセリーノの外れ予言同様、当時のセナを囲む状況というものを勘違いしたままであることを吐露してしまっているのだ。
94年シーズン、アイルトン・セナは2年越しの念願が叶い、晴れてウィリアムズ・ルノーに移籍した。
一方、ジュセリーノはそんなセナに対して「暗殺計画があるのでチームを変えろ」という内容の手紙をセナに対して送りつづけたと当初は言っていたのである。
ところが、いつのまにか途中からジュセリーノは「94年の事故の直前に」と自分の発言を修正してきた。
流石に誰かが見かねてジュセリーノに当時のセナの状況を教えたらしい。
「未来から警告」の原本の著者であるマリオ・エンジオだろうか。
たまの本にはそういうジュセリーノの発言が途中で若干チェンジしたということが書かれていない。
(意図的に隠したのではないか?)
しかし、ブラジルにはジュセリーノが最初に口にしてしまった「予言」というものだけが耳に入っていて、その後にジュセリーノが自分の「予言」の内容を変更したということを知らずにいるという人がいるだ。この自分にメールを寄越してきた人が実際にそうなのだ。
この人はセナが94年にチームを移籍したということなど頭になかったようでいて(年幾つなんだろ?)何年も前(2・3年前らしい)からセナに対して「チームを移りなさい」という手紙を送りつづけていたのだからジュセリーノの言っていることは大きな部分では当っていたなどと書いて寄越して来ているようなのだ。
チームを移ったばかりのセナに対して相も変わらず「チームを移れ」と手紙を送りつづけたジュセリーノ。
間抜けすぎる。
他の誰でもない。ジュセリーノが自分の口でそういってしまったのである。
それにヨーロッパ籍以外のどこのチームで走ればセナの満足の出来る戦闘力のあるクルマが期待できると言うのであろうか?
セナは自分の意志でイギリスとフランスの合同チームである「ウィリアムス・ルノー」というチームで走るということを選んだのである。
だったらそんなセナに忠告をするのならばたった一言
「(F1)レースには出るな」の方が数段正しい。
これも誰も疑問をはさまないでいるのであえてここで書いておくのだが、
ジュセリーノはセナに警告の手紙を送ったとは言っている。
送るのはいいのだが、ジュセリーノは実際、具体的にはどこに送ったのであろうか?
そのことに対する明言を避けているのが気にかかるのである。
シーズン中のF1ドライバーに対して確実に早く手紙を送ろうとした場合、最も一般的な方法は「所属するチーム気付」で送ることだ。
この方法だと世界中を転戦しているチームとドライバーがどこにいようとも、レースウィークにはドライバー(マネージャーを経由するだろうが)には確実に届く。
しかしそうでない「自宅」に送ったというのであればだが、その住所をジュセリーノはどのような方法で知ることが出来たのか。それも謎なのである。
というかどっちにしてもこの方法ではセナに対して、身の危険を知らせる方法としてはほとんど役には立たない。少し考えれば誰でもわかることだ。それでも、ジュセリーノは「セナに警告の手紙を送りつづけた」と主張しているのである。それでは一種の迷惑メールというか脅迫の手紙と変わらないではないか。
まあ、こういうようなことをメールで送ったところで、そのブラジル人の方もやっと自分が「ジュセリーノがセナの死を予言していた」という部分の欺瞞に関してはやっと理解してもらえたようだった。
というか、ジュセリーノの最新の言い訳をブログ記事か何かで読むなどして知ってやっとジュセリーノの発言の矛盾点を知ったのかもしれないが。
しかし、それでもこの方は「ジュセリーノが予言者である」ということは信じつづけているようなのである。ブラジル人恐るべし。
※同様のことは0318のまとめのページ(問題点)ですでに書いている。もしまだご覧になっていないという方がいるのならば是非この機会にご覧下さい。
[註1]ブラジルのグーグルのブログ検索を使い「jucelino nobrega da luz」という単語でブログ検索をするとこのブログ、頭に(1位)になることがけっこう多い。低くても5位以内には必ず出てくる。
そしてそれで見た人(ブラジル人)は「jucelino nobrega da luz はブラジルと日本でだけ有名である」という主張と「セナの死は殺人ではない」などいう自分の主張の個所を(英語で)読むことになる。
(ちなみにブラジル人全体の英語識字率は五割強、6割弱程度だが、ネット利用者層に絞ると九割に迫るのだという。すごい数字だ)したがって、一番反論を受けやすいのは「セナの死」についてなのである。
【追記】
たま出版から出た「未来からの警告」を読んだという方などから沢山のメールを頂いた。
本の中にはジュセリーノが「何処に」メールしたかが克明に書かれているのだそうである。
「何言ってんだ、ちゃんと書いているぞ!オマエこそ本を読め!」というものから
「笑ってはいけません、ジュセリーノは本気で言っているみたいです」という、割とF1に対して詳しいと見える方まで幅広くの方から反響があった。
なんと(本によれば)ジュセリーノはセナに対する警告の手紙をインテルラゴス・サーキット宛てに送っていたのだそうだ。
これじゃまるで最初から手紙がセナに届かないということを見越して送りつづけたのと同じではないか。
メールでこれについて一番詳しく書いてきて下さったのは「VAN」さんという方なのだが、その「VAN」さんによると、
ジュセリーノが最初に警告の手紙を送ったのは89年の8月。手紙の送り先はインテルラゴスサーキット。
一応、送り側の郵便局の発送証明のようなものはあるのだけれど何故か署名がprof.Jucelino nobrega da luz になっている。その公証所の証明を取ったのはなんと2002年になってからだという。
これじゃなんにもならんわな。
というかジュセリーノが声高に「何処にか」を書けないのも無理はない。
インテルラゴス・サーキットのことを知らないでいると、まるで日本の鈴鹿であるとか富士と同列にして民営の会社が経営している会社かのような印象を持つひとが多いかもしれない。しかし、欧米にある(F1が開催されるくらいの規模の)サーキットの多くは公営である。
このサンパウロ郊外にあるインテルラゴスサーキットも例外ではない。87年にリオのカルロスパーチェからこのインテルラゴスにF1ブラジルGPの開催が移行して三年目の90年、サンパウロ州は莫大な予算をかけてこのサーキットを大改装をした。そのときのドキュメントをテレビで見たのであるが、あたりまえのことだが、サーキットで働いている人間のトップは公務員である。で、届けられる郵便物はどうなるかというとまず間違いなく一旦は州当局に預けられるはずである。なぜならその郵便物は「州」に送られたものだからだ。
例えとしては適切ではないかもしれないが、織田裕二へのファンレターを東京の水上署やありもしないお台場署に送るのと同じようなものである。
運がよければ織田裕二の元に届くかもしれないが、たとえ届いたとしてもたぶんそれは多大な幸運と時間に恵まれた結果である。
もしこれがブラジルでも遠くはなれた場所に住んでいる人間ならばジュセリーノのやったこともまだ理解が出来なくはない。しかしジュセリーノはサンパウロ近郊に長年住居している人間のはずである。そんなサーキットに送ったってセナの元には届かないことぐらい気がつきそうなものだが。
これのどこが「適切な場所」なのであろう。
というか、ジュセリーノがこの件に関してはもう語りたがらないということが、この本に書かれている彼の供述がいかに疑わしいかを逆に物語っているともいえるのである。
「VAN」さん曰く
「若き日の過ちというものは認めたくないものだ」
だそうである。
同意である。ジュセリーノも早いうちにこの馬鹿げた作り話については「事実じゃありませんでした」と言ってしまえば良かったのに、こんなところが逆に自分の首を締めることになろうとは思いもよらなかったに違いない。
※というかよく考えれば、ジュセリーノの本の著者であるマリオ・エンジオもこのジュセリーノの行なった証拠偽造工作に一枚も二枚も関与しているということにほかならないではないか。
※一時期ブラジルからのメールの数は減ったのだが最近再び増え始めている。どうやらセナの遺族側からジュセリーノに対して損害請求があった(というかその発言をひっこめろという要求がなされたことが明らかになった)かららしい。
最終校正日2007.08.28
2007年5月5日土曜日
070505 宮沢賢治が夢見ていた「地球の温暖化」
【ジュセリーノ予言の真実 0505】
宮沢賢治が夢見ていた「地球の温暖化」
このブログでジュセリーノの予言を批判する文章ぎかりをブログに書いていると、ジュセリーノとは直接は関係はなくはないものの、このブログで俎上にするのをためらうようなことも多い。
ひとつはプラシバシーと関わってくるような話題である。
これのことを考えて結局は記事にするのを断念したものが・・・、そうだなぁ20本近くあるのだ。
本人に許可を得られればすぐにでもここに書きたいものもあるし、ご本人や遺族の許可を取りたくても取れないものもある。
もうひとつは、誤解を招かないようにと慎重に書こうとすると、ものすごく長い文章になってしまい逆に収拾がつかなくなるおそれのある話題である。
しかし、以前から下記ような主旨でジュセリーノ擁護をしてくる人たちがいる。
最近またもや目立ってきた。ある意味、向こうも必死のようだ。
だいたいがこんな感じなのであるが
「温暖化防止を訴えているジュセリーノという人物の存在は、今この世界に求められている人間であり、ここで彼の予言の矛盾点をついていい気になっても、彼が目的としている地球の温暖化防止という部分には目はつぶれないであろう」というジュセリーノ擁護論である。
もう少しわかりやすく書くと、ジュセリーノの予言は外れることもあるが地球温暖化防止という「正しいこと」を訴えているのであるから、彼のような稀有の才能の持主はもっと称えられるべきである(批判するならそこまでも含めて批判してみろ。できないなら批判するなということだと自分は解釈したが)というようなことを言ってくる人たちのことだ。そういう人がいるのだ。
それもごく少数というわけでもないのだ。最初の頃(2月ころまで)のコメントを見て行くともっと多いであろう。
もちろんこの考え方はおかしい。
いくら地球温暖化防止を訴えていようが「偽予言者」は「偽予言者」でしかないからだ。
アメリカ映画で聖書の言葉を相手に吐きながら人を殺しまくる殺人者が出てくる映画があった。
また、ラルフ・ネーダーみたいな大企業批判を取り囲んだ警官相手に向かって一説ぶつ銀行強盗が出てくる映画もある。
もちろん映画の中では「おかしなやつ」という笑いを取るためにの人物設定である。
でも自分のところにそういうメールを送ってくる人間を映画の中のイカレた奴と同列にして笑ったりしていいのかというそうではないと思う。
それに彼らは決して自分を笑わせてくれるためにそんなメールを寄越したのではあるまい。
そういう居心地の悪い落ち着きのない気分にさせられるジュセリーノ擁護論ばかりを目にしていると、どう言ったり書いたりすればいいのかと考える時間も長かったのだ。
多少の誤解は招くかもしれないけれど、やはりこの類の意見に対して真っ向ものを言うとしたのならばどうすべきか。
前にも「疑似科学」のひとつである「水からの伝言」という波動の本を批判したときにも書いたことだが、何を目的とした手段なのかについてはよく考えなければならないということだ。
言い換えると「目的のために手段を間違える」というのはあるが、それと同様「手段のために目的を間違えてはならない。- その手段がなにを目的としたものであるかについてはよーく考えないとヤバいよ」ということは忠告しておきたいのだ。
日本の各地では(今でもだ!)水に向かって「ありがとう」と語りかけると水がきれいな結晶になったり「バカヤロウ!」と怒鳴ると汚い結晶?になると本気で主張している本を子供相手に語っているという教師がいるのである。(それでも一時期にくらべると激減している)
子供たちに向かって「ありがとう」という感謝の気持ちを持ちなさい、と教えるのは確かに教育である。
だがしかし、水に向かって「ありがとう」と言葉を掛けると美しい結晶になるということを教えるというのは教育にもなんにもなってはいない。単に子供に嘘を教え込むことでしかない。
これは「感謝の気持ちを持つ」ということの諸々の価値と、ありもしない「水の結晶」なんていうねつ造された嘘を結び付けただけのものである。
「水からの伝言」という科学的にみても間違っていることだし、危険な発想である「波動」という疑似科学を子供に向かって口にするような教師がいるのであるのならばそれは絶対に阻止されるべきだろう。
「嘘は嘘」 それにつきると思うからだ。
さて以下の文章は以前あるところに投稿という形で応募したものの没になった拙文をもとに書き直したものである。
没になった理由はあくまでも自分の文章能力のせいだと思う。
というかそう思いたい。
決して趣旨が読者の反感買いそうだからということではないと思っていることで自分を慰めている。
ジュセリーノ批判とは少しずれるが「これもまた…」の本来のテイストというかもともとの姿からすると、ど真ん中の文章でもあるのでここで記事にしてみた。
まあだから一種の原稿のリサイクルでもある。エコである。リユースなのである。
地球の温暖化防止には繋がらないとは思うが。
ジュセリーノの批判に直接関係する文章だけが目的という方は読み飛ばしたほうがいいかもしれない。
「宮沢賢治の夢見た地球の温暖化」
地球温暖化について中途半端な形でものを言ったりするととんでもないドツボにはまってしまうことがある。
北極の氷が全部溶けると海面の上昇で島がいくつも沈むであるとか信じている人は多い。
「シロクマが可哀想だ」と真剣に訴えている人もいる。
北極のアザラシがウィルスのために全滅する危険性を示唆していたテレビ番組もあった。
まあ、地球の温暖化を阻止しようとすることにはもちろん「意義」はある。そう思う。CO2(二酸化炭素)の大気への排出を減らそうという運動にも、そのこと自体を間違っているというつもりはない。
省エネルギー運動であるとか化石燃料(石油・石炭・天然ガス系資源)の使用に頼った現代の産業構造をドラスティック(急激)に質的に変換させようであるとか、地球の環境を守ろうという考え方についてもここでは揶揄はしない。
だが、現在地球上の各地で現象として見えている「温暖化の兆し」が、その我々人類が大気中に放出したCO2量が増えたためであるとの確かな証拠であるが、実は決定的な証拠はないのである。
なんとなく「その可能性もありだよなぁ、可能性は低くはないよなぁ」くらいのところではないか。正直。
はっきりはしてはしてはいないが、人類が人類であるがゆえに人為的に排出するCO2の量を減らしてもこれから地球の温暖化は止まらないかもしれないのだ。その可能性は高いということを示すデータもある。
どっちが正しいとかの結論は出ていないのだ。とにかく今はそこは微妙な問題なのです。
それで自分が疑問として投げかけるのは、もしこの温暖化の現象がCO2の放出量と関係がないことが明らかになって、尚且つその温暖化がたとえと止まらないことが明白になっても、人類はCO2の放出量を減らすという運動を止めずに続けることは出来るのであろうか?ということだ。
疑問なのはそこなのである。
そこまで地球温暖化防止を訴える人たちは覚悟をもっているのであろうか?
自分にはそうは思えないのである。特にアル・ゴアあたりは。
なんか今のその温暖化を阻止しようとしている世界的な動きには長いスパンで見た場合の積極的な必然性というものがまったく感じられない。
論拠として非常に弱いような気がするのである。
何か別の目的の為に「地球温暖化の防止」というカードを使っているだけではないのかという疑いさえ感じさせてしまう人物もいる。
誰とはここでは名指しで批判はしないが。
振り返ってみると、この温暖化が最初に叫ばれてその危険について真剣に討議されはじめたのはわずか20年前のことである。
最初にその可能性(危険性)がデータとして示されたのはその約10年前。つまり、今からわずか35年ほど前のことでしかない。
そしてその動きが本格的になったといえるのはここ数年である。
そのわずか20年前(つまり今から数えると50年ほど前まで)日本どころか世界中の人々はなにを恐れていたかというと、むしろ氷河期の再来であった。
氷河期こそが人類の文明を衰退させるものとして怖れ、その対策を講じようとか真剣に考えていたのである。
今、自分もそういう長い目でみた場合どちらを怖れるべきかとの二者択一を迫られたならば選択するのは「寒冷化」のほうである。
6対4くらいか。7・3か。温暖化に対しても警戒する必要もあることはあるのだが、長いスパンで考えなければならないのはむしろ寒冷化ではないか。
今足りないものがあるとすればそれは「寒冷化」に対する心構えのほうではないか。
つまりはどっちみち両方に対する心構えというものは必要じゃないかという気がしてならない。
2
話は変わる。25年ほど前、自分は仕事でちょくちょく岩手に行っていた。岩手の各地には宮沢賢治ゆかりの場所がいくつも残っている。
その宮沢賢治の作品に「グスコーブドリの伝記」という童話がある。童話といっても陰惨というか救いようのない話なのだが、ラストは妙に明るい感じがする。というかそこがこの童話の勧め難いところでもあるのだ。
アニメにもなっているが、あのアニメは絶対に勧められない。アニメだと軽く考えて見るとあとで後悔をする。そういうアニメなのである。出来が悪いというのではない。子供向けにしても大人向けにしても描写がサツすぎるのだ。
「火垂るの墓」よりも原作の毒の部分を強調しているという意味ではある種の怪作であり、果してそれが作者の意図するものに沿っているかという部分では疑問なくらい。(話は変わるが、野坂昭如氏はアニメの「火垂る墓」をはじめてみたときには号泣したらしいですな。アニメの原作者の鑑のようなお人である。)
この「童話」のストーリーについて説明する。
長い冬がもたらす飢餓のため両親にも見捨てられた兄と妹の話である。親からとり残されて粗末な小屋のような家で長い冬をひもじさに耐えながら生き長らえていたふたりのところに人攫いがやってきて妹のネリを連れ去ってしまう。ひとり残された兄のブドリはなんとかひとりで生きのびることができた。ブドリは命の恩人である金持ちの援助を受けて勉強を続けることか許される。そのお金持ちには死んだ息子がいることが明かされる。ブドリが譲りうけたのはその死んだ息子が残した沢山の本であった。その後、火山研究所で学びながら働いていたブドリは、寒さと飢えに苦しむ人々を救うためには沖合いにある休火山を人工的に噴火させて二酸化炭素を大気中に噴出し、大気を温暖化をすることだという説を唱える博士とともにその実現に向けて研究を続けていた。しかし、その火山の噴火の為にブドリは自分の命を落としてしまうのである。そのあともこの童話はつづくのだが。
「火山が噴火したら温暖化するどころか火山灰による遮光効果で逆に寒冷化するじゃないか」という突っ込みがはいりそうだ。たぶんそうだろう。史上最大級の噴火といわれているピナツボ火山の噴火のときも当初心配されたのは温暖化ではなくて寒冷化の方であった。だが、今現在大気中に増加してしまったCO2の殆どが、実は人類か人為的に発生させたものではなく、火山や地熱という地球の営みの結果増えてしまったものであるという説もある。(これはこの童話の本質にも迫ることでもあるのだが)地球を温暖化させているのはCO2ではなくて大気中に大量に放出された水蒸気ではないかという説もある。
そしてどうもこの説は結構信憑性が高いことを最近知ったばかりである。つまり、あながちこの童話の主人公の考えていたこと(まあ、宮沢賢治の考えでもあるだろう)も長い目でみると間違ってもいないのかなというところなのである。ただしやはりそれは長い目でみたばあいだ。
重要なことは、わずか百年前、日本の北の方ではそういう夢を見る人間がいたくらいに日本の冬は寒かった。地球そのものの温暖化というものを切望していた人はいた。多かったということだ。
長い冬と遅い春の訪れ、上がらない気温というものはそのままその地に住む人を飢餓で苦しめ、そして地獄のような様相(現在伝えられる北朝鮮の寒村の惨状なんてそんなもんじゃないという気がするくらいだ)と死さえも意味していたのである。当時の人々はそれを恐れていたのである。忘れてはいけない。わずか100年ほど前の話なのである。
で、100年したら問題になっているのは温暖化の方である。こういう温暖化防止への滅茶苦茶早いシフティングは、そのまま人類の若さ・愚かしさをそのまま表わしているともいえることなのだ。
それに人類が心配をしているのは「地球が」ではなくて、結局は「人類にとっては」であろう。
それが悪いといっているのではない。
資源の消費を抑えるということは大切であるとは思う。その中でも世界最大の資源の消費国であるアメリカ合衆国にはそれが求められている。そしてその次に来るのはこの日本だ。省資源化そのものは実は温暖化とは切り離して考えても大切なことなのである。
しかし、それと温暖化の防止を結びつけようとするのにはものすごい無理がある。そのフローチャートマップ、筋道はまさしく「風吹けば桶屋が儲かる」と大差ないからだ。
どこまでが現実問題として実現可能なことなのか、どこからどの部分までが「仮定」という線だけで結ばれているのか、その部分だけはしっかりと認識したほうがいいのではないか。そっちの方が地球環境の保全へのもっとも確実な近道という気がしてしかたがないんだが。
今人類が進んでいる方向は、宮沢賢治の夢見た温暖化への方向とは別の方角を指している。それはそれで受けとめるべきであろう。
しかし、100年という時間は人の命に較べればものすごく長いが人類の歴史というスパンで考えると、あるいは45億年の地球の歴史の中で考えた場合、あっという間でしかないのである、やはり。温暖化防止が絶対的な善というわけではないのだと、自分は考えている。宮沢賢治の立場でいうのならばだが。
夢が時間に裏切られることはしばしば起こりうる。
時間が夢を裏切る、それはしかたのないことである。
ということなのだと思う。こんなこと言ったら松本零士に怒られたり訴えられたりしそうだけだが。
※まあこんなことを書いたら不採用になってもそりゃしかたがないわな。よく考えると(笑)
宮沢賢治が夢見ていた「地球の温暖化」
このブログでジュセリーノの予言を批判する文章ぎかりをブログに書いていると、ジュセリーノとは直接は関係はなくはないものの、このブログで俎上にするのをためらうようなことも多い。
ひとつはプラシバシーと関わってくるような話題である。
これのことを考えて結局は記事にするのを断念したものが・・・、そうだなぁ20本近くあるのだ。
本人に許可を得られればすぐにでもここに書きたいものもあるし、ご本人や遺族の許可を取りたくても取れないものもある。
もうひとつは、誤解を招かないようにと慎重に書こうとすると、ものすごく長い文章になってしまい逆に収拾がつかなくなるおそれのある話題である。
しかし、以前から下記ような主旨でジュセリーノ擁護をしてくる人たちがいる。
最近またもや目立ってきた。ある意味、向こうも必死のようだ。
だいたいがこんな感じなのであるが
「温暖化防止を訴えているジュセリーノという人物の存在は、今この世界に求められている人間であり、ここで彼の予言の矛盾点をついていい気になっても、彼が目的としている地球の温暖化防止という部分には目はつぶれないであろう」というジュセリーノ擁護論である。
もう少しわかりやすく書くと、ジュセリーノの予言は外れることもあるが地球温暖化防止という「正しいこと」を訴えているのであるから、彼のような稀有の才能の持主はもっと称えられるべきである(批判するならそこまでも含めて批判してみろ。できないなら批判するなということだと自分は解釈したが)というようなことを言ってくる人たちのことだ。そういう人がいるのだ。
それもごく少数というわけでもないのだ。最初の頃(2月ころまで)のコメントを見て行くともっと多いであろう。
もちろんこの考え方はおかしい。
いくら地球温暖化防止を訴えていようが「偽予言者」は「偽予言者」でしかないからだ。
アメリカ映画で聖書の言葉を相手に吐きながら人を殺しまくる殺人者が出てくる映画があった。
また、ラルフ・ネーダーみたいな大企業批判を取り囲んだ警官相手に向かって一説ぶつ銀行強盗が出てくる映画もある。
もちろん映画の中では「おかしなやつ」という笑いを取るためにの人物設定である。
でも自分のところにそういうメールを送ってくる人間を映画の中のイカレた奴と同列にして笑ったりしていいのかというそうではないと思う。
それに彼らは決して自分を笑わせてくれるためにそんなメールを寄越したのではあるまい。
そういう居心地の悪い落ち着きのない気分にさせられるジュセリーノ擁護論ばかりを目にしていると、どう言ったり書いたりすればいいのかと考える時間も長かったのだ。
多少の誤解は招くかもしれないけれど、やはりこの類の意見に対して真っ向ものを言うとしたのならばどうすべきか。
前にも「疑似科学」のひとつである「水からの伝言」という波動の本を批判したときにも書いたことだが、何を目的とした手段なのかについてはよく考えなければならないということだ。
言い換えると「目的のために手段を間違える」というのはあるが、それと同様「手段のために目的を間違えてはならない。- その手段がなにを目的としたものであるかについてはよーく考えないとヤバいよ」ということは忠告しておきたいのだ。
日本の各地では(今でもだ!)水に向かって「ありがとう」と語りかけると水がきれいな結晶になったり「バカヤロウ!」と怒鳴ると汚い結晶?になると本気で主張している本を子供相手に語っているという教師がいるのである。(それでも一時期にくらべると激減している)
子供たちに向かって「ありがとう」という感謝の気持ちを持ちなさい、と教えるのは確かに教育である。
だがしかし、水に向かって「ありがとう」と言葉を掛けると美しい結晶になるということを教えるというのは教育にもなんにもなってはいない。単に子供に嘘を教え込むことでしかない。
これは「感謝の気持ちを持つ」ということの諸々の価値と、ありもしない「水の結晶」なんていうねつ造された嘘を結び付けただけのものである。
「水からの伝言」という科学的にみても間違っていることだし、危険な発想である「波動」という疑似科学を子供に向かって口にするような教師がいるのであるのならばそれは絶対に阻止されるべきだろう。
「嘘は嘘」 それにつきると思うからだ。
さて以下の文章は以前あるところに投稿という形で応募したものの没になった拙文をもとに書き直したものである。
没になった理由はあくまでも自分の文章能力のせいだと思う。
というかそう思いたい。
決して趣旨が読者の反感買いそうだからということではないと思っていることで自分を慰めている。
ジュセリーノ批判とは少しずれるが「これもまた…」の本来のテイストというかもともとの姿からすると、ど真ん中の文章でもあるのでここで記事にしてみた。
まあだから一種の原稿のリサイクルでもある。エコである。リユースなのである。
地球の温暖化防止には繋がらないとは思うが。
ジュセリーノの批判に直接関係する文章だけが目的という方は読み飛ばしたほうがいいかもしれない。
「宮沢賢治の夢見た地球の温暖化」
地球温暖化について中途半端な形でものを言ったりするととんでもないドツボにはまってしまうことがある。
北極の氷が全部溶けると海面の上昇で島がいくつも沈むであるとか信じている人は多い。
「シロクマが可哀想だ」と真剣に訴えている人もいる。
北極のアザラシがウィルスのために全滅する危険性を示唆していたテレビ番組もあった。
まあ、地球の温暖化を阻止しようとすることにはもちろん「意義」はある。そう思う。CO2(二酸化炭素)の大気への排出を減らそうという運動にも、そのこと自体を間違っているというつもりはない。
省エネルギー運動であるとか化石燃料(石油・石炭・天然ガス系資源)の使用に頼った現代の産業構造をドラスティック(急激)に質的に変換させようであるとか、地球の環境を守ろうという考え方についてもここでは揶揄はしない。
だが、現在地球上の各地で現象として見えている「温暖化の兆し」が、その我々人類が大気中に放出したCO2量が増えたためであるとの確かな証拠であるが、実は決定的な証拠はないのである。
なんとなく「その可能性もありだよなぁ、可能性は低くはないよなぁ」くらいのところではないか。正直。
はっきりはしてはしてはいないが、人類が人類であるがゆえに人為的に排出するCO2の量を減らしてもこれから地球の温暖化は止まらないかもしれないのだ。その可能性は高いということを示すデータもある。
どっちが正しいとかの結論は出ていないのだ。とにかく今はそこは微妙な問題なのです。
それで自分が疑問として投げかけるのは、もしこの温暖化の現象がCO2の放出量と関係がないことが明らかになって、尚且つその温暖化がたとえと止まらないことが明白になっても、人類はCO2の放出量を減らすという運動を止めずに続けることは出来るのであろうか?ということだ。
疑問なのはそこなのである。
そこまで地球温暖化防止を訴える人たちは覚悟をもっているのであろうか?
自分にはそうは思えないのである。特にアル・ゴアあたりは。
なんか今のその温暖化を阻止しようとしている世界的な動きには長いスパンで見た場合の積極的な必然性というものがまったく感じられない。
論拠として非常に弱いような気がするのである。
何か別の目的の為に「地球温暖化の防止」というカードを使っているだけではないのかという疑いさえ感じさせてしまう人物もいる。
誰とはここでは名指しで批判はしないが。
振り返ってみると、この温暖化が最初に叫ばれてその危険について真剣に討議されはじめたのはわずか20年前のことである。
最初にその可能性(危険性)がデータとして示されたのはその約10年前。つまり、今からわずか35年ほど前のことでしかない。
そしてその動きが本格的になったといえるのはここ数年である。
そのわずか20年前(つまり今から数えると50年ほど前まで)日本どころか世界中の人々はなにを恐れていたかというと、むしろ氷河期の再来であった。
氷河期こそが人類の文明を衰退させるものとして怖れ、その対策を講じようとか真剣に考えていたのである。
今、自分もそういう長い目でみた場合どちらを怖れるべきかとの二者択一を迫られたならば選択するのは「寒冷化」のほうである。
6対4くらいか。7・3か。温暖化に対しても警戒する必要もあることはあるのだが、長いスパンで考えなければならないのはむしろ寒冷化ではないか。
今足りないものがあるとすればそれは「寒冷化」に対する心構えのほうではないか。
つまりはどっちみち両方に対する心構えというものは必要じゃないかという気がしてならない。
2
話は変わる。25年ほど前、自分は仕事でちょくちょく岩手に行っていた。岩手の各地には宮沢賢治ゆかりの場所がいくつも残っている。
その宮沢賢治の作品に「グスコーブドリの伝記」という童話がある。童話といっても陰惨というか救いようのない話なのだが、ラストは妙に明るい感じがする。というかそこがこの童話の勧め難いところでもあるのだ。
アニメにもなっているが、あのアニメは絶対に勧められない。アニメだと軽く考えて見るとあとで後悔をする。そういうアニメなのである。出来が悪いというのではない。子供向けにしても大人向けにしても描写がサツすぎるのだ。
「火垂るの墓」よりも原作の毒の部分を強調しているという意味ではある種の怪作であり、果してそれが作者の意図するものに沿っているかという部分では疑問なくらい。(話は変わるが、野坂昭如氏はアニメの「火垂る墓」をはじめてみたときには号泣したらしいですな。アニメの原作者の鑑のようなお人である。)
この「童話」のストーリーについて説明する。
長い冬がもたらす飢餓のため両親にも見捨てられた兄と妹の話である。親からとり残されて粗末な小屋のような家で長い冬をひもじさに耐えながら生き長らえていたふたりのところに人攫いがやってきて妹のネリを連れ去ってしまう。ひとり残された兄のブドリはなんとかひとりで生きのびることができた。ブドリは命の恩人である金持ちの援助を受けて勉強を続けることか許される。そのお金持ちには死んだ息子がいることが明かされる。ブドリが譲りうけたのはその死んだ息子が残した沢山の本であった。その後、火山研究所で学びながら働いていたブドリは、寒さと飢えに苦しむ人々を救うためには沖合いにある休火山を人工的に噴火させて二酸化炭素を大気中に噴出し、大気を温暖化をすることだという説を唱える博士とともにその実現に向けて研究を続けていた。しかし、その火山の噴火の為にブドリは自分の命を落としてしまうのである。そのあともこの童話はつづくのだが。
「火山が噴火したら温暖化するどころか火山灰による遮光効果で逆に寒冷化するじゃないか」という突っ込みがはいりそうだ。たぶんそうだろう。史上最大級の噴火といわれているピナツボ火山の噴火のときも当初心配されたのは温暖化ではなくて寒冷化の方であった。だが、今現在大気中に増加してしまったCO2の殆どが、実は人類か人為的に発生させたものではなく、火山や地熱という地球の営みの結果増えてしまったものであるという説もある。(これはこの童話の本質にも迫ることでもあるのだが)地球を温暖化させているのはCO2ではなくて大気中に大量に放出された水蒸気ではないかという説もある。
そしてどうもこの説は結構信憑性が高いことを最近知ったばかりである。つまり、あながちこの童話の主人公の考えていたこと(まあ、宮沢賢治の考えでもあるだろう)も長い目でみると間違ってもいないのかなというところなのである。ただしやはりそれは長い目でみたばあいだ。
重要なことは、わずか百年前、日本の北の方ではそういう夢を見る人間がいたくらいに日本の冬は寒かった。地球そのものの温暖化というものを切望していた人はいた。多かったということだ。
長い冬と遅い春の訪れ、上がらない気温というものはそのままその地に住む人を飢餓で苦しめ、そして地獄のような様相(現在伝えられる北朝鮮の寒村の惨状なんてそんなもんじゃないという気がするくらいだ)と死さえも意味していたのである。当時の人々はそれを恐れていたのである。忘れてはいけない。わずか100年ほど前の話なのである。
で、100年したら問題になっているのは温暖化の方である。こういう温暖化防止への滅茶苦茶早いシフティングは、そのまま人類の若さ・愚かしさをそのまま表わしているともいえることなのだ。
それに人類が心配をしているのは「地球が」ではなくて、結局は「人類にとっては」であろう。
それが悪いといっているのではない。
資源の消費を抑えるということは大切であるとは思う。その中でも世界最大の資源の消費国であるアメリカ合衆国にはそれが求められている。そしてその次に来るのはこの日本だ。省資源化そのものは実は温暖化とは切り離して考えても大切なことなのである。
しかし、それと温暖化の防止を結びつけようとするのにはものすごい無理がある。そのフローチャートマップ、筋道はまさしく「風吹けば桶屋が儲かる」と大差ないからだ。
どこまでが現実問題として実現可能なことなのか、どこからどの部分までが「仮定」という線だけで結ばれているのか、その部分だけはしっかりと認識したほうがいいのではないか。そっちの方が地球環境の保全へのもっとも確実な近道という気がしてしかたがないんだが。
今人類が進んでいる方向は、宮沢賢治の夢見た温暖化への方向とは別の方角を指している。それはそれで受けとめるべきであろう。
しかし、100年という時間は人の命に較べればものすごく長いが人類の歴史というスパンで考えると、あるいは45億年の地球の歴史の中で考えた場合、あっという間でしかないのである、やはり。温暖化防止が絶対的な善というわけではないのだと、自分は考えている。宮沢賢治の立場でいうのならばだが。
夢が時間に裏切られることはしばしば起こりうる。
時間が夢を裏切る、それはしかたのないことである。
ということなのだと思う。こんなこと言ったら松本零士に怒られたり訴えられたりしそうだけだが。
※まあこんなことを書いたら不採用になってもそりゃしかたがないわな。よく考えると(笑)
2007年5月4日金曜日
070504 カマダさんからメールが届きました
【ジュセリーノ予言の真実 0504】カマダさんからメールが届きました
で、ブラジル人の日系の方よりメールが数通来ている。(やりとりの返事を含めるともう少し多い)
書かれていることはまあどちらかというと肯定派寄りのものが多いか。
「あえて否定するものではないですよ」というようなスタンスのものを含めて。
ブラジルいう国が「予言者」というかそういう「超能力者」に優しい国柄であることはわかった。
ただし、感じとしては「なんでジュッセリーノについてそんなに真剣なの?」ってニュアンスですよ。やはり。
「今年3月に日本で本が出たので、大衆向け新聞とか雑誌で取り上げられているのです。」と書いて送ったのだが、そういう今の日本での反応の方が不思議に映るらしいなぁ。
アメリカではついこのあいだまであのpuffyの人気が凄かった。日本人からすると「えっ?あのpuffyが・・・なんで今さら」という感じと同じなのか?違うか。
その中に日系三世のノブオ(?)・カマダ(NOBU? KAMADA)さんというかたからのメールがあった。
なんでも、ジュセリーノ(jucelino nobrega da luz)ではなくて、「KAMATA」という検索語でこのブログにたどり着いたのだそうだ。自分の名字が正しくは「KAMATA」なのか「KAMADA」なのかが知りたかったのだそうである。
お祖父さんがなんと宮城県からの入植者だという。その前、ひいおじいさんの代は県北のあたりにお住まいだと聞いたので「まず間違いなくKAMADAです」とメールを出したらお礼のメールが帰って来た。
で、ついでというのもヘンな話なのだが、ご当地での「予言者ジュセリーノ」の評判はどのような感じなのでしょうか?と聞いてみたところ、こんな感じでした。
2ねんまえに 有名でした
ラジオで 今も ときどき 名前をききます
かれは いろいろ たくさん よくないことを いいました
それから だめになりました
あまりの素っ気無さに力が抜けた。
今までブラジルから来ていたメールとは真反対ともいえるような冷淡さである。
ただしひとつ新たにわかったことはある。
ジュセリーノ、最近テレビには出ないのではなくて「出られない」状態らしいのだ。
その意味するところはよくはわからない。
よくヨーロッパではキリスト教徒団体から要注意人物扱いを受けるとなかなかテレビには出られないというパージがあるがそういうものなのだろうか?
誰かこのあたりの詳しい事情をご存知の方がいたらご一報をお願いします。
※やはり信者とそうでない人たちとの間にはこうも温度差のあるものなのか・・・
で、ブラジル人の日系の方よりメールが数通来ている。(やりとりの返事を含めるともう少し多い)
書かれていることはまあどちらかというと肯定派寄りのものが多いか。
「あえて否定するものではないですよ」というようなスタンスのものを含めて。
ブラジルいう国が「予言者」というかそういう「超能力者」に優しい国柄であることはわかった。
ただし、感じとしては「なんでジュッセリーノについてそんなに真剣なの?」ってニュアンスですよ。やはり。
「今年3月に日本で本が出たので、大衆向け新聞とか雑誌で取り上げられているのです。」と書いて送ったのだが、そういう今の日本での反応の方が不思議に映るらしいなぁ。
アメリカではついこのあいだまであのpuffyの人気が凄かった。日本人からすると「えっ?あのpuffyが・・・なんで今さら」という感じと同じなのか?違うか。
その中に日系三世のノブオ(?)・カマダ(NOBU? KAMADA)さんというかたからのメールがあった。
なんでも、ジュセリーノ(jucelino nobrega da luz)ではなくて、「KAMATA」という検索語でこのブログにたどり着いたのだそうだ。自分の名字が正しくは「KAMATA」なのか「KAMADA」なのかが知りたかったのだそうである。
お祖父さんがなんと宮城県からの入植者だという。その前、ひいおじいさんの代は県北のあたりにお住まいだと聞いたので「まず間違いなくKAMADAです」とメールを出したらお礼のメールが帰って来た。
で、ついでというのもヘンな話なのだが、ご当地での「予言者ジュセリーノ」の評判はどのような感じなのでしょうか?と聞いてみたところ、こんな感じでした。
2ねんまえに 有名でした
ラジオで 今も ときどき 名前をききます
かれは いろいろ たくさん よくないことを いいました
それから だめになりました
あまりの素っ気無さに力が抜けた。
今までブラジルから来ていたメールとは真反対ともいえるような冷淡さである。
ただしひとつ新たにわかったことはある。
ジュセリーノ、最近テレビには出ないのではなくて「出られない」状態らしいのだ。
その意味するところはよくはわからない。
よくヨーロッパではキリスト教徒団体から要注意人物扱いを受けるとなかなかテレビには出られないというパージがあるがそういうものなのだろうか?
誰かこのあたりの詳しい事情をご存知の方がいたらご一報をお願いします。
※やはり信者とそうでない人たちとの間にはこうも温度差のあるものなのか・・・
2007年5月2日水曜日
070502 「予言というオナラ」
【ジュセリーノ予言の真実 0502】 「予言というオナラ」
だいぶ前に頂いたメールの一部をここで紹介する。転載の許可をいただいた。某SNSに投稿した記事だそうである。面白い内容であるし、そのままメールとして頂いたままだとなんかもったいない気がしたからだ。
(ジュセリーノの紹介部分は、いまとなってみると多少正確さを欠いていたので手直しをさせていただいた部分がある)
註1:ジュセリーノは、何の為かは知らないがアメリカに長期滞在していた時期があった(と言っていた 真偽のほどは不詳)。そのため一時期メディアの紹介文で「現在アメリカ合衆国在住」とされていたものがあった。
註2:ヘブンズ・ゲート事件。1997年3月26日、「ヘールボップ彗星は我々を迎えにきた乗り物である。それに乗るために肉体を脱ぎ捨てなければならない」と唱えた教祖マーシャルアップルホワイトの言葉を受けて39人が集団服毒自殺したアメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴにあった「ヘブンズゲート(天国の門)」という宗教団体の起した事件。後の調査では、団体内ですでに教祖の口にしていた予言がことごとく外れており内部では教祖の失墜とそれに伴う動揺が起きはじめており、脱退していた信者が多数出ていたこと、教祖と一部女性信者との「関係」などが明らかにされている。この事件は「オウム」以降に起きた大きなカルト事件して日本でも大々的に報道された。
2008年のアジアで起きる大地震の予言に関しては、最近またもジュセリーノ自身がそれを否定したり、あるいは内容をころころと変えている(らしい)。そのことを教えてくれた人がいた。だからその点に関しては、もし、たま出版の本の内容と違っていたり、矛盾しててもあまり突っ込みを入れてもしょうがないよ、ということだそうである。だとすれば、どうせなら最初から扱わないこと、という意味でもあるのだがな。
ご本人は気づいているのかどうかは、改めてお聞ききしないとなんともいえないのだが、この文章はジュセリーノの予言の本質というものをついていると思った。ヘブンズ・ゲートと同じで、やはり「ジュセリーノの予言」もまたカルトだということである。ほぼ同時期、そのことをご指摘していただいた某評論家の方からもメールがあったので、自分もジュセリーノの予言=セクト(カルト)という前提でものを書くべきなんだろうなぁ、と一歩踏み切ったわけでもある。
実際ブラジルから来る、「ジュセリーノの予言を信じているよ」という人のメールはそういうものが多い。たとえ信者であることは明言はしていなくとも、ほとんど全てがキリスト教徒的な価値観を下敷きにしてでないと読み解けないようなものになっているような気もするのだ。
と、いうか「信者」でなければジュセリーノの予言なんかを肯定的に語る必要なんかない。日本で(キリスト教徒でもなんでもなく)ただジュセリーノの予言は正しいとか言い切っている人の方がやはり「普通じゃない」んだと思う。
個人的になら「信じる」というのは構わない(という言い方もできる)。しかし、だとしてもそれを人前やこうしてネットの掲示板などで「正しい」、「当る」「当っている、これからも成就する可能性が高い」と「布教」するというのは別のことなのである。
それは絶対的に人に対してはその根拠を示しつづけなければならないことにもなるからだ。まあそういうのを世間では「カルト信者」と呼ぶのですが。
「何故自分はジュセリーノの予言を信じているのか?」ということに対する自己との向き合いを怠ってはいまいか?行き着くのは自分が信者であることを内心どこかで否定していたり、あるいは気がつかないでいるだけではないのだろうか?でなければ商売かだ。
だいぶ前に頂いたメールの一部をここで紹介する。転載の許可をいただいた。某SNSに投稿した記事だそうである。面白い内容であるし、そのままメールとして頂いたままだとなんかもったいない気がしたからだ。
「予言というオナラ」
未来ほど不確かなことはありません。
身近な未来と言えば天気予報ですが、
気象学という科学的な学問に裏付けされたものであっても、
その的中率は完璧ではありません。
むしろ外れることの方が多かったりします。
女心と秋の空ではありませんが、
ちょっとした風の向きや気圧の変化で気象というのは変化するものなのです。
そう、天気予報に限らず未来とは、
多くの条件の中から選択した事象の結果に過ぎないのです。
一つでも違った選択をすれば、おのずと違う未来が訪れるのです。
そしてその選択は、私たちが家を出る時、
右足で出るか左足で出るかでも変わってしまうようなものなんです。
そんな不確かで不安定な未来を見通せるという人々がいます。
中でも最近テレビやネットで話題になっている方がこちら。
ジュセリーノ先生
彼はブラジルパラナ州マリンガ生まれ。
現在はアメリカ在住(註1)のフツーの高校教師らしいのですが、
ある日、予知夢の能力に目覚めたそうです。
彼は夢を見るたびに、ノートに詳細を書き留めるようになりました。
そこには驚愕の未来が。。。
2008年 エイズワクチンが誕生。
2008年 アフリカで数千人が水不足で死亡する。
2008年 9月13日 中国(もしくはアジアの都市)で大地震が起こり100万人が死亡する。
2009年1月25日 大阪で震度8クラスの地震が発生。50万人が死亡する。
2010年 アフリカで気温が58度まで達する。水不足がピークに。
2010年6月15日 ニューヨーク株式取引所の崩壊。
2011年2月17日 アフガニスタンで地震。
2011年 鳥インフルエンザが人間へ感染して8千万人が死亡する。
2012年 黒い煙の時代(何のこっちゃ?)同年12月6日から気温や疫病が増大。人類の滅亡が始まる。
2012年 インドネシアでクラカトアー火山が噴火する。
などなど空恐ろしい天変地異の後、
小惑星衝突で人類は2043年に滅亡するそうですとな。
このうち2008年のアジアで大地震の予言については、
確か偶然テレビで見ました。
その時は中国とか具体的に言ってなくって、
アジアのどこか、と言葉を濁していました。
予知夢は予言の日が近づくとより詳しい場所、
時間などが分かるようになるそうで、
最近、中国と分かったのかもしれません
(てっきり私は東京かと思いました)。
あなたはこの予言を信じますか?
20世紀最大の奇跡の人と言われている、
たぶんノストラダムスの次に有名な予言者エドガーケイシーは
(画像の気持ち悪いオッサン参照)、
人類は少なくとも西暦3500年までは存在していると予言しています。
彼はアカシックレコードという超宇宙に存在する、
いわば宇宙のあらゆることが保存されいてる図書館みたいなところに
アクセスして、予言の情報を得ていたそうです。
で、その予言の中に、
「日本は1998年までに沈没する」
という有名な予言があるのですが、
結局、当たりませんでした。
ジュセリーノ先生も同じようなことを予言されていて、
日本を含む南太平洋の島々は、
2030年頃には温暖化による海面上昇で世界地図からなくなっている、と。
で、小惑星が衝突する前、
世界中で天変地異が雨後の竹の子のように起こりまくり、
カナダの一部とブラジル以外に住む人間はほとんど生き残れないとも。
……
なんだかなぁ。
カナダはともかく、なんでブラジルだけが無事なわけ?
あ、そういえばジュセリーノ先生はブラジル出身。
なんか関係あるのかしら。。。。
私は、こういった予言は、屁みたいなものと思っています。
つまり臭くてはた迷惑な行為ってこと。
10年くらい前でしょうか、アメリカで実際にあった事件なのですが、
とあるカルト教団内で、
「明日人類が滅亡する。だからその前に死のう」
頭のイカレタ教祖の言葉を真に受けて、
多くの信者が集団自殺した事件がありました。(註2)
人類が滅亡するという、究極の刹那の果てに命を絶ってしまった人々。。。
でも人類は滅亡などせず、
今もせっせと二酸化炭素を出しまくっています笑
地球汚しまくってます爆
なーんか予言を真に受ける感覚って、
この集団自殺した人々と同じにおいがするんです。
すごく危険なにおい。
予言予言と世間が奉り崇めれば「どーせ人類は滅亡するんだから」と
今ある現実を放棄する者や、
未来に絶望して命を絶ってしまう者が出てくるかもしれません。
おいおい、
それこそ人類滅亡の始まりじゃん!
でも、ちょっと考えてみて下さい。冒頭にも書いたように、
未来とは多くの選択の結果
なのです。
どんな人間も滅亡するために生きているのではありませんもの。
その時、その時で最善の選択をしているはずなのです。
私は、人間の賢い選択の上に訪れる未来を信じます。
だから今を精一杯生きたいと思うし、
それでもやっぱり人類が滅亡する日が来たとしたら――
その時は死ぬのだから、後悔なんて出来っこありませんもの笑
とりあえず、中国と大阪の大地震は本当に起こるかどうか、
静観したいと思います♪
オナラが実現しないことを祈りつつ。。。
(ジュセリーノの紹介部分は、いまとなってみると多少正確さを欠いていたので手直しをさせていただいた部分がある)
註1:ジュセリーノは、何の為かは知らないがアメリカに長期滞在していた時期があった(と言っていた 真偽のほどは不詳)。そのため一時期メディアの紹介文で「現在アメリカ合衆国在住」とされていたものがあった。
註2:ヘブンズ・ゲート事件。1997年3月26日、「ヘールボップ彗星は我々を迎えにきた乗り物である。それに乗るために肉体を脱ぎ捨てなければならない」と唱えた教祖マーシャルアップルホワイトの言葉を受けて39人が集団服毒自殺したアメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴにあった「ヘブンズゲート(天国の門)」という宗教団体の起した事件。後の調査では、団体内ですでに教祖の口にしていた予言がことごとく外れており内部では教祖の失墜とそれに伴う動揺が起きはじめており、脱退していた信者が多数出ていたこと、教祖と一部女性信者との「関係」などが明らかにされている。この事件は「オウム」以降に起きた大きなカルト事件して日本でも大々的に報道された。
2008年のアジアで起きる大地震の予言に関しては、最近またもジュセリーノ自身がそれを否定したり、あるいは内容をころころと変えている(らしい)。そのことを教えてくれた人がいた。だからその点に関しては、もし、たま出版の本の内容と違っていたり、矛盾しててもあまり突っ込みを入れてもしょうがないよ、ということだそうである。だとすれば、どうせなら最初から扱わないこと、という意味でもあるのだがな。
ご本人は気づいているのかどうかは、改めてお聞ききしないとなんともいえないのだが、この文章はジュセリーノの予言の本質というものをついていると思った。ヘブンズ・ゲートと同じで、やはり「ジュセリーノの予言」もまたカルトだということである。ほぼ同時期、そのことをご指摘していただいた某評論家の方からもメールがあったので、自分もジュセリーノの予言=セクト(カルト)という前提でものを書くべきなんだろうなぁ、と一歩踏み切ったわけでもある。
実際ブラジルから来る、「ジュセリーノの予言を信じているよ」という人のメールはそういうものが多い。たとえ信者であることは明言はしていなくとも、ほとんど全てがキリスト教徒的な価値観を下敷きにしてでないと読み解けないようなものになっているような気もするのだ。
と、いうか「信者」でなければジュセリーノの予言なんかを肯定的に語る必要なんかない。日本で(キリスト教徒でもなんでもなく)ただジュセリーノの予言は正しいとか言い切っている人の方がやはり「普通じゃない」んだと思う。
個人的になら「信じる」というのは構わない(という言い方もできる)。しかし、だとしてもそれを人前やこうしてネットの掲示板などで「正しい」、「当る」「当っている、これからも成就する可能性が高い」と「布教」するというのは別のことなのである。
それは絶対的に人に対してはその根拠を示しつづけなければならないことにもなるからだ。まあそういうのを世間では「カルト信者」と呼ぶのですが。
「何故自分はジュセリーノの予言を信じているのか?」ということに対する自己との向き合いを怠ってはいまいか?行き着くのは自分が信者であることを内心どこかで否定していたり、あるいは気がつかないでいるだけではないのだろうか?でなければ商売かだ。
2007年5月1日火曜日
070501 たまBBSに文句を言う2
【ジュセリーノ予言の真実 0501】 たまBBSに文句を言う2
(つづき)
2ちゃんねるの「ジュセリーノの予言5」というスレッドを読んでいて困ったのはむしろ自分に対する一種の弁護的な立場で書き込んでいると思われる人のものの中にあった。責任は自分にあるのだが。
プライバシーの暴露につながるような書き込みは避けて貰いたいものである。お願いしますよ。
(都合によりカットしました)
一応念のためにこれも書いておくが、自分は2ちゃんねるでどういうことを書かれても警察に届けるであるとかの手を使うつもりはない。いわゆる「実害」が及ぶ怖れがなければである。
(都合によりカットしました)
で、話を「たまBBS」に戻す。
その韮沢氏がたまのジュセリーノの本が不完全な訳本であることを認めるというその当該部分なのであるが、
>返信者:××(名前は伏せる)
>「未来からの警告」はニラサワさんは監修者の立場であり、
>基本的には訳本ですね。最初、勘違いしていました。
>英語なら何とか原著と比較ができますがスペイン語では比較ができません。>原著との比較が出来ないのかと考えておりますが、
>原著と比較して何を追加して、削除したものは無いのか
>ニラサワさんから公開できませんでしょうか。
(都合により後略)
という質問に対して
>返信者:ニラサワ
>本の中で削除した個所は説明してあります。
>詳しくは原文(スペイン語ではなくポルトガル語です)に
>当たっていただく方が早いです。
のことらしい。他には見当たらないし。
しかしこれでは正直、「訳本として不完全だ」ということを100%認めたということにはあたらないと思う。残念だが。
不満なのは、まずその質問以前に「削除した理由」を明解に述べていないということもあるが、質問者が「原著との比較が出来る方法の有無」というものを聞いているのに「原文を当ってくれ」と答えているのでは「質問に対する答えにもなっていない」ではないかということだ。
相手はポルトガル語が読めなくて困っているのだ。まあ、ちょっと答えたくないタイプの質問者であることは同情はするが。
しかし、このような質問に対してはちゃんと「出来ません(ありません)」と一言答えるほうがよっぽど親切なことなのではないだろうか。そう思うのである。
でないとこの質問者は第二・第三の質問をしてくるだけだ。それでは二度手間三度手間になるだけだし、それに、それはやはり悪く言えば嘘に嘘を重ねつづけるようなものになってしまう危険があるのである。
前にも書いたことだが、今はそういう「嘘」の通用するような1970年代ではない。五島勉がノストラダムスの予言という大嘘でベストセラーを飛ばした時代はとっくに終わっている。そういう時代はもう絶対にやってこない。
韮沢氏はそこのところを甘く見ている。ブラジルは今でも日本にとっては地球の裏側だが、昔と違って情報の伝達に関しては、何倍も正確なものが、昔の何十倍も早く何百倍も多く行き交うようになっている。自分たったひとりでその情報をコントロールできるなとどは絶対に思ってはいけない。そういう時代に突入しているのである。
ちなみに、ブラジルには「サンパウロ新聞」を始めとしていくつもの日本語新聞社がある。もちろん在伯日系人のための新聞である。ウェブサイトもある。
自分はここにメールを送るつもりでいる。自分の立場を明らかにして、日本に住む日本人に向けて正しいジュセリーノの情報を(日本語で)届けてくれるようにだ。それが一番だと思っているからである。肯定であろうが否定であろうが立場はともかく誰でもそのことは賛成していただけるはずだ。実現して困る人はいないであろう。
※ 本筋にまったくかかわりのない話題で、しかも自分だけではなく他者のプライバシーの暴露にもつながるおそれがあるとのご忠告がありましたので二ヶ所をカットしました。
070501 たまBBSに文句を言う
【ジュセリーノ予言の真実 0501】 たまBBSに文句を言う
さて、自分が「たまの本」はジュセリーノの本の不完全な訳本でしかないよ、と書いたところ結構クレームっぽいメールとかコメントがあった。根拠を示せとか。読まないで判るのかとか。
それぞれの目次を並べればコンテンツの差ぐらいは歴然なのだが。
としたところ今日(厳密には一昨日の30日なのだが)、友人から「ニラサワ氏が自分の口で不完全だと認めてたぞ~」みたいな連絡をもらった。なんでもたま出版の掲示板に「ニラサワ」と記名で書かれているのだと。
よかったじゃないの。韮沢氏がそれを認めたのであれば、それ以上のことは自分があれこれということではない。少なくとも、自分の「不完全な訳本」という表現が事実無根ではないということはこれで明らかになったわけだし、と。
このままパスしようと思っていたのだが、ちょっとは気にはなったので今自分でそのたまのBBSを久しぶりに見てみたのである。
というか自分ああいうタイプの(ツリー型っていうのか)BBSは苦手なんです。さらに、たまのBBSには独特の臭いが漂っていて読んでいるとものすごく不愉快になるのである。いままで黙っていたが。あえて批判することじゃないし。読まなければいいだけだしな。
たまたまなのだが、自分が「不愉快」になるその理由のもっとも象徴的な部分がいくつもあったので、この際ここでその象徴的な個所をひとつだけ批判しておく。
江口ともみさんといえば昨年度末のテレビで日本で初めて
>ジュセリーノさんを紹介した司会者ですね。
>何か関係があるのかもしれませんね。
馬鹿だろう。この書き込みをした奴は。なんだよ、
>何か関係があるのかもしれませんね。
って。あるわけないだろう。よく考えてから書き込めよ。
そしてそれ以上に不謹慎な奴である。
しかし、もっと問題だと思うのは、この書き込みをなんの問題もないとそのまま受け付けてしまった管理人であり、そしてこのことを誰も指摘しないでいるというここの利用者どもである。4月27日の書き込みだからもう4日も前じゃないの。
ずっと前のことだが、やはりここである有名人の死について取り上げてオカルティックにああだこうだとやりとりしているのを見たことを思い出した。
自分がここに感じていた「臭い」のことをこの書き込みで思い出してしまったのである。
ジュセリーノは不幸の手紙か? 呪いのビデオか?。馬鹿めが。
なんで年末のバラエティ番組の司会をしたことが事故の原因に結びつくのだ。
まあ、それ以外にも読むだけで気持ち悪くなるようなことが平気で書き込んである。あえてもういちいちここで文句を垂れたりはしないが、もっと知性であるとか悟性とかを働かせてほしい。
いくら信者の仲間内でやっていることだからといって許されるレベルのことではない。たとえば、こんなこと、人前で堂々と喋れます?
2ちゃんねるでこの自分のことを「精神異常者」と書いているよ、というご注進のメールも来ていた。
こっちはその前に自分の意志で見ていて知っていた。
まあ構わない。ネットの世界でこうしてしゃしゃり出るということは、こういう反応もありうるということである。
それで「傷ついたり」とか「ショック」を受けたりすることもない。そういうのもあるだろうと覚悟の上でこのようなことをやっているのであって。
まあそれにこの書き込みをした人間の方がものすごい攻撃をされていたりしていて、そっちのほうがかわいそうな感じがしてしまったくらいであった。
というか、なんの余計な検閲もなく反論もまた可能な「2ちゃんねる」のほうがやはり「たまBBS」の何倍も何十倍も健全なのである、やはり。(続く)
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