【ジュセリーノ予言の真実 0326】 改めて言うが
石川県の輪島には知り合いがいる。羽咋市には昔アルバイトだった女の子がいる。七尾にもいる(最近はまったく連絡は取ってないが・・・)。非常に心配している。いまだに電話は繋がらないし。怪我とかしてないかとか、ちゃんと寝る場所はあるのかとか、食べるものはあるのかとか。
こういう事態になるとインチキの予言くらい始末に置けないものはないなということを改めて感じさせてくれるものだ。
ジュセリーノは「石川県」とか具体的な地名を出していたわけではない。一種の確率論的な言い方になるが、せめて「日本のどこかで大地震がある」とか書いていれば「当った」と見えてしまう予言にはなっていたのだろうが。
しかしそれとて「当ったかように見えてしまうということ」でしかないということだ。
このことをちゃんと理解できている人間の方が大多数なのは喜ばしいのだが、それでもやはり日本のどこかにはまだ「ジュセリーノの予言が当った!」とか騒いでいる連中がいる。
それどころか露骨にも喜んでいることを隠さないでいるアホもいるわけで。
これは自分で確かめたものばかりではないのでひとつひとつあげつらってああだこうだ言うわけにはいかないのだが、「能登半島と房総半島の形がそっくりなのでジュセリーノは東京と石川を勘違いしただけだ」とか「石川県も地球的に見れば東京の隣りだ」とか書いている人間がいるのだという。
こういうのを「予言のアホ解釈」というのだ。
ノストラダムスのときにはこういうアホ解釈だけが世の中に蔓延していた。まあ「と学会」の本とかもあって割りとすぐに沈静化したが。
でもまたこうして懲りない連中というものはかようにして湧いてくるものだ。ひとりいるということはその陰に最低でも50匹、じゃなくて50人はいる、という法則もあるが。
こういう連中のことが可哀想だなと思うのは、ジュセリーノの予言をノストラダムスの予言と同列にあつかってああだこうだと解釈して「予言が当った」と見せかける技術にばかり目がいってしまい肝心な事実を忘れていることだ。
それは、ずっと前にも書いたことだが、ジュセリーノは今も生きているということだ。
何故今生きている予言者の言葉をいろいろとこじつけたりする必要があるのであろう?
そんな無駄なことをするよりも直接当人に聞けばいいのだ。
生きている予言者の言葉をああだこうだと解釈してみても所詮は空しいだけだ。
そうでなくてもジュセリーノって人間は無駄に饒舌というかお喋りがすぎて自分で墓穴を掘ってきている。おそらくは今回も同じようなことをしでかすのであろう。
しかも、こういう(ニセ)予言者が予言者としての命脈を保つためには、すぐそばに有能な通訳・アシスタントというものを置いておき自分は沈黙を貫く必要があるものなのだが、ジュセリーノの日本でのサポートをしているのは、「たま出版=韮沢潤一郎」なわけで。
まあ、だからおそらくはこれから「ジュセリーノの予言は当っていた!」とか書くブログとかこれからいっぱい出るのだろうがそんな恥ずかしい真似は辞めたほうがいい。
一応アドバイスだけは送っておく。無駄だとは思うが。
※最初の3月25日分の投稿は削除(下書き)扱いにしました。能登で地震が起きる前のものだとはいえ、不謹慎と誤解される危険があるからです。
【追記】
某占いのブログでこの記事が取り上げられ(確認したのは相当あとになってからだが)、そちらから飛んできたとおぼしき方のコメントが数多くのこされておりました。ありがとうございました。
まあそれで削除した0325の記事であるが、「たとえ3月中に日本のどこかで大きな地震があって多数の死者が出たとしても、それとジュセリーノの予言を結びつけるのは間違いである。やはり言葉通りに東京で起きた大地震でなければ現在生きている予言者の予言としては当ったことにはならないだろう」
というようなことを書いた。
今考えてみれば過敏すぎるのかもしれないが、やはり実際に大地震がおきて死者が出た以上はそのままというのも問題だと思い0326でこのように書き改めた。
あと、羽咋に住んでいると書いた元アルバイトの子はすでに金沢に引越ししていた。連絡があったのだ。実家の家屋などは相当の被害があったというが大きな怪我をした人はいなかったようだとのことであった。
輪島町に住んでいる知り合いからは共通の知人を介して無事だとの連絡をもらった。だが「かまたさんが心配してたぞ」と伝えたところ「誰だっけ?その人」と答えがかえってきたそうである。ガク然。(笑)
忘れられているということにガッカリした自分であった。(忘れていたのは名前だけのようであるが)
七尾出身の人も無事だったようである。「それもう旧姓だから」との連絡があった。(笑)
2007.06.22