2007年7月11日水曜日

070711 千の風になって

自分はこのブログでは自分のプライバシーに関することは一切書かないようにしている。
内容がそれとは関わりのないことであるし、下手にそれについて触れると読み手をミスリードさせてしまう危険もあるからだ。(っていうかそういうことがあったようである)

時折、この自分の宗教観のようなものについて尋ねるようなメールが来るがそれについてはちゃんと答えている。隠したりするようなものでもなんでもない。

これをここで書くと意外に思われるかもしれないが、あえて書くのだが、墓参りというものはかなり頻繁に行っているほうだろう。

そしてこれは(だからといって人に勧めるのはできないものの)精神的な自衛としてはものすごく役に立つのである。

墓石を手で洗っていると心が落ち着くというところもある。
ふしぎだが。単純にそれが好きなだけかもしれないが。

墓石の表面についたぬるぬるやコケやら鳥のフンなどは手で撫でるようにして洗い落としている。決してタワシなどでゴシゴシ擦ってはいけない。傷になるからである。

話は変わる。

秋川雅史の「千の風になって」という曲が静かなヒットになっている。

この歌で有名になった秋川雅史といえばどうしても思い出すのはアイルトン・セナのことである。秋川がセナの大ファンだというのはかなり知られた話らしい。94年当時、秋川はイタリアのミラノ留学中であり、5月1日はイモラサーキットに行きF1サンマリノGPを現地で見ていたそうである。

自分もこの秋川の歌声でまっさきに連想したのはアイルトン・セナのことであった。

きけば秋川自身もこの歌を歌うときにはサンパウロ郊外にあるセナの墓のことが思い浮かぶのだそうだ。


もっとも自分はこの歌のことをあまり好きではない。もっと具体的にいうと、この曲そのものは決して嫌いではないのだが「日本語の歌詞の出だし」が嫌いなのである。

なんていうのか、日本語の訳はどこかきもちが悪い。

その日本語詩の元となったといわれているバージョンの原詩である。

Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am in a thousand winds that blow,
I am the softly falling snow.
I am the gentle showers of rain,
I am the fields of ripening grain.
I am in the morning hush,
I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight,
I am the starshine of the night.
I am in the flowers that bloom,
I am in a quiet room.
I am in the birds that sing,
I am in each lovely thing.
Do not stand at my grave and cry,
I am not there. I do not die.


やたらと「I am」が繰り返されている。

意訳してゆくと、「自分の墓の前に立って泣くな。自分は墓の中にいるのではない。眠っていない。自分は千の風の中にいる。その風は吹いている」となる。

決して「風になった」というニュアンスではないからである。ここが重要。
でどうしても自分がこの歌を(新井満の訳詞で)歌おうとすると「千の風にのって」と口ずさんでしまうのである。何回注意されても直らない。

というか、(~千の風にのって~と歌ってしまう)自分の方がこの歌の詩の部分に関してならば正しい認識をしているという変な自負もあるのだ。おっさんのたわごとと言われるかもしれないが。

「千の風」というのは決して強い風のことを指すのではない。「たくさんの」という意味もあるかもしれないがやはり「沢山のものに分散して」という意味のほうが強いのではないか。というか原詩のほうはそうだ。だから「自分は風によって拡散した存在である」といっているのであって、でなければこれ以降の重ねてゆくような描写が意味をもたないというか続かなくなる。

そのあとに続く描写でもって、その現在の自分の姿について語っている個所はわかりやすい。雪でもあり雨でもあり鳥の声でもあると言っている。この世の全て(の美しいもの)になると言って聞かせているのである。風になったのではない。風にのって拡散した存在だからである。

ピート・シンフィールドに「Still・・・」という曲があるが、その詩の世界とも非常に近いものがあるのではないか。

まあだからこの詩のオリジンは、(親しい人の)墓の前で(その死を)悲しんで下を向くことが供養なのではない。上を見上げろ。周囲にあるものを見つめなおせ。笑うことが大切なのだということだと自分は受け取っているが。

そして、この「詩」は輪廻転生というものをやんわりと否定しているということでもある。

ヒトの魂がそのままの形を保ったまま存在するということはありえないんだよ、ということを言っているからである。

そう、死後も魂というものがあって、それがそのままの形で存在し続けるなんてことはなによりも傲慢な考え方・発想であることを戒めてもいるからだ。

それにしても不思議なのは、死後の世界であるとかスピリチュアルなものを信じているという人でもこの歌を良い歌だといっている人が多いことである。なんかおかしくはないか。

死後の世界であるとか霊魂とかのことを、もし本気で信じているのであれば、この歌の歌詞について深く考えてみればわかりそうなものなのだが。ジレンマには陥らないのか。
大きなお世話だが。

そこまで深く考えている人間なんてそんなにもいないのかもしれないけれど。


このあいだちょっとした訳(わけ)があって、ふたりで雨の中を墓参りをしてきた。傘を片手にして墓石を手でこすって汚れを落としていると、ふと「千の風になって」の出だしの部分がよみがえって口をついて出てきた。同行した知人がそれを聞いて笑った。

たわしでお墓の石を拭かないでください。
細かなキズがつきます。
手でそっとふいてください