2007年3月12日月曜日
070312 本について、再びコメント欄について
【ジュセリーノ予言の真実 0312】 本について、再びコメント欄について
たま出版からでるそのジュセリーノの本の発売日とかが決ったそうだ。
マリオ・エンジオという著者名の「未来からのメッセージ」というタイトルだそう。
当たり前の話だが勧めたりするつもりは毛頭ない。というか内容のショボさについては絶対に保証する。今までここの出して来たオカルト本を(参考資料として)何冊も読んできた自分が(逆の意味で、つまり買わないことを)お奨めするのである。それにここ数年の顕著な傾向なのだが、3ヶ月もすればブックオフですぐに定価半額以下で出回るのです。買取り価格も発売日一カ月くらいでガクンと下がるので読んだらすぐ売りたいという人は注意をしたほうがいい。
著者名の「マリオ・エンジオ」にはピンと来た。
向こうでジュセリーノの仕掛け人ではないかといわれているその人のことではないかと思ったからだ。
名前の「Mario Enzio」でいろいろと見てみたがそれらしい証拠は出て来なかった。スペルは間違いない。伊達にF1を25年近く(途中抜けているので実質15年くらいだが)見ているわけではないので、このスペルで間違いはないはずだ。ブラジル人にはよくある名前だ。(おそらくは名字は別にあるに違いない。ペンネームだと思う)
たま出版の本なので相変らず誤字脱字も多いだろうし、外国人の名前の日本語表記がバラバラだったりあるいは不正確だったりとかの不具合はある意味デフォルトだと覚悟したほうがいい。
むしろこういう「たま本(=怪しげなオカルト関連のことをこう呼ぶと専門家っぽく見られます)」の見所・読みどころは、韮沢潤一郎氏による「あとがき(まえがきのこともある)」のほうだったりする。
もうほんとうに無茶苦茶なことばかり書いていて笑えますから。それをあと半年くらいしてから韮沢さんにつきつけて「この本のあとがきで韮沢さん、こんなことか書いていますよね?」とか問いただしたくなるようなことばかりなのだ。
「火星人の襲来に関して日本政府は米国の政府からの命令を受けていずれ発表しなければならなくなるであろう。」だとか「月の裏側にある宇宙人と人類による共同基地に関する情報についてもうすぐNASAから重大な発表がある」だとか。
そういう「韮沢語録」の最新バージョンを入手して置きたいという人にならお奨めかもしれないが。
っていうか「そのネタで自分が本を書けよ!」って突っ込みを入れたくなりますから。
さて、本題。いつもと逆だ。
コメント欄に関することの続きである。
ちょっと見逃せないというか看過できないコメントが2件(厳密には7件だが)3人分あった。そのことに触れておきたいのだ。
2月の18日に数件に分けてと25日の二回である。IPからすると同一人物かもしれない。非常に似通ったIPになっている。
まず、18日のもの。5件分をつかった、ものすごく長いコメントになっている。要点だけを抜書きすると
>前略)このブログを読んで感じるのは こころの貧しさがそのまま文章に出
>ているということです。せっかく大切なメッセージを送ってくれているのに
>何故それをそのまま受け取って生かそうという気持ちになれないのでしょう
>か?(中略)ただ単に批判したり嘘を見破ったりすることばかりに勢力
【←「精力」の間違いだと思う】>傾けていないで そのメッセージにある本質の
>部分に素直に耳を傾ける気持ちこそが重要なのだと想うのですが違うでしょ
>うか?」
自分のこころが貧しいかどうかはここでは断言はしない。それこそある人からすればそう思えるであろうし、また別の立場の人からすればそうは見えないかもしれない。
が、少なくとも、こういうことを指して(心が貧しい、とか)書いてしまう人よりは、まだ自分は自由な気持ちでいられる、自由な自分の気持ちのままに文章を書けているなと思ってしまうのである。
どんなものに対しても、それを受け入れるかそうしないでおくかという重要なことを、自分で-つまり自由に自分の意志で-閉じたり開いたりできる「心の弁」を自分は持っているのだと実感してしまうからだ。
そしてこのメールの主の書くコメントの主旨はどんどんと違う方向へと行く。
>(略)そんなあなたのほうが むしろジュセリーノの予言というものをもの
>すごく気にして 囚われているということも言えるのではないですか? 違
>いますでしょうか?」
違います。残念ながら。私のブログをよく読んでください。きっかけはあくまでもただの「ついで」でしかありませんでした。驚いたのはその「ついで」に書いた自分の文章に「安心できた」「心の落ち着きをとりもどすことが出来た」というたくさんのメールを頂いたことであり、それが今のこのスタイルになるきっかけになっています。
一番最初にも書いたことだが、自分自身はこの手の「予言」や「予言者」といったものには飽き飽きしている。「ジュセリーノの予言」もそういう、ありがちな(いずれ消えてゆく運命にある)予言者のひとりに過ぎないと思っている。今の自分にとって重要なこと、それはこんな自分に対しても、あるいは自分の書いた文章に対してもまだ役目はあるのだ、待っている人は少なくはないのだということを実感した事の方だった。
>(略)私も以前はかまたさんと同じような立場の人間だったのだと思います
>。【!?】自分で勝手に道を作って いい気になって回りの人間に迷惑をか
>けるような間違った言葉ばかり口にしていたと反省しています。
よく考えると(考えなくても)、私ことかまたに対してケンカを売ってるのも同じだよな、この部分は(笑)
>大切なのは沢山のことばを口にすることではなく まずその模範となるような正
>しい生きかたを皆に見せることなのではないでしょうか?」
もうこのあたりになると、ある種の方向付けが感じられてくる。そしてここから自分達のやっていることを延々と説明する件が続く。
ひょっとして・・・そうなのかな?とか思いながら最後まで読むと
>○○日の○時○○○○○○にて、今度私達のセミナーの講習会がありますの
>で一度おいでになってはいかがでしょうか 」であるとか「これからの○○
>○について現在の自分のある姿をより明らかにするためにも」
>「それこそもっと有意義な生きかた
>を導くことが役目であると確信しております」」
※(○の部分はこちらで勝手に省略させていただいた)
となるのだ。
要は勧誘ですか。随分と長々としているわりにはバレバレなのか笑えるところだが。
というか、日付でピンと来た人もいるかもしれないが、このコメントこそが自分が「コメント欄を閉鎖しなければならないな」と決断したきっかけである。
こういうものを皆の目に無防備なまま触れさせるわけにはいかないと判断したわけだ。
25日には、そういう自分のやり方に対して
>がっかりした
とか
>もっと心の広い方だと期待していた
などという書き込みがなされている。
残念なことですが(嘘)、反カルトを旗印にしているこのブログでそういう怪しげな活動を告知したり勧誘したりするコメントがあったら話にならない。
一件一件削除する手間とか考えるととてもじゃないがいくら時間があっても足りなくなるだろう。
今更ここで「こんなことがありまして」とか書くのも気がひけるのだが、そういう事情なので今はまだコメント欄の全開放は考えてはいないということをご理解頂きたい。そういうことです。
※追記
後日同じ人物と思われる人間の「別にケンカを売るとかそういう気持ちは毛頭ありません」というようなコメントがあった。
いや、そういうことが問題なのではないっていうのに。
なのにその肝心な部分に関してはコメントはまったくなし。
いやいやまいったまいった(笑)