実際に犠牲者が出ているというのに、この時期「ジュセリーノの予言が…」みたいなことを書くこと自体が不謹慎なことなのであるが。
昨日の地震についてはもう何度も説明をしたので、今ここで書くことはそれらを簡潔にまとめたものになる。
A「3月、日本の東京で大きな地震が起きる(そしてパニックになる)」
B「3月25日、能登半島を中心とした大きな地震が起きる」
このAとBは違う物である。
A=Bとするためには、AあるいはBに何かを加えたりあるいは掛けたりしなければならない。それをα(アルファ)と呼ぶことにする。
また、
C「2007年(2008年)7月13日 日本で大きな地震(と津浪)が起きて多数の死傷者が出る」
D「2007年7月16日 新潟県を中心とする大きな地震(と津波)が起き死傷者が出る」
というのも較べてみればやはり別のものであり、このCとDを同じものとするためには、やはりそのαというものを足したり掛けたりしなければならない。
そして上にあるAとBを等しくするαとCとDを等しくするαはまったく同じものなのである。
それは何か、というようなことを昨日の16日、何人もの人に口頭で直接あるいは直電話で説明しなければならなかったのである。その中には7年ぶりに電話を掛けて来た元同僚がいた。
しかしこのブログを読んでいたのならそれくらいはもっと前に言っててくれてもよかろうに。まあいい。そのことは置いておく。
というように、自分はこのブログで書いていることはそのまま自分の周囲にいる人たちにはほとんどそのまま喋っていたし、だからこそ、こういうときにこのような内容の電話が殺到するのだろうし。
まあこれからもそうするということだ。
で、今いろいろな人からメールとかコメントとかがあって、あるいは他のブログやHPなども巡回してみたところである。
自分に対する悪口(?)みたいなものが延々と書き連ねてある掲示板などもあった。それについていちいち反論はしない。
しかし、ひとつ問い掛けたいことがあるのである。ブログなどで「ジュセリーノの予言は成就したのだ」とか書いていたりする人は同じことを自分の周囲の人たちに対しても同じ文脈で「ジュセリーノの予言は成就した」とか「当った」とか言うものなのだろうか?
ひょっとしてまだそういうことを一度もしたことがないという人でジュセリーノは本物の予言者だと固く信じているという人は是非とも実践してみればいい。それで得られるものがその人の本質であると言えるのではないか。
でなければ、それが出来ないというのであれば、やはりいくらネットでジュセリーノの予言について肯定的に語ろうが、否定している人間のことをボロクソに叩いてみたとしてもやはりそれは単なる「バーチャルな世界でのお遊び」でしかないのではないか。
現実世界の洗礼というものは頭で思いつくような簡単でもないし生易しいものではない。
自分がここで書いて来ているようなことはネットだけではなく実際の討論というものの中で得てきたものが殆どになる。
自分がほぼ実名でこのブログをやっていて、こうやって普段言っていることと同じようなことを書くことが出来ているのもそういう裏付けがあるからなのであるが。
まあそれでこれは古い話になるのだが、3月のある日電車の中で女子高生の一団が携帯のウェヴで見ているのがこの自分のブログであることを偶然に知ったときのことを思い出した。
まさか彼女たちは自分の目の前に座っている地味なおっさんが自分が今見ているブログを書いている人間なのだとは夢にも思わなかっただろう。
自分も、自分のこのブログを読んでいる人がいるということは頭では理解していたものの実際に目の当たりにすると不思議な感じがしたものだった。
現実世界というものは、今自分が向かっているその画面のその奥、その先で繋がっているものでなくて、それ以外の周囲にあるのだということを改めて思い知った瞬間でもあったのである。
まあそれでそのα(アルファ)の正体なのであるが
それは「オカルティズム」と呼ばれているものである