2007年6月7日木曜日

070607 またまたセナの死について 8くらい?

【ジュセリーノ予言の真実 0607】 またまたセナの死について 8くらい?

自分はまだ「たま出版」から出たジュセリーノの本そのものには目を通していない。

だが、その内容についてはいろいろな人から聞いたり、あるいはメールに書いて送って来て下さったものを読んだりで、なんとなくだが大体の内容については把握できるようになってしまった。

「予言」の内容もだが、そうではないマリオ・エンジオという著者による地の文章(の訳)についてもいろいろと(相当の数の)おかしな個所があるようである。

ただ、それがブラジル版オリジナルに起因するのか、それとも日本語版を製作したした時点でそうなってしまった、出来てしまったことなのかについては、それだけ(伝聞だけ)ではすぐには判別は出来ない。

それでそういう個所に対する批判というか「つっこみ」は控えているという原因というか事情でもある。

ジュセリーノと著者であるマリオ・エンジオによる「嘘」なのか、それとも韮沢潤一郎=山川栄一によるでっち上げなのか、そのどちらであるかを見極めるのはけっこう難しい。というかこれを間違えると自分がやっていることがどっちの方角を向いての物なのか、読者をミスリードさせることにもなるので慎重にもなる。




しかし、さて、だが、原著には書かれていない「事実」が、たまから出た本には「まるで原著にもあるのですよ」といわんばかりに地の文章としてなんの断り書きもなく書かれていたりするらしいというのを聞かされると、「怒り」を通り越して脱力、そして再び「怒り」とそして悲しみと非常に複雑な気持ちにさせられた。

そういう感情の葛藤を乗り越えるために変な努力が必要になってしまうのである。
そんなことがまかりとおる本なんてとてもじゃないが金を出して買う気にはなれないのだよ。

特に自分はこのジュセリーノの本の中でもアイルトン・セナに関する部分にはかなりこだわっている。このブログの読者の皆さんも流石にそのことは気付いているであろう。

しかし、自分がジュセリーノの予言でも特にアイルトン・セナに拘っているということも言えるのだが、それよりもまずジュセリーノがアイルトンセナの事故死(=暗殺であるという予言)という物に対してものすごいこだわりを見せているということも言えるのではないだろうか。

その、ジュセリーノのセナの事故死に対するこだわりがどこからくるのか、最初自分はわからなかったのだけれども、最近知った事実で少しだけわかった(ような気になった)。

アイルトン・セナの誕生日は1960年の3月21日である。

そしてジュセリーノ・ノーブレガ・ダ・ルースの生まれもまた1960年の3月なのである。

このあたりにジュセリーノのセナに対するこだわりがあるのではないかと密かに思っているところだ。なんてここで書いてちゃ「密かに」もへったくれもないのだけれども。

自分が「ジュセリーノの予言」の中の嘘に気がついた最初のつまり第一のポイントでもある「セナの直接の死因」に関してもそうだ。

どうも、ブラジルで出た本には「正確には書かれていない」ようなのだ。

また、これはだいぶ前になるのだが、(おそらくはたまの本が出版された直後から)問題になっていた部分もあるのである。

そしてその記述があるがために、この「セナの事故死が暗殺」でもなければ、もちろんジュセリーノが予言者でもないただの嘘つきでしかないということを自分で暴露しているという記述にもなっているのである。

自分は「版を重ねればきっと直してくるだろうな」と踏んでいたのだが、現在確認できる範囲ではあるが第三版でもその個所は直っていないのだそうである。

で、その記述とはなにかというと
(つづく)