2007年7月2日月曜日

070702 確率というものがある 

またもやメールからの話題になる。

イギリスでテロの事件がありました。ジュセリーノの月別の予言にもこのことが予言してあります。当ったということでいいでしょうか?

おそらくはこのメールでの指摘はグラスゴーの空港で起きた爆破テロのことを指していると思われる。(その数日前にロンドンで未遂のまま発覚した計画があったのである)

7月の月別の予言に「イギリスで高温、また新たなテロが計画される」というのがあってそれと合致しているというわけだ。

まあこれに関しては「当った」に入れていいのじゃないかと思う。しかしあくまでも「当ったかのように見える」という意味での「当った」であるが。

実際に事件が起きたのは6月の30日(現地時間)のことなのでこれをして「ハズレ」にする考えもあるのかもしれないが、(いわゆる普通の否定派のひとならそれでいいと思う)自分は別にこれを「当り」に入れたとしてもかまわないと思っている立場の人間である。

もちろんそれは一種の確率というものの考え方からである。

以前なんかの占い師のときにも書いたことだが、そりゃ50とか80とかの予言をすればそのうちの4・5個くらいは「当った」かのようには見えるであろう。それだけの話だ。

このあいだここで書いたテレビ番組でも、事前にジェームス・ランディが「普通の人ならば20枚の内の一枚が当る程度」といって、実際にその挑戦してきた自称超能力者の当てた枚数が一枚になってしまったのと同じである。

ジュセリーノは2006年の予言にしてもそうだが過去の出来事をヒントにしてこの2007年の月別の予言をモデファイしてきた。つまり「当てよう」としてきて改良したわけで、逆にそれが全て外れてきたとしたら別の意味でものすごいことになってしまう。

それにどっちにしてもそれでは「的中率90%」、「事件の起きる日付までもピタリと当てている」というジュセリーノの前評判と実情が大いに違っているというこの事実だけは覆らないし、そもそも最近のジュセリーノはこの月別の予言とは違う別の予言をいくつもしていて、その中にはこの月別の予言と矛盾するものがある【ジョアン・ヒグチ・ナシメント(Joao Higuchi Nascimento)氏からの情報】ということも言われているのだ。

だとすれば当ろうが外れようがどっちにしてもジュセリーノは「予言通りである」と言い出すことはまちがいないわけで、だからひとつひとつの予言に対して当ったとか外れたとか一喜一憂すること自体が酷く空しいことなのであるが。

それこそ「みち☆まり」さんではないが

>外れた過去予言の数を淡々とカウントしているだけで「もう充分です」という気分

ということになるのではないか。

ジュセリーノはこのテロの予言のことを(従来的な意味で)「当てたのだ」と思う人はそう思えばいい。掲示板にでも自分のブログにでもなんにでもにそう書けばいい。

しかしそれは「当った」という事実ともうひとつその陰には外れた予言の死骸が累々としていることをも引き受けなければならないということだ。「当った」予言にだけに嬉々と出来るのだとすればやはり心の構造がちょっとおかしくなった人だ。私に言わせれば。

重要なのは今までどれだけのどんな予言というものをジュセリーノはしてきたのかということを前提にすることだろう。

そうしなければ、ジュセリーノの予言というものを何故に他の予言者とは別扱いしてエスタブリッシュな存在にするのかという前提としての大きな条件すら成立しなくなる。

どっちにしてもこのようなジュセリーノの予言が「チョボ」っという感じで当ってしまうことの方が「的中率90%」と持ち上げられた予言者の正体というものを正しく見るためのいい材料になっているのではないか。

※追記

前に触れたことだが、ジュセリーノは前アメリカ副大統領アル・ゴア氏がノーベル平和賞を受賞するという内容の予言文書を発表した。

しかし考えてみてくれ、先行する2007年の月別の予言にはそのことに関する記述などこれっぽっちもないんだぞ。

今この時期に「今年のノーベル賞の受賞者」と言ってみても、ほぼ既定の事実について言ったのとどれだけの違いというものがあるのだろうか。

どうせするのなら来年の2008年の受賞者の予言文書を発表すればいいのに。
(2007.07.09)