2007年4月18日水曜日

070418 何故ジュセリーノは「教授」なのか

【ジュセリーノ予言の真実 0418】 何故ジュセリーノは「教授」なのか


まだ、自分のやっていることが誤解されているなと感じることは少なくはない。

今でもメールやコメントの書き込みで「何故そんなに本気になって、ムキになって予言を否定しているのか?」みたいなものがある。まあそのこと自体、それ自体はかまわないのだが(端からあきらめているというのでもないのだが)、返答に困るのは「何の目的があってやっているのだ?」みたいな質問が結構くることである。

目的もへったくれもない。そのままである。ジュセリーノとその周辺にいる人たちがついた嘘というものを明らかにして、「ジュセリーノの予言」そのものが一種のでっち上げでしかないという「真実」を暴露しようとしている。そのことで、ジュセリーノの予言というものを知って不安を抱えてしまった人たちのその不安を解消させる役に立てばそれでいいのである。

今(日本の)世間に出回っているジュセリーノの情報というものだけでも、「よく読んで、よく考えれば」その欺瞞はいくらでも出て来ている。

でなければこんなに自分も毎日のようにブログに書いたりとかはなかったであろう。その点でいうと、自分はある意味ものすごく楽をさせてもらっているということも出来るのだが。

1月の末に「ついでに」という感じでジュセリーノの予言というもののおかしな部分についてこのブログに書いたところ、予想外の大きな反響があって当の自分が困惑してしまった。

その反応の多くは「目が覚めました。こんな騙しに引っ掛かって本気で心配していた自分が馬鹿馬鹿しく思えてなりません」であるとか、「こういう迷惑な予言をたれ流しにしているテレビ局や出版社に対してものすごく腹を立てています」というようなメールであるとか書き込みである。

自分が軽く考えるよりも実体はやはりジュセリーノの予言に対して不安を感じていたという人は多かったということなのだろう。

そもそもは「ジュセリーノの予言」そのものよりも「ジュセリーノの予言」というものを利用して本を売ったりテレビの視聴率を上げようとしていた日本のメディアであるとかそういう動きに対する批判と暴露しか頭にはなかったし、それで終わりにしようとさえ思っていたくらいである。

それがここまで続いてきたのは、自分以外にはこれといって自分の責任でこのジュセリーノの予言というまやかしを本気で批判したりその嘘に気づいて(それがどれだけ有害かという観点から)ジュセリーノの予言を叩こうという人が出てこなかったということもあるのではないだろうか。

だからなんかそういうものが自分のところにだけ集中してしまったという気がするのである。違うのかな?

そのときに寄せられた多数のメールであるとか書き込みが今こういうこのブログを続けている大きなモチベーションになっているというのは動かしがたい事実である。少なくとも自分の中では。

もともと自分がやっているのは非オカルトであり、反カルトでもある。そういう旗印を掲げている。もしジュセリーノの予言がきっかけであちらへ行ってしまいそうな人がいるのならばそれは絶対に阻止する。あるいはむこうへ行ってしまった人がいるのならばはやいとこ気づかせてこっちへ引きずりもどす。

だからそのためにはこのブログは続ける。それに「ジュセリーノの予言」は直接は関係はない。

そのことだけは理解していただきたい。ジュセリーノの予言の真贋とこのブログの存続はまったくの別物なのである。

どういうことか、もっとわかりやすく言えばだが、「このブログを閉鎖しろ」とか書いてきているメールに対して、「オマエラは馬鹿か、よく読め」と言いたいのである。

(ジュセリーノの予言を本物だと言いふらしている)そういう人たちにこのブログの存在がものすごく目障りなものだということだけはよくわかった。

これもやはりブラジルからのメールに目を通していて気づかされたことなのだが、(ブラジルからメールを寄越してくる人の殆どはジュセリーノのことを本物の予言者だと信じているようである)彼らはジュセリーノのことを「教授」と呼んでいる。英語のメールであってもだ。

ここに大いなる違和感を覚えるのである。たとえばこれがポルトガル語で書かれているメールであって肩書きがprofessor(prof.)になっているだけならばそうでもないのだが、たとえポルトガル語でPROFESSORには教師という意味であると言われても(英語で)自己紹介する文章の中にPROFESSORと書いていたり署名にPRO.と肩書きが打たれていたりすると相手に対して誤解を与えるだけで良い結果は生まないと思うのであるが。違うか?

しかもどうもジュセリーノ、意図的にPROFESSORという言葉を「教授」という意味で使っているっぽいところがある。

英訳されたものも(自分で英語で書いたのだろうが)PROFESSORのままであるし、調べてもらったところブッシュ大統領(父親)へ出したと主張している手紙(英語で書かれている)も肩書きとしても署名としてもPROFESSORになっている。

ジュセリーノの英文の文章をよく見ると、ジュセリーノは自分が「教授」であることをことさら強調していて、「教授」という肩書きのついたものをその証拠の画像をアップしたりしているのである。

ところが日本ではこのことに対する言及はされていないようだ。「先生」とか「師」というような敬称をつけて書いているものはたまに目につくが、ジュセリーノの書いた英語の手紙において、「ジュセリーノ教授」とちゃんと訳して書いているものってあるのだろうか?自分は見たことがないのだが。

ここいらへんも、ブラジルでのジュセリーノという人の活動の実体というものが日本ではあまり伝えられていなかったり理解されていない部分である。知らずに適当にジュセリーノの予言についてだけは「本物!」と声高に叫んでいるようなものだ。

少なくとも、ブラジルでの活動というものからすると、ジュセリーノ自身は自分のことを「教授」と呼ばれたがっている。「教師」ではなくて。

もちろん自分らのような否定派がそんなジュセリーノの希望に沿うようなことはしなくたって別段構わないだろうが、せめて肯定派の人たちはジュセリーノのことをちゃんと「ジュセリーノ教授」と呼んであげたらどうだろう?

繰り返し強調する。ジュセリーノ自身は自分のことを(英語で訳したときの意味での)「教授」と呼ばれたがっているようなのだ。

少なくとも、いまだに「専門学校の英語教師」なんて肩書きだけでジュセリーノのことを紹介している肯定派のブログの人は、ジュセリーノの意思は知っておいたほうがいいかもしれない。

自分としてはジュセリーノのことを「教授」と呼んだりすることはむしろ大賛成である。誤解のないように付け加えておくが、そのほうがわかりやすくなるからである。

信者とそうでない人間を見分けるための一種の目印になるからだ。


※ 2007.06.27 校正
※ 2007.07.07 抜けていた部分を追加しました

※ この記事も注意をうけた個所がいくつもある。このころ、このライブドア・ブログでは有効でないタグが非常に多くて、自分が再編集した原稿を入れ替えた時点で「直った」と思っていたのに、実はIEのような普通のブラウザだと「見えてない」とか「生きていない」「直っていない」という個所が非常に多かったようである。

「無知をさらしてどうすんのよ~」みたいな冷やかしがけっこう多かった。確かに(笑)
いや無知は事実だからいいんだけれど、みたいな。

で、そのジュセリーノが実際本当に肩書きとして(英語での意味での)PROFESSOR(教授)に拘っているのかどうかのほうだがそれはやはり事実のようだ。

たまの本を見るとやはり手書きした英語の手紙の中でも(署名ではなく)自分のことをPROF.JUCELINO NOBREGA DA LUZと書いているのだそうである。

単なる癖のようなものなのかもしれないが、やはりその後の活動の軌跡と見比べると、知らない人には誤解を招きそうな肩書きである。

自分も未だに昔生徒だった人に「先生」と呼ばれることがある。
しかしこそばゆいところがあるので止めてもらうようにお願いしている。
世の中には周囲の人間に自分のことを「先生」と呼ばせていい気になっている人間もいるけれど、その神経は理解できない。

今あえて自分の肩書きをここでつけるとするとあれだ。

「ブロガー」

そんなもんでいいじゃん。