前の記事からのつづき
一時期減っていたメールがここ二日でまたぐぐっと増えてきた。本文中にメールフォームを埋め込んだ効果だと思われる。
以前よりもどちらかというと(自分のこのブログに対して)批判的なものが目に見えて増えてきたか。
それはそれで良い傾向かと。そういう人たちにも直接語りかけることが必要かと思っていたからだ。
メールフォームを埋め込んでメールをしやすくしたということに対しては、ちょっと前から「どうせメアドを出すならメールソフトが起動しやすくするようにフォーム化しちゃえば?」というようなメールやアドバイスは来ていた。
手順を踏ませていただいたのだ。今だから言うけど、迷惑メールが凄かった。一日に平均すると100通は来ていたか。これはしかたがない側面がある。閲覧者の数が増えるということはそういうことでもある。覚悟はしていた。しかしその迷惑メールほとんどのドメインがヤフーのものなのだ。90%がそうだった。いや95%か。まるでジュセリーノの予言の的中率である。(笑)
そんな状態でさらにメールフォームを埋め込んだりしたら迷惑メールの数だけがうなぎのように増えてゆき、とてもじゃないが捌きれなくなることは目に見えていたので先にヤフーのドメインのメールをすべてカットするという手順を踏ませていただいたのだ。何人かの人にはご迷惑をおかけしたが。しかし「背に腹はかえられない」というやつで。
まあ、「うなぎようにふえてゆく」なんて言い方は日本語にはないが。それをいうなら「うなぎのぼりに増えてゆく」だ。
しかしヤフーのドメインって100種類くらいはあるのだろうか?すごいね。改めて感心させられた。
でその今まであまり目にすることのなかった自分に対する批判のメールを読ませていただいて感じる事なのであるが。
「予言を信じる」ということと、「それを人に対して伝える」というこのふたつのことの間には本来ならば大きな隔たりがある。
自分が信じていることを他人にも信じてもらいたいというのであれば、そこになんだかの信じるに足りる証拠であるとか確証があるはず。というかなければならないはずなのだが。
ジュセリーノの予言というものを信じ、ジュセリーノの予言をネットのブログに書き込んだりしている人のその確証とはいったいなんなのだろう。それを改めて感じたのだ。
8年前に出版されたある本の中で、ネットで「ノストラダムスの予言は当る。人類は滅びる」などと真剣に書き込んでいる人たちを以下のように分類していた。
1:宗教 2:世の中に対する不満 3:滅亡主義者・破壊主義者 4:予言主義者 5:その他
また、別に予言は信じていないにもかかわらず、利益のためにこういう予言を利用している人たちもいるとして、
1:不安ビジネス(宗教・占い・マスコミを含む) 2:政治利用 3:金融・為替・株価・地価の操作 4:日本人の心を惑わす陰謀説(いるのか?) 5:その他この図式はいまでも尚もそのまま「ジュセリーノの予言」にも当てはまっているといえるであろう。残念なことだが。まあ、日本を惑わす陰謀があるかどうかは知らんが。
さて、ピノさんという方から以下のような内容のメールを頂いた。同様の内容のメールが何通か届いている。
要約するとこうなる。
「科学の進歩はついにこの地球から全ての生物が生存できなくなるところまでにしてしまいました。ジュセリーノ先生は 非常に真面目で敬虔なクリスチャンです。先生は人類の将来を案じて警告として自分が神から与えられた役割としてこのような予言をしています。残念なことに人類は自分達の愚かしさに気がついておらず、破滅への道を辿っているのだとだと思われます。かまたさんがなさっていること(ジュセリーノ批判のことかと思われる)は結果としてそういう人類の破滅を速めることになるのであって、決して人類ためになっているとは思えないのです。」
残念だが、このピノさんは大きな誤謬を犯している。まず、第一に間違った予言はキリスト教においては禁じられているということ。(ピノさんはキリスト教徒ではないのではないか?)もしジュセリーノが本当に真面目なクリスチャンであるのなら、決してこのような予言は口にはしないであろう。
科学の進歩(だけ)が人類を破滅に向かわせているのかどうかは知らないが、少なくとも、過去人類の歴史の中で宗教が人類を救ったことなど一度もなかった、ということである。逆はいくらでもある。宗教の対立というものがどれだけ世界に不安を撒き散らしているかなんていくらでもあるだろう。この世にある宗教は決してキリスト教だけではない。そのことを抜かして世界の平和であるとかを語ってははならないと思う。
自分のしていることが人類のためになるかならないかはわからない。(だいたい、そんな大袈裟な話じゃないし)しかし、このような予言が流布するということは決して人の心に対して良い影響を及ぼすとは思えない。
現実、自分のところにはこのジュセリーノの予言を知ってから不安でしかたがなかった、という人がいて、そのうちの何十人もが自分のこのブログを読んで、「安心した」「心の落ち着きを取り戻した」と書いてきているのである。
どちらを取るかだ。今、目の前にいる(ヴァーチャルな意味でだが)人の心を救うのは、自分のような予言否定なのか、それとも(ピノさんのような)宗教なのかだ。自分は前者のほうが正しいと思っている。自分が大切にしなければならないのはこうしてメールを送ってきてくれた人たちのほうだ。
もしジュセリーノがピノさんの言うとおりに本当に「敬虔なクリスチャン」であったとしても、それが人の心を救わないのならば、その口から出たものは絶対に認めてはいけない、そう思うのである。
そこにいる、不安に怯えている人を救うものは「大丈夫だよ。あれは贋物だから」という言葉と説明であって、「神様があなたを守るから」なんて言葉は空手形に過ぎない。少なくとも、本当に神を信じている人が口にすべき言葉ではない、というのが私のスタンスです。
(この項終了)
最終校正日 2007.06.28
【追記】
世の中にはわけのわからない人間というのはなんぼでもおるわなぁ、というようなことをつくづく感じさせられたこととなった。
ジュセリーノの予言というものを肯定的に捉えてそれを世の中に広めることに一生懸命な人たちが確実に存在するのだということを教えられたからである。
別にこのような滅亡の予言というものはジュセリーノの予言だけではない。昔からいっぱいあったし今でもいくつもある。「アセンション」であるとか「波動」もそうなのであろう。「このままでは人類は滅亡するのは必至だから今からそれに備えて自分自身の変革をしなければならないと訴える「波動」もまたやはり滅亡の予言のひとつと捉えるべきなのである。(基礎部分がキリスト教からの借用であるから当然といえば当然である)
そしてこれからも同じような滅亡の予言を口にするものは後を絶たないことであろう。その形がかわるだけで本質は変わらない。そういうことなのであると思っている。
また、実際に「滅亡の予言とは心の癒しである」というようなことをメールなどで書いてくる人たちもあとを絶たないようであるがこれだって実はものすごく迷惑な話なのである。
さて、その中でひとつだけメールを紹介する。以前(このブログがジュセリーノの予言というものに特化するよりもずっと前のことだ)何度かメールを寄越した人である。
彼自身はジュセリーノに対してはものすごく覚めた目でみている。ある意味滅亡の予言のプロ(笑)であるからそういうものを見る目は厳しいということであろう。はっきりとあれはニセモノだと言い切っている。そんなもの(一目嘘が見破られるような浅はかな予言)では役に立たないということらしい。
(前略)社会不適合の烙印を押された人間または勝手に自分で自分にそのような決め付けをとったものにとってノストラダムスのような滅亡の予言は快いものだしそういう未来を夢想することで自分の心の均衡と平成を保つことができるというのは自分の中では紛れもない事実なので誰もそれを奪う自由はないということです。わたしはそのような予言にもって毎日をやっと生き長らえているといってもいい。(中略)でもそんな自分にはジュセリーノ予言はなんの癒しにもならないしそれは彼の的中した予言がその鮮やかさがうそ臭くみえてしまうというところにある。(中略)嘘はいけないのです。嘘予言は!嘘の予言は癒しにはならない。喉につかえるトゲのようなものだ。自分がかまたさんにこのようなお手紙をするというのも面妖なことだが(中略)私はこの件に関しては貴殿のブログ活動を支持しています。(後略)
滅亡の予言というものが人に生きてゆく希望を与えるというのはおかしなはなしである。なにかが大きなところで間違っているとしかいいようがないではないか。
しかし、たとえばそれ(滅亡の予言が希望になるということ)が本当だとしてもだ、その予言が嘘で塗り固められていたりしてはいけないだろうし、そういうものを塗布して誤魔化して嘘の部分をないことにして世間に広めるというのはやはり犯罪的な行為なのである。
それに、もし救いを求めるというのであればそれはなにもジュセリーノの予言でなくてもよいということになる。「他の滅亡の予言」でも構わないはずだ。というよりもはっきり言えばそのメールを寄越した彼みたいに、嘘に気がついた時点でジュセリーノ予言というものを(自分の心の均衡維持のために)消し去りたいと願うという心の動きのほうがそれでも理にはかなっていると思うのだが。
こうまでジュセリーノ予言にすがる人が多いということはこのような予言の素人ばかりが増えてきたということなのであろうか。自分が嘆いたりすることではないのであるが。
(校正日 2007.07.08~07.11の間)