2007年2月24日土曜日

070224 ジュセリーノ騒動(その4)

【ジュセリーノ予言の真実 0224】 ジュセリーノ騒動(4)

届いたメールの中には、なんていうのか、まともに相手したくなくなるような内容のものもある。

というか、そういうものはどうしても来る。それはしかたがないことなのだが、中には大きな勘違いをしたまま結論というか主張をして来る人がいて、そういうひとたちにはどう言葉(この本文とかメールとか)を返せばいいのかとても悩む。

前提が違いすぎるのである。であるからいくら議論しても噛みあわないことは必至。

それがわかるだけに、慎重になって言葉を探している状態です。

「予言は当るものである」という考え方をしている人たちがいる。ずっとずっと昔からいた。自分も数年前まではそういう人たちと熱い議論を交わしてきた身分であるからいやというほど知っている。

そして、「予言が当らない」というのは「予言の解釈が間違っている」か「当らないことで正しかった」という考え方をしている人たちがいる。

それは宗教的な価値観であるとか、神秘主義とはまったく別のものだ。

もう「予言主義」と言ってもいいくらいの立場の人たちであった。

笑ってはいけない。今でも自分がこのブログに書いた「ノストラダムスの予言」に関しての自分の解釈に対して批判以前の問題として、ネチネチとケチをつけるようなことを書いてくる人たちもいるのだ。

~あなたのような(オカルトを馬鹿にしている)人間がノストラダムスのような預言詩を扱うのは役不足(誤用のほうの意味で)ではないか~とか。
あるいは、
~何故ノストラダムスの預言詩のほとんどが実現しているという事実から目をそらしたり、無理矢理違う訳を当てたりするのか~とか。

まず、自分の訳や解釈についてだが、だいたいがわからない単語や意味不明の単語については他のフランス文学者同様に「訳さない。解釈に入れない」という基本方針がある。

ラテン語・ギリシャ語や中世の(正字法以前の)フランス語、南フランスあたりの方言までカバーしていない人間には、単語ひとつひとつについてまで全てを訳すのが土台無理なことだからだ。

解釈もそうだが、基本方針はまず「詩」であるという前提は絶対に崩せない。特に日本にいるオカルティーの訳や解釈にはこういう基本的な共通スタンスは通用しない。

ひどい人になると、「ノストラダムスの預言」は自分だけに向けたメッセージだ、と言い切る人もいるし、「わからない言葉」は自分に向けた暗号である(だから、私には意味がわかる、という強引さ)ということらしい。

まあそういう「訳」をフランス人や、フランスの文学者相手に向かっても、堂々と同じことが主張できる、というのであればそれでも構わないが・・・いや、やっぱりやめてくれ。日本の恥だ。


そもそも、予言とは、誰が、誰に向かって、なんのためにするのかということから考え直した方がいいと思うのだが。

キリスト教の新約聖書だってもとはといえば、ローマ時代に迫害を受けていた同士に向けて「希望を持て」「教えを守ればいずれ救いの日はやって来る」と勇気づけるために書かれた一種の予言の書でもあった。そして時代を経て、必要と思われる個所とそうでない個所について何度も懸案されて現在に至っている。最後の「ヨハネの黙示録」の扱いも今では微妙だ。(ある神父かテレビで「黙示録はもう必要ないと思っている」といっていたのを聞いたことがある。)

ノストラダムスの予言詩(繰り返すが、あれは「詩」である)も誰に向かってなんのために書かれたかぐらいはちゃんと認識をもったほうがいい。それがないから日本人が日本語でノストラダムスの予言詩を解釈するとトンデモ系の無茶苦茶な解釈になってしまうのである。

今更だが、ノストラダムスはあの予言詩集を王室のためだとか、あるいは後世の人たちのためにこっそりと書いたのではなく、当時比較的お金持ちで本が買えるという層に向けて出版を前提にして書いたものだ。(第八巻までは)

その理由はもちろん「もっとフランスという国を良くしましょう。もっとキリストの教えを大切にしましょう」という自分の主張をアピールする目的で、それを影響力のある知識人や富裕層に読んでもらいたかったからだ。

そして、それがある意味もっとも正しい(目的と手段という意味でであるが)予言というものの形でもある。ノストラダムスは決して大災害が起きて(あるいは宇宙人(笑)とかが襲来して)人類が滅亡することを願っていたわけではない。それを読み取れない人間にはノストラダムスの詩を訳した解釈したりする資格など本当はないのである。

ジュセリーノという人がどういう目的で自分は「予言者だ」と名乗り出たのかは今のところははっきりとはわからない。

わからないまでも、少なくとも、彼がやっていることとと彼が言っていることの間には大きな乖離(かいり)というものがあり、そのふたつを一本の線で結んで、さらにその先にあるものを推測して出た結論というものは決して愉快なものではないだろう。

そして、その予言に対してある種の人たちが群がってビジネスのタネにしようと目論んでいるのである。これのことを「不安ビジネス」と呼ぶのである。

自分はキリスト教の信者でもないし、神道と仏教以外にこれといって宗教に携わっているというのでもないが、少なくともこういう予言で飯を食ったり大儲けを企んだり、あるい仲間だとか新しい信者を獲得しようとしている動きだけは黙って見逃しておくつもりはない。

8年前に自分が感じた、日本中に漂っていたあのどよーんとした空気だけはなんとか吹き払いたいと思っているし、だから久しぶりにこうして蟷螂の斧のごとき無力なブログを書きつづけている。

とりあえずgoogleでジュセリーノを検索したときにこのブログが多くの人の目にふれるようにと、昔の本業でもあったカビの生えたようなノウハウを持ち出して来たり、まだわからない新しい基準をあれこれと考えながら試行錯誤している。

おかげで最近はずっとPCの前にへばりつくような毎日で明らかに運動不足である。
(この項目終わり)


最終校正日 2008.12.28