2007年8月9日木曜日

070809 肯定派の人との遭遇 その3

 
これがはじめてというのではないのだが、「ジュセリーノの予言を信じている」という、いわゆる肯定派の人とじかに会った。

というか向こうが会いに来たのだ、わざわざ関西から。

まあだから今回のは「遭遇」とは呼べないかもしれない。

「よくこの自分の連絡先とかを探し出したものだ」とは感心はした。しかしどう考えてもマナー違反である。こういうことをされてうれしいはずはない。

そのことは表明はしておく。もちろん会いに来たその人にもそうはっきりと言ったけれども。

「会いたくない」というか「会う必要はない」とかつっぱねることも出来るのだが、やはりわざわざ新幹線乗り継いで仙台までやってきたというので無碍にするのもどうかと思い、会うことにした。条件付きだが。

それで雨の仙台市内中心部にある某所で計3時間ばかし議論みたいなことをした。

会ってピンと来たのは、「以前からコメント欄にいろいろと書き込んでいる人だな。」ということだった。

あまりこういうことはここでは書くべきではないのだが、ディベートとしては完全に自分の圧勝であった。

あくまでもディベートとしては、ということであるが。

でも、おそらくそれでも彼女はこれからもジュセリーノの予言というものを信じ続けるのであろう。それはもう自分にはとめられない。

なぜかというとそれは「信仰の問題」になるからである。そこから先は自分は立ち入ることはできない領域なのであろう。

まあどうせジュセリーノよりも本物っぽいものがそこに出てきたらそっちに乗り換えるのだろうけれどさ。(当人にも言ったことだ)

ただ、彼女が持ち出してきた「賭け」には最初自分は乗ることにしたが結局、彼女はその「賭け」を引っ込めてしまったのである。まあその時点で彼女は「負け」を認めたも同然なのだが彼女はそれを認めようとはしなかった。

残念であるが。

単純な「賭け」である。期日と場所のはっきりした「ジュセリーノの予言」が当るか当らないか、それだけである。

たとえば、「2008年9月13日に中国でM9.1の地震が起きて三十メートルの津波が起きて百万人以上の犠牲者が出る」というジュセリーノの予言があるがこれが現実になれば彼女の勝ち、外れれば自分の勝ちというようなものなのだが。

いやもっと単純なものでもいいのだ。「2008年7月13日に日本(のどこか)で震度5以上の大地震がある」という予言があるのであればそれでもいい。

当ればそのジュセリーノ予言肯定派の人の勝ちだし、外れればこの自分のような否定論者の勝ち、そういう単純な賭けである。

もちろんこれはたんなる一種のゲームとして行なうのであって、それが当ったからジュセリーノの予言が本物だとか肯定派が正しいであるとか、逆に予言が外れたからといって自分のような否定派の言っていることが正しいとかジュセリーノがニセモノの予言者である、というようなところに全てが帰結するような大命題に直接結びつくようなものではないのだが。

言ってみれば一種の「ご対面記念企画」みたいなものだ。

結局彼女が降りてしまったが。

「予言で賭けってよく考えると不謹慎ですし」とか。

まあそれはこっちが言うセリフなのだけど。

彼女は「それでは自分(のような予言派)が無茶苦茶不利じゃないですか」とも言ったのだけれども、逆に「何故そのことに今まで気がつかないのだろう」と自分は言いたくなったのである。

そもそも「予言をする」というのはそれだけリスキーで、外れればその責任も重いのだということを自覚してほしいだけなのだが。

特に期日を指定したような「予言」というものがどれだけばかばかしいものなのかということには。

彼女は「あなたには何か信じている大切なものはないのですか?」みたいなことを聞いてきた。

簡単に答えられるような質問ではない。

かなり慎重に言葉を選んで自分はそれには「結局『自分』でしょう。自分が、自分の目で確かめたもの、自分が体験したこと」というようなことを言った。

がしかし、彼女にはそれがはぐらかされたかと感じたのか不満なようであった。

自分としては彼女のその質問に直対応して、真剣に真面目に答えたつもりであったのだが。

それよりも不満なのは、その彼女自身が、自分の出したいくつかの質問には「答える必要はない」というようなことを言って突っぱねたことだ。

しかしそれは「会いに来た人間」の口にする言葉ではあるまいて。

答えられないような質問を人にぶつけるのであればその逆の立場に立ったときにはその質問に対しては答えるのが最低限の義務というものであろう。軽い怒りのような感情が芽生えた。正直に言えば今でもその彼女のことは許してはいない、そのことに関しては。

二十数年前にもあったいやな記憶と体験と少しだけオーバーラップしてしまった。

まあそれでも最後には友好的にはお別れはしたが。

でその自分が出した「会って話をする条件」とは、もちろんこうして記事にするということである。

ほかにも書きたいことはあるのだが許可待ちである。



追記

タイトルで失敗した。うしろに「その3」とつけたために

その1とその2はいつ書いたのですか?

1と2が見当たりません

といったメールが結構来ている。

【追記2】
申し訳なかった。
1と2があってのそういう意味で「その3」なのではなく「第三種」という意味で「その3」とつけたのである。

もうおわかりだろう。「第三種接近遭遇」のパロディの意味でつけたタイトルだったのだこれは。

ストレートに「第三種肯定派との接近遭遇」というタイトルにしたかったのだが、それだとその会いに来た人のことをエイリアン扱いにしているという自分の不真面目な心性がまるわかりになるのでそれを避ける目的で婉曲にしてこのようなタイトルに直したのだ。

しかし大失敗であったが。

ただひたすらこのことに関しては「申し訳ない」と謝るしかない。

で、これから書くのは言い訳になる。

まず、今まで自分はこのような肯定派の人たちとはもう何人も会っている。そういう意味ではおそらくはこの記事に番号をふるとしたらだが、もし会った人の数で表わすとなるとおそらくは「その7」か「その8」くらいにはなるはずなのだ。

今までそのことに触れなかったのは相手の立場を考えてのことであった。相手の許可なくそのような会ったときのことを書くことはマナー違反だと考えてあえて記事にしなかっただけである。

中にはあとからメールなどで「実はあの時は言わなかったが…」などとそれでも(彼/彼女)がジュセリーノの予言を肯定する理由などを幾つも書いて寄越した人もいるのだが、あえて言わせていただくが、それではダメなんである。絶対に。

だからそういう人たちがあとから書いて寄越したことに関しては一切無視させていただくしかなく、つまりはその実際に会った時のやりとりといったもの全てにも触れ難いということになってしまうのがつらいところでもあった。

だから今でも「お会いしましょう。ジュセリーノの予言が正しいか正しくないかについて徹底的に議論しましょう」みたいなメールを寄越す人もたまにいるけれども、これは予め言っておくことなのだけれども、ディペートというものは一回こっきりで全てカタをつけてなんぼのものである。「答えられない」とか言うようではその時点で「負け」である。

あと、団交というか複数人数で来るというのも反則。

それと「会いに来い」みたいなものには一切応じられない。

そんなもの言わずもがなの常識だとばかり思っていたのだけれども、最近はこういう最低限のマナーというものさえ身についていない人が多いような気がする。

これもネットとかゲームの影響なのか。バーチャルなリアリティの世界から出られなくなっているという人間の数が多くなっているからだというような気がするのだが。違うか。

こと「ジュセリーノの予言」というものについてあれこれするという一点においてだが、あくまでこの一点についてのみ言うのだが、その中心により近いところにいるのは、無記名で掲示板などに書き込んでいるような人ではなく、少なくとも記名で単独で自己責任で記事を書きつづけているこの自分のほうである。

だからそういうこと(自分と同じようなこと)をやっている人でなければ「会いに来い」というのは絶対に口から出てくるはずのない言葉のはずなのだ。

それが現実の世界のしきたりというかヒエラルヒーなのである。

いくらブログや掲示板などでジュセリーノにしても他の予言についてもだが、その信憑性について肯定的に語ってみても、無記名であるかぎりは現実のこの世界ではなんの意味も持たない。

もし仮に実名でそういうことをやっているという人がいて、その人が「会いにこい」と言うのであれば、それが無茶苦茶遠いところでなければだが自分は会いに行って議論するというのは吝かではないし、たとえそういうお互いに離れた場所だったとしても会う場所を「東京」にしてもいいというのであれば、お互い時間とかの都合をつけて会うという方法も有りなのではないかと思っている。というかそのくらいの「譲歩」ぐらいなら許容範囲であるということだ。

繰り返ししつこいくらいにこのことについては念を押しておくのだが、自分は(ジュセリーノ予言の)否定派の代表者という立場の人間ではない。

もしこの自分に会いにくる目的というものが、この自分のことを「代表者」と認識していたり、このブログを止めさせたりあるいは「肯定派に転向させる(笑)」というのが目的なのだとしたらその目的ははじめから大外れである。無駄なだけだ。

だったらメールのやりとりだけでことは済む。

ネットの世界はどんな人間に対しても優しいというか寛容だからだ。

たとえ無記名のものだとしてもその「発言」は内容によって判断されるし、どのすべてとも平等に扱われなければならない。

だから自分はこれまでも数多くの反対論者(つまりはジュセリーノ予言肯定派)に対してもメールを送りつづけているのである。

ていうかこの女性からはまだ返事が来ない。(08.25現在)

こうなると性質の悪い言論封殺に近いな。

もしあと七日経ってもなんの連絡もないようであれば、もう申し訳ないが勝手にこのときの議論の内容についてもっと具体的に詳しく書くことにする。

それが最初の(会う前の)時点での条件だからだ。