たま出版のサイトにある「韮沢コラム」は基本的にすべて韮沢氏による実筆ということになっている。
自分はその全てに目を通したというわけではないが、まず間違いなくそうだと思っている。
「文は人為り」という言葉があるが、韮沢氏のコラム全編からは韮沢氏の個性というものが滲み出しているからである。
さてその「韮沢コラム」の文章、どこまで引用していいものなのか悩むところだ。
まあ、引用とわかる程度ならば構わないというネットの常識の線だけは崩さないようにしておかなければなるまい。
その「韮沢コラム」2007.04.10の中で何度も読み返してしまった部分がある。
何度も繰り返し読んでいると、脳の中のいつも使っている部分とは違う所が疲れてくるような文章である。まるでバロウズの初期の小説みたい。
>上のメモで気がつくのは、「東京で」と「パニックが起きる」の間に、
>妙な「,=カンマ」が入っている事(下の拡大画像を参照)ですが、
>おそらくこの部分には、先月震災とパニックが起きた中心地である、
>「能登地方」という地名が隠れていたと考えられます。
>一般的な日本人にとって、サンパウロとリンドーヤの
>地理的な認識がまったく無きに等しいのと同様、
>一般的なブラジルの人々にとっても、
>東京と能登半島の認識が明確でないことは容易に想像できます。
>また目覚めてメモ書きしようとした際、
>地名に関する記憶が落ちてしまったので、
>ひとまずここに「,=カンマ」を入れておいたという事も考えられます。
まず、
>「能登地方」という地名が隠れていた
ということと
>東京と能登半島の認識が明確でないことは容易に想像できます。
というのは違うことだ。場合によってはこのふたつは相反する。
このことに韮沢氏はまったく気がついていない。これではジュセリーノの代弁をしたことにはなっていないだろう。想像だけでものを書くとこうなるという悪い見本である。
できません。そんな想像なんて。
>一般的な日本人にとって、サンパウロとリンドーヤの
>地理的な認識がまったく無きに等しいのと同様、
>一般的なブラジルの人々にとっても、
>東京と能登半島の認識が明確でないことは容易に想像できます。
大体その持ち出して来た二種類の人間を例えに使うことに大きな無理がありすぎる。「一般的な日本人」はたしかにそうかもしれないが、「的中率90%」の予言者で、サダム・フセインの隠れ家の場所さえも予言した人間のことを「一般的なブラジル人」と言うのはいくらなんでも無理があるだろう。
それにジュセリーノは予言を「映像で見る」と言っているのであって、「地図でみる」とは言っていないからだ。
それとも天からの声が
「う~ん、ここは日本の東京に近いどこかかなぁ?よくわかんないや・・・」みたいな感じで囁くとでもいうのだろうか。
だとしたらあまり信用したくない天の声である。
という「韮沢説その2」だがこれも酷すぎる。
>また目覚めてメモ書きしようとした際、
>地名に関する記憶が落ちてしまったので、
>ひとまずここに「,=カンマ」を入れておいたという事も考えられます。
目覚めてすぐのときでなくとも、メモで走り書きするときに、度忘れした単語の変わりに棒線を引いたりするのは自分もよくやることだ。
しかし、画像としてアップされているものは、その手書きのメモではなくて後にタイプ打ちしたものである。
後からタイプで打ち直したときになんでその(コンマで省略した)部分を修正せずにそのままにする必要があるのだろう。なんか言ってることがおかしくはないだろうか。それこそ、その場所にはあとから適当な地名でもなんでも入れられたはずなのだが。
誰かが「夢で見た直後のメモそのままをタイプせよ」とか強制しているわけではないだろうし、ジュセリーノ本人も言っているではないか。「具体的な場所であるとか日時をあとから思い出すことがある」と。
韮沢氏のコラムの中にはこのような矛盾とかおかしな点ばかりが目立つのである。
自分もこのブログなんかだと、「てにをは」の助詞の使い方が変だとか「誤字脱字ぐらいは直してからアップしろ」とかは結構言われたりするのだが、流石に商売用とそうでないものとの区別は出来ているつもりだ。
というか、だから尚の事、そういう自分だからこそ「韮沢コラム」を読むと「事実の香り」というものがまったくせずに、そのかわりにというか独特の臭いしか漂ってこないことを敏感に感じてしまうのだ。
もし自分がライターとしてこのようなものを依頼主に提出したとしたら、そのままゴミ箱行きか、さもなくば、良くてせいぜい全面的な書き直しを命じられるかだろう。そのくらいは覚悟するだろうな。
はじめから「フィクション」を命じられて書いたとかでなければだ。
話を戻す。だから自分は韮沢氏の文章を一回読んだだけでもこれらが「まずまちがいなく韮沢氏はこの文章を取材とかインタビューではなく(相変らず)自分の頭の中で想像しただけで書いているのだろう」と推測してしまうのだ。それは韮沢氏の文章の中には、肝心のジュセリーノ自身の言葉というものがどこにもないからである。
そしてそれが「韮沢潤一郎氏(=たま出版)とジュセリーノの間にはそれほど密接なコミュニケーションはない」と自分が書いた理由(のひとつ)にもなっているということだ。
※リクエスト多数のため、予定していた記事は後回しにしてこちらを先にしました。
※改題しました。旧タイトル「韮沢潤一郎という人物について」
補足
さっそくメールが来ている。昨日書いた件についてだが、
韮沢氏は掲示板で質問に対して
>「最近のやり取りで「(3月に日本で)地震がありましたね」といわれ、
>予知に満足しておられたようですが、なお機会があったら、
>ニュースを見るような予知があるのかどうか聞いてみましょう。」
と答えているのだという。まあ、その部分については自分もうっすらと記憶がある。確かに韮沢氏はそんな感じもことをおっしゃっていました、というか書いていましたね。
というか、自分としてはこの部分がひっかかっていたので昨日のようなものを書いたともいえなくもないである。
これもその不思議な香りが漂ってくる文章だなと気にかかっていた。
>>最近のやり取りで「(3月に日本で)地震がありましたね」といわれ、メールなのか手紙なのか、電話なのか、電話だとしたら間に通訳を挟んでいる状態でなのか、それともネット・ミーティングのようなテレビ電話を使っての会話なのか、その状況をいろいろ推定してみると非常に味わい深いものがあるが、それよりも「予知に満足した状態のジュセリーノ」というのはあまり想像したくはないのではないか。
>>予知に満足しておられたようですが、
なにしろジュセリーノは「自分の予知が当らないことを望んでいる」と言っている予言者なのだから。
それ以上の推測は不愉快でもあるし、無駄な想像にさらに無駄を重ねることになるのでこれについて書くのはここいらで留めて置くが。
ただ、それぞれが自分の中でこのことについては深く考えて頂きたいことだとは思っている。「(ジュセリーノ氏は)予知に満足しておられたようです」と韮沢氏が掲示板での質問に答えるような形で書いていたという事実だけは忘れないようにしたいものだ。
(07.04.12)