2007年2月18日日曜日
070218 ジュセリーノの予言(その3)
【ジュセリーノ予言の真実 0218】 (その3)
これはもう何度も書いていることなので自分でも半分くらい嫌気がさしていることなのだが・・・。
「予言は警告である。警告であるから外れたのならそのことは喜ぶべきであって予言者を非難してはならない」という文脈で予言とその予言者を擁護する立場の人たちがいる。
T・Aさん、あなた達のことだ。くどいようだが。
もし、警告として「予言」を口にするのであれば、そのこと自体が大きな過ちである。そのことに気がつくべきなのだ。輪になって祈っているばあいではない。
「警告」であるのならはじめから「警告」として口にすべきであってなにも「予言」なんていう禍禍(まがまが)しいスタイルをとる必要なんてはじめからない。あなたたちはそのことに目を瞑(つぶ)る。
なぜこんな弁護論を繰り広げるかといえば、予言というものが流布する時代は自分達にとって非常に住み心地のよい時代だからでしょ。
「警告」と「予言」はどこが違うのか。
それはまず「情報としての精度の差」である。
精度を欠いた「警告」はたんなる予言となんらかわりない。出されるだけ迷惑なだけだ。
そして「警告」に必要なもの、それは「具体的な回避策」であり、「警告」が外れたときの「責任」の所在である。
地震予知だって台風予測だって実はといえば、常に責任と背中合わせの状態だ。精度の低い警報を出し続けていたならば誰かが責任をとらなければならない。だから皆真剣なのだ。
誰も責任をとろうとしない「予言=警告」であるならば百害あっても一理もない。そこが「すべての予言」は「警告」たりえないということだ。
予言はやはり予言以外の何者でもありえない。「予言を警告だ」と受け止めるのは個人の自由だが、それを多くの人に向かって言葉にするのにはあまりにも無責任なことなのだという自覚くらいはもったほうがいいのではないか。
自分を含めて世間一般多くの人が求めている警告とは、ちゃんとした裏付けのあるものだからだ。
そういう現実的な冷静な目でその「ジュセリーノ(ジョセリーノ)の予言」というものを精査して見る。
するとどうなるか。
・2007年 3月 東京で地震発生。
・2007年10月 東京で地震発生。
起きるでしょう。そりゃ。(半年に1度じゃ、どちらかは当るだろう)
東京に限らず日本のどこかで一カ月間 地震がなかったらそっちのほうが不思議なくらいだ。それにこういう「予言」を受けて、だからどうしろというのだろう。
「いったいどのくらいの規模の地震が起きて、東京はどうなるか」まで正確に言及しなければ「警告」だって「警告」とはいえない。
また「ではそういう被害から逃れるためには、東京に住む人はどうすべきなのか?」とその具体策までを言わなければ「警告」は「警告」たりえない。
そういうことだ。
しかしこれはおかしな点のひとつでもあるのだが、それに較べてジュセリーノ(ジョセリーノ)が自ら語るところの「911」、「インドシナ大津波」、「阪神淡路大震災」「、地下鉄サリン事件」の予言が日付からなにから当ったとする自らのコメントには大きな乖離がありすぎる。
これでは「予言者」ではなくてただの「過言者」だ。
ノストラダムス以降(1999年以降、という意味)に登場した「予言者」たちはこういう責任の取り方からすり抜ける手立てだけは身についてしまっているようで、特にテレビに出て怪しげな「予言」を口にするひとたちはいつのまにか消え、そしてまた別の新しい「予言者」が現れるという一種のモグラ叩き状態になっている。
この「予言者」の部分に「解釈者」という言葉をあてはめてもいいだろう。
「解釈者」のほうをトカゲの尻尾切りのようにして使い捨てにして、「死せる予言者」の言葉を使いまわしにしているとも言えるからだ。
本当に責任を取らなければならないのは、こういう「予言」で飯を喰っているテレビ局であり出版社であろう。
何故かと言えば、そういう予言が流布することで恩恵を蒙っているものがいるからだ。
それは「新興宗教」という隠れ蓑で信者の獲得をしているカルトなのであるが。
「予言」というものの取り扱いという一点においては、視聴率稼ぎのためにこういうオカルト物を流している民放のテレビ局は同時にカルトのお先棒かつぎをしていると言える。
さらに付け加えておくが、メディアとしての責任意識のないままに精度の低い情報を垂れ流しにして人々の心に恐怖を植え付けて視聴率稼ぎをしているもの、それが一連の健康番組における「捏造」でもあるわけだ。
二週間ほど前にも書いたことだが、自分はこの予言者「ジョセリーノ(ジュセリーノ)」がこのあとどうなるのかは大体予想がついている。
それこそ「予言」である(笑)
毎年のように現れては消えてゆく自称「予言者」達同様、嘘が見破られて忘れられ消えてゆくだけだ。賭けてもいいよ。
問題はそんな簡単なことではない。現実はもっと複雑というかタチが悪いものだということだ。
たとえジュセリーノ(ジョセリーノ)の予言の嘘が明らかになって消えていっても次から次とあたらしい「予言者」たちは登場するであろうからだ。
それはこの世に「予言」であるとか「カタストロフィ的な破滅」を待ち望んでいるという人が消えない限りつづくのであろう。悲しいモグラ叩きゲームである。
そして、それが金になると知って次々に「新しい予言者」を用意してくる出版社とテレビ局が変わらない限り、自分はこうして蟷螂の斧のごときブログを書きつづけるという、きっとそういうことなのだと思う。<了>